簪がクラス代表に決まって数日、少しだけ彼女の周りの環境は変わった。それまで話をしたことが無かったクラスメートから声をかけられる事が増えた。概ねISについての意見だ。自分が代表候補生である事。そこからクラス代表に決まった事が関係しているのは疑う余地もない。ただ、そのおかげで話しかけられる事への抵抗感が薄れてきていた。自身の専用機が後回しにされている事への不満は以前と変わらず心の内に棲み着いていたが、周りはその事について知る由もないし、何より、単純だと思いながらも『頼られている事』自体に悪い気はしなかった。
「おはよう簪さん、昨日はよく眠れたのかしら」
「おはよう雅美君。ちょっと調べ物していて。でも寝不足じゃないから大丈夫」
こうして朝、着席した後で雅美と一言二言で終わるような短く浅い会話があるのも、もはや日課となっていた。
そして、今日はいつものように彼の周りに集まっていたクラスメートからも挨拶を交わす。視界の下の方には橙子の姿もあった。相変わらず他の生徒の間にいると姿が埋もれてほとんど隠れてしまっている。しかし、こちらの視線に気がついたのか、橙子が間を割って前に出てきた。
「今日って確か実機訓練の日だよね? ウチらって、どういう事やるんだろう」
「川村先生と私とで二つのグループに別れて、打鉄とラファールを使う予定」
「二つのグループ……て簪ちゃんも先生の手伝いやるんだ」
「クラス代表だから、ね。ISの操縦も分かるから、手伝って欲しいって頼まれて。だから、今日は私は先にアリーナの方に向かうから。遅れないでね」
「わかったー」
小動物のようなその動きが側に立っていたクラスメートの琴線に触れたのか、ずっと頭を撫でられていたが本人は慣れたようで気にしていない。簪はもやもやした気持ちが浮き上がってくる前に、今日の予定である実機訓練について伝えて、足早に教室を後にした。
※ ※ ※
アリーナでのIS操縦訓練が始まった。簪はまずは自身が打鉄を展開させ、もう一体用意していた別の打鉄にクラスメートを一人ずつ装着させて歩行動作を行わせる。
入学前のテストで既に操縦に慣れている人もいる為、歩行動作に問題が無ければ飛行動作へ移ってもらう。いくらか淡々とした進行だが、川村先生との事前の打ち合わせの通りにすすめる。打鉄とラファールという二種類のISを交互に操縦してもらい、それぞれの機体のクセに慣れてもらうというのがこの訓練の目的だからだ。
少し離れた場所では川村先生の実演の元、ラファールが地面を蹴ったり空を飛んだりしている。姿勢が危なくなった時は即座に川村先生のラファールが先導して動きを補正している。
しかし、打ち合わせ通りとは言え、『指導』という慣れていない内容に緊張する。歩いて、問題なければ飛ぶ。頃合いを見てISから降りる。簪はその指示を出すにやがて終始し、訓練内容が単調になりつつあった。最初に打鉄に乗り込んだ人や、最後まで待たされる人の表情には退屈の色が見え始めている。
脳裏に、姉である楯無の姿がちらつく。あの人ならば、ISの操縦をどんなふうに指導するのだろうか。きっと、口下手な自分よりずっと上手くやれるのだろう。時々、冗談をまじえて待たせる人達を退屈させないように。
悔しさが腹の底からじわっとこみ上げてきた。頭の中が燃えるように熱くなってくる。やがて、背後に姉の気配が立ちのぼった。ただ、自分の背中をじっと見つめている気配だ。追い詰めるような視線を感じ、何かが自分を突き破って溢れ出てきそうな感覚に襲われた。
「ねえ簪さん。空を飛ぶ時って、どういう風にやるの?」
雅美の一言が、そんな自分を現実に急速に引き戻す。
彼は打鉄を展開させ、歩いたりその場でジャンプしたり、基本的な動作を繰り返していた。どうやら、他の人がやっていたのと同じように、空へと飛び上がろうとしているようだ。
以前、教室で「空を飛びたい」と橙子と語っていた事を思い出す。彼は今、その時と同じ目をしていた。その目で、自分を見ていた。
相変わらず背後に『更識楯無』の気配はあった。しかし、彼が見ているのが自分ならば、自分が応えてやらねばならない。ほんの少し、意地が復活する。
「いきなり空を飛ぶ、となるとイメージが掴みにくいと思うから、まずは地面を蹴って空中へ駆け上がるようにすると良いと思う。飛行というより長めに跳躍するような感じ、真上に幅跳びするような感じで」
「なるほど……? とりあえずやってみる」
雅美が一度頷いて、地面を強く蹴る。
刹那、彼のまとっていた打鉄が急加速し十数メートル上へと吹き飛んだ。彼の表情が驚きと共に強ばる。そして、上体が翻った。
思わぬ急加速で、体のバランスが取れていないのは明らかだった。口をパクパクさせて手足をじたばたと動かしている。水中で溺れているのと同じだ。
「あ……あぶない!」
簪は急ぎ空中へと飛び上がり彼の腕を掴む。
「落ち着いて! 体が力むとそれだけ姿勢の制御が難しくなる! 空を飛んでるけれどもそれ以外は普段と一緒! まずは呼吸を整えて姿勢を正すの!」
「わ、分かった! 呼吸を整えて……それで」
簪は矢継早に指示を飛ばす。雅美は打鉄の突然の動きに戸惑っていたようだが受けた指示を復唱しつつ、足を地面に向け支えられた腕を軸に姿勢を起こしていく。
「そう、そのままの姿勢でいて。今、地上に降りるから」
「降りる?」
「そう、エレベーターに乗っているようなイメージで。ちょっと体が浮くような変な感じがあるけど、ゆっくり下に向かうのについていく動きを、ね。そうすれば、さっきみたいに空中に吹っ飛ぶような事はないから」
「……分かったわ」
雅美が大きく深呼吸する。それが合図のように、空中で向き合った2体の打鉄がアリーナの土を踏んだ。
「二人共怪我はない?!」
その直後、血相を変えた川村先生のラファールが文字通り空を飛んでくる。無理もない。突然打鉄が空へと飛び跳ねたのだ。遠くから見ていれば、それはISが制御不能になったと誤解しても仕方がない。
たちまち雅美は深く頭を下げた。「すみません」と短く謝罪の言葉を口にしながら。
「大丈夫です。ISを動かすにあたって、このぐらいなら良くある事です。むしろ、アクシデントの実例として提示する良い機会でした」
しかし、隣で雅美が頭を下げる中、簪は毅然と答える。
雅美の頭は下がったままで、その表情はわからない。それでも、彼のとった行動を追求する気は起きなかった。意図しない動作に対処する為の訓練でもあるのだし、何よりも彼は、ただ純粋に空へと飛ぼうとしていただけなのだ。直前まで『惨めな自分』を作っていた人間が、どうしてそれを責める事が出来るだろうか。
「……うん、どちらも体に怪我はしてないみたいだし。簪さんがしっかり見てくれていて良かったわ」
川村先生の視線が、雅美と簪を往来する。程なくして、彼女の表情が和らいだ。簪の考えを汲み取ったのだろう。口調も穏やかになっている。雅美の頭が、ようやく持ち上がった。そして、その瞬間に「でも、気をつけてくださいね! 安全第一です!」と一言語気を強めて自分のグループの方へと飛んでいった。
「慣れていないと、たまにこういう風にISが動く時があるの。体に余計な力が入って、手元が狂うような感じ。自転車に初めて乗った時にバランスが掴めなくて倒れるような状況に似ているかも。誰でも、今代表候補生になっている人も最初の頃は起こる事だから。でも、このぐらいなら私で十分に対処出来る。安心して」
簪は飛翔したラファールの姿が小さくなるのを見届けてから周りのクラスメート達を一瞥し、今起きた事例について説明する。
思えば、緊急事態だったとは言えあれだけ声を張り上げたのは久しぶりだった。印象がガラッと変わったと思われても仕方ないだろう。中には後ずさりしている者もいる。肩が震えているように見えた。
ISに慣れていない人からすれば、一連の流れも『雅美が地面に激突するような、最悪の事態』も起こり得たと見て取れたのだろう。簪は、場の流れが冷たくなっていくような感触に襲われた。
「ふおおお……今の簪ちゃんの動き、すっごくカッコ良かった! 真上に飛んだと思ったら、そのまま雅美くんをレスキュー! って感じで!」
だが、実際は少しだけ、違っていた。
川村先生と入れ替わるように駆け足で近づいてきた橙子がそのまま2体の打鉄の周りで飛び跳ねる。小さな体で、一連の簪の動きを大げさ気味に真似しながら。
そして、他のクラスメート達も彼女に続く。皆、一様にして簪の短い救出劇を称賛し、感激していたのだ。
「……その。急に空へ飛び上がった時、やっぱり少し怖くなって。助けてくれて、ありがとう」
雅美が改めて頭を下げる。それは、自分の顔が真っ赤になっている事を悟られたくないからだろうか。
簪は頭を振る。自分が生みだした姉の気配は、もうどこにも無い。
※ ※ ※
アリーナでの授業が終わった後、使用したISのチェックを川村先生と共に終わらせた簪は他のクラスメートからは少し遅れて教室に戻った。すると、すでに席に戻っていた雅美と彼の机によりかかっていた橙子が楽しげに会話をしているのが目に入った。どちらも、今日触ったISについて興奮しているようだ。
「アタシはラファールの方が好きかな。打鉄はなんというか、重たくって。空を飛ぶならこっちだと思うのよね」
「ウチは打鉄が良い! ラファールの方は急に大きくなってびっくりしちゃった」
二人の会話を耳に入れつつ、簪は着席する。
そういえば、身長がクラスでも高い方の雅美はともかく、橙子の方はそもそもISの脱着が大変だった事を思い出す。打鉄は旧型ではあるが、その形態の特性上搭乗者の体格を大幅に変えるものではない。故に、初めてISに搭乗する人にとっても取り回しが楽で、教える側にとっても個人差が少ない為、指導しやすい。
その上で、とりわけ身長の低い橙子にとっては最初はまるで鎧に埋もれているような格好だった。息苦しそうな橙子の姿を思い出して、たまらず笑いが溢れてしまう。
「簪さんも困っていたものねえ。まるでチャイルドシートから子供下ろすみたいな感じで。ふふふっ」
「ちょっと! 雅美君も簪ちゃんも笑わないでよ!」
「あ……私はそういうのじゃなくて。ええと、その。ごめんなさい。楽しくなって、つい」
どうやらいつの間にか二人の雑談に混ざっていたと思われたらしい。少しだけ恥ずかしさを覚えて簪は頭を下げる。
不思議な事に、そこに今までのような嫌悪感は無かった。同時に、他人との会話が、ぎこちなさはなく自然なものになっていた事にも気がついた。
「……二人とも、ISへのアプローチはちょっと違うけれども飲み込みが早くてすごいと思う。雅美君も落ち着いてISを動かせば今日みたいなアクシデントもないだろうし。もしかしたら、私も候補生だなんて偉そうな事言えなくなるかも知れない」
「そこまでウチらの事良く言ってくれるのは嬉しいなあ。次の訓練が楽しみになっちゃう」
素直に、簪は今日の訓練の感想を伝える。雅美も橙子も嬉しそうに笑った。
「そうね、アタシもISに乗っている時はとても楽しかったわ。ねえ簪さん、ISについてこれからもっとお話して良いかしら?」
「もちろん。ISの事じゃなくても、良い。私ももっと話をしたい」
簪の言葉を聞いて、雅美と橙子はお互いの顔を見る。二人共、目を丸くしている。
今の自分の発言に何か驚くような事でもあったのだろうか。簪は首をかしげる。一方の雅美達はわずかな沈黙の後、一度、頷き合ってから視線を彼女の方へと向けた。
「その、簪ちゃんからそういう事言ってくれるの、初めてかも」
「そうね」
「嬉しいね!」
「そうね!」
再び雅美と橙子はお互いに視線を合わせた。今度は歯も見えるほどに大きく笑って。
簪は、ここにきてようやく自分の頬が熱を帯びていた事に気がついた。それは、頬肉が上がって目元から力が抜けているからだ。鏡があれば、自分も彼らと同じような顔つきになっている事がすぐにでもわかっただろう。
それを見られている事が、急に恥ずかしくなって両手で顔を覆う。それでも頬が下がってくれない。目元も緩んだままだ。顔の熱が、じんわりと手のひらに伝わる。
しかし、それは今まで感じたことのない程の心地よい熱だった。