何度目かになるIS実機訓練の日がやってきた。今日の天気は快晴、微風でやや乾燥気味。予報など見るまでもなく雨の心配も無し。まさに訓練日和だ。
操縦者が変わる度、空へと飛び上がる打鉄は、円弧だったりジグザグだったりと異なった飛行機雲を描いていく。簪はそれを感心しながら眺めていた。最初の訓練では不規則に波打っていたそれらも、今日はまっすぐに伸びている。安定した飛行が出来ている事がアリーナの地上から見上げてもよく分かる。そこを、時折ラファールの軌跡が重なる。格子模様が空に浮かび上がり、やがて最初から何も無かったかのような晴天が再び広がった。
ひとっ飛びした打鉄が降下してきた。数日前の無人機が暴れた時の跡をどこにも感じられない程に整備され直したアリーナの土が、ふわりと舞い上がる。そして、打鉄を跪かせ雅美が大地を踏んだ。訓練初日に起こした操縦トラブルが、簪にすら懐かしく思える程彼のIS操作は滑らかになっていた。「急加速はまだ怖さがある」とは本人の談だが、入学当初に比べ確実に成長していた。
「気持ちが良い。こんな日は、ずっと空を飛んでいたいわ」
今一度、雅美は空を見上げて呟く。ほんの少し、目を細めて。
それが授業の時間だけでは物足りないからなのか、あるいはこんな天気がそう来ない事からの寂しさからなのか。簪には分からない。
「訓練機は一人ずつで、時間は限られているから」
だから、ありふれた理由で彼女は応える。そうね、と一言返す雅美の表情に変化は無かった。
簪はここ数日、彼と雑談を交わす中で気がついた事があった。雅美という人間は、このように『まるで最初から他人からの返答に関心をもっていない』反応を時折見せる事を。すると彼はどんな答えを求めていたのだろうか。その口ぶりからはもっとISに乗りたいというような強い意志を、少なくとも自分には感じ取れない。かといって冗談を言っているような軽い言い方にも受け取れない。意図がまるで見えない反応が時々かえってくる。それに対していくらかの戸惑いを覚えてしまう。
「そろそろ授業も終わり。打鉄を戻さなきゃ」
簪は心の中に湧いた『もや』を取り払うように頭を振り、そして次の指示を出す。既に雅美の視線は、空から降りてくるラファールに移っていた。
「あ、じゃあさ。ウチがこれ乗って格納庫にそのまま戻したいんだけど良いかな? 歩行動作の復習も兼ねて、さ」
すると、橙子が打鉄の脚を手のひらで叩きながらが声を上げた。
簪には断る理由も特に無い。手慣れた様子で橙子は打鉄に乗り込むと格納庫へ繋がる出入り口へと歩き始める。他のクラスメート達は、打鉄から少し離れたところで橙子の後ろに続く。
「橙子ちゃん! 足元気をつけてね!」
「まーかせて!」
側にいたクラスメートが彼女に声をかける。普段は一番背の低い彼女が、今は一番背が高くなっていた。それを気遣ってのものだ。とは言え、当の本人は慣れた様子で軽く前方にステップを踏んでみせている。
「雅美君も、行くよ」
「ん? ああ、分かったわ」
簪は、その一団の殿を務めるように遅れて歩き出す。
雅美はラファールから降りる川村先生の姿を眺めていた。どうやらあちらも一通りの訓練が終わったらしい。一言、彼に声をかけてやると踵を返して簪と並ぶ。
「そういえば、ラファールの方が好きなんだっけ」
しばしの無言の後、簪はこう言って会話を切り出した。
何か意図があった訳ではない。ただ単純に、間をもたせようと雅美達との雑談を思い起こしただけであった。
ところが、雅美は意外な反応を返した。一度、空を仰ぎ、眉間にしわを寄せる。
「好きは好きだけど、どうしてもラファールの方が良いって訳じゃないの。打鉄と乗り比べて取り回しが少し違うから、どちらを動かす事になっても良いようにしないといけないわね」
雅美の回答は簡素だが、そこに簪は違和感を感じた。
本人は気づいていないようだったが、ただの雑談のつもりで話題をふったのに何か別の事を思い描いているようだった。普段ならば『空を飛びたい』という純粋が願望を感じさせるのに、今は言葉の節々に雅美自分を急かしているような思いが滲んでいるように感じ取れた。簪の話題と、それに対する雅美の回答。その間には、飛び越えてはならない溝が存在しているかのようにすら簪には思わせる。
ただただ、彼の話に相槌を打つ。そして、視線を彼から切り橙子の方へと向けた。いつの間にか歩みが遅くなっていたらしい。既に、打鉄はアリーナの奥へと引っ込んでいた。だが、入り口付近でクラスメートたちがそこから先に進まず団子になっている。簪は意識をそちらに向け、歩を早める。
「あはは。まさか段差に躓いてコケちゃうなんて」
アリーナの出入り口、シャッター脇で打鉄が転倒していた。橙子曰く、アリーナとシャッターとの境目の僅かな段差に足元を取られ、そのまま倒れ込んだという。鈍い金属音が格納庫に響いたらしいが、本人と打鉄は元気そうだ。橙子は打鉄の両腕を地面に押し付けて上体を起こす。それから、肩や膝を回して打鉄に異常が無いかの確認を始めた。
「うーん、視線が高くなるのもいい加減慣れないとなあ」
橙子はからからと笑って見せた。それから格納庫内の空きスペースに打鉄を跪かせて装備を解除する。
ちょうどそのタイミングで、川村先生率いるラファールのグループが姿を見せた。橙子の不手際については全く気がついてないようで、彼女は他のクラスメートの隙間で一人、胸を撫で下ろしている。
「さて、今日の実機訓練はここまでよ。各々課題が出てきたと思うから、次回までにしっかり確認、復習しておくように」
結局、橙子の転倒について追求される事も無く四組の生徒を集めた川村先生が締めの一言を告げ、訓練は解散となった。
※ ※ ※
同日の放課後、教務室で川村先生と今日の訓練についての報告と相談を終わらせた簪は、一人中庭のベンチに腰をおろし空を眺めていた。
四組の皆の技量は上がってきている。これならば次の訓練はもっとレベルをあげても良いだろう、と簪が提案したところ、川村先生は快く受け入れてくれた。次の授業までにカリキュラムを改めて考えてくれるらしい。小さな達成感が嬉しかった。訓練補佐も板についてきて、訓練の間、周りを見る余裕もあった。既にISに乗り込んだ人の表情、順番を待つ人の表情。皆、自分達の成長の具合を感じ取る事が出来ているのだろうか、嬉しそうに空を見上げていた事を思い出す。
手をギュッと握る。充実感が広がる一方、気持ちに余裕が出来た事で彼女の中には忘れかけていた感情も徐々に蝕み始めていた。自分には、本来専用機が受領されているはずだったという事実。ほんの少し前なら、そんな事を気にとめる余裕が無いほどクラス代表としての役割に奔走されていたのだが、それに慣れてしまった事で出来た心の隙間を埋めるように、この事実がぴったりとはまり込んでしまった。今日の川村先生とのやりとりの中でも話題にのぼったが、やはり事実上の凍結というのは間違いないらしい。覆る可能性も限りなく低い、という事も。
以前、雅美に専用機について聞かれた時は強気な態度を見せたが、それでも自分が専用機を駆る姿で魅せたいという思いはあった。なにより、いざ他のクラス代表とやりあう時になったら訓練機では到底太刀打ち出来ないだろう。せめて、四組の皆が肩を落とすような事だけはしたくない。しかしながら、この現実に対して何か出来るかというと解決策が思いつく事もない。不安、焦り、恐怖。そういった感情が募っていく。
そんながんじがらめの思考を切るかのように、視界の隅に橙子の姿が映った。大きめの手提げ鞄を持って、一人で中庭を横切っている。普段ならもう二、三人のクラスメートに囲まれているのだが、今日は側に誰もいない。その低い身長故、周りに人がいない事で今の彼女の姿はかえって目立っていた。
「橙子ちゃん、こんな時間に珍しいね」
自然と、簪は声をかけていた。橙子は少しばかりあたりを見回し、簪の姿を認めると驚いた表情を浮かべた。そして、彼女の方へとわずかに歩み寄って、手提げ鞄を前に抱く。その鞄の上の方から、顔の上半分が覗いていた。
「ちょっとね、図書館で調べ物してたっていうか。簪ちゃんの方こそこんなところで何してるの?」
「さっきまで教務室で、川村先生と今日の訓練について話をしていたの。この時間は外の風が気持ちよくて。ここで一休みしているところ」
訓練、という単語に橙子の肩が震えた。簪はその心当たりをすぐに見つけ、微笑む。
「大丈夫、格納庫で転んだ事は言ってないから」
その一言で橙子は抱いていた鞄を下ろし、彼女の隣に座った。一人分の空間をあけて。いつもならもっと、無遠慮といえるぐらいに近づいてくるのだが、今はどこかよそよそしい。
「いやー今日は最後の最後でこっ恥ずかしいところ見られちゃったね」
そんな彼女が零したのは、今日の訓練の事。彼女は、ベンチにぐいっともたれて背筋を伸ばす。そして、一つ呼吸を置くと簪の方へと顔を向けた。いつものような笑顔は、そこには無かった。ただ、眉を落とした顔があった。
「前に、さ。『ウチは宇宙に行きたい』って話をしたことがあったじゃない。それって小学生の時にキレーな星空を見て、その時に『あの場所へ行きたい』て思ったのがきっかけだったんだ。
そこから色々調べてみたら、宇宙へ行くにしたって何をするにしたって、この身長だからどこでも制限に引っかかっちゃう事も分かっちゃって。だから、ISの適性があるって分かった時はすごく嬉しかったんだ。『チャンスがやって来た!』って」
嬉しそうに、悲しそうに橙子は自身の始まりを言葉にして紡ぐ。
それは本当に漠然としたもの。しかし、それを現実のものとしようとした時に見えてきたのはどうやっても避けられない事実。なおも諦められず、彼女はすがるような思いでISの適性検査を受けたのだろう。簪は、言葉を挟む気持ちすら起こらない。そして、橙子は俯いて話を続ける。
「でもね、こうやってIS動かしているとやっぱり背の高さがネックになる事が多い事に気づいちゃって。今日みたいに何でも無いところで転んだり、ISを脱着する時とか。
そういうところなんでもないところで躓いている内に自分がどんどん置いていかれるような気がして、自分はどれだけ頑張っても駄目なのかって事を無理やり見せられているようで。そんな事はないって頭では分かっていても。だから、少しでもチャンスがあるのなら、ISを動かすチャンスがあるなら、やってみたいんだ。『そんな事はない』って自分に分かってもらいたくて」
橙子は背中を丸め、ベンチの上で膝を抱える。がっくりと肩を落として落胆している事が見て取れた。普段の底抜けに明るい彼女は見る影もない。しかし、クラス代表として、一人のクラスメートとして彼女を見てきた簪にとっては、今の彼女の姿も、普段の教室で見せる姿も決して虚勢でない事はすぐに分かった。ただ、彼女の普段見えていなかった一面が今、思わぬきっかけでこうして表に出てきているだけなのだ、と。
だから、励ましの言葉を投げかけようと彼女の横顔に視線をやった。そして、驚愕し目を見開いた。橙子の姿に、自分の姿が重なっていた。
「……どうして簪ちゃんが泣いてるの?」
橙子が目を丸くしている。その言葉で、自分の頬に涙が伝っていた事を簪は知った。慌てて指先でそれを拭う。
そして、簪は理解してしまった。今まで姉が、『更識楯無』が、どんな気持ちで自分を見ていたかを。ただただ周りと見比べて、自分を責め続けていた『更識簪』という人間が、外からどう見えていたのかを。
「ごめんね、突然ウチが変な事言って」
不意に、右手にぬくもりを感じた。視線を落とすと、橙子が側に寄って自分の手を握りこちらを見上げている。いつもと変わらぬ、澄んだ丸い瞳がそこにあった。
「私、本当は橙子ちゃんを励まそうとした。でも、思い出しちゃったの」
絞り出すように、簪は言う。今度こそ、この手を離すまいと握り返しながら。
「思い出した、って?」
「私、クラス代表として上手く行き過ぎてて浮かれてた。これでお姉ちゃんを、更識楯無を見返せるって。全部わかったつもりになって。でも、そんな事なかった。
ただ、忘れてただけなの。『どうして自分がそうしようと思ったのか』を。それを思い出して。橙子ちゃんの『夢』に比べて、途端に自分が小さく惨めに見えちゃって。それで、ね。どうしてお姉ちゃんが手を差し伸べてくれていたのかも、分かったの。でも、私がやってきた事はありもしない意地を張って、その手を払いのける事ばかり。お姉ちゃんからも、目を背けてしまった。
……それなのに、いつまでも、いつまでも私はお姉ちゃんの背中ばかり見てて。クラス代表になったのもの、訓練の補佐を買って出たのも。全部、お姉ちゃんの真似事で」
消え入りそうな声で、簪は話し続ける。本当なら、今頃橙子を励ましていたであろうその口から出てくるのは身勝手な懺悔の言葉。隣に橙子が居るのも関わらず、それをせき止める事が出来ずもはや自分を責めるだけの暴言になってしまっていた。
「簪ちゃんは、生徒会長の事が嫌いなの?」
そんな感情の濁流が、橙子の投げかけてきた言葉で止まる。凛とした発声だった。簪の意識が、自然とそれに向かう。
「それは違う、絶対に。お姉ちゃんは今でも私の憧れ。ただ私の方から一方的に壁を作ってしまっていただけ。何とかして追いつかなきゃ駄目だと思っていたから。その壁を超えないといけないって。私は、本当に自分勝手」
「そんな事無いよ」
橙子は再び簪を止めた。今度は、穏やかな声で。そして、そのまま話を続ける。
「クラス代表に簪ちゃんが決まった時、本当は簪ちゃんはクラス代表になる事が嫌だった事、ウチも、クラスの皆も気づいてた。だから、最初は少し、話しかけるの怖かった」
そして、橙子は簪のきっかけ、クラス代表が決まった時の事を話始めた。簪はただ驚いた。あの時から既に、自分の事を見ていてくれていた事に。
「でも、そのままにするのは嫌だったから、何でも良いから少しずつでも話するようにして。段々と簪ちゃん雰囲気が変わったんだよ。憑き物が落ちたみたいに。どんな理由で、だったかなんてもう分からない。あったとしても多分、大した意味なんか無いんだ。だから、応援しようと思った。
簪ちゃんなら。いや、簪ちゃんだから、きっと大丈夫。きっと、今なら生徒会長ともきちんと話が出来るよ。なんて言ったって、何かあったらすぐに救援に駆けつけてくれるウチ達のクラス代表なんだから」
力強く、橙子は語る。簪は、自分のここしばらくの言動を改めて指摘されてくすぐったい心地だった。
そして、橙子が、四組の皆が、自分が思っていた以上に『更識簪』という人間を見てくれていた事がとても嬉しかった。暴走してしまった雅美のISを助けた時の皆の反応が、クラス対抗線に訓練機で出てみせると決意表明した時の皆の反応が、嘘偽りのない正直なものだった事も悟った。どん底だったと思っていた場所は、既にどん底では無かったのだ! 自分の中で今にも枯れそうになっていた勇気が、湧いてくるような心地だった。
「それと、ね。ウチの気持ちを『夢』って言ってくれてありがとう。どんな言葉よりも、ずっと、嬉しい。……ウチは、夢を叶えるよ」
いつの間にか背筋を伸ばしていた橙子がほんのりと頬を染めている。簪自身がそうであったように、彼女もまた憑き物が落ちていた。いつものように、からからと笑っている。それは照れ隠しでもあるのだろう。
ここにきて、ようやく簪は決意する。忘れ去ろうとしていた自分の中の、ではなく、いよいよ現実の姉と向き合う事を。自分を応援して、信じてくれている人達が後押ししてくれるのだから。自分を一歩進める事が出来るのは自分だけだが、そこにいるのは決して一人だけではないのだから。