「武流さんは1500年代に生まれた、と本人は思ってる。当時は生年月日を正確に記録することはなかったから、特に一般市民の場合はね。普通の家庭で普通に暮らしてたんだけど、ある日無惨は飢えを満たすために武流さん一家を襲ったんだ。両親は武流さんを庇ってすぐに食われたらしい。でも無惨は武流さんを見て、見込みがあると判断したらしく、少しの切り傷をつけただけだった。武流さんはその傷口から無惨の血が入り、鬼になってしまった。」
わたしは言葉もなかった。あんな優しい人が、無惨の気まぐれで人生を180度変えられてしまったのだ。
「武流さんはとりあえずその場から逃げて、自分に何が起きたのか理解しようとした。そこで追いかけてきた無惨に鬼になったことを聞き、自分の仲間になれと言われたらしい。無惨も仲間を求めていたんだ。」
「それから武流さんはどうしたの」
わたしは質問しながらも、その答えをなんとなくわかっていた。
「選択肢はなかったんだ。武流さんは自分がどうしたらいいのか、わからなかった。両親が目の前で食い殺されて動揺していたし。鬼になってしまった以上、もう今までのように人間と関わることはできなくなったからね。頼れるのは、目の前にいた自分の両親を殺した男しかいなかったんだよ。」
「無惨の仲間になったのね。」
司は無言で頷いた。
「でもすぐに決別した。無惨が飢えを満たすために人間を殺していることにはすぐ気がついたから。武流さんは絶対に人間を襲わなかった。どれだけ飢えてもね。でも徐々に弱っていった。基本的に鬼の強さは、食った人間の多さで決まるから。ある時限界を感じて、森で横切った鹿を襲って食べた。そしたらみるみる身体に力がみなぎっていくのを感じたそうだ。そこで気がついた。人間を襲わなくて済む生き方があるとね。でも無惨は武流さんの"菜食主義"をやめろと何度も詰め寄ったそうだ。武流さんも無惨に人を襲うなと説得した。お互いに譲らなかった。だから決別した。無惨も武流さんに呪いはかけなかった。武流さんの性格からして、今後も人間を襲わずに生きていくだろうと思ったし、そうなら自分を脅かす存在にはならないとね。でも、後にそれは最大の失敗だったと悟ることになる」
「どうして?」
「確かに、武流さん個人の存在は脅威にはならない。でもその後武流さんは鬼殺隊専属の医者になって、隊士たちの生存率を大きく上げることに貢献した。そして何より、相手の行動や考えがわからないというのは、無惨にとっては脅威なんだ。そのために呪いをかけてるんだしね。武流さんは良くも悪くも、何するかわからない。襲ってこない保証もない。」
「なるほど。」
「何百年も前の話だけどね。それから約100年後、ぼくを見つけた。」
「武流さんは人間だった頃から医学の心得があったの?」
「いや、医学を学び始めたのは鬼になってからだ。昔から知的で勉強熱心な人だったんだ。目の前には無限の時間がある。鬼は睡眠を取る必要はないし。」
「ああ、そう、なの…」
それは初耳だった。でも特段驚くことでもない、と思っていたのに…
彼から聞く話に飽きることはない。
「あと、僕らは呼吸しなくてもいいんだ」
「なんっ…?!息をしなくていいってこと?」
「そうだ、しなくてもいい。単なる習慣でしているだけなんだ。」
「どのくらい平気なの?」
「多分、どのくらいでも。はっきりとは言えないけどね。嗅覚が落ちるから、ちょっと不快感はあるかも」
「ちょっと、不快…」
自分がどんな顔をしていたのかわからない。でも、彼は何かを見て取ったらしく、沈み込んでしまった。わたしの顔を見つめている。
沈黙が流れていく。彼の表情は石像のように強張っていた。
「どうしたの?」
「いずれその瞬間がやってきてしまう。」
「なんのこと?」
「ぼくのすることや話ことは、あるとき君の限界を超えてしまうだろう。その時、君は悲鳴を上げながらぼくから去っていくよ。」
微かに微笑んでいるけど、目は笑っていない。
「止めたりしないよ。そのほうが君のためだということはわかっているからね。君に‘’無事‘’でいてほしいから。それでもやっぱり君と一緒にいたい。この二つが叶うことは絶対にない…」
彼は言葉を濁した。わたしの顔を見つめながら、ーー待っている。
「わたしはどこにも行かないわ。」
「どうかな。」
彼はまた微笑んだ。わたしは少し怒った顔をして見せた。何よ、望み通りの答えを言ったはずでしょ、って感じで。
「いいから話を続けてよ。」
「武流さんは大学に入り直して、音楽や化学、医学を勉強して、自分の天職を見つけた。人間の命を救うことで、自分の罪が清められると思ったんだ。」
彼の表情には感動と敬意が浮かんでいる。
「武流さんの苦悩は、言葉では表現しようがない。自分を完全に制御できるようになるまで何百年、凄まじい努力をした。今では人間の血の匂いには全く影響されない。辛さを感じることなく、自分の愛する仕事ができるんだ。」
そこで彼の表情が少し強張った。
「でもずっと孤独だったんだ。仲間は見つからなかった。何より求めてた、人間との絆は手に入らなかった。そこまで人間と親しくなるのは危険だったからね。その頃、ある疫病が大流行した。武流さんは当時夜勤医として病院で働いていた。数年間、頭の中である考えをあたためていて、それを実行する覚悟を決めていたんだ。仲間が見つからないなら、自分で作り出そうとね。でも自分がどうやって鬼になったのか完全に理解していた訳じゃないから躊躇いはあったし、自分がやられたように、他人の人生を奪うつもりはなかった。そんな心境でいた時、ぼくを見つけたんだ。ぼくはその疫病にかかり、回復する望みはないとされて、末期患者の病棟に放置されていた。死んだぼくの両親を診察したのも武流さんだったから、ぼくが天涯孤独だってことも知っていた。そこで、やってみることにしたんだ…」
囁くような彼の声が途切れた。窓の向こうをぼんやりと見つめている。
どんな光景を思い出しているんだろう。武流さんに聞かされた話なのか、自身の記憶か…
向き直ったとき、彼の表情は天使のような笑みに輝いていた。
「そこでふりだしに戻るわけさ。」
と言って話を終わらせた。
これ以上話つもりはないみたいだ。
「それからずっと武流さんと一緒にいるの?」
「ほとんどずっとね。」
「ほとんどって?」
彼はため息をついた。
答えるのを躊躇っているみたい。
「まあ、反抗期の発作みたいなもんだ。鬼になって10年くらいしてからだったかな、武流さんが提唱する‘’禁欲生活‘’を受け入れられなくて、血への欲望を抑えられるのに耐えられず、しばらく一人で生活していた。」
「そう、なんだ…」
怯えるのが普通だろうけど、わたしはもっと話を聞きたくなっていた。彼もそれに気づいている。
「ゾッとするだろう?」
「ううん」
「どうして?」
「なんとなく…わかる気がするから。」
彼はこれまでにないほど大声で笑った。でもわたしには何が面白いのかわからない。
「鬼になった後からなんだ、周りの考えていることがわかるようになったのは。武流さんのもとを離れるまで10年かかったのはそのせいだ。武流さんの純粋な誠意が伝わってきたし、どうしてああいう生き方をしているのかもわかっていたから。ぼくもほんの数ヶ月で武流さんの元へ戻った。」
「何かきっかけがあったの?」
「ぼくはたかを括っていたんだ。自分は良心の呵責から逃れられると思っていた。獲物の考えていることがわかるから、悪人だけを狩った。夜道で若い女性を付け狙っている殺人鬼を追い詰めて、彼女を救ってやれるなら、そんなにひどいことじゃないってね。」
彼が語った情景がありありと浮かんできて、背筋がゾクッとした。
暗い夜道、怯えた女性、背後から迫る影。そしてそれを狩る司。その女性は命を救われて感謝するかもしれない。でも殺人鬼よりも、司の方を恐れるかも…
「時が経つにつれ、自分の瞳の中に、化け物の影がちらつくようになった。人間の命を奪った罪から逃れることはできなかった。だから戻ったんだ。武流さんはあたたかかく迎えてくれた。ぼくにはもったいないくらいだった…」
話が終わると同時に司の部屋の前に着いた。
「ここがぼくの部屋だよ。」
彼はそう言って、わたしを部屋に引き入れた。
部屋の一面が窓で、すごく開放的な感じだ。就寝スペースはなくて、ゆったりして座りやすそうな黒い革張りの椅子があるだけ。
振り向くと、彼はなんとも言えない目つきでこっちを見ていた。
「どうしたの?」
「ほっとするとは予想していたんだ。君に全てを曝け出して、秘密を持たないで棲むようになったら…それ以上は期待していなかった。でも、思ったよりずっといい感じだ。なんだか、幸せな気分だよ。」
「よかった」
わたしに秘密を打ち明けたことを後悔しているんじゃないかって不安だったから、そうじゃないとわかって嬉しかった。
「でもわたしが悲鳴をあげて逃げるのをまだ待ってるんでしょ」
彼は微かに笑みを浮かべて頷いた。
「期待を裏切って申し訳ないけど、あなたって自分が思ってるほど怖くないわよ。実際、わたしはなんとも思ってないわ。」
彼は眉を顰めた。まるで信じていない。それから意地悪そうにニンマリ笑った。
「そんなこと言うと、タダじゃ済まないぞ」
そう言って、彼は唸り声を上げた。喉の奥から低い声が響いて、完璧な白い歯が露わになる。彼は体勢を変えて屈み込んだ。獲物に飛びかかろうとするライオンみたいにピンと張り詰めている。
「ちょっとやめてよ」
わたしは睨みつけながら後退りしたけど、彼が飛びかかってきたーー目にもとまらぬ早技だったーーいきなり身体が宙に浮き、次の瞬間には二人でソファーに倒れ込んだ。
彼はわたしを子供のように抱き抱え、鉄の鎖のように力強く胸元に抱き寄せた。
彼はちゃんと自分を制御しているみたいで、にっこり笑いかけてくる。瞳に危険な欲望の影はない。冗談さと言うようにきらめいている。
「それでなんの話だったっけ」
「あなたがものすごい化け物だって話でしょ」
声が掠れて、うまく皮肉にならない。
「そうだった。」
「もう話してくれない?」
彼は笑い声をあげただけで話そうとしなかった。その時。
「入ってもいい?」
廊下から静かな声がした。立ち上がろうともがいたけど、彼はちょっと体勢をずらしてわたしを膝に座らせた。声の主は杏で、後ろには純もいる。恥ずかしくて、頬がカッとあつくなる。でも彼は平然としていた。
「どうぞ」
わたしたちがぴったり寄り添っていても、杏は珍しいことじゃないって顔だ。踊るように部屋の真ん中に歩いてくると、すっと座り込んだ。純は入口で一瞬立ち止まり、ちょっとショックを受けているようだった。司の顔をじっと見ている。鋭い感覚で、この部屋の空気を掴もうとしているのかもしれない。
「司が澪を昼ごはんにしようとしてるみたいだから、おこぼれがもらえるかなと思って。」
杏が明るく言った。
わたしは一瞬ギクッとしたけど、司はニンマリしている。杏の言葉とわたしの反応のどっちが面白かったのかわからない。
「残念だけど、分けてやるつもりはないよ。」
彼はわたしをぎゅっと抱きしめながら答えた。
そして純が顔を綻ばせながら、部屋に入ってくる。
「あのさ、今晩はすごい嵐になりどうだって杏が言うんだ。で、徹が試合をしたいって。お前もやるだろ。」
ありふれた会話だったけど、どうも話が掴めない。試合?‘’嵐だから‘’試合?
司は瞳を輝かせたけど、答えるのを躊躇っている。
「もちろん澪も連れてきてよ。」
杏は元気よく言う。
「行きたい?」
「うん。でもどこにいくの?」
「雷が鳴るまで、試合はお預けなんだ。見ればわかるよ。」
「傘を持っていった方がいい?」
3人は一斉に笑った。これって普通の質問じゃないの?
「どうだろう?」
純が杏に聞く。
「いらないわ。嵐は街を直撃するから、あの野原の方にはそんなに降らないはずよ。」
杏は自信たっぷりだ。
そりゃそうか。予知能力は天気にも通用するから。
「それは良かった。」
純の生き生きした口調に、思わず引き込まれそうになった。気づくとわたしは不安でピリピリする代わりに、すっかり乗り気になっていた。
「武流さんにもやるか聞いてこよっと」
「よく言うよ、聞かなくてもわかってるくせに」
杏は飛び上がると跳ねるように出ていった。純がからかい、杏の後を追う。
「わたし何か準備することある?」
「君は見ているだけだよ。異国アメリカの、国民的娯楽をやるんだ。」
わたしは目を丸くした。
アメリカの国民的娯楽…野球だ。