わたしは全ての恐怖と絶望と悲しみをしっかり胸にしまい込んだ。
杏と同じ部屋にいるのはリスクが高い。自分たちから逃げようとしていることを予知されて疑われてしまうからだ。隣にの部屋にいても、きっと疑われるだろう。
ここまで動揺していたら、今更何があっても驚かないだろうと思ってたけど、杏の顔を見てギョッとしてしまった。机に突っ伏して、両手でへりを握りしめている。
「杏?!どうしたの?!」
名前を呼んでも反応しない。顔を上げるとぼんやりした目つきをしている。
もしかして、蝶屋敷のみんなに何かあったの?もう手遅れになってしまったんじゃ…?
杏のそばに駆け寄って反射的に手に触れようとした、その時。
「杏!どうした?!」
純の鋭い声が響いた。次の瞬間には杏の隣にいて、机を掴んでいる手をほどこうとしている。
「澪は…」
「わたしならここよ。」
杏はこっちを向いて、わたしの目をじっと覗き込んだ。奇妙なくらいの無表情。
「ねえ、何が見えたの?」
「いや…なんでもない。さっきと同じ部屋だっただけ。でも、そろそろ移動した方がいいわ。同じ宿に長くいすぎるから。」
驚くほど穏やかで、説得力のある口調だった。
「わかった、荷物をまとめるわ。」
なんとなく、杏が純と二人になりたがっているのを感じ取ったわたしは、荷物をまとめると言って、奥の部屋に引っ込んだ。
きっと純に伝えるつもりなんだ。自分たちはこれから何かしらしくじって、計画は失敗する。そしてわたしが…
細かい作業に集中して、テキパキと身支度を整えた。純が仕掛けた安らかな雰囲気のおかげで、はっきり物事を考えられた。脱走計画のことを。
宿を移すことになってよかった。部屋にこもっているより、遥かに逃げる機会が増えるからだ。
「ねえ杏」
「なあに?」
ひとしきり荷物をまとめ終えると、杏に話しかけてみた。なんでもない会話って感じで。
でも、杏は明らかに警戒している。
「どういう仕組みなの?あなたの予知能力って」
これから2人の元から逃げなければならない。そのためには、杏の予知能力がどうしても障害になる。だから、少しでも仕組みをわかっておきたかった。
「絶対じゃない。状況によって変化するの。物事は常に変化するものだから。はっきり見えることも、ぼんやりとしか見えないこともある。天気は予知しやすいけど、人間は感情があるからずっと難しい。ある目的に向かっている時は、その過程が見える。でもそれだけなの。目的がはっきり確定しないと、その過程はわからない。本人の気が変わったら、つまり新しい選択をしたら、それがどんな些細な内容であっても、未来全体が変化してしまう。」
杏はわたしがあの舞踊教室であいつと会うと決めるまで、その過程が何も見えなかったんだろう。
杏は他に何を見たのか気になるけど、パニックを起こしたら、純に怪しまれるため、そのことは考えないようにした。
いずれにせよ、杏の予知の後、二人はこれまでの2倍くらい注意深くわたしを見ている。
でも杏が旅館を出る手続きをしているわずかな間、純と二人きりになった。今しかない。
純が持っているカバンの中に手紙を滑りこませた。いずれ司が読んでくれるだろう。
「ちょっといいかな」
トイレを指差して言った。
「すぐだから。」
「ここにいるよ。」
純は特に疑っていないようだった。
トイレに入り、窓がないか探す。ちょうど人一人が抜け出せる大きさの窓があった。そんなに高い位置じゃなくて本当に助かった。
わたしは一目散に駆け出した。これが最初で最後のチャンスだ。ひたすら走った。しばらく走って、人力車を見つけた。
助かった。ただ走っているよりはるかに見つかりにくいだろう。布で顔と髪を隠して、できるだけ匂いが拡散されるのを防ぐ。
なんとか冷静でいようと努力する。脱走計画がうまくいったことが、我ながら驚きだ。これ以上、恐怖や不安に浸っても意味はない。行くべき道は決まったのだから。