翌朝は最低最悪の気分だった。よく眠れなかった上に、腕の傷は熱っぽく、頭痛がする。
あれから彼は会いに来なくなった。わたしにも立て続けに任務が入り、蝶屋敷に戻らない日も多かった。彼が恋しくて仕方ない。純は大丈夫なのかな…杏とも会えず、話ができなくて寂しかった。
あの事件から2週間後、司が蝶屋敷に来て、少し元気になった。やっぱりいつ見ても美しい。
「今、ちょっと時間ある?」
「うん」
落ち着いた声を保とうとしたけど、彼の切羽詰まった言い方に嫌な予感を覚えた。
「ちょっと散歩しないか」
彼はそう言って、蝶屋敷の裏の森へと入っていく。木立に数歩入ったところで、彼は足を止めた。まだ遊歩道にも達していない。ずいぶん短い散歩だ。
「澪、僕らはここを離れる。」
わたしも深く息を吸った。落ち着きなさいわたし。
「どうして?それに、''僕ら''って…」
「ぼくの家族、そしてぼく自身だ」
一言一言、はっきり区切りながら、彼は言う。頭を整理しようと、知らないうちに首を前後に振っていた。彼は辛抱強く待っている。
「わかった。わたしも一緒に行く。」
「だめだよ澪。僕らが行く場所は、君がいるべきところじゃない。」
「あなたのいる場所が、わたしのいるべきところなの。」
「……ぼくは君にふさわしくない」
少し間を置いて、彼は彼自身に言い聞かせるように言った。
「馬鹿言わないで」
怒った声を出したかったのに、まるですがっているみたい。
彼がなぜこんなことを言い出したのかはわかっている。あの事件の夜、武流さんが言った言葉が頭をよぎった。
『今晩のような出来事を、司は何よりも恐れていたんだ。私たちの存在が君を危険に晒すことを』
「純のことだったら、あんなの、なんでもない!なんでもないって!」
「そうだな。」
彼は反論しなかった。
驚くほど、冷めた口調だ。
「まさに起こるべくして起こったことだ。」
「そばにいてくれるって言ったじゃない!」
司とは正反対に、わたしは声を張り上げる。
「それが君にとっていいことならね。でもそうじゃないとわかったんだ。お館様に警備地区の変更をお願いした。僕たちは遠くへ行く。行き先は聞かないことだ。答える気もない。」
「いやよ、離れたくない!こんな怪我、なんでもないんだって!だからわたしも、」
「澪、君には来てほしくないんだ。」
ゆっくり、そしてはっきりと彼は言った。
氷のような視線でわたしの顔を観察している。自分が本当に伝えたいことを、わたしが理解していく様子を。
「あなたは、わたしに、一緒に来て欲しくない…」
「そうだ。」
「それなら、話は変わってくるわ、すごくね…」
驚くほど落ち着いた口調だった。あまりに呆然としているせいだ。彼が何を言っているのかよく分からない。
「もちろん、いつまでも君のことは愛している。ある意味ではね。でもこの前のことで気づかされたよ。ぼくと君では生きている世界が違う。ぼくは鬼で、君は人間だ。」
確かに、氷の仮面のように完璧なその顔は、人間ではなかった。
「もっと早くケリをつけるべきだった。申し訳ないと思っている。」
「こんなの、こんなの嫌だ…」
彼はじっとわたしを見ている。その目を見て分かった。なんと言っても無駄だ。彼は考えを変える気はない。
「澪、君はぼくにふさわしくないんだ。」
そう言われたら、反論のしようがない。それはよくわかっていることだから。
「それがあなたの望みなら」
彼は頷いた。全身の感覚が消えた。何も感じない。
「でも、一つ頼みがある。無理でなければ。」
「なに…」
「無茶なことや馬鹿なことはしないでくれ。意味はわかるね?蝶屋敷のみんなのため、君の友人のためだ。」
「約束、する」
彼は少しほっとしたようだった。
「代わりにぼくも一つ約束する。君がぼくの姿を見るのは、これが最後だ。これからはぼくに邪魔されることなく、自分の人生を送れる。ぼくなんて最初から存在していなかったかのように。」
突然、周りの木立が揺らぎ始めた。
いや違う、わたしの膝がガクガク震えているんだ。
「心配ないよ、君は人間だ。君の記憶は薄れていく。全ては時が解決してくれる。」
「あなたの記憶はどうなの」
「それは…」
彼は一瞬ためらった。
「ぼくは忘れない。ぼくらはもう二度と君に関わることはない。これで最後だ」
ぼく、ら…その言葉が引っかかった。
「杏も、みんなもなのね」
「そうだ。みんなはもう出発した。ぼくは君にさよならを言うために残ったんだ。杏もそうしたかったみたいだけど、なにも言わないで行く方が君のためになると言った。」
目眩がする。まともに物事を考えられない。何か、何か言わないと、彼が行ってしまう…!
「さよなら、澪」
「待って!」
彼はわたしを抱き寄せると、おでこに軽くキスをする。わたしは目を閉じた。
「元気で」
彼の冷たい吐息が肌を撫でる。直後、不思議な風が駆け抜けた。わたしは目を開けた。誰もいない。
彼は行ってしまった。
無駄なことだと分かっていたけど、震える足で森へ入っていく。なにも考えられなくて、とにかく歩き続けた。雨が降ってきたことにも気がつかなかった。
時間の感覚も無くなっていた。数分か、数時間か…足に力が入らなくなって、その場に倒れ込む。
「い、…い!れーい!どこだー?!いたら、へんじを…」
長いことわたしは闇に包まれていた。
うっすら目を開けると、周りも真っ暗になっていて、もう夕方か夜だとわかった。
日が沈んだということは、そろそろ鬼が活動し始める時間帯だ。わたしは今日輪刀を持っていない。戦う気力もない。
もういいや。
鬼に襲われて、喰われて死んでもいい。
彼のいない世界で生きていくなんて、わたしにとっては死んでいるも同然だ。
やがて、呼び声が聞こえてきた。誰かがわたしの名前を呼んでいる。誰だろう。答えた方がいいんだろうか。そう思っても、声が出ない。答える気力もない。
どうでもいい。
やがて、複数の声が同時に聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。
「澪!」
耳元でやけにはっきりとした声が聞こえたので、半目を開けた。霞む視界に飛び込んで来たのは、同期の炭治郎だった。
「いたぞ!善逸、伊之助、こっちだ!」
「たんじろ…なんで…?」
「任務を終えて蝶屋敷に帰ったら、君が帰って来ないってしのぶさんたちが騒いでたから。善逸と伊之助と一緒に探し回ってたんだ」
「澪ちゃん!大丈夫?!」
「子分、無事か!」
善逸と伊之助も炭治郎の声を聞いて飛んでくる。
「大丈夫、怪我はしてないみたいだ。ぼくが屋敷まで運ぶから、2人はしのぶさんとアオイさんに見つけたって伝えに行ってくれ。」
「わかった!」
「任せろ!」
それを聞いて、申し訳なくなった。みんなに。
しのぶ様にはあとでこっぴどくお説教されるだろうし、アオイやカナヲ、なほ、すみ、きよにも心配をかけてしまった。
炭治郎、善逸、伊之助も任務帰りで疲れているのに、こんな雨の中、わたしのために探し回ってくれた。
ごめんね、ごめんなさい…
それを最後に、わたしはまた意識を手放した。