鉛色の空を背にした断崖は、黒いナイフの刃先のようだった。下で砕け散る波を睨みつける。
空を飛んでいる気分になれるくらい高い場所だ。
ここから落ちたら…
わかっている。これまでで最高に無茶で馬鹿な真似だ。そう思うと、なぜか微笑みがこぼれた。もうすぐ彼の声が聞こえるって、身体が知っているかのように…
崖の淵まで来たところで、深く息を吸い込み、止めて、待ち受けた。
『澪』
すごくリアルに、すぐそばに聞こえた。こうやって叱られる時だけ、彼の声の本当の記憶が蘇る。
『こんなことやめるんだ』
だってこうでもしないと、あなたに会えないじゃない。あなたはわたしを必要としてなくても、わたしは違う。たとえ幻聴だろうが、幻覚だろうが、あなたが必要なの。
『お願いだ。ぼくのためを思うなら』
でも、そばにいてもらうにはこうするしかないの。
わたしはつま先に体重をかける。
『だめだ、澪!』
怒っている声ですら、愛おしかった。
わたしは崖から身を投げた。運が良ければ泳いで助かるかも。打ちどころが悪ければ死ぬかもしれないけど、どうでもよかった。
思わず悲鳴を上げた。恐怖からじゃなくて、あまりにも爽快だったから。麻薬をやったことはないけれど、ハイになるってこんな感じなのかな。
わたしは海面に吸い込まれる。
問題は、波の流れが海岸の反対に向かっていることと、思ったよりずっと海水温が低かったことだった。
もういいや。ここで死ぬのも悪くない。どっちみち、彼のいない世界で生きていくなんて、死んだも同然だ。
『いい加減にしろ、諦めるな!』
冷たい海水が、手足の感覚を奪っていく。なすすべもなく、海中でくるくる回る。
『がんばれ、しっかりしろ!』
どうして?もういいじゃない。幸せな気さえしてくる。本物の幸せがどんなものか忘れてた。
本当にそこにいるかのように、あの完璧な顔が見えた。これでいいんだ。最後に見ることができてよかった。
さようなら、愛してる。それが最後に頭に浮かんだことだった。
どれくらい時間が経ったのかはわからないけど、わたしの頭は水面を突き破った。
「お願いだ、息をして!」
不安にいきりたった誰かの声が、わたしに命じる。
でも、司の声じゃない…
言われた通りにできない。
滝のような海水が、息をつく暇もなく口から流れ落ちる。
氷のように冷たい澱んだ海水が胸を満たし、ひりひりした。
「澪、息をするんだ!さあ!」
蘇生なんて、しなくていいのに。
わたしには、この世に未練なんてないから。
生きているのに死んでいる、なんてもう嫌なの。
「澪、気がついた?!聞こえてる?!」
頭の中がゆらゆら揺れていて気持ち悪い。まるでまだ荒波にもまれているみたい。
「むー…」
「大丈夫だよ…子、呼吸はしているから、じきによくなる。でもあたたかい場所に移動させた方がいいな、とりあえず蝶屋敷に運ぼう。」
「む!」
なんだか聞き覚えのある声がしたと思ったら、わたしはまた意識を手放した。
わたしは目を開けた。死んだはずなのに、変な話だ。ぼやけた視界には、見慣れた蝶屋敷の天井が映る。
「ん…」
「はっ…!澪?澪!!わかる?!」
「アオイ…?」
びっくりするくらい掠れた声しか出なかった。
「よかった、気が付いて…!2日、意識がなかったのよ。」
わんわん泣くアオイを見たら、ものすごく申し訳なくなってきた。でも、次の瞬間にはお説教が始まっていた。
「一体何考えてたわけ?!よくも自殺なんて!!無鉄砲なところがあるとは思ってたけど、こんな馬鹿な事するとは流石に想定外だったわよ!」
しのぶ様とカナヲは知り合いが任務で殉職したため、その葬儀に行っていて、今夜帰ってくるとアオイが教えてくれた。
でも、わたしは自殺を試みたわけじゃないといくら言っても、全然聞いてくれなかった。
「さっき鴉を飛ばして意識が戻ったって伝えたけど、帰ってきたら2人からもお説教されるだろうから、覚悟しておくことね。」
アオイはその後もわたしの病室を悪態で溢れかえらせながら、無責任なことをするなとものすごい剣幕で叱った。なんだか子供に戻ったみたいだった。
「ねえ、そもそもなんでわたし生きてるのかな、誰かが助けてくれたの?ここまで運んでくれた人がいたの?」
「運んできたのは炭治郎さんだけど、助けたのは禰 豆子さんよ。たまたま近くで任務があったみたいで、炭治郎さんの鴉があなたが飛び込むところを見て、慌てて炭治郎さんに知らせたんだって。でもあそこは崖だから、鬼の禰 豆子さんが飛び込んで助けたって聞いたわ。感謝することね。」
感謝はしている。でも、あのまま死んでも良かったとも思うけど。それは口に出さないでおいた。
夜になり、自室で食事をとっていると、アオイが血相を変えて部屋に入ってきた。
「ちょっとどうしたのアオイ、まだお説教の続きがある?反省してますってば。」
そう言っても、アオイの顔は青ざめており、身体は小刻みに震えている。
「ち、違うの澪…なんか、その…鬼の、気配が、して…」
「え?」
言われてみて初めて気配を感じ取った。溺死しかけたせいで、感覚が鈍ってしまっていたのか…
「本当だ…ちょっと見てくる。アオイは自分の部屋に行って、鍵かけて。5分してわたしが部屋に行かなかったら、なほたちを連れて裏口から逃げて。」
「わ、わかった…!」
電気を消した、真っ暗な廊下を歩みながら、日輪刀を構える。
意を決して、玄関の鍵に手をかけた。そこで視界に入った。わたしを待ち受けていた、相手の姿が。