訪問者は、微動だにせず待ち受けていた。わたしはその姿を見るなり、手から日輪刀を落とした。相手は不自然なほど静かに、青ざめ、大きな黒い瞳でこちらを凝視している。
膝が震えて一瞬、崩れ落ちそうになった。そしてわたしは相手に抱きついた。
「杏!杏なのね!」
大声をあげて身を投げ出す。
「澪、なの…?」
安堵感と、戸惑いが奇妙に混ざり合った口ぶりだ。
「ご、ごめん。その、会えて、感激、しちゃって」
「いいの。」
わたしは涙が溢れる目で杏を見上げた。喉のあたりをピンとこわばらせ、のけぞって唇をきつく結んでいた。
漆黒の瞳…そうか。
喉が渇いている。わたしの匂いが食欲をそそるんだ。こうした気遣いが必要になるのは久しぶりだった。
「ごめん」
「ううん、悪いのはわたしなの。前に動物を狩った時から間が空きすぎてるから。ここまでのどを乾かせたらだめなんだけど、今日は急いでたし」
そう言って、わたしに厳しい視線を向ける。
「で、なんで生きてるのか説明してもらえる?」
「あ、わたしが落ちるのを見たのね」
「飛び降りるのを見たのよ。」
杏はやれやれと頭を振った。
「だからこうなるって言ったのに、あの人信じようとしないんだもの。『澪は約束した』とか言って」
杏の完璧な口調に、わたしは凍りついた。
「それに『彼女の未来を詮索するのはもうやめておけ』とか、『ぼくらはもう、十分すぎるくらい彼女を傷つけてしまった』とか。わたしの予知能力は、見るつもりがなければ目に入ってこないってわけでもないの。でも誓って、あなたを監視していたわけじゃないわ。だけど今回は…飛び降りる姿を見たら、じっとしていられなかったの。間に合わないとわかっていても、何もしないわけにはいかなかったのよ。」
「でも間に合ったわ。ねえ、彼は…司はどうしてる?」
「数ヶ月に一度、一言連絡してくるだけなの。それ以上はわたしにもわからない。」
「そう…」
「ねえ、あなたが海に消えるのが見えた。浮いてくるのを待ったけど、上がってこなかった。一体何があったの?何を考えてたわけ?!よくも自殺なんて!司がどれほど」
杏がその名前を口にした瞬間、わたしは話を遮った。
「自殺するつもりはなかった。」
杏は疑わしそうにわたしを見る。
「崖から飛び降りてないとでも言うつもり?」
「ううん。でもあれは純粋に娯楽が目的なの。くりふだいびんぐって言うらしい。でも、その…波の流れまでは、考えてなくて。流されちゃった。でも炭治郎の妹の禰 豆子ちゃんが助けてくれたんだって。」
「禰 豆子が?そう…だからか。彼女、わたしが未来が見えないうちの1人なの。」
「そう、なんだ…」
杏は呆れたように天を仰ぐ。
娯楽の一環として"くりふだいびんぐ"をした、という信憑性のない説明に、杏は全然納得していなかった。
「それにしてもひどい有様ね、澪」
「だって今日溺れたのよ」
「それだけじゃない。あなた、ぼろぼろなのね」
思わずギクッとして身をすくめた。
「これでもわたし、精一杯頑張ってる」
「どういう意味?」
「…ずっと大変だった。でも、努力してるのよ」
杏は顔を顰め、つぶやいた。
「だから言ったのに…」
「ねぇ杏、何を期待してたの?崖から飛び降りて死にかけるっていうのは別として。わたしが陽気に口笛吹いて、スキップでもしてると思った?わたしのこと、もっとよく知ってるでしょ。」
「そうね。でも…元気でいてくれたらって思ってた。」
杏はまたため息をつく。
「澪が1人で生き延びられると思うなんて、あの人も馬鹿ね。これほど命知らずで馬鹿な真似をする子は見たことないわ。」
「それはわたしも同感ですね。」
そこにいたのはしのぶだった。カナヲもいて、2人ともわたしを見て安堵、怒り、心配等、いろんな感情が見て取れる。
「澪、あなたには後でたっぷりお話を聞かせていただくとします。とりあえず今は部屋に行ってください。」
つまり、この場から去れということだろう。
絶対後でこってり絞られる。わたしはうなだれながらも、大人しくその場を後にした。
「さて杏さん。あなたがなぜここにいるんです?理由を言ってください。」
しのぶは鬼を憎んでいる。東城家の人たちのことも、表向きは認めているが、澪を傷つけ、置いていったことは今でも怒っているのだ。
「澪が自殺するビジョンが見えたから。生きているかの確認をしに来たの、それだけよ。すぐ帰るわ。」
「ええ、そうしてください。」
「その前に、一つだけ。澪だけど。かなり酷かったの?」
しのぶは今までのことを思い出してため息をついた。
「ええ、かなり深刻でした。最初の1週間は、本当に一般の病院に入院させようかと思いましたよ。何も食べないし、でも鍛錬はやりすぎるくらいするし。任務もがむしゃらに行っていました。でも、抜け殻だったんです。目には何も写ってなかった。まともに会話ができるようになったのだって、つい最近のことです。自分からは何も言いませんけど、話しかければ答えてくれるようにはなったんですよ。」
「……大変だったのね」
「あなたのせいではありません。それはわかっています。あの子があなたに会えて喜んでいることも。でも、今回の訪問が、澪にどう影響するか心配なんです。」
「それはわたしも同感。ちょっとでも察してたら遠慮したわ。」
「まだわかりません。良い方へ転ぶかもしれませんしね。でも今日はもうお引き取りください。」
とりあえず両者の話し合いは終わった。しかし次の瞬間、杏にあるビジョンが見えて、硬直する。杏は急いで澪の部屋に向かった。後ろからしのぶが呼び止めるのも無視して。
「杏?どうしたの?」
いきなり部屋に入ってきても何も言わない。こんな杏は見たことがない。何かあった…?どうしたと聞きはしたが、答えを聞きたくない気もした。
「わからない…あの人、一体突然どういうつもりなの?!」
杏は泣き叫ぶように言った。
あの人…司のことだ。直感的にわかった。
「彼に何かあったのね?!」
杏は答えない。
「誰か、ちょっと前に電話とった人いる?」
「わたし、です。」
杏の問に答えたのはアオイだった。
「しのぶ様はいるかと聞かれたので、葬儀に出ていると言いました。どなたですかと聞いたんですが、すぐに切れてしまって…」
「葬儀だと言ったのね?」
「はい…」
「ちょっと杏、なんなの、何が起きてるの」
杏はいつにも増して青ざめた顔でわたしに向き直ると、非情な内容を告げた。
「アオイに電話してきたのは彼よ、司だったの。葬儀と聞いて、あなたのだと誤解した。あなたが崖から落ちて死んだと思ってる。」
「なんでわたしのだって…?」
「司は家に電話して、家族の誰かから、わたしが澪が崖から落ちるビジョンを見たから蝶屋敷に行ったって聞いた。それでここに電話してきた。」
「それで葬儀って聞いたから、必然的にわたしのだと思ったのね。」
杏は不思議そうにわたしを見る。
「やけに落ち着いてるわね」
「だって確かにタイミングは悪かったけど、誤解は解けるでしょ、今度連絡があったら、誰かが伝えれば」
杏の視線が喉から出かかった言葉を締め上げた。なんでそんなに怯えてるの?
「澪、司はもう連絡してこない。あなたが死んだと思い込んでる。」
「だから、どう、なの…」
一言ずつ口だけ動かす。それが精一杯だ。
「死ぬつもりよ。」
「でも鬼は死ねないでしょ…」
「そう。だから、お館様に頼む。」
「え、なんて?」
「誰かしら隊士をよこして、自分の頸を斬ってくれって。」
「でも、自分からいなくなったんじゃない。わたしのことなんてもういいって、わたしは彼に相応しくないって。今更わたしが死んだからどうだっていうの?いずれわたしは死ぬのよ。永遠の命はないんだから。」
「もともと、あなたより長く生きるつもりはなかったと思う。」
杏は静かに言った。
でも死を望むなら、わざわざ隊士をよこしてもらわなくても、自分の日輪刀で自分の頸を斬ればいいのではないか?
そう思った時、司が前に言っていたことを思い出した。
『いつも鎹鴉がついてるから、自殺しようとすればすぐにバレて止められる。お館様にお説教されるのがオチだ。』
あとでお説教されるくらいなら、自分から死を望んでいると白状しようということ?
「その案をお館様に断られた場合は、正体を晒すつもりよ」
「は?!でもそんなことしたら…」
「そう。鬼の存在はできるだけ秘匿としておくべきなの。混乱が起こるだけだし、存在自体、信じない人も多いから。でも実際に目の前に現れたら、疑いようのない現実を突きつけられたら…鬼の存在が公になれば、世間の混乱は必須。そうなった場合、その原因を作った司が処分を受けるのは間違いない。それにその事態は無惨にとっても面白くない展開よ。世間に鬼の存在が公になれば、世論は鬼殺の活動を活発化させる方に動く。結果的に鬼の数は減り、太陽を克服する鬼を作るのも難しくなるから。司は敵味方の両方を敵に回すことになる。」
こうなると、司を止める方法は一つだ。わたしが彼の行く場所に先回りをして、誤解を解くしかない。
「澪、あなたの気持ちはわかりますが…」
「しのぶ様、止めないでください。わたしは何と言われようと行きます。」
それを聞いて、しのぶは深くため息をついた。
杏と一緒に慌てて蝶屋敷を出て行く澪を、黙って見ている。
「い、いいんですか師範?行かせたら、澪はまた危険な目に遭うかも…」
カナヲが恐る恐る話しかけると、しのぶは真っ直ぐ前を見たまま言った。
「止められるものなら止めています。でもカナヲも知ってるでしょう?澪は一度決めたら、誰になんと言われようとも聞きませんよ、特に司さん絡みのことではね。こうなったら、全てがうまくいって、あの子が無事に帰って来ることを祈るしかないでしょう。」