週末だから、銀座は人でごった返している。時計塔は遠くへ見えているが、人に遮られていて、かなり遠く感じられる。
「あと3分よ、さあ澪、行って!!ひたすら、走って!!」
杏は司と同じく、太陽の下にいると焼け死なないけど、肌が輝く。人ではないことがバレるため、長くはいられない。わたし一人で行くしかない。
足を止めて暗がりへ消える杏の姿を見送りもせず、わたしは人という人を押しのけて、やにわに走り出した。暗い小道を抜けると、中央広場をぎらぎらと照らし出す日差しに目が眩んだ。風が音を立てて吹き付け、髪が目に入ってさらに視界が遮られる。
周りの群衆の押し合いのせいで、間違った方向へ誘導されてしまう。唯一の救いは、時計塔が高くてよく見えることだ。それでも時計の針は無情な太陽に向かって真上を指している。
わたしは直感的にわかりつつあった。
間に合わない。
まだ半分も来ていない。
ああ、わたしにも特殊能力みないなのがあればいいのに!前に司には何らかの防御能力があると言われたけど、自覚はない上に、なんの役にも立ちやしない。
耳を澄ました。何かを発見した喧噪が聞こえないか。司の真の姿が誰かの目に触れ、息を飲む気配か、悲鳴かが…
そこで人混みが途切れた。前方の空間に隙間が見えて、大慌てでそこを目指した。噴水がある。その奥に時計塔が見えた。噴水を避けてその周りを走っていたら間に合わない。突っ切るしかない。靴も服もずぶ濡れになったけど、どうだっていい。
数秒で噴水を突っ切り、広場の噴水を渡り切ることができた。もう一度素早く時計を見上げた。よく響く低い鐘の音が広場にこだました。わたしは叫びながら走り抜ける。
「司!」
無駄なのはわかっている。周りの雑踏がうるさすぎるし、走ってきたせいでまともに声が出ない。でも叫ばずにはいられなかった。
また鐘が鳴った。
少し先に、4人の家族がいた。両親と、娘と思われる女の子2人。妹は鐘の音がうるさいからか、目を瞑って耳を両手で塞いでいる。姉の方は後方の暗がりを指差し、母親の肘を仕切りに引っ張っている。
少女の甲高い声が聞こえるくらいまで近づいてきた。わたしが司の名前を掠れ声で連呼しながら突っ込んでくるのに気がつき、父親は驚いて目を見張る。
姉は相変わらずくすくす笑って、母親に話しかけようとし、焦ったそうに司の方を指差す。
姉は間違いなく、司の煌めいた肌に気が付いている。面白い人がいる、と母親に話して振り向かれたら終わりだ。
家族連れの後ろの薄暗い隙間に駆け込むと同時に、もう一度鐘が鳴った。
「司、やめて!!」
思いっきり叫んだが、大きな鐘の音にかき消される。
司の姿が見えた。目を閉じていて、わたしの姿が見えていないこともわかった。
本物だ。今回は幻じゃない。わたしの妄想は思っていたほど完璧じゃなかった。本人にはどうしたって及ばない。
司は路地の入り口からほんの1メートルのところで、彫刻のようにじっと佇んでいる。心地よい夢でも見ているかのような、とても安らかな顔つき。大理石のような肌をむき出しにして。
息も絶え絶えに叫びながら走っていても、見惚れてしまう。司がもうわたしを求めていなくてもいい。わたしはいつまでも、彼の他に何一つ求めない。この先、どれほど長く生きたとしても。
時計塔が時を告げる。
司は光の射す方へ、大きく一歩踏み出した。
「だめよ!」
わたしは絶叫した。
「司!わたしを見て!」
猛烈な勢いで彼に突進した。彼の腕に捕まえられ、支えてもらわなければ、地面にひっくり返っていたはずだ。
また鐘の音が響き、司の灰色の瞳がゆっくり開いた。無言の驚きを込めてわたしを見つめる。
「すごいな」
魅惑的な声は感動に溢れ、どこか面白がっているようだった。
「日陰に戻って!突っ立ってないで!」
わたしはありったけの力を込めて、彼を暗がりの方へ押し戻す。
司は困惑したようにわたしの頬を優しく撫でた。
不思議なものだ。二人とも絶体絶命の危機に瀕していることはわかっているのに、一瞬のうちに気分が明るくなった。心の傷も虚しさも消えた。ぽっかり開いた胸の傷なんて、まるで存在しなかったかのようだ。
「これほどあっという間だとは思わなかった。何も感じなかった。」
そう言うと彼はまた目を閉じて唇をわたしの髪に押し当てた。
「ああ、全く同じ香りがする。ということは、ここは地獄なのかもしれないな。でも構うもんか。それでもいい」
「わたしは死んでないのよ、あなただって!」
わたしは彼の腕の中で必死にもがいた。彼は困惑したように、眉間に皺をよせた。
「どういうことなのかな」
「わたしは死んでなんかないの!ちょっとした誤解があっただけなのよ。全部話すから、とりあえず日陰の方へ下がって!」
そこに杏が合流してきた。私たちが二人とも死んでいないとわかって、明らかに安堵している。
「澪が倒れる前に座らせてあげた方がいいんじゃない?崩れ落ちそうよ」
そう言われて初めて、自分が震えていることに気づいた。
「大丈夫だよ、ぼくら二人とも。もう大丈夫。」
司は呪文のように繰り返すと、わたしを引き寄せて膝に座らせた。ものすごく幸せだ。でも、あとどれだけ彼の顔を見ていられるかわからない。でもわたしが落ち着いたと同時に、彼は消えてしまうかもしれない。
瞳に涙をため、彼の顔がはっきり見えないなんてもったいない。どうかしてる。
「ここで今幸せな気分でいるって、わたし本当に病気かな」
彼はわたしを抱き寄せる。
「言っている意味はわかる。でも僕らには幸せだって思う理由は山ほどあるよ。まずはこうして生きてる」
「そうね、それは大事。」
「そして一緒にいる。」
頭がクラクラした。
一緒にいるーーーでも司にとって、それがわたしと同じくらい大きな意味を持つはずはない。
「それに運が良ければ、明日も生きていられる。」
「だといいけど」
鬼殺隊は常に死と隣り合わせだ。わたしが今までの任務で死ななかったのは、単に運がよかっただけに過ぎない。
「すごく疲れているみたいだ」
「あなたは喉が渇いているみたい」
「大したことじゃない。今この瞬間、かつてないほど欲望はうまく抑えられてる。」
聞きたいことは星の数ほどある。でも眠気の方が勝ってきてしまった。
「澪、人目のないところまで歩けるかい。そしたらぼくが君を抱いて行くから。次に目を開けた時は、必ずそばにいるから。」
「眠りたくないのに」
「そんな眠そうな顔してるのに?」
わたしの眠気を必死に我慢している顔が面白いのか、司はにんまりしている。
「今目を閉じたら、見たくない光景が浮かんでくる。きっと悪夢を見るわ」
それには司も反対しなかった。
髪からおでこへ、そして手首へ、司はわたしにキスをする。
危機的状況をくぐり抜けたけど、強くなった気はしない。それどころか怖いほど脆く感じる。
「それでも、少し寝るんだ。」
その一言で、わたしは眠りに落ちた。