次に目を覚ました時は、東城家のお屋敷の手前だった。慌てて司の腕の中から逃れ、自分の足で歩く。
家から武流さんと恵美さんが出てきて、わたしをそっと抱きしめた。
「本当にありがとう。」
恵美さんがそっと耳元で囁いた。そして隣の司に向き直る。
「もう二度とこんな思いをさせないでちょうだい」
「ごめん、母さん」
恵美さんは叱りつけるような口調だった。司は彼女のことを「母さん」と呼んだ。いつもは「恵美さん」と呼んでいるから、ちょっとびっくりした。
「ありがとう、澪。本当に感謝している。」
「いえ、そんな。」
「とても疲れた顔をしている。少しうちで寝ていきなさい。しのぶにはわたしから伝えておこう。」
あまりにも疲労が溜まっていたため、お言葉に甘えることにした。
そこから眠りに落ちるまでの記憶はごっそり抜け落ちている。こんなに寝付きがよかったのは久しぶりだった。悪夢を見る暇もなく、わたしは眠りに落ちた。
かなり長いこと眠っていた気がする。現実と夢、悪夢との境界線が曖昧になっている。眠っている間ずっと、一度も動かなかったかのように、身体も強張っている。
何とか抵抗するうちに、意識は現実に焦点を当て、覚醒していく。
今日は何曜日だろうか。思い出せない。どうやってまた新しい1日を向き合えばいいんだろう。
何かひんやりしたものがおでこに触れた。ほんの微かな圧力。
さらにきつく目を閉じた。まだ夢を見ているらしい。不自然なほどリアルな感触だった。きっとあと一歩で目覚めてしまうだろう。そしたら、この感触は消え去ってしまう。
はあ。彼を求めるあまり、幻覚や幻聴まで聞こえるようになっていたから、ついに神経までやられてしまったのかもしれない。
でも本当に正気を失ったなら、素敵な妄想であるうちは、楽しんでおいた方がいいかもと考え、目を開けてみた。
司がいる。わたしを見ている。完璧な顔はわたしの目を鼻の先にある。
「驚かせてしまったかな」
不安げな低い声だった。妄想にしてはかなり良くできている。溺れた時に見えた姿よりずっと鮮明だ。
「嘘でしょ、もう」
「どうかした?」
「わたし死んだ?」
「死んでないよ。」
「なら、どうして目が覚めないのよ」
「目は覚めてるだろ、澪」
わたしは首を横に振った。
「はいはい、そういうことにしたいわけね。目を覚ましたらもっと悲惨なのよね。まあ、目覚めるなら、だけど。」
「ぼくと悪夢を混同するのはわかる。でも地獄へ落ちるようなどんな真似が君にできたのか、想像がつかないな。ぼくが遠くにいる間に、何人も人を殺したとか?」
「そんなはずないでしょ。地獄にいるなら、あなたが一緒にいるはずない。」
司はため息をついた。
「わたしが寝てる間、何かあった?」
「ぼくの寿命が100年くらい縮んだよ」
「?何があったの?」
聞いたところ、緊急招集された柱合会議に呼ばれ、お館様にこっぴどくお説教されたらしい。
「お館様、怒るイメージなんてないのに」
「それだよ、だから怖いんだ。しのぶと同じだよ。微笑みながら怒るもんだから、本当におっかなかった。お館様は『もっと自分を大切にしろ、武流を悲しませるようなことは二度とするな』って。それからしのぶには『澪を巻き込むなと言ったはずだ』って、めちゃくちゃ殺気だった笑顔で言われた。生きた心地がしなかったよ。」
じわじわと実感する。司は間違いなく、ここに存在してる。わたしのそばにいる。そしてわたしはぼうっとして、時間を無駄にしている。
「それじゃあ、あれは実際に起こったことなのね」
「どのことかによるけど…銀座で死にかけたことなら、そうだね」
「今まで何してたの」
「別に楽しいことは何も」
彼の声はすごく空虚なものだった。それでもすごく甘くて、魅力的だ。
「やっぱりね」
「どうしてそんな顔をする?」
「だってあなたの夢を見ているに過ぎないなら、まさにそう言われそうだもの。わたしの想像力もこれまでね。」
「本当のことを教えたら、これは悪夢じゃないって信じてくれる?」
「悪夢ですって!?」
馬鹿にしたように繰り返してしまった。司はわたしの答えを待っている。
「まあ、そうね…」
「……ぼくは…任務と狩りをしてた」
「もっと意外なことは言えないの?」
司は少し躊躇してから、言葉を慎重に選んでゆっくり話した。
「悪いけど、言えない。事実だからね。本当に、何もしていなかったから。君がいない世界は、想像以上に地獄だった。無気力だったんだ。でも、しのぶから聞いた、君も同じような感じだったって…」
そうだ。わたしも無気力だった。死んだも同然だった。生きながら、死んでいた。いっそ死んだ方が楽だと思える、まさに生き地獄。
「こんなことになるなんて、思いもよらなかった。身を切られる想いだ。こうして君が腕の中で無事にいるのを目にして、実感していてもね。ぼくはなんて情けない、最低の…」
「やめて」
わたしは彼の言葉を遮った。わたしは正しい言葉を探す。わたしは彼の人生の悔恨と苦悩のタネにはなりたくない。
彼は幸せにならなければ。たとえわたしがどれほど辛い思いをすることになっても。
「司、もうこういうのは終わりにすべきだわ。そんなふうに考えてはだめ。罪悪感に人生を支配させちゃいけないのよ。わたしの身に起こることに、あなたが責任を取る必要はこれっぽちもない。わたしの人生がそういうものだってだけ。責めるのは自分じゃないって気づいて。わたしを救わずに後悔したからって、死のうとするなんてだめ。わたしが死ぬつもりで崖から身を投げたって、それはわたしの選択で、あなたに非はない。あなたが何もかも自分のせいだって思い込みがちなのはわかってるけど、本当にやめてちょうだい。無責任よ、武流さんや恵美さん、みんなのことを考えたら…」
わたしは司を自由にしてあげないといけないんだ。そう自分に言い聞かせる。
「澪、君はぼくが罪悪感から死のうとしたと思ってるのか?」
「違うの?」
「…罪悪感は覚えたよ。凄まじく。君には到底理解できないほど。でも、死のうとしたのは、君が死んだと思ったからだ。たとえ君の死にぼくが関係してなくたって、そうしただろう。」
「わからないわ。」
わたしは顔をしかめると、彼も同じようにそうした。
「何だって?」
「わたしが死んだらどうだっていうの?」
「澪、ぼくが前に言ったこと忘れてしまった?」
「覚えてるわよ」
でも、全て帳消しにされた。森で別れを告げられた時に。
「澪、君は思い違いをしている。ぼくは君がいない世界では生きていけないんだ。」
「そんな、こと、言われたって…」
思わず吃ってしまう。だって彼がわたしのそばにいるっていう現実をようやく認められつつあるというのに、急にこれだもの。
「胸が抉られたよ。あの森で別れを告げた時、君は諦めそうになかった。それがみて取れたから。望んで言ったわけじゃない。それでもぼくはもう愛していないと納得させない限り、君が別れを乗り越えて自分の人生を歩んでいくのに時間がかかるだけだと思った。ぼくが忘れたと思えば、君もそうすると期待していた。今は後悔してるよ。君のためと思って嘘をついたこと。でも、どうしてあっさり信じたんだ?愛しているとあれほど言っただろう。たった一言で、ぼくへの信頼が崩れてしまうなんてさ。」
言葉にならない。あまりのショックに、理性的な受け答えができない。最後の方なんて、ほとんどわたしへの文句じゃない。
「君の目を見てわかったんだ、ぼくの愛が終わってしまったと本気で信じたってね。そんな不条理で馬鹿げたことがあるものか。君を求めずに、ぼくが存在していられるわけないだろう!」
わたしの身体はまだ凍りついたままだ。彼の言葉が理解しきれない。許容オーバーだ。
気がついたら、わたしは泣き始めていた。
「ほらね、やっぱり夢なんだ」
「どうしようもないな」
司は焦ったそうに笑った。
「どうすれば信じてもらえるんだ。君を愛してる。これまでも、これからも。離れていてもいつも君を想ってきみの顔を思い浮かべていた。そばにいて欲しくないと告げるなんて…あれほど罪深い冒涜はなかった。」
司はわたしを注意深く観察している。
そして感じ取ったらしい。
「信じてないんだね。嘘は信じられるのに、なんで真実はダメなの?」
「あなたがわたしを愛してるなんて…絶対おかしいから」
司はすっと目を細め、口元をこわばらせた。
「夢じゃないって証明するよ」
「やめて」
「……どうして?」
「あなたがまたいなくなった時、余計に辛くなるから」
彼はまたため息をついた。
「もう手遅れなのかな、君を傷つけたから?それとも君はぼくが望んだ通り、もう誰か他に……もしそうだとしても、当然のことだ。君の判断に異論を挟むつもりはない。だからぼくの気持ちに遠慮しないで、答えてくれ。これほど君を傷つけて、それでも君はぼくを愛せるのか。愛してくれるのか?」
「そんな馬鹿馬鹿しい質問ってある?」
「答えてくれ、頼むよ」
質問への答えは明白だ。答えは一つしかない。
わたしには司しかいない。
「あなたへの想いは絶対に変わらない。もちろん愛してる。あなたが何をしようと、それはどうすることもできないしね。」
「それだけ聞きたかった。」
彼の唇が、わたしのに重なる。抗うことなどできない。
「ところで、ぼくはいなくなったりしないよ」
わたしは何も言わなかった。黙っているのは信用していないからだと司は感じ取ったらしく、顔を上げてわたしと視線を合わせる。
「そもそも別れたのは、君に"普通の"生活を送って欲しかったからだ。自分が君をどんな目に遭わせているかわかっていたから。いつも危険に晒し、いるべき世界から引き離して…おまけに一緒にいればいつ君の命を奪うかわからない。だから何かしないわけにはいかなかった。君の前から消えることが、唯一の方法に思たんだ。幸せにするためだと思わなければ、絶対に離れたりできなかったよ。でも身にしみた。君からもう一度離れられるほど、ぼくは強くない。」
「でも…明日は違うかもしれないでしょ。もし純が明日わたしに襲い掛かったら、あなたはまた消えちゃうかも」
司に緊張が走り、身体をこわばらせた。
「あの時だってよく考えないで決めたわけじゃないでしょ。あなたは自分が正しいと思ったことを結局、実行に移してしまう。」
「澪、ぼくは君が思っているほど強くないんだよ。前と悪の問題なんてもう大した意味はない。どうせ戻るつもりだったしね。1週間、いや、一日を生きながらえるのが辛くなっていた。一時間を凌ぐのがやっとだったから。いずれ、それほどかからずに君の前に現れて、ヨリを戻してくれと懇願したはずさ。」
司はわたしの反応を待った。
わたしの顔を観察して、自分の話をきちんと聞いているか確かめている。
「まだ信用できない?」
「違うわ、嬉しいのよ。でも…わたしは歳をとる。たとえ30年後も一緒にいられているとして、周りからお母さんだって思われたら?おばあさんだって思われたらどうするの」
そっとして、消え入りそうな声になる。誕生日当日に見た夢が蘇ってくる。
シワシワのおばあちゃんになったわたしと、永遠の17歳である司が並んで立つ。
「そんなこと、ぼくには何の意味もない。ぼくの世界では、君はいつまでも一番美しい存在だ。でも、もし君がぼくより大人になって、別の世界を望むなら…ぼくは理解する。君が別れたいと言うなら、ぼくは邪魔しない。」
彼の目は真剣そのものだった。
「いずれわたしは死ぬのよ。わかってるでしょ。わたしに永遠の命はない。」
「できるだけ早く後を追う」
「それってかなり…歪んでるわよ」
「そうかもしれない。でも、それだけ君の心配していることは、ぼくにとっては小さい問題なんだよ。」
私たちはしばらくじっと睨み合ったけど、わたしが先に表情を緩めてふぅっと息を吐いた。
司はそっと腕に力を込める。
「ぼくがついてるから。まだ今は、この瞬間を楽しまないか」
「いいわ。」
話し合いが一段落したその時だった。
わたしの相棒の鎹鴉が窓から入ってきた。
「シレイ!ムゲンレッシャデノヒガイカクダイ!エンバシラとレッシャデゴウリュウスベシ!」
司は仕方ないとため息をついた。
「全く。やっと話がまとまったところだったのに、任務は待ってくれないようだ。」
「そうみたいね。列車での任務ってことは数日がかりかも。早く支度して行かなくちゃ。」
忙しなく動き回るわたしを、司は常に目で追って面白そうに見ている。
「じゃあ行ってくるわ。帰ったらまた会える?」
「答えはわかってるだろ。その質問は愚問だよ。」
司の切り返しに若干イラッときて、少しからかってみたくなった。
「つまり、いいえってことね?」
「笑えないぞ。」
「わかってる。わたしを迎えに来て」
「仰せの通りに。どうか無事に帰ってきてくれよ。君は日常生活を送るだけでも危なっかしいんだからね。」
「否定できないのが悔しいけど、努力するわ。あなたも自殺しようとしないで待っててよね。」
そしてわたしたちは微笑みながら背を向ける。これからの任務が、わたしと彼の人生の転機になることを知らずに。
これで第2章は終わりとなります。
今更ですが、トワイライトでジェイコブに当たる人物はこの小説内では出ません。鬼滅感が薄くなりますし、色々登場人物が増えてややこしくなるので。
でも、それにより恋愛面での三角関係がなくなるので、見応えは減りましたが…
次回からは無限列車編に入ります。