澪の結婚式から10日後、しのぶはお館様のお屋敷に来ていた。理由は簡単、お館様に呼び出されたからだ。
お館様のお内儀、あまねに連れられ、案内されたのは寝室だった。
「蟲柱、胡蝶しのぶ様がいらっしゃいました。」
「通しておくれ。」
「どうぞ。」
あまねに促され、しのぶは中に入り、一礼した。
「よく来てくれたね。」
「お館様におかれましても御壮健で何よりです。益々の御多幸を切にお祈り申し上げます。」
「ありがとう、しのぶ。忙しいところすまないが、君にお願いしたいことがあってね。聞いてくれるかい?」
「もちろんです、なんなりと。」
「昨日、澪から手紙が届いたんだ。」
澪の名前が出て、しのぶの肩がピクリと揺れる。
「新婚旅行のお土産と一緒にね。手紙には直接お渡しに行けなくて申し訳ないと書いてあったんだ。どうも体調が良くないみたいでね。」
「体調不良、ですか…」
しのぶは胸騒ぎがした。脳内に警報が鳴り響いてやまない。
おかしいとは思っていた。澪は新婚旅行から帰ってきても、蝶屋敷に来ることはなかった。澪は結構義理堅いので、挨拶に来ると思っていたが…
「どうも心配でね、胸騒ぎがするんだ。君は澪と親しいだろう、様子を見てきてくれないかな。」
「…御意。また報告しに参ります。」
とはいえ、澪が今どこにいるのかさえ知らななかった。司との新居に行ってみたが、そこは空っぽだった。ならあそこしかないと考え、東城家に向かう。屋敷に着くと、武流が迎えた。
「やぁ、しのぶ。久しぶりだね。元気だったかい」
「えぇ、わたしは。それより、澪はここにいますか?いないなら、どこにいるのか教えてください。会って話をしたいのです。」
「そうか…今はちょっと…都合が悪いんだ。あとでも構わないかい?」
しのぶは少し呆気に取られた。"都合のいい時間"などない。それはお互いにわかっている。
「しのぶ様、ですか?」
その時、2階から声が聞こえてきた。声がした方に首を向ける。
「やっぱりここにいるんですね。」
「あぁ…」
急いで2階に上がると、広い居間に、東城家全員が集合していた。
澪はソファーに座っており、彼女の目の前には百合がいた。百合はしのぶを食い入るように見ている。まるで、澪に危害を加えないか、念入りに観察しているかのように。
でもしのぶがその場に立ち尽くしているのは、百合がガン見してくるからではない。司だ。司の顔に浮かんだ表情のせいだった。
苦悩を超越した何か。尋常ではない目つきが、それを物語っている。まるで誰かに火を放たれたかのような顔だった。
そんな司を横目に見ながら、しのぶは澪のそばに座る。
頬がこけて、目の下にクマがある。お世辞にも、体調がいいとは言いがたい状態だ。
「澪、なんだか…やつれましたね。」
「えぇ、でも…会えて嬉しいです、しのぶ様。」
「わたしもです。どうしたんです、どこか悪いのですか。蝶屋敷に来ないから、心配していたんですよ?」
すると澪は百合の方を向いて頼んだ。
「手を貸してくれる?」
百合は顔を曇らせたが、澪の上にかがみ込むと立たせるのを手伝った。
「や、やめてください、立たなくてい…」
「質問に答えるんです。」
澪はやめろというしのぶを遮り、ピシャリと言った。
立ち上がった澪の身体は膨れていた。肩や腕のあたりはゆるゆるなのに、腹部は異様に丸みを帯びている。
他の部分、顔や手足は痩せている。まるで大きな膨らみが、澪から吸い取ったものを糧に成長したようだ。
しのぶが最後に澪に会ったのは結婚式の時だ。あれから2週間経ったか経たないかだ。
しかし、澪の腹部はどう見ても妊娠後期、8ヶ月くらいに見える。
見たくない。考えたくない。想像したくない。知りたくなかった。でも、知ってしまった。
間違いない。澪は妊娠している。
澪の身体は歪められ、顔は骨が突き出しそうだ。こうなったのは、体内の何かが澪の生命力を奪い、飢えを満たしているからとしか考えられない。
なぜなら、そいつは化け物だからだ。
しのぶは、やっぱり止めればよかったと後悔した。司との交際自体を、それ以前に鬼と関わること自体、やはり間違いだったのだ。
これは想定していた中で最も最悪のパターンだ。でも、とりあえず声を絞り出した。
「どう、なってるんです?」
「……わからないんだ。」
武流さんが力なく答える。
「わからない、とは?」
「膜が厚すぎて、胎内の様子を検査できない。胎児は強く、急速に育っている。」
「わたしにもわからないの。」
続いて杏が答える。
「今まで見えてた澪の未来が見えなくなった。これからどうなるのか、わからなくて…」
わかる。未来など見え透いている。しのぶはそう心の中でつぶやいた。
澪は死ぬのだ。それ以外ない。摘出しない限りは。なら…
「武流さん、あなた医者でしょう。さっさと摘出するなり、中絶させるなりすればいいじゃありませんか。難しいことじゃないでしょう。」
「"毒使い"は黙ってて!」
百合のその言葉に、しのぶはこめかみをぴくつかせた。しのぶは日輪刀に手をかけており、両者は一触即発の状態だ。
「百合、やめなさい。言い争っても、澪のためにならないわ。」
張り詰めた空気を破ったのは武流の妻、恵美だった。
「胎児は澪にとって危険よ!」
「ちょっと杏!」
"胎児"という言葉を発した杏に反論したのは百合だった。
「やめてそんな言い方、"赤ちゃん"よ。ただのかわいい赤ちゃんじゃないの。」
「それはどうかな。」
冷たく返したのは純だった。
しのぶは鬼殺隊公認の鬼の一族の仲間割れを目の当たりにして、何も言えなかった。この鬼の一族の中でも、意見が割れているのだ。
「武流さん、なんとかしてください。」
「ダメです。」
澪の決意に満ちた口調に、しのぶは思わず振り返る。
「どうするか、決めるのはわたしです。しのぶ様でも、みんなでもありません。」
「しのぶ、少し2人で話そう。」
しのぶは目を見開き、反論しようとしたが、司がずんずん歩いていくので、追いつくので精一杯だった。
屋敷の外に出た時、司はしのぶに向き直る。
「ぼくを殺したいんだろうけど、まだ殺されるわけにはいかないんだ、しのぶ。」
「我慢は苦手なのですがね。」
そう意気込んだが、振り返った司の顔を見て、戦意はかなり削がれた。
火刑に処された男さながらの顔つき。
それで悟った。
澪の死刑宣告。
「あれのせいなのでしょう?彼女、死にますよ。」
「……ぼくのせいだ。」
「そうです。それは疑いようがありません。なんで澪を説得しないんです?あなただって澪を失いたくないでしょう。あなた、また自殺未遂したいんですか?」
「澪が譲らないんだ。」
しのぶはその台詞の意味をすぐに飲み込むことができた。澪は頑固な性格だ。一度決めたら、誰がなんと言おうと譲らない。
鬼と交際、結婚ときて、今度は化け物の落とし子のために命を捨てるときたか。しのぶは澪らしい、とさえ思った。
司はそんなしのぶの心の中を読み、感嘆すらしていた。
「澪のことを、よくわかっているんだね。こんなにすぐに見抜くなんて…ぼくにはわからなかったんだ、手遅れになるまで。屋敷に戻るまでの間、澪はずっと無口だった。怯えてるんだと思ったんだ、それが自然だし、こんな目に遭わせて、彼女の命を危険に晒したぼくを怒ってるんだとね。澪の本心も決意も、想像すらしてなかった。屋敷に戻ってうちの家族と落合い、澪が百合の、よりにもよって百合の…!…腕に駆け込んだその時まで。そこで、百合の考えていることが聞こえてきたんだ。それで全て悟った。」
司はため息ともうめきともつかない声を漏らした。
「澪が譲らないと言いましたよね?いくら鬼殺隊士といえども、澪の腕力は普通の女の子と何も変わりません。押さえつけて薬で眠らせるなりできるでしょう。」
「……できるならぼくもそうしたかった。武流さんだって…でも…」
なんだ?この期に及んで良心が許さないとでもいうのか?としのぶが心の中で思った時、司がそれを読んだ。
「違う、そうじゃない。"護衛"のせいで面倒なことになって。」
なるほど、だから百合が澪のそばいるのだ。自分を食い入るように見ていたのも、そのせいだ。
百合は澪を守っているのではない。子どもを守っているのだ。
「彼女は確かにあなたたちの中でも澪を嫌ってますけど、そこまで澪に死んで欲しいのですか?」
「そういうつもりではないと思う。」
「なら、彼女から先に始末しましょう。鬼は少し傷付けても再生しますから、バラバラにして動きを封じて、その隙に澪を治療したらどうです?」
「徹と恵美さんは百合の味方だ。恵美さんがそうなら、武流さんも…」
司は声を濁す。しのぶもため息をついた。
「やっぱり、澪は"普通"の幸せを掴むべきだったんです。あなたはあの子に近づくべきじゃなかった。」
「そうだな。」
司は否定しなかった。本心から、その通りだと思っているようだ。
「知らなかったんだ、ぼくと澪のような関係は過去に例がないし、人間が鬼の子どもを宿すことができるなんて…」
「そこに行くまでに八つ裂きにされて、喰われるのがオチですからね。」
「あぁ。」
少しの間、沈黙が流れる。
「しのぶ、いくら君でも、ぼく自身ほどこの身を憎むことはできないよ。」
そんなことない、と言いそうになった。思わず日輪刀に手をかけそうになる。
「ここでぼくを殺しても、澪は救えない。」
「他に手があると?」
「しのぶ、君に頼みがある。」
しのぶは思わず顔を顰める。鬼からの頼み事など吐き気がする、というのが本音ではある。
「澪のためだ。しのぶ、君は澪をよく知ってる。澪はぼくの話を聞こうとしない。でも、君の言うことなら聞くかもしれない。彼女を説得してもらえないだろうか。」
しのぶは努めて冷静に切り返した。
「あなたが話しても聞かないことを、あの子が聞くと思います?わたしは何も新しいことは言えませんよ、どうしろって言うんです?バカだって言うんですか?本人もそれはとっくにわかってる。死ぬぞって?それだって、あの子は自覚してるでしょう。」
「わかってる、でも……今のままはだめだ。あれが澪の命を奪っているのを黙って傍観するわけにはいかない!日に日にやつれていく彼女を目の当たりにして、あれが澪を傷つけるのをただ見ているなど…!」
苦悩に満たされた司の顔が、さらに歪んだ。
「頼む、百合がそばにはりついて、澪を守ってる。いや、"あれ"を守ってるんだ。澪の命など、百合にはなんの意味もない。説得が簡単じゃないことは承知の上だ。でも、君は澪の思考回路を把握してる。彼女に、分別のある行動を取らせてくれ。」
無理だと言わんばかりに、しのぶは目を回した。
「澪に分別ある行動を取らせる?どこの世界の話をしてるんです?」
「せめて話すだけでも。そろそろ戻らないといけない。ほんの数分でも、澪から離れられないんだ、容態は…みるみる変化してる。あれは…急速に成長してる。今は澪についていないと。」
「あれって…どうなってるんですか。」
「誰にもわからないが…澪より強靭なことだけは確かだ。」
しのぶの脳裏にある光景が浮かんだ。澪を徹底的に痛めつけ、成長する化け物の姿が。
「協力してくれ、そうならないように。」
「……あなた、わたしに頼るなんて相当病んでますね。」
「そうかもしれない。でも、やれることは全てやる。澪の決意が揺らぐ可能性が少しでもあるなら…」
しのぶは、こんなことを取り合っている自分が信じられない気持ちだった。
「頼む。澪が説得に応じなかったら、君がぼくを殺す機会はこれからいくらでもある。澪の心臓が止まった瞬間、ぼくは殺してくれと君に縋る。」
「……本気なんですね。」
「あぁ。」
「わかりました。」
こうして、両者の取引は成立した。