澪が(子どものために)輸血液を飲み始めて3日が経ち、しのぶはまた東城家の屋敷を訪れた。
しのぶの姿を見た司がすぐに屋敷から出てくる。
「やあしのぶ。来てくれたんだな。」
「えぇ、甘露寺さんがわたしの任務をほぼほぼ肩代わりしてくださっているので。本当にありがたいです。」
「そうか、蜜璃が……何かお礼をするべきだな。」
「なら桜餅がいいですよ、彼女の大好物ですから。彼女の髪色は、桜餅を大量に食べたために色が変わったくらいですからね。」
それを聞いた司の表情が綻ぶ。彼が笑った姿は久しぶり見た、としのぶは思った。澪のことがあってから、ずっと険しい表情ばかりしていた。
「じゃあ300個くらい買い占めて贈るとしよう。」
しかしそこで、屋敷の中から小さな悲鳴が聞こえた。しのぶは思わず硬直するが、振り向いた時には司はすでにいなかった。
居間に入ると、澪はぜいぜいと息を荒げ、丸まっていた。武流さんがそっと澪を抱き上げる。
「武流さん、ちょっと待って、ください…」
「澪、亀裂が入ったような音だった。診察しないと。」
「多分、肋骨だと、思います…いっつ…ちょうど、この辺り…」
澪は触らないようにして、左の脇腹を指した。
「わかった、レントゲンを撮ろう。骨片があるかもしれない。体内で何かに刺さると危険だから。」
「わかりました…」
ふと下を見ると、ゴミ箱には、カラになった輸血液の袋が大量に捨てられていた。
澪が輸血用の血を飲んで元気になった今、その分胎児も力をつけているのだ。飢えるのも回復するのも、母子もろともということだ。
澪が武流や司と診察室にいる間、しのぶは杏を探していた。屋敷を歩き回り、やっと2階でぼんやり座っている杏を見つけた。
「こうなってから不思議だったんです。澪と仲がいいあなたが、なぜかそばにいないので。なぜですか?」
「頭が痛いから。」
しのぶは目を細める。
「鬼が頭痛になるんですか?」
「普通はならない。」
それを聞いて、しのぶは苦笑いしてしまった。
たしかに、東城家のみんなは違う。普通の鬼ではない。人間を食わず、鬼なのに鬼殺隊に属している。
「頭痛の種は、澪ですか?」
「そう、だと思う。でも、違うかもしれない。あの胎児よ。……見えないから。」
杏はほとんど独り言のように呟く。
「澪が間に入ってて、胎児をすっぽり包み込んでるから…ぼやけてしまう。ぼんやりとした人影に焦点を合わせてるみたいで…見ているとすごく疲れて、頭が痛くなる。あの胎児が、澪の未来の大部分を占めてるから…澪が最初に決めた時…生みたいと思ったその瞬間、澪のことはわたしのビジョンからかき消されたの。ものすごく怖かった。」
「……澪の未来など、あなたが見なくてもわかりきっているでしょう。」
しのぶはほとんど感情が入っていない無機質な声で言う。
「あの子は……」
「……そうね。」
あの子、澪は死ぬ。
そう言おうとして、しのぶは言えなかった。杏もそれをわかっていて、同じく言わなかった。
その時、武流が2階に上がってきた。
「澪の診察と処置が終わったよ。」
「すぐ行きます。」
その場を後にするしのぶを、杏はぼんやり見つめていた。
「大丈夫ですか澪、肋骨は?」
「しっかりテーピングしてありますから、大丈夫です。なんでもありません。」
しのぶは呆れて天井を見た。司が奥歯を噛み締める音が聞こえる。骨折しているのに、"なんでもない"わけはない。
澪はどのくらいもつのだろう、としのぶは思った。遠回しに聞くにはどうしたら…
「あの、日にちは?その…予定日はいつなんです?」
すると、全員がしのぶの方を見た。
「真面目な話、どのくらいここにいることになるのか知りたいんですよ、甘露寺さんに任務を代わってもらってることもありますし…」
「わからないんです。」
澪は小声で囁いた。
「どう見ても今までの常識は当てはまらないし、超音波画像も撮れませんし…武流さんはお腹の大きさで見当をつけてます。普通はだいたい、ここが40センチくらいになると…」
澪は出っ張ったお腹の真ん中を指さす。
「赤ちゃんが育ち切るんですって。普通なら、毎週1センチらしいんですけど…わたしは今朝で30センチ。」
しのぶは目を見開いた。
「30…?!ということは…」
「1日約2センチ増えているんです。それ以上の日もありますし…」
澪の命はかなりの早送りで進んでいる。40センチまであと4、5日……
タイムリミットは、予想以上にすぐそこまで迫っている。
しかしその時だった。
「何か言った?」
司は戸惑ったように澪に尋ねる。あたりは静かで、何の音も聞こえない。
「わたし?何も言ってないわよ。」
司はひざまずき、澪の方に身を乗り出すと、これまでとは全く違う真剣な表情を見せた。灰色の瞳は澪の顔に焦点を合わせる。
「今何を考えてる?」
「特別なことは何も…新婚旅行楽しかったな、とか…」
「……もっと話して」
「何を?ねぇ、どうなってるの?」
澪のお腹に手を当てると、司の顔つきがまた変わり、目を見開く。
「これ…その、胎……赤ちゃんは、澪の声が好きらしい。」
一瞬、完全な沈黙が流れるが、澪はすぐに我に返った。
「うそ、すごい!聞こえるの?!いたっ…!」
澪が叫ぶと、すぐに顔を歪める。
司はあれが蹴ったに違いない場所をさすった。
「大きな声を出すからびっくりしたんだ、この子が。」
澪は目を見開き、すっかり感動している。
「ごめんね。この子、今は何を考えてる?」
「これは…男の子か女の子かわからないけど、すごく…嬉しそうだ。」
それを聞くと、澪ははっと息を止めた。熱狂的な輝きが瞳にありありと浮かんでいる。大粒の涙が溢れ出し、頬を流れていく。
「ぼくの声も気に入ってるってさ。」
「もちろん気にいるはずよ、世界で一番魅力的な声だもの。」
そして司はこれまでで一番の笑みを浮かべた。
「今度は何?」
「澪を愛してるって。好きで好きでたまらないらしい。」
「嬉しい…わたしも、愛してる…!」
しのぶは少し離れた場所で、司と澪を見ていて、呆然としていた。
なんで鬼を信用しかけたのか、とさえ思っていた。
鬼は嘘ばかり言う。自分保身のため、理性も無くし、剥き出しの本能のまま、人を殺す。
東城家の鬼が他の鬼と違うのは人を食わず、理性的だということ。
こうなってから、司は味方だと、少なくとも自分と同じ考えだと思っていた。自分より辛い思いをすると。何より、澪の命を奪うあの胎児のことを、自分より憎んでいると。勝手にそう思っていた。
なのに、今では澪と一緒になって目に見えない化け物に目をキラキラさせて、夢中になっている。まるで幸せな、"普通の"家族のように。
たとえ束の間でも、3人家族としての幸せを感じられていいと思うべきなのか。しのぶは無理矢理自身をそう納得させた。その時。
『カァァァアー!胡蝶シノブ!オ館様がオヨビダ!至急、産屋敷邸にムカウベシ!!』