戸惑うほどの痛みだった。文字通り、わたしは混乱していた。何が起きているのか、理解できない。
身体が痛みを拒絶しようとして、わたしは何度も無意識の闇に飲み込まれる。何が現実なんだろう…
まるでノコギリで真っ二つにされ、バスやトレーラーに轢かれたかのような感覚。身体のあちこちが砕け、折れ、削がれていくかのようだ。
司の声が聞こえる…
「胎盤が剥離したんだ!」
その意味はわたしにも理解できた。
胎盤剥離ーーーわたしの中で、赤ちゃんが死にかけている。呼吸ができずに。
「出してあげて!」
司に向かって出せるだけの声量で叫んだ。
何を躊躇ってるの?
「息ができないのよ!今すぐ!」
「モルヒネが…!」
効くまで待つの?わたしの痛みを抑えるために、赤ちゃんが死にかけてるのに!
「だめ、今すぐ…!」
喉が詰まって、最後まで言葉が続かない。視界は黒い斑点で遮られ、新しい痛みが、ひんやりとした何かが、腹部をうがつ。ものすごい不快感。肺が疼き、体内の酸素が燃え尽きていく。
痛みは再び薄れ始めたけど、今度は必死に縋りついた。わたしの赤ちゃんが、死んでしまう…!
どのくらい経ったのだろう…1分か、1時間か…痛みは消えた。感覚の喪失。何も感じない。目は開けられず、何も見えないけど、耳はかろうじて聞こえた。肺に空気が戻り、ゴボゴボと荒い息が喉をこする。
「澪、澪!聞こえますか?!しっかりしてください!」
しのぶ様の声だ…
聞こえています。そう言いたかったけど、声が出ない…
わたしは自分の身体の中で迷子になっていた。感覚が狂っていて、何一つしっくりこない…
目が焦点を求めてさまよううちに、司が囁いた。
「杏花…」
杏花…ということは、女の子だ。やっぱり女の子だった。わたしの予想通りだったんだ…
身体の奥から、あたたかいものがどっと込み上げてきた。
「わたしに…抱かせて…」
司はわたしの方に手を伸ばしてくる。手が光に反射している。きらめきが赤く染まっているのは、肌を覆う血のせいだ。
その手の中には、さらに赤い小さななにか…もぞもぞと動いて、血を滴らせている。司はそのあたたかい身体をわたしの力ない腕にあてた。抱かせるように。
それを目にした途端、霞んでいた視界は一気に鮮明になった。
杏花は泣くこともなく、浅く荒く息をしている。目を開けていて、きょとんとした表情は、愛嬌すら感じさせる。完璧な曲線を描く小さな頭は、血に濡れた豊かな巻き毛で覆われていた。髪色は血に染まっていてわからないけど、虹彩は…茶色だ。わたしと同じ…
血塗れな肌は色白で、なめらかな象牙色をしているみたい。
華奢な顔はどこをとっても完璧そのもので、わたしは呆然となった。父親も敵わないほど、美しい。とても信じられない。ありえない。
「なんて、きれいなの…」
この世のものとは思えない顔が突然、綻んだ。にっこりと。雪のように白い歯は、すでにはえそろっていた。
それから杏花は、わたしの胸のぬくもりに顔を擦り寄せた。その肌はあたたかく、シルクのようにすべすべしていた。
そこでまた、痛みが走り、杏花の姿が消えた。天使のような顔をしたわたしの赤ちゃんは視界のどこにもいない。
返してと叫びたかったけど、衰弱が激しすぎて、声が出なかった。身体の感覚が消失していた。完全に消えた。自分自身を感じることができない。
闇はかつてないほど強力に視界になだれ込んできた。抵抗するのがはばかられるほどだ。凄まじい重圧で目だけではなく、わたしという存在そのものまで覆い尽くす。
諦めて、闇に身を任せる方がずっと楽だ。押さえつけられ、下へ沈む方が。痛みも疲れも、そして恐怖もないところへ沈んでいく方が。
自分のためだけなら、こんなに長くは持ち堪えられない。わたしは人間だし、人並みの力しかない。でも、わたしの生死はわたしだけの問題じゃない。
今楽な道を選んだら…虚無の闇にわたしの存在を消されてしまったら、みんなを傷つけてしまう。
司…
司が消えたら、わたしは生きていけない。わたしが死んだら、彼も生きていけない。わたしにとって、彼がいない世界は完全に無意味なものだ。
それから、しのぶ様…
返しても返しきれないほどの恩がある。それなのに、最悪の方法で傷つけるの?おそらく今、現在進行形でわたしを蘇生しようとしてくれているのに。
でも、ここは暗くて、どちらの顔を見えない。それでも、わたしは闇に抵抗した。押し上げるというより、ただひたすら耐える。完全に潰されてしまわないように。今できる精一杯のことをした。
でもそれだけでは、意志の力だけではダメらしい。時計の針は無慈悲に進んで、わたしは死に近づいていく。
もう、司の顔も浮かんでこなくなった。しのぶ様、アオイ、カナヲ、なほたち、炭治郎、善逸、伊之助、武流さん、恵美さん、杏、純、百合、徹の顔も…何一つ。
怖い。浮かんでくるのは、死の恐怖だけ。
意識が遠のいていく。でも、だめだ。生き延びなければ。司はわたしがついていないと…
それから、杏花…
わたしはやったんだ。見通しは暗かったけど、わたしは杏花を産むだけの強さがあった。あの子がわたしなしで生きていけるようになるまで、守り抜いた。
身体の奥から、熱いものが込み上げてくるのがわかった。でも、なんだか熱すぎる。ひどい火傷を負っているかのようだ。身体が燃えているのではと錯覚するほどの…
炎は燃え盛り、めらめらと極限に達して勢いを増し、これまでに経験した全ての感覚を凌駕する。
胸を焦がす業火の奥に鼓動を探り当て、心臓の感覚が戻ったと思った。その瞬間、わたしは後悔した。あの闇に身を委ねておけばよかったと。腕を持ち上げて、胸を引き裂き、心臓を抉り出したい。この地獄の苦しみから逃れられるなら、なんでもする…!!
でも、全身が麻痺しているかのように動かない。指1本ですら、動かせない。十二鬼月に脚を折られたこと。あんなの、なんでもない。柔らかな布団に横たわるようなものだ。今なら、100回でも甘んじる。
わたしの肋骨を蹴って砕き、身体をバラバラに壊して生まれた赤ちゃん。あれも、この苦しみに比べればなんでもないと思えるほどだ。
悲鳴を上げたいのに、当然ながら声は出ない。いっそこの場で殺してほしい。でも、殺してくれと言うこともできない。
どうして動けないの?声を出せないの?
こんな話は聞いてない。
いや、聞いた。前に杏から。どうやって鬼になるのかということを。そのプロセスを。
『"毒‘’は血流を通して広がって、じわじわ効いていく。一旦鬼の血が混入したら、あまりの激痛に逃げられなくなる。心臓が止まらない限り、毒は広がり続け、肉体を修復しながら変化させていく。それが終わるまで、その人は1秒1秒死を願うのよ。それくらいの激痛なの。』
意識は激痛によって逆に研ぎ澄まされ、憎たらしいほどスッキリしていて、なぜ身動きができないのかという疑問の答えはすぐに浮かんだ。
モルヒネのせいだ。
わたしの望みはひとつだけ。死ぬことだ。生まれなかったことにしてほしい。わたしの存在など、この苦しみの前では吹き飛ぶようなものだ。鼓動が一拍刻まれる間ですら、生きる価値はない。
死なせて。
今のわたしの望みはそれだけだ。
ついさっきまで生きなければと思っていたのに、それを一瞬で撤回するほどの激痛。
数秒か、数日か、数年経ったかもしれないけど、それでもやがて時間はまた意味を持ち始めた。
モルヒネの効力が消え始めて、身体を押さえつけていた重圧から解放されつつあった。
どんどん力がみなぎり、頭がはっきりしてきた。耳も聞こえる。
「まだ変わりはないか。」
「ない。」
「モルヒネの香りはもうしない。」
「そうだな。」
「澪、聞こえるかい?」
聞こえてる。そう言いたいのに、まだ声は出ない。目も開けられない。
「澪…目を開けてごらん?ぼくの手を握ってみて。」
指に何かが当たったことだけはわかった。
「武流さん、やっぱり、手遅れだったんじゃ…」
司の声がくぐもった。
「心臓の音を聞いてごらん、司。徹の時より力強い。澪は全快するよ。」
「でも、背骨は…」
「君の血が修復してくれるはずだ。」
「でも、全然動かない。」
「それはモルヒネのせいだ。」
「ひどく苦しんでるに違いないのに…澪、すまない…」
答えたくてたまらないけど、これ以上彼を苦しめるわけにはいかない。こうして動かずにいられる限り。
その間ずっと、業火がわたしを燃やし続けていた。でも不思議なことに、頭の中には随分余裕がある。司と武流さんのやりとりについて考えたり、未来に想いを馳せたり。でも、不安も付き纏っている。
わたしの赤ちゃんはどこにいるの?どうしてここにいないの?なんで話に出てこないの?
「あとどのくらいだ?」
「そんなに長くはかからないと思うわ。ずっとクリアになってきたから。また澪の未来が見えるようになった。」
杏だ…!
彼女はため息をついた。
「まだ拗ねてるのか?」
「そうね、忘れようとしてはいるんだけど。わたしは鬼のことが一番クリアに見えるのよ、自分がそうだから。人間も、まずまず見える。人間だった頃があるから。でも…ああいう交配種のことは全然見えないわけ。もうっ…!」
「杏、集中してくれ」
「はいはい。澪のことはもうなんなく見えるから。」
しばらく沈黙が流れ、司がため息をついた。満足そうに。
「本当に元気になるんだな?」
「当たり前よ」
「2日前はそんなに楽観的じゃなかっただろ。」
「よく見えなかったんだもの。今は楽勝。」
「もう一度頼めるか、具体的な時間を知りたい。」
「ほんとせっかちなんだから…」
それはわたしも知りたいから、声に出して言ってくれないかしら…あとどれくらいで、わたしは目を開けられるの?
1万秒?2万秒?あと1日、つまり8万6千4百秒?もっと?
「目が眩むような美女になるわね。」
「澪は元々そうだよ。」
司はそっと怒った。
「そういう意味じゃなくて。だってほら見てよ。」
そんな司を、杏はそっとあしらった。
2万千9百秒後、変化が現れた。いい変化だ。
指先とつま先から、痛みが和らぎ始めた。終わりが近づいている。
しかし、そこで新たな問題も起きた。喉の熱感が、これまでと全然違う。燃えているだけでなく、渇いていて、骨のように乾燥している。からからだ。焼けつくような渇きと、猛烈な飢餓感。
「武流さん、これ聞いてくれ」
「あぁ、そろそろ終わりだな。」
その言葉を聞いた安堵感は、悶絶するほどの心臓の痛みに飲み込まれた。
杏の声がする…
「みんなを呼んでくるわ、百合は…?」
「そうだな、あの子と一緒だろうから、近づけるな。」
なんですって?
だめよ!どういうことなの?わたしの娘を近づけるななんて!
うちなる炎はただ一つ残った人間の臓器をめがけて収斂し、消えた。痛みも。完全に消え去った。
そしてわたしは目を見開き、感動に目を見張った。