何もかも澄み切っている。はっきりしてる。
あまりの美しさに衝撃を受け、息をのむ。景色の細部まで、事細かく見える。天井の木目のひとつひとつまで。
息をのむ、という表現は少し違うかな。呼吸という行為に必要性を感じないから。空気はいらない。肺は酸素を求めていないし、流れ込んできてもこれといった反応は示さない。
そっと力を込められて初めて、誰かが手を握っていることに気づいた。予想していた感触とは違った。相手の肌は完璧になめらかだったけど、温度がおかしい。冷たくない。
そうだった。司はもう冷たくない。今では同じ体温だから。
司は寝台から身を乗り出し、少し不安げな顔で手を差し出していた。
他の家族も壁際に待機していた。正面には徹と純。まるで何かの危険に備えているみたいに。
杏がにっこり笑って、純のうしろからひょっこりわたしを見た。その笑顔で気持ちが落ち着き、状況を掴めた。
徹と純は、みんなを守るために正面にいるんだ。すぐにわからなかったのは、みんなが警戒している対象が自分だということ。
みんなから視線を逸らして司の方を見た。
これまで何度、司の顔に見惚れ、その美しさに心を奪われてきただろうか。わたしの人生の何時間、何日、何週間、完璧に思えたその顔を夢見てすごしてきたか。自分の顔よりよく知ってるつもりだ。
今初めて、人間ならではの影や限界を拭い去って司の顔を見た。はっと息をのみ、その美しさを表す言葉を必死に探るけど、ぴったり合う言葉が見つからない。
わたしは寝台から起き上がる。すごく変な感じ。身体の動きに気をそがれた。直立しようと思った途端、わたしは真っ直ぐ立っていた。ほんのわずかな時の経過も感じなかった。変化は瞬間的で、動いたとは思えないほどだった。
司は手を差し伸べたまま、ゆっくり寝台を回り込んでくる。
「澪、ごめん。わかるよ、混乱してるだろう。」
「気分はどうかな、澪」
武流さんが聞いてくる。
「圧倒されてます、だって、あまりにも…」
鈴のような自分の声を改めて聞いたら、言葉が途切れる。
「そうだね、かなり戸惑うだろう。」
わたしは姿見を探した。この目で確かめたかったから。部屋の隅に、等身大の姿見があった。目の前に立つと、わたしは言葉を失った。
これは誰なの?
パッと見たところ、なめらかで完璧な顔立ちのどこにも、自分のおもかげらしきものは見当たらない。
そしてなにより、燃えるような、赤い目をしていた。それで確信した。わたしの元々の虹彩は茶色だ。それが赤になっている理由はひとつ。
自身の人間の時の血により、鬼になったばかりの者は赤い瞳をしていると聞いたことがあった。
「わたし、鬼になったのね。」
「……選択肢はなかった。君を死なせないために、これしか思いつかなかったんだ。本当に…断腸の思いだったよ。」
たしかに、わたしは死にかけていた。司はわたしを救うため、自分の血をわたしの体内に入れたんだろう。
「大丈夫かい?」
「うん…わたしはわたしって感じがする。意外にも。」
「……随分落ち着いているな。」
武流さんが感慨深げに言った。
司はわたしを抱く腕にそっと力を込め、ささやいた。
「だから言っただろ、徹や純を待機させておかなくても大丈夫だって。」
「そうだね。司が君の心臓に直で注射したことと、しのぶが心臓マッサージを続けたから、司の血がうまく身体にまわったんだろう。澪、変身の過程で覚えていることはあるかな」
「前のことは全て…あいまいなんです。赤ちゃんが呼吸できなくなったのは覚えてるんですけど…」
司の方を見ると、わたしの疑問に答えるようにきっぱり言った。
「杏花は元気でぴんぴんしてる。」
娘の名前を呼ぶ声には、秘められた情熱がこもっていた。
「その後のことは?」
「よくわからないんです。視界はすごく暗かったし…それが目を開けたら、"なにもかも"見えるようになっていたので。」
「素晴らしい。」
武流さんはため息まじりに目を輝かせていたけど、わたしは顔を顰める。
「大丈夫だ。うまくいったから。」
司も武流さんと同じようにわたしに言い聞かせる。
質問したいことが山ほどある。どこから始めようかと2秒足らずで考えを巡らせているうちに、司がわたしの頬を撫でた。
素晴らしい?
大丈夫?
うまくいった?
わたしはもう人間じゃない。鬼になった。それのどこが大丈夫なのか。
わたしは鬼殺隊の一員だ。鬼になった隊員は粛清対象になる。司だって、それは知ってるはずだ。なのに"大丈夫"?
それにあの子は、娘はどこ?百合と一緒にいるの?顔を思い出そうとする。この世のものとは思えないほど綺麗だったのは確かだ。
しかし、あの子も半分は鬼だ。わたしは斬首されるとしても、あの子は、娘は生かしてもらえないだろうか。そうお館様に懇願する機会はある?釈明する権利は与えられるんだろうか…
「澪、混乱してるだろうし、聞きたいことは山ほどあるだろうが、とりあえずぼくの話を聞いてくれる?」
「……いいわ。」
結論から言うと、わたしを含め、娘も、司も、東城家のみんなも誰一人、斬首や懲罰等はないとのことだった。
ことの一部始終は、お館様の鴉が全て見ていた。
わたしは見るまでもなく死にかけており、それを救うためには、鬼にする他なかった。司はわたし噛んだが、それは自身の血を多く体内に取り込むためだ。決して、わたしの血への欲求に負けてやったわけではない。実際、噛んだのは一瞬で、すぐに離していた。
たしかに鬼になった隊員は粛正対象だが、それは鬼から勧誘を受けて屈した場合だ。自らすすんで鬼になった場合。
わたしはそれには該当しない。司とわたしのような関係は過去に例がないから、従来の枠に当てはめて考えることは難しい。そこでわたしが眠っていた2日間の間に緊急柱合会議が開かれ、話し合いが行われたらしい。
まず、司が取った行動の是非について。
司本人も会議に出席し、柱の前で証言した。そしてお館様の鴉と、現場に居合わせたしのぶの証言と相違点や矛盾等がないかの確認が行われた。
そしてわたしには、東城家のみんなと同じ決まりが適用されることになった。つまり、人間を食わないこと。もし食えば、連帯責任で全員斬首だ。
そして鬼でも生かされるのと引き換えに、今まで通り鬼殺の任務に就くこと。
「本当にわたし、罰せられないの?」
「あぁ。少なくとも、君はね。だってぼくが君を鬼にしようとしてることすら知らなかっただろう?君に過失はない。抵抗することもできなかったんだし、完全に不可抗力だ。罰せられるとしたらぼくだよ。」
「あなたにも懲罰はないのよね?」
「ない。」
司はそこで言葉を区切り、わたしを見据えた。
「君はぼくのこと、怒ってる?鬼にしたこと…」
わたしは3秒黙り、考えをまとめた。
「全く怒ってない、といえば嘘になる。人間として、寿命をまっとうしたかったから。でも…あのまま死んでたら、あなたとこうしていられてないわけだから…怒ってないってことにする。」
司は少し困ったように微笑んだ。その微笑みが、娘の顔と重なる。あの子に会いたい。会って、抱きしめたい。
「ねぇ、あの子に会わせて。気になって仕方ないのよ。」
「澪」
司はわたしの肩を掴み、宥めるように言った。
「それはあまりいい考えじゃない。あの子の半分は人間だ。心臓は脈打ち、血が流れている。喉の渇きや飢えが確実にコントロールできるようになるまでは…澪もあの子を危険に晒したくはないだろう?」
わたしは顔を曇らせた。もちろん、嫌に決まっている。でも、わたしはコントロールできていないって言うの?
混乱しているのは確かだ。すぐに集中が途切れてしまうから。でも、危険なの…?
悔しいことに、いいえと答える自信はなかった。
わたしもベジタリアン生活を始めないといけないわけだ。人間を食わず、動物のみを狩る。人間で言うと、一生野菜と豆腐だけで生きていくようなものだと言われた。聞いた時は大変だなぁ、などとどこか他人事のように感じてたけど、まさか自分がそうなるなんて…
「わかってる、それどころじゃないよな。今は飢餓感が激しいだろう。」
司にそう言われるまで、実は飢餓感はなんとかなっていた。わたしの頭の中はかなり広々していて、その一部で飢餓感をチェックしていた。本能的に。人間だった時に脳が無意識に呼吸や瞬きをするように命令していたのと同じような感じで。
でも、司の言葉をきっかけに、頭の中は灼熱に覆われる。うずくような渇望を満たすことしか考えられなくなった。思わずぱっと喉を押さえた。
「狩りに行こう、澪。」
やってみるしかない。狩りのやり方を学ぶ必要がある。まだ見ぬ我が子に会うために。