狩りに行く、司と一緒に。
どうやるんだろう。やり方がわからない。
「なんてことないよ、本能で動くんだ。心配ない、ぼくが手本を見せるから。」
わたしが動かずにいると、司はひねた笑みを浮かべて眉をつり上げた。
「狩りをするぼくの姿をずっと見たがってたのかと思ってたんだけど。違うの?」
人間の頃の朧げな会話を思い出した。一度狩りについて行ってもいいかと聞いたら、血相を変えて「それだけは絶対にだめだ!」と言われたんだった。
思い出して、わたしは思わず笑ってしまった。あの時の司の表情が、あまりにも切羽詰まってて、必死だったから。それに、絶対にだめ、などと言われたら、見たくなるのが性だし。いわゆるカリギュラ効果というものだ。それを今から体験する…
屋敷の外に出て走り出す。
「ぼくについて来て。できるかな?」
司はにやりと笑い、ふとからかうような表情を浮かべると走り始めた。
速さでは司の方が上だ。彼は相手の考えを読める能力のほかに、通常の3倍の速さで走れる能力があるから。どうしたらあんな目にも止まらない速さで脚が動くんだろう。敵わない。でも、体力や力では負けない。鬼はなりたての時が一番力が強いからだ。
わたしの一歩は司の三歩に匹敵する。だから横について遅れをとることなく、生い茂る緑の森を飛ぶように走って行く。なんだかゾクゾクしてきた。
司が走りながら絶対に木に衝突しない理由がわかった。ずっと不思議に思っていたから。この独特な感覚、速さと認識力のバランスのおかげだ。周囲の全てが緑の渦に変わるほどの速さで翡翠色の迷宮を飛び越え、掻い潜り、突っ切っても、すべての低木のあらゆる小枝のちっぽけな葉っぱ一枚一枚まで、くっきり見える。
こんなに走れば、普通なら息が続かなくなるはずなのに、呼吸は楽なままだった。いずれ筋肉痛になると思っていたのに、慣れるにつれて力がどんどん湧いてくる。跳躍の幅は次第に長くなり、司はついてくるのがやっとになった。司が後方に離れていくのを見て、わたしはにやついて有頂天になった。
「澪」
司がそっけなく、けだるい口調でわたしを呼ぶ。脚を止めると、彼は数百メートル後方にいた。3秒で彼の隣に戻る。
「この先は崖だ。この辺にしておこう。」
「わかった。ここで何を狩る?」
「鹿だよ。手始めにまず簡単なところから…」
"簡単"と言ったところでわたしが目をすがめると、司は言葉を濁した。
まぁ、反論するつもりはない。喉の渇きや飢餓感は限界に近づいている。ひりひりとした痛みを思い出し、それしか考えられなくなった。
「どこにいるの?」
「じっとしてごらん。目を閉じて。」
言われた通りにする。
「耳を澄まして。何が聞こえる?」
何もかもと言える。司の完璧な声、吐息、樹上で羽をつくろう小鳥の気配、葉音、アリが歩く微かな音まで…
他にも聞こえる。
小川のせせらぎの近くでピチャピチャと水をすする舌、ドクドクと脈打つずっしりとした心臓、ねっとりと流れる血…
気管が締め付けられる感じがした。
「川べりね、北東の方かな」
「そうだ。次は、また風が吹くのを待って…どんな匂いがする?」
あなたの匂いがする、と言いかけた。実際そうだし。あとは…太陽の不思議な芳香、腐葉土と苔が混ざった、豊かな自然の香りがする。
わたしは川に意識を集中し、さっきの水をすする音と力強い心音に一致する香りを探し当てた。あたたかみのある匂いだ。濃密でツンとした刺激があり、一段と強烈だった。思わず鼻にシワを寄せる。
「わかるよ、慣れるまでしばらくかかる。」
司はくくっと笑った。
「三頭かしら…」
「五頭だ。後ろの木立にあと二頭いるから。」
「どうすればいいの?」
「どうしたい?」
考えてみる。目を閉じて耳を澄ませ、香りを吸い込んだ。
「頭で考えないで、感じて。本能に従うんだ。」
香りに導かれるまま移動した。反射的に低く前傾姿勢を取り、影から鹿の様子を伺う。立派な角がある雄鹿だ。
狙いを定める。あたたかい血潮が力強く脈打つ、獣毛に覆われた首。最初の狩りまで3、2、1…
ところが次の瞬間、筋肉をぐっと収縮させたところで風向きが変わった。一瞬のうちに司は凍りついた。
「澪、だめだ、よせ!!」
司の言葉は全く耳に入らない。わたしは考えることなく、その場から駆け出して、新たに捉えた香りを追走した。あまりに魅力的で、選択の余地はない。
その香りがわたしの全てを支配した。飢餓感を解消してくれるはずの香りだけを意識する。
後ろから追われていることに気がつき、突然緊張が走った。抗いたい香りの引力と、背後の追跡者から狩場を守りたい衝動がせめぎあう。胸のあたりから唸り声が漏れ、脅す様に歯をのぞかせる。
自分の声と態度にびっくりして、思わず我に返った。
また風向きが変わり、湿った土の匂いがしてきて、少し意識が削がれた。ここまで欲望をそそる香りは、人間のものに違いない。
わたしは脚を止め、司は1メートル先で脚を止めると振り返る。わたしの顔に理性が戻ったと確認して、わたしを抱きしめようと腕を伸ばしてきた。
「ごめんよ澪、こんな森の奥に人がいるとは思っていなかったんだ。」
「ここを、離れなきゃ」
わたしは歯を食いしばったまま言った。
「手を貸そうか」
どういう意味なのか聞いている余裕はない。また猛然と走り出した。あの香りが消失するところまで走る。
わたしはあることを思いつき、ぴたりと脚を止めて踏ん張った。ここなら大丈夫だと思うけど、一応息は止めよう…
突然止まって不意を突かれたのか、司も驚いて止まる。両手をわたしの肩に置いて目を見据えた。顔にはまだ衝撃の色が濃く残っている。
「どうやったんだ?」
「走って逃げたこと?息を止めたのよ。」
「でも…途中でやめたのは?」
「あなたが後ろから来るのが聞こえて…さっきはごめんなさい。」
「どうして謝るんだ、君が謝ることは何一つない。」
「でも、あなたを威嚇するなんて、わたしなんてこと…!」
よくそんな恥知らずなことができたものだと、改めてぞっとする。
「いいんだ、あれが自然だよ。でも、どうやってあの場を離れられたんだ?」
「どうもこうもないわ、やるしかなかったんだもの。」
それを聞いた司の態度に頭が混乱した。一体どんな結果を望んでたっていうの?
「知ってる人だったかもしれないじゃないの!鬼殺隊の隊士だったかもしれないし!」
司はいきなり爆笑すると、森に響き渡るような笑い声を上げた。
「なんで笑ってるのかさっぱりわからないんだけど…」
「いや、君がおかしいんじゃない。ショックで笑ってるんだ。完全に参ったよ。」
「どういう意味?」
「できるはずのないことをさらっとやってのけてるから。そんなに理性的でいるなんてさ。こうして冷静沈着にぼくと会話ができるはずもない。それになにより、人間の香りがしてるのに途中で狩りを止めるなんて…できるはずがないんだ、普通なら。」
できるはずがない。でも、やってのけたのはわたし以外にもいる。炭治郎の妹、禰 豆子ちゃんだ。彼女も鬼になった時、炭治郎を襲いかけたけど、理性で抑え込んだ。
あの禰 豆子ちゃんでさえそうなのだと知って、わたしは覚悟をしていたし、だからこそ自分自身を警戒していた。簡単にいかないこともわかっていた。
司はわたしの顔を手を添える。
「今この瞬間、君の心を覗けるならなんでも差し出すのに。鬼になったら君の考えを読めるようになるかなと思ったけど、全然そんなことなかったよ。相変わらず、君の考えは謎のままだ。」
「わたしもあなたがほしい。あなたの考えてることが知りたいわ。」
司はまたまた驚いて、目を瞬く。
「どうしてそんなこと考えられるんだ?飢えで死にそうじゃないのか。」
そうだ。そうやって、蒸し返すから!
そこに、鹿よりも刺激があって、魅力的な香りがした。音も聞こえる。
鹿は気が付いていない。敵の存在を。
鹿を目掛けてクマが飛びかかる。そのクマに、わたしが突進した。
飢餓感で半狂乱になったわたしは、むき出しの牙も鋭い鉤爪も無視して体当たりを食らわせた。大した勝負にはならなかった。
鉤爪で引っ掻かれても、肌に当たる衝撃は愛撫されているのと変わらない。わたしの歯は獲物の喉を正確に探り当て、易々と噛み付いた。
力は必要なく、まるでバターを噛むみたいだった。歯は日輪刀さながら、獣毛と脂肪、筋肉をものともせず食い込んでいく。
味は正直微妙だったものの、血を吸い、肉を食べたらしつこく抑えが効かない欲求も収まった。でも足りない…
クマはわたしを満たすことなく果てた。吸える血がなくなるとまた渇望に火がついて、わたしはうんざりして屍を押しやった。これだけ食べて飲んでも足りないなんて、わたしの身体ってどうなっているのだろう。
「やるね。」
司がつぶやいた。振り返ると木に寄りかかり、思案顔でわたしを観察している。
「でも渇望はイマイチ収まらないのよ、なんでなの?」
「君は鬼になってすぐだから。」
「近くにはクマはもういないわよね?」
「鹿なら山ほどいるけどね。」
「香りが…イマイチなの。」
「草食だからね。肉食獣の香りの方が、人間に近いんだよ。」
なるほど…本能的に、人間に近いものを欲しているわけだ。
「じゃあしょうがないわ。臭い草食獣でも狩りに行きましょ。」
それから2人で五頭の鹿を狩った。
「あなたは二頭で足りるのね。」
「あぁ。何世紀も経験を積んだからね。」
「二世紀でしょ。」
「そうだな。今日はこれで終了する?もっと続ける?」
「終了、かな。」
満腹で、チャプチャプという音までしそうだ。
わかっている。飢餓感は一時的に抑えられているだけだ。でも、気分は落ち着いていた。
この安心感はまやかしかもしれないけど、今日誰も殺さずに済んで本当に良かった。赤の他人をちゃんと我慢できたのだから、愛する娘にも会えそう。
「杏花に会いたい。」
「わかってる。」
司が手を差し伸べた。
「あの子に会いに、うちに戻ろうか。」