わたしと司、そして娘の杏花が産屋敷邸を訪れたのは、お館様の呼び出しを受けてから1週間後のことだった。
遅れた理由は単純で、わたしが飢餓感を完全に制御できるようになるまで、まだ少し日数が必要だったからだ。
司は心配していないと言った。わたしを信用していると。初めての狩で人を襲わなかった時に確信したと言った。でも、相手はお館様だ。万が一のことがあれば、わたしたちは本当に斬首刑になる。
よって、わたしは与えられた1週間で飢餓感を抑える術を改めて学び、制御できるようにした。街中にも出て、たくさんの人間がいるところでも飢餓感を抑えられるかも確認した。
自分が鬼になって初めて、司がわたしの血への欲求を抑えるのにどれだけ苦労していたのか、身を持ってわかった。例えるのならば、極度の飢餓状態で、目の前に大好物を置かれているのに、永遠に食べられないようなものだ。本当によく今まで無事だったなと思う。
杏花も街に連れて行って、人間を襲わないか注意深く見ていたけど、色とりどりの景色に興味津々で、人を襲う素振りは一ミリも見せなかった。
1週間後、産屋敷邸に着くと、そこにはお内儀のあまね様もいらっしゃった。
「3人とも、よく来てくれたね。」
「お館様におかれましても御壮健で何よりです。益々の御多幸を切にお祈り申し上げます。」
「ありがとう、澪。司としのぶから全て聞いたよ、今回は毒がうまく作用したみたいだね。君が死ななくて、本当によかった。」
「もったいなきお言葉…感謝申し上げます。」
いいとは言い切れない。死なないで済んだが、その代償として鬼になったのだ。ここは鬼殺隊だ。鬼は滅せられるべき存在なのに…
「お館様、死にかけていたとはいえ、鬼になったことに変わりはありません。本来なら、わたしは斬首されてもおかしくないはず。わたしを罰しないのですか。」
お館様は少し間を置いてから思い切ったように話し始めた。
「確かに、武流が鬼殺隊に入った時に約束した。もうこれ以上、鬼の仲間を増やさないとね。鬼殺隊はあくまで、"人間による"鬼の殲滅を目指しているから。」
「……よく存じております。」
「でも司は君を死なせたくなくて、その一心だった。君を失ったら彼がどうするかは、君も身をもって知っているだろう?そうなるとわたしも武流も困るからね。」
知っている。わたしが死んだと誤解した時、彼は…思い出したくもない。
「君を鬼にすることは、司も望んでいなかった。君には人間のままでいてほしかったし、君の寿命が尽きるまで、そばにいるつもりだったと思うよ。そうだろう、司?」
「おっしゃる通りです。」
「今回の一連のことは、わたしの鴉が全て見ていた。君が鬼になったことは喜ばしいこととは言えないが…誰のせいでもない。君は自分が本当に守りたいものを守り抜いただけだ。澪。」
お館様は改めてわたしの名前を言い、わたしを見据える。
「はい、お館様。」
「君のことは全隊士に通達した。事情を知らずに、鬼の君に斬りかかったら困るからね。君は飢餓感もうまく制御できているようだ。他の東城家のみんなと同じく、人間を食わなければ、君を罰することはしない。まだ君のことを受け入れられない隊士もいるだろうが…今までと同じように任務に邁進して、みんなの信頼を勝ち取っていってもらいたいと思っている。」
「もちろんです。感謝申し上げます。」
それを聞き、お館様は満足そうに頷いた。
そしてその時、杏花が声を上げた。
「父上、あの人がそうなの?」
「杏花、そうだが、今はダメだ。静かにしないと。」
司が宥めるが、杏花は不満なのか、司の腕にはむっと噛み付いた。それを見て、わたしは思わず笑ってしまった。
杏花に鬼の毒素はないので、噛まれても害は全くない。実際、最初に噛まれたのはまだ人間だったわたしだし。百合にはしょっちゅう噛み付いている。
そして杏花はこの1週間の間に、なんと喋れるようになった。記念すべき第一声は「あー」でも「うー」でも「まま」でもなく、「母上、眠いからもう寝るね。」だった。わたしは自分の耳を疑い、思わず腰を抜かしそうになった。
「構わないよ、司。むしろ近くに連れて来てくれないかな、声を聞きたい。」
「御意。」
司は杏花を抱いて、わたしの隣に立った。
「あまね、杏花はどんな外見をしている?」
お館様は病のため、すでに目が見えないので、代わりにあまね様が答える。
「1歳まではいかなくとも、7、8ヶ月程に見えます。髪は赤銅色の巻き毛で肩より長く、瞳は茶色です。お2人によく似ています。」
それを聞き、お館様は微笑んだ。
「かわいい子なんだろうね。今は何をしている?」
「司さんの頬に手を当てています。」
杏花はいつものように自分が今考えていることを相手に、今は司に伝えようとしている。
「そうだ、鬼殺隊を束ねるお方だよ。だから、お行儀よくしなきゃだめだ。」
とても生後10日前後の娘にかける言葉ではない。お館様も驚いた様子でわたしたちを見る。
「今の司の言葉を、その子は理解しているのかい?」
「どうなんだ?杏花」
司が問いかけると、娘は変わらず、司の頬に手を当てている。
「わかったと言っています。」
「そ、そうか。ちょっと、わたしの理解が追いついていないんだが…その子はもう、言葉が理解できるのかい?」
それを聞き、杏花が司の顔をぺたぺた叩いた。
「あの、僭越ながらお館様、この子が自分であなたに伝えたいと言っています。」
「喋れるのかい?」
「はい。つい最近話せるようになりました。身体的な成長より、精神的な成長の方が躊躇なので。あと、この子は、その…言葉では説明しがたいことができます。もしよろしければ、抱いてやっていただけませんか。そうすれば、疑問は解決致しますので。」
お館様は少し考えて、言った。
「わかった。連れてきておくれ。」
杏花はお館様の腕の中にすっぽり収まった。
お館様の顔の傷に怖がる素振りも見せず、落ち着いている。
「はじめまして、杏花。話せるのかい?」
「うん。でもね、おはなしするより、いっぱいみせてあげる。」
そう言うと、杏花はぷくぷくした小さな手を、お館様の頬にそっと当てた。
その瞬間、お館様は電気ショックを受けたように硬直した。瞬時にあまね様が反応し、引き離そうと肩に手を置いたが、お館様がそれを制する。
「待ってくれ、あまね。大丈夫だから。」
杏花はかなりの時間をかけて、"視覚を通じて"、説明した。司は集中した顔つきで、杏花が投射するイメージを見ている。
わたしも司みたいに、心が読める能力があればいいのに…
「あの子はお館様に何を見せているの?」
「全てだ。」
司が呟く。
しばらくして杏花は手を下ろし、呆然としているお館様に向かって愛嬌たっぷりに笑いかけた。
「素晴らしい。」
お館様はそう囁き、わたしたちの方に向き直る。
「なんて強烈で、特異な才能だろう。目が見えないわたしでも、この子にあったこと、起こったことが全て見えた。この子は司とは逆で、自分の考えや思っていることを相手に伝えられるんだね?」
お館様の顔には、感動がありありと感じ取れた。
「その通りです。娘が見せたことを信じていただけますか」
「もちろんだよ。」
真剣な面持ちで司が聞くと、お館様は即答した。
「君は生まれる前からあの2人のことを、両親のことを愛していたんだね。」
自分が思っていることが伝わって嬉しいのか、杏花はにこにこ笑っている。
「あまね、君も見せてもらうといい、本当に素晴らしいよ。」
杏花はにっこり笑い、お館様に受け入れられたことにすっかり気をよくしたらしく、あまね様の頬にもそっと触れた。
「なっ…これは…」
さすがのあまね様も度肝を抜かれたらしく、お館様と全く同じ反応をしていた。
「これなら、柱のみんなに説明するのも難しくないだろう。しかし、この子には驚かされてばかりだ。成長が楽しみだね。」
お館様の言葉に、わたしは少し俯いた。杏花は、生まれてからも驚異的な速さで成長している。
「一日4回、武流さんが身長、体重等の情報を測定して記録しています。」
「4回もかい?どうして?」
「生まれる前もでしたが、生まれてからも、急速に成長しているので。」
お館様の問いに、司が答える。緊張をはらんだ、静かな口調だった。そしてわたしの手を握り、支えを必要としているかのように、もう一方の腕をわたしの腰に回す。
杏花は健康そのものだ。肌は大理石のようにすべすべだし、頬はバラの花びらのよう。この子の人生を脅かすものはない、はずだった。唯一の脅威は、時間だ。
わたしが産んだ赤ちゃんと、今目の前にいる子どもには、誰の目にも明らかな違いがある。1時間前の杏花と今の杏花の差は微妙なものだけど…人間の目ではわからないかもしれないが、確かに違いがある。
身長はわずかに伸びて、少しだけ細身になった。顔の丸みが取れ、たまご形に近づいている。髪の毛は1.5ミリほど伸びた。
このままでは、すぐに寿命を迎えてしまうのではないか。その不安が、最近の悩みだった。
「そうか。引き続き武流に測定してもらってくれ、経過を知りたい。」
「御意。他に何かございますでしょうか。」
「あぁ。澪、しのぶには会ったかい?」
途端に、胸が締め付けられた。しのぶ様には会えていない。
「いいえ。一度手紙を書いて出したんですが、その…返事をいただけなくて。わたしには会いたくないのではないかと…」
そう思われていても当然だ。わたしが死にかけるのを目の前で見ていたし、しのぶ様は鬼を心底憎んでいる、わたしはそれになった。
二度と関わりたくないと言われても、文句は言えない。
「そうか。来週、定例の柱合会議がある。そこで柱のみんなに、君と杏花のことを紹介したいと思っているんだ。その前にわだかまりは解消した方がいいな。しのぶにはわたしから連絡しておくから、蝶屋敷のみんなにも会いに行きなさい。わたしの勘だけど、しのぶは…君に会いたがっていると思うよ。」