赤い海の浜辺、夜のしじまの中に、少年と少女は静かに横たわっている。
寄せては返す、波の音が聞こえてくる。
あの重なるように打ち寄せる波の名前はなんと言ったか。
そうだ、敷波だ。あのしきりと打ち寄せる波の事をこの国では「しきなみ」と言うのだった。
それは少女にとって、もうひとりの自分の名前。自分が欲しい幸せとは別の幸せを掴もうとしている少女の名前。
「僕もアスカが好きだったよ」
そう告げられて、送り出された筈だったが、しかしシンジとアスカ、二人はまだ浜辺に横たわっている。
何故だろう。なぜ二人はまだ一緒に居られるのだろう?
しかし、アスカにもこれはそんなに長く続く世界ではなく、束の間の名残のようなものであることがなぜか分かった。
「……アタシたちの恋、もう終わってしまったんだね」
「うん……」
「でも、アタシたち、ちゃんと好き同士だったんだ……」
「そうだね、ずっとお互いに気付けなかった。でも最後に気付けたんだ。僕は今、幸せだよ」
少女にとっても気持ちは同じだった。ずっと欠けていた心の飢えが暖かいもので充たされている。幸せだった。そしてその幸せがまもなく失われてしまうことを思うと、堪らなくつらかった。
「それなのに、どうして過去形でなくちゃいけないの?どうしてお別れしなくちゃいけないの?」
「ごめん、アスカには別の幸せがあると思うんだ。僕とでなくても幸せになれるよ。だってアスカは素敵な人だから……」
けっきょく、シンジは身を引くというのか。好きな人の幸せを願い、恋よりもっと大きな愛を選ぶ。それがシンジの選択なのか。
シンジが大人になったのはわかった。でも、そんな大人のなり方は切なくて寂しい。諦めが良すぎる。戦わずに逃げようとしているのではないか。
「最後の最後で意気地がないんだから……」
「……ごめんね、アスカ」
「ま、それがバカシンジらしいのかも知れないわね……」
そう強がってみても、心の寂しさはどうしても埋めようが無かった。
「でもこんな風な結末を迎えるなら、アタシ、アンタと出会わなければ良かった」
そうすれば、こんなにも心が苦しむことは無かったのに。
「アンタのことなんて好きにならなければ良かった」
そうすれば、こんなにも頬を熱い涙が伝うことは無かったのに。
「だってこんなにも胸が痛いんだもの。これが失恋の痛みなの?ねえ、教えてよ、シンジ。アタシ、今まで生きてきて、辛いことも沢山あったけど、こんな心の痛みは知らない!初めてだよ、こんな痛くて切ない気持ち……こんなのイヤだよ!」
切々と訴えかける少女は、今ようやく待ち望んだ恋を掴んで、そしてそれを瞬く間に失おうとしているのだ。何と残酷な刹那の幸せだろう。でも、その残酷さもすぐに消えてなくなる。
「……安心してよ、アスカ。ここは円環の中に浮かんだ泡のようなもの。たぶん、あと五分程で閉じる世界。僕はその僅かな時間、ほんの少しだけアスカともう一度、お話がしたかったんだ。泡が消えたら、もうアスカは僕のことを忘れるよ。もう僕のことで心が痛むことはない」
シンジの言葉も寂しさに満ちていて、自分が選んだ選択への尽きせぬ後悔が感じられた。
「いやだイヤだ嫌だ……シンジの事、忘れたくない。胸が一生苦しくてもいい、シンジのことを覚えて生きていきたい。アタシはこのつらさから逃げたくないよ!それじゃどうして駄目なの?」
「それじゃアスカがちゃんと幸せになれないよ。僕はアスカに幸せになって欲しいんだ」
シンジのことを忘れて、シンジ以外の相手と暮らす。そうすれば幸せになれる、という。本当にそうなのだろうか?忘れていようと、覚えていようと、そんなの相手にだって可哀想で、失礼な話じゃないか。
「……やっぱりこんなのイヤだ!ねえ何とかしてよ!アンタ世界をどうにでも書き換えられるんでしょ!最後の最後に一つだけ、アタシの望みを叶えてよ!アタシとアンタにほんのちょっとだけ時間を呉れてもいいじゃない!」
「でも円環はもうすぐ閉じる。もう時間の巻き戻しは出来ない。時間を止めることだって不可能なんだ……」
そこで、少年は己の身のうちに宿る力を確かめるように、右手を握ったり開いたりしていた。そして、あることに思い至り、ハッとした表情を閃かせた。
「時間を遡ることも、せき止める事も出来ない。でも外界の時間の流れを緩やかにして、僕らの体感する時間を相対的に伸ばす事は出来るかも……」
「それって、"あと五分"が伸ばせるってことなの!?お願いよ、だったらそれをして!一分でも一秒でも長く、シンジと居させてよ。もっとシンジとお話がしたい。抱きしめて欲しい。沢山遊びたい。シンジのことをもっと知りたい。ちゃんと教えてほしい。アタシたちにはたくさん時間が必要なんだから!」
シンジは涙と鼻水で顔をグシャグシャにしたアスカを見る。彼女の手をそっと握り、シンジは静かに頷いた。
「やってみるよ、アスカ」
ネオン・ジェネシス……
静かにそう呟くと、目には見えない手応えがあった。そのまま沈黙を纏って二人は待ち、体感で五分経ち、十分が経過した。見かけ上何の変化もなかったが、世界はどうやら決定的に変化したようだった。
「成功したの……?」
「うん、そうみたい」
「どれだけ伸ばせたの?……一週間?」
期待に満ちた明るい声のアスカに、シンジはおもむろに首を横に振った。
「じゃあ、三日?それとも一日?」
シンジは更に首を左右に振る。アスカの声が少しずつ震えていく。
「半日は伸ばせたんだよね、それとも一時間……?」
余りにも短い束の間の延長に、アスカの声は沈んでいく。シンジはゆっくりと首を振って、アスカの問いに否定を続けた。
「……それじゃ、余りにも短いよ。何も変わらないじゃない。一時間も伸ばせなくて、何が、ネオンジェネシスよ。こんなの却って非道いじゃない!」
アスカの両の瞳に再びみるみる涙が溢れてくる。
「アスカ。ちがうんだ」
「何が違うのよ。うそつき。役立たず。期待を持たせるだけ持たせて酷い、酷すぎる」
「だから違うんだよ。ちゃんと伸ばせたんだ。……七十年ぽっちだけど」
「な、七十年……?」
シンジが何を言ってるのか一瞬、理解できない。しかし段々と理解が頭の隅々に行き渡り始め、アスカの声は震える。
「七十年って本当に?」
「うん、五分を七十年に伸ばした。時間の流れの速さを736万分の一にしたんだよ。ちょっと長過ぎたかな」
「長過ぎるなんて事、あるはずがない……」
アスカは泣き笑いの顔になっている。
「長過ぎだなんて、あるわけない!」
◆
「七十年をもっと伸ばす事も出来るんだけど、独りで残された方が寂しくなるからね」
「ま、その辺が落としどころかしらね」
シンジはあれから、自分の身のうちに宿る強力な力を分析しようと試みている。
「それにしても、本当にすごい力が宿っているのね。他には何が出来るの?」
静かな砂浜に寝そべりながら、二人は手を繋ぎ、夜空を眺めている。文明の落日に、地上はどこまでも暗く、その分、星々は喩えようもないほどに綺麗だった。
円環から五分間だけ外されたこの世界、二人以外には一切の生き物の絶え果てた終わりの世界で、これからアスカとシンジは二人きりで七十年、生きていく。それでも、寂しくなんかない。だって二人が離れ離れになるほうがずっと寂しかったのだから。
「試してみないと分からないけど、食料や薬を出すことは出来るみたいだ。無から作り出すんじゃなくて、世界のどこかに残っているものをアポーツみたいに引き寄せるんだけど。過去からも引き寄せられるから、食料問題は解決、かな」
「そんなチート能力があるなら、最初から使いなさいよ……殆ど万能じゃないの」
「それは違うんだ。僕は円環の終焉に抗って、アスカともう一度会いたいと望んだ碇シンジのひとかけらに過ぎない。だから、僕のネオンジェネシスの力はずっと限定されていて、何でも出来る訳じゃないんだよ。目的がひどく限られてるんだ」
「目的?」
「そう。僕の力は、僕が大好きな女の子を幸せにするためにしか使えないんだ。その目的以外では発動しないんだよ」
アスカの胸の奥から熱いものがせり上がってきた。わっと声を上げると、自由な片方の手で顔を覆った。また、涙が止まらない。シンジが繋いだ手を優しくぎゅっと握り締めてくる。
「アスカ、ずっと二人で生きていこう」
世界が終わる。円環が終わる。エヴァンゲリオンの存在が終わる。世界から盗み取った七十年の時間で僕らは幸せになる。
(ありがとう、ありがとう、シンジ。やっぱりアタシ、シンジに出逢えて良かった。シンジの事を好きになって良かった……)
今、惣流・アスカ・ラングレーは本当に欲しいものを手に入れられたのだ。
◆
七十年後、二人はまた別れる時が来るのだろう。死が人間に平等に訪れ、愛する人を奪っていく。それは誰にも避けようがないことだ。
そしてシンジが予告したように、二人は来世ではお互いのことを忘れて生まれ変わり、別々に生きていく。
でも、そこには希望がある。さよならは、また逢うためのおまじない。そういう、希望があるのだ。
七十年後、いまわの際まで、二人はさよならを取っておけばいい。
愛に必要な時間は今、十分に与えられたのだから。