愛に時間を   作:しゅとるむ

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補遺 ラーオダメイアも恋をせよ

Bella gerant alii, Protesilaos amet.

 

戦いは他のものに任せよ

プローテシラーオスよ

恋をせよ

 

    オウィディウス

 

 

 テーブルの上に、灯油ランプを置いて照明にしながら、アスカは読書に勤しんでいる。さらに数冊の本が重ねてテーブル上に置かれている。アスカは、掛けている赤フレームのメガネのリムを無意識に弄りつつ、ようやく探していた記述を見つけだした。

 

「これこれ……プローテシラーオスとラーオダメイアよね」

「アスカ、何を読んでいるの? それに、そのメガネ……」

「ん。ギリシャ神話の本だよ?」

 

 そう言って、アスカがシンジに見せたのは、大判の書籍、呉茂一の『ギリシャ神話』だった。

 

「えっとなんで、ギリシャ神話?」

「どうも今のシンジとあたしの状況に既視感を感じて……昔読んだ話しを確かめたくて、図書館で借りてきたの。メガネは次いでにデパートで貰ってきた。伊達だよ」

 

と赤いフレームのメガネを外して見せる。

 

「既視感って、ギリシャ神話と今の僕らの状況が似ているの?」

 

 今のシンジとアスカの状況というのは、ふたりに僅かに与えられた、時の円環が閉じるまでの最後の五分間を、体感で七十年間に感じさせる事で、二人に定められた避けがたい別れの刻限を伸ばすというものだった。

 

「ラーオダメイアは、プローテシラーオスの奥さんなの。でも夫はトロイア戦争で戦死して、結婚してたった一夜契っただけで未亡人になっちゃった。夫のことが忘れられなくて、彼女は夫の蝋人形を作ってかき抱いていた。一方、プローテシラーオスも、冥府の女王ペルセポネーに願い出て、愛しい妻の元に返してもらったの」

 

 永遠の別れを避けたいという愛する二人の切ない思いが叶ったというのは確かに今のシンジとアスカの状況に少し似ている。

 

「それじゃ、そのダンナさんは生き返れたの?また二人で暮らせたの?」

「そう。でもそれは束の間の黄泉がえりで期限があったのよ。やがて再び、二人の別れの時がやってくる。ラーオダメイアは、夫が消えると、今度こそ自分の胸に夫の剣を突き通したのよ」

「……そんな」

 

 シンジが思わず眉を顰めると、アスカはその子供のような表情変化に微苦笑した。

 

「シンジ。そんなに悲しそうな顔をしないで。これは只のお話よ」

「でも、僕らがお互いに先立たれたら……」

 

 シンジの不吉な想像は、しかし、二人でこの赤い海の浜辺で暮らし始めてから、常に付きまとってきた不安でもあったから、アスカはそれを咎めなかった。

 

「それは……あたしは後を追うだろうな。だって、シンジが死んじゃったら、どうせ飢え死に確定だし」

「た、確かに、そうだね……」

 

 二人の食料確保はもっぱら、シンジのアポーツという呼び寄せの超常能力に掛かっていた。アポーツは遠隔地のみならず、過去からさえも物を取り出すことが出来る。アポーツ無しで食料を探し回ったとしても、恐らくそう長くは保たないことだろう。

 

「なーんてね。うそうそ。飢え死にするのがイヤで自殺するんじゃないよ。この生き物一匹存在しない赤い海の世界は、元から終わってるんだ。あたしがこの世界に生き続けられるのは、シンジ……あんたが居るから。シンジのいない世界には意味がないのよ」

 

「あの……やっぱり、こんな風にして、アスカを苦しめるだけだったかな?僕、余計なことを……」

 

「ううん。それはないよ。あんたがネオンジェネシスの力でそうしてくれなければ、あたしはあんたの事を忘れて、別の相手と生きていくことになっていた……もしかしたらあたしの想いが堅ければ、記憶を失ってもその相手を拒めたかも知れないけど、けっきょくシンジとはもう会えなくなる。そしたら独りぼっちだよ。あたしはやっぱりそんなのはイヤなんだ。シンジの事忘れたくなんかないし、人生をあんたと歩んでいきたいんだ」

 

 シンジはアスカの言葉を聞きながら、真剣な表情になり、少しだけ躊躇いつつも、やがて切り出した。

 

「あの……アスカ」

「ん、なあに?」

「僕に勉強を教えてくれないかな」

「勉強?」

「うん……僕は医者になりたいんだ。まだ中学生だからあれだけど、一生懸命勉強する。アスカに何かあっても治せるように、ちゃんとしたお医者さんになりたい」

「なるほど。……やっぱり考える事は同じか」

 

 アスカはテーブルに積んだ本をシンジに差し出した。それは数冊の医学書だった。

 

「……それじゃ、アスカも?」

「あんたの力……アポーツもあるから、衣食住に差し当たって問題はない。怖いのはやっぱり病気や怪我だよ。薬や注射はアポーツで取り寄せられるかも知れない。でも処方が分からなければ意味がないし、外科手術とかはできっこない。この世界で幸せになるには、あたしたち、二人して医者になるしかないんだよ。それも、どんな病気やけがも治せる世界的名医クラスにね」

「そんな事、出来るのかな……僕らに」

 

 世界的名医への道。その険しさに、シンジは思わず顔を曇らせる。すると、アスカは首を横に振った。

 

「出来る出来ないじゃなく、やるしかない。出来なければ、パートナーが死ぬんだから。あたしはそんな後悔したくない。シンジだってそうでしょ?もう円環の中でその手の後悔は十分してる筈だから」

「そう……だね。僕はもうアスカを喪うような思いはしたくないんだ」

 

 シンジが頷くと、アスカも頷き返す。

 

 直近ではアスカを誰かに託そうと送り出してしまったことがその後悔だった。そのあと、シンジはアスカを追って、この赤い海のほとりに来たのだ。間に合った。だけど、アスカを永遠に失うかも知れない恐怖と後悔……二度とあんな思いはしたくなかった。

 

「それに目標が出来るのは良いことだよ。そんな目標でもなければ、あたしたちは単なるゴミあさり(スカベンジャー)と変わらない生き方になってたかも知れない。拾ってきた物を食べて飲んで寝て……それだけじゃ人間として幸せにはなれないよ」

「うん」

「あたしたちは人間だ。世界が滅びようとしているからこそ、最後まで尊厳高く生きなくちゃいけないと思うのよ……だから」

 

 とアスカはそこで睫毛をそっと伏せて、懊悩の色を見せる。

 

「だから?」

「このメガネを盗んできた事が今になって、少し気が咎めるの。今まで、盗みなんてしたことなかったのに。あたし、悪い子になっちゃった」

「ごめん……アスカに悪いことさせたのは、僕だよ。僕がサードインパクトを阻止できなかったから、こんな世界になってしまった。……でも気が咎めるなら、勉強したり働いたりしたらお給料を貰うことにしたらどうかな」

 

 シンジの突飛な発想に、アスカは目を丸くする。

 

「お給料?」

「うん、働いたりする度に、お小遣い帳か何かに金額を付けて、何か買い物する時は、その数字を減らすようにするんだ。もちろんお金がなければ買えないからガマンする。……そういう風にしたら真面目に働いたり勉強するだろうし、泥棒でも盗みでもないよ」

「いいかも知れないわね、そのアイデア。じゃあ、このメガネはお金が貯まるまで、一回お店に返してこよう」

 

 アスカはシンジを改めて見直していた。シンジのアイデアは面白いが、何よりその考え方の背後には彼の人としての素直さや真面目さがあるように思えた。誰も見ていなくても……誰一人咎める人間がいなくなっても、きちんとお金を払う。お金という概念が消失しても、自分の労働を対価にする。異性として魅力的かどうかの前に、人として信頼できる人間に出会えて良かったと思った。シンジは色々と弱虫でアスカをあれこれと傷付けもしたが、落ち着いて互いの性格を見つめてみれば、伴侶にするのはこういう打算のない、誠実な人間でなければ、とも思うのだ。

 

「メガネのアスカは可愛いから、また見たい。僕もお金を貯めるから、僕にプレゼントさせてくれる?」

「うん……じゃあね、12月4日のあたしの誕生日までにプレゼントして欲しい。いいかな?」

「分かった。頑張って働いて必ず間に合わせる」

「期待してる」

 

 それから、アスカは少し言葉を切り、勇を鼓して次の話題を切り出した。

 

「あとさ。シンジもずっと気になっていると思うんだけどね……」

「うん」

「エッチ……はさ。しばらく待って欲しいんだ」

「……えっと」

 

 シンジもアスカも少し、顔を赤らめて言葉少なになった。

 

「あたしたち、もちろん好き合っているし、やがて夫婦になると思う。でもまだ十四歳、中学二年生だから、焦ってそういうのしたくないんだ。あたしは女だから、身体を安売りしたくないし、やっぱり、女はされる側だから色んな不安もある。何より、早々に身体を許して、シンジに飽きられちゃったりしたくないんだ。だから、あたしたちの関係を少しずつ丁寧に育てさせて欲しいの」

 

「もちろん良いよ。二人とも大人になってからしたほうがいいよね。それに……僕はアスカにそういう事させてもらうにはまだまだ男として磨きが足りないと思うんだよ。だって、アスカはすごくモテてたし、やっぱり素敵だから。僕もちゃんと男として格好良くならないとダメかなって思うんだ」

 

「見た目は今のままでも、悪くないと思ってるけどネ……」

 

 そのアスカの混ぜっ返し気味の茶々に、シンジはごく素直にはにかんでみせた。

 

「ありがとう、アスカ……あのね、アスカがちゃんと話してくれて良かった。焦ってアスカを傷つけたりしなくて、本当に良かった。僕はもうアスカのこと傷付けたくないし、アスカが嫌がることはしたくないから。……だから、教えてくれてありがとう」

 

「うん。シンジもありがと、ちゃんと分かってくれて嬉しい。その代わりと言ったらアレだけど、チューはドンドンしようよ。あと、夜も同じお布団で寝よう。エッチさえ我慢してくれればいいから」

 

「あー……でも、それは生殺しかも知れないなぁ……」

 

 シンジが頭を掻きながら、苦笑すると、

 

「もう。男の子って、やっぱりスケベだよね」

 

 とアスカが呆れてみせた。でもすぐに舌を出して笑顔を見せながら、解説してみせるのだ。

 

「……でもね、女だって、多分エッチは好きなんだよ。相手に主導権握られるのが少し怖いのと、男に軽く見られると損だから、精一杯出し渋ってるのはあると思う。だけど、それも女の愛の戦略だからね。相手の愛を長持ちさせる戦略だから。あたしもシンジに末永く愛して貰いたいから、色々出し渋るよ、ゴメンね……」

 

 アスカは思うのだ、そういう戦略や駆け引きこそが、恋の本質であり楽しみなのだと。だからこういう種明かしも本当はルール違反気味で良くないのだが、シンジはまだまだ子供だから、少しはヒントや補助線も必要になるだろう。

 

─オウィディウスがその詩の中で、

 

プローテシラーオスよ

恋をせよ

 

 と歌うのならば、もちろん、

 

ラーオダメイアも

恋をせよ

 

と言って良い筈だ。だから、アスカもシンジと恋をする。

 

 何より、女はいつだって、男よりも恋では上手(うわて)なんだから─

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