寵児二人
「それと、もうひとつお願いがあります」
低められた声がアレクサンドル・ビュコックの耳元に囁かれた。傍目には、孫と祖父の内緒話に見えるかもしれない。告げられた内容は、重大極まるものであったが。
つい先ほど、この青年が話したのは、クーデター発生の可能性だった。それは、帝国軍の実質的な権力者である、ローエングラム候の
彼にしてみれば、帝国内での権力闘争に邪魔をされないための布石に過ぎない。成功などしなくてもいいが、首謀者に成功を確信させるに足る緊密な計画を作っただろう。
何とも面倒なことだ。クーデターが発生すれば、その収拾に途轍もない労力を費やす。成功させてしまえば、自由惑星同盟の国是の死である。ルドルフの圧政から、一万光年の長征を経て、200年を掛けて新たな小ルドルフを産むだろう。成功を阻んでも、同盟軍は分裂する。もはや国民からの支持は地に落ちる。
そうなったとき、この黒髪の青年が、新たな偶像に祭り上げられてしまうだろう。
功績は巨大、身辺は清潔、知性は高い。人格も穏和な紳士といっても、まあ嘘ではない。案外曲者だが。若いし、容姿だって磨けば光るはずだ。
なによりも、その人望の高さだ。非常に真っ当な責任論を口にするため、上層部の受けは悪いが、部下からの信望は極めて篤い。この司令官の為になら、と思わせることのできる人間である。残念なことに、彼には同僚と呼べる人間がいない。大将格は最低でも二十歳は年上で、ビュコックとは四十歳違う。ぎりぎりで孫になりうる年齢差だ。外見上は、まったく問題なく孫と祖父でとおる。ビュコックの二人の息子は、すでに戦死してしまっていたが……。それは
そちらもまた、新たなルドルフの誕生だろう。恐らくは、あの男よりもっとたちの悪い独裁者になるかも知れない。優れた独裁者、いわゆる名君。彼一人が全てを決定し、国が円滑に統治される。
そうなった時、国民は面倒な政治に参加するだろうか。何人もの凡人が、雁首そろえてえっちらおっちら考え、ああでもないこうでもないと協議し、どっちにするのか多数決、という迂遠なことをやるよりも、遥かによい方法をぽんと考え出してくれる人がいるのに。
同盟の独裁者ヤン・ウェンリー対帝国のラインハルト・フォン・ローエングラム。
後者の地位は、候だか公だか、果ては皇帝かもしれないが、笑えない喜劇の最たるものだ。
なにより救えないのは、そうなった方が国民大多数にとって幸福ということである。
二千万人が還らず、その10分の1の捕虜が帰還した。その式典と祝賀パーティー。なるほど、たしかにめでたいが、そもそも帝国本土進攻作戦をやらなければ、全部が不要だったな。パーティー会場から抜けだし、あそこに並べられた料理よりもずっと安くて美味い軽食を口に入れながら、ビュコックは皮肉っぽく考える。
前年のアスターテ会戦、アムリッツァの大敗、そいつを忘れてはおらんかね。パーティーの予算があるなら、遺族年金を増額するがいい。たとえ一人あたり1ディナールぐらいに過ぎなくてもな。こんな衆愚政治は、心ある軍人ほど打開策を求めるだろうよ。力でもって、文民統制という
確かに、発生させるまえに叩かなくてはならない。だが、それが間に合わなかったときのために、法的根拠を準備しておいてほしい。それがヤンの依頼だった。クーデターを阻止するのに、超法規的措置をとるのは更に軍を失墜させるからだ。
これほど民主共和制を尊重し、文民統制の重要さを知るこの青年にこそ、政治家になって欲しいものだ。
だがこれは、ないものねだりだな。ビュコックは口髭の下で唇をゆがめた。魔術師ヤンが難攻不落のイゼルローン要塞にいる、ということが同盟の国防の切り札なのだ。
個人に依存するなかれ、という民主主義における軍隊の原則からはとうに逸脱している。この国はもう終焉を迎えつつあるのかも知れなかった。だが、それでもヤンに頼らざるを得ない。パーティーの会場で、恰幅や体格のいい参加者の中で、華奢にさえみえる猫背ぎみの肩に。
「よろしい、わかった」
彼がハイネセンを離れる明後日までに、宇宙艦隊司令長官からの命令書を届けること。それを約束した。
これが杞憂にすぎず、無用の長物になることを願わずにはいられなかった。
人目に立つとまずいので、老人と青少年は別々に帰路についた。先に年長者が立ち上がり、夜道を遠ざかる。ヤンは、老練の名将の激励と握手に頬を紅潮させたユリアンと一緒に、無人タクシー乗り場を目指す。
無人タクシーの中で、ビュコックは先ほどの言葉を反芻した。
「どうして、貴官は推理の披露先をわしにしたんだね」
彼に問われたヤンは、更に推論を披露した。
「ローエングラム候は、同盟軍の分裂を狙っています。
クーデターを成功させ、同盟中枢を掌握し、再編できる手腕と人望の主が首謀者になるのは、
彼の本意には適いません」
百戦錬磨の老将が、ひやりとするような内容だった。なんとか、冗談めかした返答をしてみせる。
「やれやれ、不敗の魔術師のおほめの言葉と受け取ればいいのかね。では、貴官はどうなんだ。
わしがクーデターの成功者になれて、貴官がなれんとは思えんな」
示唆をこめた台詞にヤンは苦笑した。おさまりの悪い髪をかき混ぜて、尊敬する同格者を安心させるような口調を心掛けて返答する。
「まあ、彼は私が見抜くであろうことは織り込み済みでしょう。
それに、私はイゼルローンにいるのです。
あそこには容易に工作員は入れません。
第七次の教訓からですが、シェーンコップ准将と
「ほお、あの連中がなぁ。
なかなか手のつけられん奴らだと評判だったのだが、貴官が手なづけるとはな」
これは意外だった。今日聞いた中では、一番の吉報と言えよう。宇宙最強の白兵戦部隊が、この若い提督を守ってくれるというのは心強いことだ。
「いえいえ、そういう訳ではありませんよ。
きっと、私が頼りないので見るに見かねてだと思います」
「そうかもしれんがいいことだ。
たった6人の逆亡命者のせいで、いつまでも色眼鏡で見られるのは気の毒な話だからな」
ヤンは頷いた。目を伏せて、更に低い声で囁く。
「ええ。全く愚かな差別です。我ら皆、逃亡者でなければ亡命者の子孫ですよ。
その時期の違いで差別するなんてナンセンスでしょう。自由、平等、自律、自尊。
この国是が生きていてこその、自由惑星同盟です。クーデターはそれを殺します。
美辞麗句で飾っても、新たなルドルフの誕生に変わりはありません」
ビュコックは頷いた。この青年は、絶対に独裁者にはなれないだろう。
彼は、戦いに
「あの若いのと、そう約束したというにな」
クブルスリー統合作戦本部長の襲撃。犯人は、アンドリュー・フォーク予備役准将。
凶報が
ヤンら一行が、イゼルローンへ出立してから、まだ八日しか経っていない。まだ十日は旅程を残している。
こちらの準備も、ようやく信頼のおける憲兵の選抜ができたばかりだ。叩き上げのビュコックは、仕事を部下に割り振り、彼らに任せるのが苦手だ。事が事だけに、秘密裏に運ばねばならないというのはあったにせよ、多忙な彼がやるには日数を要してしまったわけだ。
不幸中の幸いと言おうか、クブルスリー大将は一命を取り留めた。しかし、全治三カ月、当面は絶対安静である。それにしても、またフォークか。アムリッツァの会戦の前、ビュコックは彼の無能と無責任を弾劾した。そして、彼は転換性ヒステリーを起こした。
当然、この襲撃の矛先はビュコックに向けられても不思議ではなく、老齢の彼だったら死に至った可能性も高い。そうしたら、ヤンからの警告を知る者はいなくなってしまう。
そうでなかったことを、まずはよしとするしかない。だが、これは恨みによる独立した犯行などではないだろう。そもそも、フォークは軍病院の精神科で入院加療中だった。退院して、復帰を願い出たところ、クブルスリーに正規の手続きを踏むように諭され、ヒステリー発作を起こしたという表向きである。
ではなぜ、ブラスターを持っている。しかも、袖に携帯する特殊工作員用のものと合わせて二挺も。これは発作的な犯行などではない。フォーク自身は操り人形でも、後ろに人形遣いと脚本家がいる。
その四日後の四月三日、惑星ネプティスで武力蜂起と占拠。以下二日から三日おきという短すぎるスパンで、惑星カッファー、パルメレンド、シャンプールで武力叛乱が続発した。
その中間にあたる四月六日に、銀河帝国で大規模な内乱が発生。脚本家は、ヤンの指摘どおりだと認めるほかはない。
なんと素早く果断であることか。ヤンの警告はもう少し先の発生を想定していたであろう。かの美貌の若者は、急速に権力を掌握しつつある。専制という権力が一者に集中する政体で、その座を冠絶した天才が占めたら、迅速性は民主政治の比ではない。
ビュコックはそれを苦く噛みしめる。同じ手法を取ってはいけない。こちらにも匹敵する天才はいるが、それだけはできない。
それにしても、アムリッツァから経過した時間は同じだ。しかも帝国の民衆は、焦土作戦でローエングラム候自身から痛めつけられているはずだ。フリードリヒ四世の死という事情はあるが、ここまでドラスティックに打って出るのは、同盟ならばできないことだ。
やはりあの金髪の若者は、ヤン・ウェンリーとは違う天才だ。彼は戦いに
だからこそ、権力の道を征くのに、剣を以て進むことができる。愛憎に身を捧げ、黄金と炎に彩られた英雄。だが、それによって死んでいく、彼にとっては名もなき者を顧みるのだろうか。皆が名を持ち、誰かにとっての愛しい誰かである、味方と敵を。その覇道で、彼が想うこともない
黒髪黒目の青年は、無事にイゼルローンに到着したという報告が入った。これもまた少ない吉報である。クブルスリー大将の襲撃直後、宇宙艦隊司令長官名において、各管制センターにカルデア66号の航行ルートを最高機密に指定した。おまじない程度のものだが、ビュコックは胸を撫で下ろした。
ヤンがその座を温める間もなく、ドーソン統合作戦本部長代行が、ヤンに四ヵ所すべての叛乱を鎮定せよと命じたのは、四月一三日。負傷したクブルスリーの代わりに、ビュコックに兼職の打診が来た時に早々に断ったのは、やはりまずかったかもしれない。ジャガイモの廃棄を声高に糾弾するような小人が、ヤンに嫉妬しないわけがないのだ。
だが、これは案外に妙手と言えるかもしれない。ビュコックはそう思い直した。ヤンには悪いが、ビュコック率いる宇宙艦隊主力はハイネセンに駐留していられる。さすがに、この状態で行動を起こすまい。その間に、ヤンがカバーしきれない部分に備えなくてはならない。
そうやって動き出したところ、同日に首都における大規模な地上戦闘訓練を実施するという通達を受けた。これは年頭から予定が立てられていて、全く不審にも思わなかった。後から思えば、既にその計画の時点で、種は播かれて発芽済みだったのだろう。茎は伸びず、葉も茂らなかったが、地下茎は着々と育っていたのだ。
正午にオフィスで銃を突きつけられて、その中に訓練通達を出した責任者の姿を見たとき、己が老いたことを思い知らされた。そして、はっきりと足音を聞いた。同盟軍が十三階段を上る足音を。
彼らに糾弾の言葉を突き付けながら、ビュコックは胸中で黒髪の青年に詫びた。
せっかくのおまえさんの警告を、無駄にしてしまった。
しかも、また辛い選択を強いることになってしまった。
今の状況を作った連中が、さも正義の顔をして国を救うとほざいている。
酒臭い男に焚きつけられて。
そして、首謀者を睨み据える。口に出した言葉よりも、数段激しい思いを胸中に抱いて。
あんな酒焼けした脳みそから、こんなに緻密な計画が出て来るものか。
しかもそいつは、三百万人の民間人を、21歳の中尉に押し付けて逃げ出した男だ。
その中には、あんたの娘もいただろう。それを忘れているのか、ドワイト・グリーンヒル!
アーサー・リンチはいままで『どこ』にいた?
そして、今その娘はどこにいる? その元中尉の所だ。
貴様が勝てば、娘は愛する男を失う。彼が勝てば、娘にとっては父の敵だ。
そんな当たり前の情をなくした人間の言葉に、国民は絶対に賛同はせん。
この救国軍事会議とやらは、ご大層な名前と逆の結果しか齎さん。
銃を突きつけられ、拘禁場所に引き立てられ、ビュコックは天井を仰いだ。
建材を突き抜け、大気圏を越え、一万光年の彼方に、この視線と思惟が届くならば。
ラインハルト・フォン・ローエングラム。確かに天才だ。その頭脳にとって、この謀略はゲームにも等しいのだろう。自分の目的を果たすに、使える策を
その計略で、失われる命に無関心でいることが、いつか牙を剥き、さらなる敵を作る。
だが、もっと重大なのはその中にいるかも知れない、将来の友や味方を失うことだ。
それは憐れんでやろう、金髪の坊や。
黒髪の魔術師は、絶対におまえを選ばない。わしはそのおまけだな。
情報が遮断された中、ビュコックにできるのは生きていることだけだ。
ヤンは必ず勝つだろう。その後のために、生きていなくてはならない。
「やれやれ、『正義』の騎士達が老人を閉じ込めて、魔術師が助けに来る、か。
お伽噺とは配役が逆だの」
その時、傍らに美しい姫はおるのだろうか。だが、案ずることもなかろうて。
古来より、魔法使いは心優しく美しい女性の味方だと、そう決まっておるものだ。
しかし、精神的には『ヤン・ファミリー』のご隠居様です。
いろいろな解釈はあろうかと思いますが、7巻以降の彼らの中には、この一件があったのではないかと考察する次第です。