ユリアンが駆け出してから、きっかり二分後にヤンの副官が入室してきた。
「グリーンヒル大尉、まいりました」
常ならば桜色の頬が、石膏像のような白さと硬さを宿していた。だが、ヘイゼルの瞳に充血の色は見られない。こんな理不尽な状況におかれた23歳の女性には、過ぎるくらいの気丈さだった。
「……ああ、元気そうだね」
言ってからしまったと思うが、かといって気の利いた台詞など出てくるはずもない。軍部の良識派として声望の高かった父親が軍事クーデターの首謀者となり、その鎮定にあたるのは自身の上官である。彼女としても返答に困ることだったろう。
ヤンは、この後で幕僚会議を開き、その際の準備と機器操作を彼女に任せる旨を告げた。グリーンヒル大尉にとっては意外なことだったようだ。ヘイゼルの瞳を
「やめたいのかね?」
そっけないほどの言葉に、息詰まる緊張を隠してヤンは訊いた。
「いえ、でも……」
答えは否。ヤンはゆっくりと瞬きをした。
「君がいてくれないと困る」
フレデリカ・グリーンヒルは、ヤン・ウェンリーにとって過ぎた副官だ。抜群の記憶力と細やかな心遣いに裏打ちされた、事務処理能力。機器の操作やプログラムもお手の物だ。ヤンは、そう彼女に告げながら心で詫びた。それさえ傲慢に過ぎるのかもしれなかったが。
「はい、心からつとめさせていただきます、閣下」
冷静さを装った下から、相反する表情がよぎった。この女性にはもっと楽しい、安楽な未来だって選べたのだ。軍高官の令嬢なのだから、気の済むまで勉強したり、お洒落をして友達と遊ぶこともできた。聡明で、美しく心優しい。きっとどんな道を選んでも成功して、幸せになれただろう。
「ありがたい。それでは先に会議室に行っていてくれ」
もしも、軍人という道を選んだのに、エル・ファシルの一件が影響を及ぼしているのなら。イゼルローンの攻略、アムリッツァの会戦。そして、これから向かうクーデターの鎮圧。永遠の夜と星々の
こんな冴えない上官の下、トリューニヒトに代表される衆愚に堕した同盟政府の命脈を保つために、尊敬できる父親と争うなんてどう考えても間違っている。だが、軍人と政治家の役割は違う。軍人がその分を越えて権力を掌握しようというのならば、
君が辞めないと言ってくれるのなら、私は君を解任はしない。救国軍事会議を成功させるわけにはいかない以上、私は君の父の敵ということになるだろう。だが、ヤン艦隊の一員である間は、それなりの盾になることができる。エル・ファシルで得た教訓だ。身内が罪を犯したとき、全く非のない者が一番に犠牲となることを。
あの時は、どうすることもできなかった。だが、今は一応は大将だ。お飾りの少佐よりはマシだろう。なにより解任したところで、生活が成り立つのか、帰る場所はあるのか。イゼルローンに残留するとしても、若く美しい女性がどんな心ない目に遭うのか想像もしたくない。自分の傍が彼女にとって、一番安全なのだ。皮肉なことに。
ヤンは首を振ると、執務室を出て会議室に向かおうとした。もう一杯ぐらい引っ掛けたいところだったが。全く、
通路に出たところで、灰褐色の髪と目をした美丈夫と出会った。一部の隙もない敬礼と、映画俳優張りの笑顔を見せられて、美しき副官を
彼女ほど有能な副官はそうそういるものではない。そう返すヤンに、シェーンコップは意味ありげに笑ってこう言ってやった。
「素直じゃありませんな」
この魔術師ときたら、本当に素直じゃないし、腹の底を見せないし、度し難いほど鈍感だ。ミス・グリーンヒルにあんな顔をさせるなんて、どんな魔術を使ったのやら。さっきまでの雪像の美女が、朝露を宿した薔薇に変貌していた。イゼルローン攻略以上の快挙には間違いなかろう。ヤン自身、気付いているのかいないのか。
ヤンを彼女が『部下』としてどう思っているのだろうかと、
ふむ、グリーンヒル大尉、こいつは脈ありと見た。面白いんで黙って見守ることにしよう。それにしてもまだるっこしい。いい大人の男と女が何をやっているんだか、阿呆らしい。
それに、この上官に色々言うのはもっと面白い。矛盾の塊。誰よりも戦争嫌いな比類なき戦争の名人。五分と五分の条件で戦えば、あの金髪の坊やを凌ぐだろうと正直に誉めても、一言の下に切り捨てられた。
「そんな仮定は無意味だね」
いや、つれないことだ。それだけ戦略というものに重きを置いているわけだが、そんな思考法のできる軍人が同盟軍にさて何人いるだろうか。現在の同盟政府の駄目さは骨身に沁みて知っているはずだ。そう問い詰めても、クーデターよりも衆愚政治を選ぶのだとヤンは言った。
「
なるほど。かの美女には悪いが、クーデター首謀者らの思考は、蜂蜜漬けのチョコレートも同然だ。早晩袋小路にぶち当たる。彼ら
その声と表情には、シェーンコップ自身が意図したよりも本気の色があった。たしかにドワイト・グリーンヒル大将は同盟軍内での声望は高い。だが、国民はどう思っているか。アムリッツァの大敗の責任者の一人で、左遷されても未だ高官だ。二千万人が還らなかった敗戦に対して、充分な引責を果たしていると評価してはいない。それどころか、冷や飯食いになったエリートどもの暴走と冷ややかに見ている。そこに、
独裁者ヤン・ウェンリーの誕生だ。今の同盟政府の誰よりも、民主主義の理念を堅持する独裁者。これもまた矛盾だろう。本人は柄じゃないと否定しても、才幹は充分以上にあるとシェーンコップは見ている。不真面目に嫌々軍人をやっているのに、同盟軍史上最高の智将なのだ。いや、冠の同盟軍を外してもあながち外れてはいないだろう。
政治の場でもうまくやれると思うのだ。この場合、歴史上の名政治家に匹敵する必要はない。トリューニヒト最高評議委員長にヤン・ウェンリーが劣るとは思わない。
「シェーンコップ准将」
頭半分よりやや低い位置から、さっきまで呆気にとられた顔をしていた上官の声がした。
「なんです」
今はもう困った顔をしている。黒い髪を所在なげにかき回しつつ、シェーンコップに尋ねた。彼の考えを他人にも言ったのかと。
「とんでもない」
巨大な才能と平凡な感性、それを統合する人格と、何から何まで面白い上官だ。それをからかう楽しみを、他人に分けてやろうとは思わないシェーンコップである。
「なら結構……」
ヤンは、物騒な発言の部下に背を向けて、会議室へと歩き出した。同盟憲章で思想や表現の自由は認められているが、公序良俗に反しないかぎりという前提がある。この場の雑談で終わるならよしとするが、頼むから声高に言い立てないでほしいものだ。
人には分というものがある。これを法律で定めて、一人が巨大な責任を背負い込まずにすむ、それが民主主義の原点だ。所詮世の中凡人ばかり、頼りないから程々に任せるという人間不信が前提の制度である。ローエングラム候ラインハルトのような、冠絶した天才の出現頻度を考えると、より現実に即した考えだと思う。人口130億人のこの国全てを担える者はいないだろう。グリーンヒル大将も例外ではない。
会議室に向かう黒髪の下、ヤンの頭脳は急速に回転を始めていた。戦いが大嫌いなくせに、それについて考えることに無関心でいられない。知的遊戯としてなら、決して嫌いではない。そんな自分にほとほと呆れながら。
グリーンヒル大尉の処遇については、幕僚から出たのは賛同の声のみだった。ムライは冷静に沈黙と公平を保ち、フィッシャーの無口は今に始まったものではないので、賛同とみて間違いなかろう。
もっと下の士官や下士官、兵士らからは父親に通じている恐れはないかという疑問も上がったが、これは同性の士官からの反論で完全に消火されてしまった。声を上げたのは要塞管理事務部門の若手達である。
娘というものは、中学校に入れば父親とはほとんど口もきかなくなる。一つ屋根の下に住んでいてもそうなのに、4年間士官学校で寮生活を送り、更に首都から三週間もかかる場所で暮らしている娘が、父親の目論見を知っているほうがおかしいと。とどめに、父親だって若い娘の事なんて分からないでしょ。
大いに説得力のある部下の言葉は、上司である二女の父の心に相当の痛手をもたらした。その後輩の後輩は、三人の姉の行状を思い返して、心から賛同した。
「うちの子は、絶対にそんな風にはならんぞ」
キャゼルヌは、むきになって末っ子長男に反論した。
「キャゼルヌ先輩、お嬢さん幾つでしたっけ?」
「今年で上は八つだ。下はまだ五つだぞ」
その反論にアッテンボローは得たりと頷いて、実体験を披露する。
「はーん、あと長くても五年ですね。俺の上の姉がそうでした。
二語文以上の会話がなくなります。で、十年くらいの冷戦を経て雪解けが訪れますよ。
主導権は、いつだって娘のものですがね」
「それはおまえの親父さんの教育の問題じゃないのか」
「ああ、そいつは否定できませんね、あのクソ親父」
こっちの雪解けもまだ途上のようである。
「おまえもいい加減に和解するんだな。そうだ、おまえの家族は大丈夫なのか」
アッテンボローの父パトリックは、硬派リベラル系ジャーナリストとして、そこそこ高名な存在だ。軍事クーデターという暴挙には、真っ先に反論を叩きつけるだろう。ただ、クーデター一派はメディアや報道を封鎖、制限しているので上げた声も伝わらないだろうが。
「心配には心配ですが、幸い姉らは嫁に行って姓が変わっていますからね。
俺が名前を貰った母方の祖父さんは軍人でしたから、そう手出しはされないと思いますよ。
クーデター一派を支持する市民はいないでしょう。
下手に弾圧したら、自らの命脈を絶つことになる」
「ふん、そんな理詰めで考えられるなら、そもそもクーデターなんて起こさんよ。
ヤンじゃないが、まさかあの人がなぁ……もうすぐ最高評議会の開催だったというのにだ」
あと約一月後から開催される宇宙暦796年度の最終の定例評議会。ここで来年度予算が審議、可決されないと宇宙暦797年度はどこもかしこも金がない状態になる。後方作戦本部長の英断で配当された追加配分と、ドーソン統合作戦本部長代行の命令と同時に、補正予算がついた状況のイゼルローンを除いては。
「それですよ。やつらはどうする気なんですかね。クーデターで政権を乗っ取っても、
税収や予算のプロは官僚ですよ。彼らがちょっと協力しなければ大混乱になるでしょう」
「たしかにな。どうしてもその手段に訴えるのなら、俺なら新年度早々にやるさ。
異動やら新卒者やらで命令系統自体が錯綜しているところを
金だって沢山あるからな。
将来の統合作戦本部長になろうかという人が、行動を起こす時期としてはお粗末すぎる。
こいつは、裏に何かあるな」
アッテンボローは、ラオに
「さあ、さっさと帰れ、後輩よ。俺はこれから留守番と遠足の準備にかからなくちゃならん。
おまえも遠足にそなえて、しおりの一つも作っておけ」
家庭生活のうかがえるお達しに、独身主義者は苦笑しつつ敬礼をした。
「は、了解しました、事務監殿」
「できれば、定例評議会に間に合う時期に解決するようにあいつに協力してやってくれ」
最大最強の敵、貧乏を憎むキャゼルヌである。その口調は真剣そのものだった。
「クーデター一味にとってもな、ヤンより手強い敵になるぞ。
強引にいびつな予算を通したら、同盟自体が倒れることになる。時間とも戦いになるからな。
あいつはわかっているだろうから、おまえの方には言っておくぞ」
本当に、頭の上がらぬ人ばかりだ。最年少提督というのもなかなか大変だ。最年少司令官の重責には到底及ばないだろうが。今度は真摯な表情で、ふたたび敬礼をして退出する。キャゼルヌの言うとおり、分艦隊の運用案を策定するために。
それは読んで字の如く、「恋」と「愛」の心の位置。下にあるのか真ん中か。
可哀想だたぁ惚れたってことですが、守ってあげたいのは愛だと思う。
さて、専制政治と民主主義は、一人が皆の為か皆が皆の為かの違い。
為政者と民衆と、どちらにとってどちらが楽なのか。
同盟の奉じる民主主義は、それぞれの分を盛り込んだ制度で、皆が協力してヤン艦隊になっている。個々の能力は違えど、集団になるとその差は縮まるという実例ではないだろうか。もう三個艦隊くらい欲しかったなぁ……。