銀河英雄伝説外伝IF 辺塞寧日編 ヤン艦隊日誌   作:白詰草

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本作では、同盟の年度は現在の欧米に準じて、9月から翌年8月と設定しています。


最強最大最悪の敵

 見送ったキャゼルヌは憤然と言い放った。

 

「全く、この時期に部署の最高決裁権者を動かすというのは、その一点をとっても阿呆の所業だ。

 予算の内容を、他部署の回線に送れるものか。お陰でこちらも大迷惑だ」

 

 本来なら、あと半月先の仕事を司令官にまで上げなければならないからだ。

ようやく捕虜交換が終了したのに、事務部年間最大の山場、次年度予算要求書の作成である。

 後方本部で、同盟軍全体の積算と査定をしていた頃より量は減ったものの、この要塞には前年度実績というものがない。要するに一からの作成だ。事務部の連中は青息吐息である。

 

 ヤンは、給料を支払ったり、物資の補充をしてくれる部門を粗略には扱わない。グリーンヒル大尉に任せているらしいが、残業続きの事務部にかなりの頻度で差し入れが届く。キャゼルヌとしては、ドーナツやクッキーを運んで来てくれる秋色の髪と瞳の美人との、結婚資金にでも取っておけ、と言ってやりたい。

 

 しかし、部下は司令官の心遣いに大喜びだし、女性士官が多い部署だ。男ばかりの司令部に配属されたグリーンヒル大尉も、友人ができて心なしか肩の力が抜けたようだ。

 

 管理職として、けっこう心配りのできる後輩なのである。

ミジンコほどでも感受性があれば、副官嬢の好意に気付かぬはずもない。

やはり親友だったラップ大佐の死、アムリッツァの大敗が影響していると見える。

 

「えーと、キャゼルヌ先輩じゃなかった事務監、お怒りの内容は、ひょっとしてそれも?」

 

「当たり前だ。こっちは本業でてんてこまいなのに、このうえ雷神の槌(トゥールハンマー)まで撃ってられるか」

 

 キャゼルヌの鋭い舌鋒に、シェーンコップは呟いた。

 

「いや、十分に口からは撃っていらっしゃるように思えますがね」

 

「何か言ったかな、シェーンコップ准将」

 

 歴戦の勇者も怯む鋭い一瞥である。シェーンコップは内心で両手を上げた。

 

「いえ、何も」

 

「戦争は経済だと言うが、経済こそが戦争だぞ。帝国よりも貧乏が敵だ。

 金銭(かね)がなきゃ、食えんし兵器もないし、戦艦だって動かせんよ。

 そのためには、司令官の意見書とサインが欲しいわけだ。

 ちょうどいい、各部門の責任者に伝達する。予算要求書の提出は、明日午前9時までだ。

 一秒でも遅れたら、来年度はひもじい思いを覚悟してもらうぞ。

 司令部以外は未提出だから早急に提出を。きちんと決裁を済ませてからな。

 事務部からは以上だ」

 

 藪から出てきたのは、火を吹くドラゴンだった。肩を竦めるアッテンボローである。

それでも恐る恐る挙手をして、質問ができるのは後輩の強みであろう。

 

「キャゼルヌ事務監。分艦隊の予算もですか?」

 

「そちらは司令部の予算要求に組み込んであるが」

 

 返答はムライ参謀長からであった。

思わず胸をなで下したアッテンボローは、はっとしてムライに礼を言った。

 

「ヤン司令官からの指示だ。小官の部下とグリーンヒル大尉のお手柄だがね。

 では、司令部の方はあれでよろしいかな、キャゼルヌ事務監」

 

「ええ、結構です。どのみち、要求が丸呑みされるなんてことは有り得ませんからな。

 小官も切っていた側ですから。切らせておいて、必要額を確保するのが腕ですがね」

 

 なんとなく、これを合図に散会と相成った。来るかわからぬ帝国の来襲よりも、明日午前9時以降に確実に襲ってくる事務監の舌鋒のほうが遥かに恐ろしい。

 

 白兵戦の勇者にとっては、こちらの方も今までとまったく規模が違っていた。薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊は約二千人。イゼルローンの要塞防御部門の人数は、それどころではない。人件費は人事管理部が計算してくれる。せめてもの救いである。だが、彼らが必要とする装備品、兵器、エネルギー費。想像の彼方の金額だ。全く、雷神の槌で悩んでいる場合ではなかった。

 

 要塞防御部にも事務担当者はいるので、彼らに指示をして計算をさせるわけだが、算出根拠から手探りである。これも帝国軍の資料が発見されたため、帝国マルクをディナールに換算し、若干の予備費を盛り込ませるのが精一杯である。一点、シェーンコップの発案事業も計上したが、それの積算が一番楽だというのは、なんとも皮肉であった。

 

 幹部会議の午後。ようやく決裁の終わった予算要求書を携えて、要塞事務監の執務室を来訪する。事務部の女性士官の熱い視線に、彼なりの礼儀で応えてから入室する。机上に書類を積み上げて、数字と格闘する事務の達人の姿があった。

 

「おや、貴官が直々に持ってきてくれるとは思わなかったが」

 

 実に鋭いお人だ、とシェーンコップは胸中で司令官に語りかけた。

閣下、この切れすぎるほど鋭い、数字と事務と毒舌の達人と、自分のどこが似ていると?

無論、ヤンが聞いたら本当に他人のことはよく分かるんだよね、と返したであろう。

 

「いえ、こちらが予算計上した事業に、きっと事務監からご質問があろうかと思いましてね。

 どうせでしたら、一緒にご説明にあがった次第ですよ」

 

「ほう、見せてもらえるかね」

 

「どうぞ、お手柔らかに……」

 

 薄茶色の眼が紙面を見詰めながら、右手の人差し指が小刻みにデスクの表面を叩く。

数頁が繰られ、右手の動きがふと止まる。

 

「これか」

 

「ええ」

 

 キャゼルヌが指摘し、シェーンコップが同意したのは、軍人と軍属の健康診断に、より精密な薬物中毒の項目を盛り込む事業案だった。兵士、下士官、尉官以上と階段式に計算され、全額が無理なら出来る範囲で施行を、という強い要望がうかがえる。

 

「『シェーンコップの日』の件だな」

 

「あれにはぞっとしましたよ。閣下ご自身は言うに及ばず、あの坊やを人質に取って、

 ヤン・ウェンリー出てこい、という輩が出ないとも限りませんからな。

 要塞防御といっても、守るべきは場所ではなく人です。

 ヤン・ウェンリーなくしては、ここは鉄屑に成り下がる。

 閣下は護衛をお嫌いになるし、かといってご本人は戦闘員として三流以下ですし、

 装甲服を24時間着せるわけにもいかないでしょう」

 

「そうさなぁ。あれの稼働限界は2時間だったか、あいつじゃその半分も保たんな」

 

 白兵戦で使用する装甲服には、小型銃火器や一般の刃物は通用しない。その半面、気密性が極めて高く、内蔵のエアコンでは体温より数度しか温度を下げられない。鍛え抜かれた陸戦部隊員でも長時間は着用できず、あの文弱な後輩には到底無理だ。

 

「そちらは冗談ですが、要塞という閉鎖空間で、麻薬の蔓延(まんえん)はなにより恐ろしい。

 正直、兵士の健診の間隔では、薬物中毒を防ぐことはできないでしょう。

 ですが、一定の抑止力は望める。下士官、尉官以上の間隔でしたら、実効性があります。

 すくなくとも、チームリーダーが錯乱し、下っ端には手の打ちようがない、という状態は

 防ぐことができる」

 

 シェーンコップの説明に、キャゼルヌは頷いた。先日のミーティングでも思ったが、決して腕っ節だけの男ではない。ヤンに対する配慮も、役職を超えた細やかなものだ。 

 

「それに、尉官以下は幹部との接触も少ない、ということもあるからな。

 貴官の言い分には筋が通っている。よくできた事業案だ。だが、これは不要だったな」

 

 あっさりと却下されて、シェーンコップの形のよい眉が鋭角的なラインを描いた。

 

「理由を説明していただきましょうか」

 

 視線を鋭くする美丈夫に向けて、キャゼルヌは人の悪い笑いを浮かべた。

 

「次年度とは言わず、来月から実施するようにしたからさ。

 健診の項目を増やすだけだから、検査金額を叩いた。今年度予算の誤差の範囲さね。

 で、来年度はそれを継続する。前例ってのは強いからな」

 

 薄茶色の瞳に浮かぶのは、策略家の笑みだった。




最強最大最悪の敵、汝の名は貧乏。要塞事務監に非ず。

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