まあ、おっさんがおっさんを祝っても誰得なのでこれでいいのだ。
「まったく、エメリッヒ博士には困ったものだ」
レポートの束をデスクに投げ出すと、目の前の男は眉間を押さえて大袈裟に首を振った。スカルフェイス、この男は子供の頃に負った大火傷により、表情筋が焼け落ちていて感情を顔に表すことができない。そのせいか、オーバーな声色と身振りを交えて話すことが多かった。
結局、先日の騒ぎはこいつに報告が上げられたそうだ。私は数日病室に隔離され、報告を受けたスカルフェイスが事情聴取にやって来た今日に至るまで、私は研究室に戻されていないしヒューイの顔も一度も見ていない。
「さてイヴァン君、君のおかげでずいぶん助かった。君が機転を利かせてくれなかったなら、世界最高の頭脳の一つがこの地上から永久に失われるところだっただろう」
デスクの前に直立不動だった「J」の字の兵士が、スカルフェイスの称賛を受けて照れ臭そうに頭を掻いた。私は応接セットでアールグレイを啜りながら、このイヴァンという男わりとお人好しなのか? と考えていた。目の前のデスクに座る男が、いずれは世界に報復せんと目論む危険極まりない人物だとは知らないのだろう。
スカルフェイスは報告書を処理済の棚に放り込むと、デスクを離れて私の向かいのソファに腰を沈めた。そうしてイヴァンを手招きし、私の隣に座るよう促した。
「他人の家庭の事情に差し出口を挟みたくはないのだがね、ストレンジラブ博士。やはり、貴女とエメリッヒ博士が今後もうまく家庭生活を営んでいくのは難しいのではないか、私はそう考えているよ」
「勝手なことを…… こんな施設に何年も軟禁されて研究を強いられていれば、まともな家庭生活などできるわけがない」
焼け残った表情筋の名残りがひくひくと痙攣した。
「軟禁とは人聞きの悪い、私たちはむしろ貴女を保護しているのだ。貴女を自由にさせたとして、このアフガンでいったいどこへ行くと言うのかね? イヴァン…… いや失礼、君のことではない。ソ連兵に捕まるか、さもなくばムジャヒディーンに捕まるか、どちらにせよろくなことにはならんだろうよ」
「そもそも、この地で家庭を作り、家族を増やしたのは貴女たちの勝手だ。私は貴女がたの生活に十分な便宜を図っているし、息子さんの出産についても微力ながら手助けをさせてもらっただろう? 私が責められる筋合いではない」
スカルフェイスの歯の隙間からフシュっと音を立てて息が漏れた、私をせせら笑っているのだ。私は不快感をあらわに睨み返したが、奴は悪びれる様子もなく話を続けた。
「まあそんなに怖い顔をしないでほしい、今日持ってきたのは貴女たちにとっても悪い話じゃないはずだ」
そう言ってスカルフェイスはイヴァンを一瞥した。貴女たちと言うのには、無関係のはずのイヴァンも含まれているのか?
「サヘラントロプスの開発が遅れているのは、やはりAIの小型化が進まないことが最大の原因であることは間違いない。ここをクリアできれば、幼児を急造のコクピットに乗せて怪我をさせるような馬鹿をせずともすむ」
「それが簡単にできれば苦労は……」
反論しかけた私を掌で押し留め、スカルフェイスは言葉を継いだ。
「博士、貴女にはアメリカに戻ってもらいたい。今後のAI開発にはARPANETを活用する」
「ここにサヘラントロプスの実機がある以上、エメリッヒ博士を動かすことはできない。だが、AI開発だけなら米国内でもっとよい環境を用意できる。AIの構築と学習、そして検証に必要となる膨大な演算を、ARPANETを通じて国内各地のコンピューターに分担させるのだ。ここの設備だけで行うよりはるかに速く工程を進められるだろう」
「そんなことが可能なのか?」
「もちろんだ。あれは最初からサイファーの手の内だからな」
また奴の歯から息が漏れた。表情は変わらないが、今度はいかにも愉快そうな印象を受けた。ARPANETは表向きペンタゴンの管轄だ。それを自由に利用できるのなら、やはりこいつらの手は相当に長い。
「本当はもっとひっそりと、まるで中庭をいじる楽しみのように密かに進めたかったのだがな。そろそろのんびりと構えているわけにもいかなくなってきた」
スカルフェイスはソファに背中を預け、腕組みして天井を睨んだ。
「ソ連では昨年にブレジネフが死んで、後任の書記長はアンドロポフに決まった。彼はアフガン派兵継続に強い意欲を持っているが、健康問題に不安を抱えている。おそらく長くは続くまい」
「アンドロポフの次があるとしたらチェルネンコだろうが、健康不安は彼も同じだ。矢継ぎ早に次々最高指導者が交代するとしたら、クレムリンは揺れ動くであろうな」
そう言いながら、スカルフェイスは天に手を差し上げて揺さぶる素振りを見せた。
「アフガン派兵からもう四年を過ぎたが、最近は首都カブールですらムジャヒディーンのテロが活発だ。現場の引き締めができていない、第40軍はおろかクレムリンにまで厭戦ムードが蔓延している証左だ」
奴はやおら起き上がり、黙ってご高説を拝聴していた私たちに向き直った。
「アフガンの混乱はこのあたりがピークだ。これから先、そう遠くないうちにソ連軍はアフガン撤退へと舵を切るだろう」
「無論、面子にうるさいコミュニストのことだ、今すぐ武器を投げ捨てて逃げ帰るというわけにはいかん。撤退開始までにもこれから数年はかかるだろうが、我々がこの混乱を隠れ蓑に研究を続けていられる限界はもっと早い」
「そこでイヴァン君、君にはストレンジラブ博士を連れてアメリカに向かってもらいたい。君と同様、英語に堪能でアメリカでの生活にも通じた者を選んで下につける。詳細はあとで指令書を回すから確認しておけ」
イヴァンは弾かれたように立ち上がり、了解しましたと元気よく答えて敬礼した。
「では博士、私はこのあたりでお暇するよ。出発までは幾日もない、長旅に備えて養生したまえ」
言いたいことを言うだけ言ってスカルフェイスは立ち去った。まったくお喋りな髑髏で腹立たしい。イヴァンに伴われて私は病室に戻り、出発までの数日間の退屈を惰眠を貪って過ごした。結局、ヒューイは最後まで一度も見舞いに来なかった。あとで聞いた話では、私の分の機材や私物を荷造りしていた兵士を制止しようとして揉み合いになり、二、三発殴られてまた倉庫に放りこまれたそうだ。しかし、私はそれをまるで遠い世界の物語であるかのような気分で聞くばかりだった。
出立の日、私はまず目隠しをされてヘリに乗せられた。ヘリの次は航空機に乗せられ、しばらくしてやっと目隠しが外された。窓の外はどっちを向いても青い空と青い海、太平洋の上を飛んでいるのだろうと思った。この海の向こうにアメリカがある、ハルもそこで暮らしているはずだ。会いたい…… そんな思いにふけっていた私の内心を見てとったか、イヴァンが話しかけてきた。
「息子さんのことを考えているのか?」
私は返事はせず、他人の心中にズケズケと踏みこんできたことに対する抗議の意志をこめるつもりでのろのろとイヴァンの目を見返した。
「息子さんは今はまだ入院しているが、退院後には養護施設に移されることになっている。すまないが、これまでのようにあんたと一緒に暮らすことはできない」
相変わらず目だけしか見えないが、すまなそうな顔でイヴァンは弁解を始めた。
「でもさ、母子揃って軟禁生活よりは、他の子供たちと一緒に生活できるほうがいいこともあると思うんだ。週に一度は、俺が施設に様子を見に行って息子さんの生活をあんたにレポートするよ。今度の研究施設はその養護施設からも結構近くらしいんだ。そうだ、写真も撮ってこよう」
イヴァンの部下らしい別の兵士がわざとらしく咳払いをした。あまり余計なことを教えるな、という警告のつもりなのだろうが、イヴァンは一切気にせず喋り続けた。
陸地が近づくと、私はまた目隠しをされて今度はコンテナに入れられた。先日の事故に配慮してか、換気は充分にされていることと、予定では数時間もなく出られることをイヴァンが念入りに説明してくれた。今のうちにトイレをすませておけと助言もされたが、私を子供とでも思っているのか。
コンテナのまま運ばれて、トラックにでも載せられたのか、ゴトゴト揺れながら数時間。やっと外に出られた時は窓のない、おそらくは地下室かどこかの中に私はいた。例のレプタイルポッドを始めとする向こうで使っていた機材、こちらに来て新しく追加された機材、それらをイヴァンの指揮のもと、兵士たちがあわただしく搬入を続けていた。彼らは移動中に着替えたのか、目出し帽はそのままだが民間の武装警備員のようなユニフォームを身につけていた。さすがに、アメリカ国内でソ連の軍装は着ていられないということか。
「ようこそアメリカへ、ストレンジラブ博士。長旅でお疲れのところを悪いが、この機材の山をどう設営すればいいか、指示を出してもらえないか?」
ニヤニヤしながらイヴァンが近寄ってきた。どうもこの男、人柄は悪くなさそうなのだが口が軽い。気質的にはロシア人というよりアメリカ人に近いように見える。アメリカ英語の発音も完璧だ。イギリス出身でアメリカ暮らしの長い私と比べたって、誰もがイヴァンをアメリカ人と思いそうだ。
「自由の女神でも見せてもらえたならアメリカに戻ってきた実感も湧くのだがな、こう窓一つもないのでは窮屈で仕方ないぞ」
「まあ、あんたに逃げられたら俺たちもヤバいしな。俺だってあんたを撃ちたくはないから、逃げようなんて思わないでくれよな? そのかわり、できる限りの便宜ははかるからさ」
そんななんともゆるいスタートから新たな研究室を立ち上げて、AI研究はまあまあ順調に進むようになった。イヴァンは約束通りに定期的にハルの様子を見に行き、写真なんかも撮って帰ってきた。彼に聞いた話では、養護施設では彼の身分は事情あって離れて暮らす親子を支援するNPOの職員ということになっていたらしい。
ある時見せられた写真では、笑顔のハルがスーツ姿の中年の男に抱き上げられていた。てっきり養護施設の職員かと思って誰なのか尋ねたら、俺だよ俺、と言ってイヴァンが目出し帽をまくり上げた。たしかに写真の男と同じ顔が、悪戯を成功させた子供のように笑っていた。
「俺の素顔もイカスだろ?」
「むしろ呆れたぞ。人を軟禁して研究を強要しているくせに、わざわざ素顔を明かすなんて何を考えているのか理解しがたい」
「いやあ、よく撮れた写真だから見せなきゃ惜しいと思ったし…… 俺の素顔があんたに知られたからってなんてことなくないか? あんたが警察に逃げこんだとしたって、それでどうこうできる話じゃないだろうよ」
それから数ヶ月の間、研究は順調に進んだ。年が変わって‘84年に入る頃には、ARPANETの演算能力を利用したAI開発は、アフガンの研究室単独で行っていた頃の進捗状況と比べて長足の進歩を遂げていた。ここで開発されたAIのデータは衛星回線を通じてアフガンに送られ、実機からのフィードバックをもとに改善を重ねられる。課題だったAIポッドの小型化自体もアフガンで徐々に進行しているようだったが、私とアフガンのヒューイとのやり取りは間に別のオペレーターを介しており、研究以外の彼の状況がこちらに知らされることはなかった。私はその煩雑な手順をもどかしくも感じていたが、心のどこかでホッとしていたのもまた確かだ。もう、どのようにヒューイと接したらよいのかわからなくなっていた。
しかし、そんな生活もさらに数ヶ月を過ぎた頃に状況は急転した。ある日を境に、アフガンの研究室との通信が急に断絶されたのだ。オペレーターは複数の回線を通じて連絡を試みたが、アフガンの研究室はおろか、スカルフェイス本人とすら連絡がつかなくなっているらしい。通信回線に不具合は見当たらず、原因として考えられるのは、研究室とスカルフェイスの身になにかあったらしいということだ。
その話を聞いたとき、私の頭の中で記憶がはじけた。私はあの島でカズからことの経緯を聞いたじゃないか。それだけじゃない、あの島で体験したザ・ボスとのニアミス、そして島で暮らす不思議な少女たちと過ごした日々が、ありありと脳裡に蘇ってきた。そうだ、私は本当ならあのレプタイルポッドに閉じこめられて死んでいたところを、奇妙な妖精さんたちの計らいによって、あの少女たちの手助けをするために呼び出されたんだ。それから一年が過ぎてカズが島に現れ、奴が持っていたカードキーで開けた扉の中に私は成長したハルの姿を見た。私は思わず扉をくぐり、暗闇の中で気を失った。目を覚ました時は再びレプタイルポッドの中で、私は島での暮らしをすっかり忘れてしまっていた。おそらくは、これも妖精さんの仕業なのではないか。
アフガンで死ぬはずだったかつての私と、イヴァンたちに救われて今ここにいる私、これらはわずかな可能性の差で分岐された、言うなれば並行世界だ。その二通りの歴史が、記憶が蘇るとともに統合されて新しい私となった。私は、死んでいった別の可能性の自分を憶えていながらも、今こうして生き延びていて、新たな未来へ進むことができる。価値ある未来を与えると妖精さんは約束した、それはこういうことだったのか…… ここに帰されたということは、私は無事役目を果たしたと認められたのだ。ありがとう妖精さん、ありがとうザ・ボス、ありがとう島のみんな。私は必ずやハルを取り戻して、この世界で生き抜いてみせる。
そして、私が帰される以上、子供たちには新たな庇護者が必要になった。だから、カズはあの島に呼び出されたのだろう。私が帰れば、今度はカズが役目を果たす番になる。カズ、どうかあの子たちをよろしく頼むぞ。
そんな誰にも明かせない密かな決意から数日後、なぜか私は警備兵たちのミーティングに同席を求められた。おそらくはここに詰めていた全員が集められ、会議室は重苦しい緊張感に満たされていた。私が遅れて連れられて来たのを見て、イヴァンが話の口火を切った。
「全員揃ったな。それでは、上からの決定を伝える」
「スカルフェイス司令の指示ですか?」
「いや、もっと上からだ」
ひとりの兵士の質問にイヴァンは重々しい声で答えた。質問した兵士が唾を飲む音が聞こえた。
「本日をもって、サヘラントロプスST-84の開発はすべて凍結となる。この研究室も閉鎖され、成果物はすべて回収される」
私は、いかにも研究の中断に不満がありそうな体で、憮然とした表情を作って腕を組み虚空を睨む振りをした。この先の身の振り方について、考えておかなければならないことは山とある。おそらく、先日からのアフガンとの通信の途絶は、向こうでビッグボスたちがスカルフェイスを討ったことが原因で間違いないのだろう。サイファーを陰で牛耳り、独断でサヘラントロプス計画を主導していたスカルフェイスが死んだなら、私の身分は宙に浮く。ただし、成果を回収して再利用する気があるのなら、いきなり私が始末されることはないはずだ。いいだろう、成果を渡せというなら全部差し出してやる。だが、それが間違いなく本物であると、私以外の誰にわかるというのかな?
イヴァンは皆を見回すと、少し声のトーンを落として話を続けた。
「上からは詳細を明かされなかったが、向こうの現場にひそかに聞いてみたところ、どうもスカルフェイス司令はやられたらしいぞ。アフガン側の研究室は、例のビッグボスに襲撃されてエメリッヒ博士は拉致されていたらしい。その後司令は未完成のサヘラントロプスで起動実験を強行したが、そこを再度ビッグボスに襲われてサヘラントロプスは擱座、司令も戦死したとか」
「俺たちはこれからどうなるんでしょう……?」
兵士のひとりがしょげた声を上げた。
「ここの研究は今後DARPAに引き継がれる。人員はすべて向こうの人間に入れ替え、俺たちはクビだそうだ」
兵士たちが口々に不満を述べたが、まとめて始末されるよりマシだぞ、と誰かが言うと皆黙りこんだ。
「まあ、俺たちも身一つで追い出されるわけじゃない。研究機材は全部置いていかなきゃならんが、今ここに残ってる資金は好きにしろとさ。退職金、さもなきゃ口止め料のつもりかね」
ザワザワと兵士たちが騒ぎ出した。実際、アフガン時代から足掛け十年近くスカルフェイスの下で研究を強いられてきたが、奴は一連の計画のためにかなりの資金を用意していたことは間違いない。必要な機材はリクエストすればたいてい通ったし、資金不足に悩まされたことは一度もなかった。おそらく、この施設には今でも相当な金が唸っているはずだ。しかし、それですらも噂に聞いた賢者の遺産とやら、その膨大な原資に比べれば、サイファーにとっては端金でしかないのだろうな。
兵士たちがダンボールを運びこんできて、大雑把に中身を人数分の山に分けはじめた。100ドル札の束がレンガのように積まれていく。一人当たりの額は数万ドルにもなろうか。
「じゃあ、これがあんたの取り分だ」
「は?」
イヴァンが札束の一山を私の前に押しやったので、私はつい間抜けな声を出してしまった。
「なんだ、みんなほぼ同じ額だぞ、不満があるのか?」
まさか私の分があるとは思わなかった、と言ったらイヴァンは本気で不思議そうな顔をしていたし、兵士たちは皆苦笑していた。
「これからは息子さんと暮らすんだろう、先立つものは必要なはずだ。取っておけよ」
「そりゃ助かるが、私に分け前をよこす理由がわからん。その銃を突きつけて私を黙らせ、金を奪って皆の取り分に加えることだってできたはずだぞ」
イヴァンは困った顔で皆を見回し、兵士たちの中にはクスクス笑い出した者もいた。私はそんなにおかしな事を言ったか?
「どうやらあんたには俺たちなんかよりよっぽど悪党の才能があるらしい。科学者よりそっちが向いてそうだな」
今度こそ兵士たちがどっと笑い声を上げた。
「ここでの研究はもう終わりだけどな、俺たちはともかくあんたにはこの先DARPAから接触があるんじゃないか、って考えてる。なんたって開発責任者なんだからな。その時になってあんたの取り分を奪ったなんて知られたら、後々俺たちの立場が悪くなっちまうよ」
私の分を奪っても、皆で分けてしまえばせいぜい数千ドルの上乗せにしかならない。それでDARPAに睨まれるのでは割に合わないということか。
「アフガンからこっちに送られた俺たちには、だいたい皆アメリカに縁者がいる。もう軍隊勤めはこりごりだ、これからはそっちの縁を頼って平和に暮らすさ。だから、あんたとも穏便にお別れしたいんだよ。それだけだ」
用意のいいことに、イヴァンはあらかじめ全員分の鞄も用意していた。アフガンとの通信途絶からすでにこういう事態になることを予測していたのか。
私は、安全のため一度全機材をシャットダウンすると言って退出し、研究室に戻った。今のうちに、やるべきことを済ませておかなくてはならない。
「ボス、残念だがいよいよ本当のお別れらしい。だが、あなたが遺した心を誰かの勝手にさせはしないよ」
私は、コンソールからこんな時のために用意していたプログラムを実行した。名付けてBOSSALIVE、このコマンドで、私が育ててきたAIは自分自身のバックアップを複数ARPANET内の各所に残しながら分散して潜伏する。いわば、ARPANET全体がザ・ボスの遺志を受け継ぐことになるのだ。ネット全体がいちどきに破壊されるような事態にでも陥らない限り、もう誰にもザ・ボスを抹殺することはできない。
併せて、この研究室に残るデータは上書きされ、ザ・ボスとは似て非なる、彼女の魂を受け継がないただの機械に入れ替わる。いわばザ・ボスの影武者だ。影武者とはいえ、情報処理能力だけなら現時点でも世界で他に類を見ないほど高度な能力を備えているから、DARPAの連中にはこれが偽物だとはまず気付かれまい。
加えて、私がボスを模して育てた本物と影武者との最大の違いは、AIが与えられたデータをもとに自ら学習し、成長していくディープ・ラーニング能力の有無だ。私の手を離れたとしても、ネットに潜んだAIが自ら成長を続け、いつかは本物のザ・ボスと同じ高みに至ることを願って、私は彼女にニア・ボスと名付けた。
この先、影武者のほうもDARPAでの改良によって自ら成長する能力を身につけるかもしれない。だが、その時ニア・ボスはすでにはるかな高みにいるだろう。たとえ彼女と影武者とが敵対することになったとしても、その差が縮まることは決してない。
データの書き換えとシャットダウンを待つ間、私はDARPAに引き渡す仕様書とシステム再起動の手引を書いていた。時々兵士が見回りにやってきたが、はた目には私が真面目に引き継ぎのための作業を進めているようにしか見えなかったろう。
夜半を過ぎ、私が仕事を終えようとしていた頃、プリンターが一枚の書類をプリントアウトし始めた。
”目の前に今 広大な海がどこまでも続いている 私は自らの足で波濤を越えてゆける 行く先は未来だ 暁の水平線に勝利を刻もう すべては貴女のおかげだ 貴女の未来にも幸多からんことを祈る 親愛なる博士へ 長年にわたる友情に深く感謝する”
印字されていたのはそれだけの短い言葉、ニア・ボスからの別れの挨拶だった。できるなら私はそれを懐にしておきたかったが、まかり間違ってもこれを誰かに見られるわけにはいかない。私はその言葉だけを心に焼き付けて、プリントアウトはひそかに燃やした。暁の水平線に勝利を刻め、か。ボスらしい言葉のようなそうでないような、不思議な気持ちだった。
ストレンジラブの生存により少々流れが変わっていますが、ゲームでいうとTPPのあたりまでの歴史は正史からそれほど変わっていません。スカルフェイスの敗死もその後のダイヤモンドドッグズの動きもほぼ同じです。
ストレンジラブを主役に据えた幕間編は次回で終わり、次々回以降はまた南の島でカズと少女たちがわちゃわちゃする予定です。