ダイナーを出てからもうしばらくを走って、やがて車は見知らぬ街に入った。この街にハルの暮らす施設があるのだという。もうすぐだぞ、心の準備はいいかとジョニーが念を押した。正直に言って、心の準備など今もってできてはいない。だが、身構えて家族に会ってどうするというのか。私は体面を取り繕わない、むき出しの自分でもう一度ハルに向き合おうと決めた。
向こうに大きな建物が見えてきた。ジョニーがクラクションを短く二回鳴らすと、ゲートの前に立っていた二人連れが振り向いた、あれはハルだ、別れたときより大きくなっている。ハルが、初老のシスターに手を引かれてこっちを見ていた。
ハルまであともう少しで届くのに、そこで車は渋滞に引っかかっていた。私は思わず助手席から飛び出し、歩道をハルのほうへと駆け出した。
「ありがとうジョニー、もうここまでで充分だ」
「おい、ちょっと待てって! ……ああもう、子供じゃないんだから転ぶんじゃないぞ!」
ハルの待つゲートまではせいぜい百何十メートル、心は風よりも速く走ったつもりだったが、長い軟禁生活がたたり私の体力不足は目を覆わんばかりの情けなさだった。髪を振り乱しサングラスを取り落とし、わずかな距離なのにあっという間に汗だくだ。思い出したが私はすっぴんのままで、いつものUVケアすらしちゃいなかった。すれ違う人々がみじめな私を奇異の目で見ていたが、それがなんだというのだ、すぐそこにハルがいるんだ! ゲートまで走りきった途端に私はまるで許しを請うようにハルの前に跪いて、ただハルに縋りつくだけしかできなかった。
「お母さん、肌が弱いのに無理しちゃダメだよ」
ふわりと私の頭に被せられたのは、ハルが着ていたチェックのシャツだった。
「は、ハルくんのお母様でいらっしゃるのね。わたくし、当院の院長を務めておりますフィールグッドと申します。ジョニーさんから伺っていたより遅れてたから心配してましたのよ」
シャツを被されたとき、私は許されたのだと初めて実感した。ハルや施設の人々に対して今日まで申しわけなかったと思うとともに、それ以上にこれまでのことへの感謝と、これから先を正しく生きていこうという決意が胸にこみ上げた。シスターの丁寧な挨拶を受けながらも、私はまだ息を切らせたままろくに返事もできなかったが、なんとか立ち上がりシスターの手を握って深々と頭を下げた。
「こんにちは、シスター・フィールグッド。お待たせしてしまったようでまことにすみません、ちょっと途中で腹具合が悪くなってしまいましてね」
私がヨタヨタ走っている間にどこかに車を停めたジョニーがもう追いついてきて、ばつの悪そうな口調で遅刻を詫びた。まあ、またですの? 身体にはお気をつけなさってね、とシスターが困ったような声で答えた。どうやらジョニーの腹下しはここでも知られていたらしい。
「落とし物ですよ、博士」
ジョニーは私が落としたサングラスも拾ってきてくれていた。レンズが片方割れて抜けてしまっていたが。
「ジョニーおじさん! ありがとうございます、お母さんを連れてきてくれたんですね」
「一年も待たせてすまなかったね、ハル坊。でもごめんな、お父さんはまだ外国でお仕事らしいんだ」
ジョニーは謝ったが、ハルは複雑そうな表情を見せた。賢い子ではあるが、我が子を兵器の試験に利用した狂った父との愛憎に、幼い心ではまだ整理がついていないのだろう。
施設内に案内された私たちは、ハルを引き取る手続きをすませ、世話になった職員や仲良くしてくれた他の子供たちに別れを告げて養護施設を発った。ジョニーは私たちを最後まで送ってくれるというので、せっかくここまで来たのだが再びカルテクに戻ってもらうことにした。カルテクには私の在学時に世話になった先生や同窓生が今でも残っているかもしれない、その縁を頼って講師の口でも紹介してもらえれば、この先ハルを育てていく活計となると考えたのだ。
仕事の口は意外にあっさりと決まった。アフガン時代から書きためていた論文は教授会に好評をもって受け入れられ、私はカルテクに再び籍を置き、教鞭をとることとなった。
新学期が始まる頃、研究室にジョニーから手紙が届いた。文面は、『なにもかもうまくいった、ありがとう』その一言だけで、一緒に家族との写真が添えられていた。写真の中央には赤ん坊を抱いた日系人らしい若い母親が座っていて、その周りをジョニーとその妻、そして成長した息子のジョニーが囲んでいた。みな幸せそうな笑顔だった。二十年ぶりに帰還したら知らぬうちに孫が産まれていたとはな、その孫もきっとジョニーなのだろう。ジョニー一族の系譜が末長く続くことを私も願う。
それから、二十年の歳月が瞬く間に過ぎた。
その日私は、わが研究室の学生たちに新しい著書の出版を記念したお祝いをしてもらって、少々ほろ酔い気分で自宅アパートメントの玄関前に立っていた。私はもう六十代も半ばを迎えていたが、まあシャンパンの一杯程度なんということはない。まだまだ足腰も頭もしっかりしている。二十年前にハルを迎えに行ったあの日以来、私は自分の運動不足を省みて、暇を見ては体力作りに励むようになったのだ。今ではずいぶん健康体になったものだと自画自賛している。
生来日光に弱かったはずの私の肌は、あの島から戻って以来嘘のように紫外線に強くなっていた。専門外ではあるが自ら調べてみたところ、私の肌には今でも正体不明のナノマシンの活動の痕跡が認められた。おそらく、これはあの島の少女たちが身体に投与していたナノマシン、ナオミ・ハンター医師の発明品そのものであろうと思われる。私自身はナノマシンの投与を受けてはいないが、私と少女たちとはあの島で一年にわたり共に暮らしていた。その間には相応のスキンシップも多かったし、日々同じ風呂に入り時には同じ布団で眠ることすらあった。
人間の表皮に存在する皮膚常在菌は、同居の親族では似通った分布をしているが、他人同士であっても同居して身近に接触を続け、菌のやり取りを繰り返すうちにその分布は似通ってくるのだという。それと同じように、私の肌にも彼女たちからナノマシンが移ってきたのではないだろうか? もっとも、体内にまでマシンの注入がされていない以上は、それはおそらく私の体表を薄く覆っているだけのもので、彼女たちがそうであったように、怪我を瞬時に治したりするまでの効力はないだろう。それでも、私の体質を劇的に改善してくれるだけの効果はあったのではないかと、そう仮説している。まあ、これはあくまで専門外の素人の想像だ。この世界にナオミ・ハンター医師が存在するのかはわからないが、もしも彼女に出会う機会があったなら、訊ねてみることもできるかもしれない。
カードキーを通して玄関を開けると、不意にパンパンと破裂音が響いて、私は反射的に一歩たじろいだ。玄関の中の暗がりには、クラッカーを持ったハルが立っていた。その姿を見て私は思い出した、これは二十一年前、私があの不思議な島で開かずの扉を開けたときに見た光景だった。あのとき私は扉の中の男に歩み寄るつもりでドアをくぐり、そしてこの世界に帰ってきたのだった。
再会してから二十年、ハルは随分と大きくなった。父親そっくりに育ったのはちょっと癪だが、父よりも男前になるようしつけてきたつもりだ。毎日髭を剃り髪を整えろ、高くなくていいからきちんと手入れした服を着ろ、そう教えたはずだったが、今日の息子は髪はボサボサ、無精髭が伸び始めている。悪いところはどんどん父に似るなぁと思い、私は小さく息を吐いた。
ハルは、今ではもう私と同居はしていない。飛び級でカルテクに進学したのを機に、大学のすぐ近くで一人暮らしを始めさせた。彼は去年博士号を取ったが、その研究テーマは私とは違い、今でも大学に残って小型の二足歩行機械の開発を続けている。なぜそれをテーマに選んだのか聞いたら、まだ小さい頃に父親が自作の歩行機械で歩いていたのを憶えていて、あれをもっと安全に、より多くの人に普及できるようにしたいと考えたのだと答えた。
この二十年、ヒューイからの連絡は一度もない。もう死んでしまったのか、あるいはどこかでのほほんと生きているのか、それは私たちにはわからない。ただ、彼の研究は今もハルのなかに生きているのだ。だから、私はハルに父の姓を継ぐことを提案した。そうして、彼は今ではハル・エメリッヒを名乗って暮らしている。これもまた私にとっては癪なことではあるが、行方知れずのままの父親へのせめてもの供養だと考えている。
「ハル、来ていたのか。あまりこの年寄りを驚かせないでくれ」
「突然ごめんよ母さん、新しい本のお祝いをしたくって来たんだ」
「それはありがとう。ところで、おまえの後ろのお嬢さんはどなたかな? この私にも紹介してくれないか」
私が玄関に入ると、ハルの背後からまだジュニアハイくらいの少女がおずおずと顔をのぞかせた。あの島の少女たちと、見た目はだいたい同じくらいの年頃だろうか? そう思うとどこか懐かしい気がした。さっきクラッカーの音が二発響いたのは、この子もクラッカーを持っていたからだろう。
「あのぅ…… リデル博士でいらっしゃいますか? 突然お邪魔して申しわけありません、私、イングランドから来たエマ・ダンジガー、っていいます」
「初めまして、エマさん。確かに私がリデルだが、ドクター・ストレンジラブと呼んでくれてかまわないよ。プロフェッサーでもよい。そっちの方が通りがよくてね、私自身すっかり慣れてしまった」
私は、自分の研究成果を子供向けの読み物にまとめるにあたり、自分をモデルにした架空の人物、ストレンジラブ博士を解説役として登場させた。その本が好評を得てシリーズ化され、元来は私のARPA所属時代の仇名だったストレンジラブは、今では世間にも広く知られた私のニックネームとなっている。
リビングに入るとエマは、隅に置いていたリュックサックから何冊もの本をテーブルに積み上げた。それは子供向け学生向けを問わずすべて私の著書で、どれもこれも何度も読み返されてヨレヨレになり、付箋やメモをたくさん挟みこんで閉じきれなくなっているものがほとんどだった。
「あの、よかったら著書にサインをいただけないでしょうか? 先生の著書は、私がまだ小さい頃からずっと読ませていただいてるんです」
適当な一冊を取り上げてさっと目を通してみたら、付箋のみならずどこもかしこも余白は書きこみだらけだった。だが、粗末に扱っているという印象は受けない。手垢汚れや挟まったゴミなどはほとんど見当たらないからだ。大事に何度も読み返し、重要な点にマーカーを入れたり自らの考察を書きこんだり、私の研究室の生徒たちですら、ここまで私の著作を読みこんでくれている者は皆無といっていい。書きこまれた内容も、幼さゆえにか未熟さや荒削りなところも目立つが、若く瑞々しい感性が星空のように輝いているのを感じた。この子をぜひとも自分の研究室に欲しいと、私だけでなく学者であれば誰しもそう思うだろう。私はサインペンを取り出し、一冊一冊に丁寧にサインを入れてあげた。なんならエマ自身にもサインを書いて所有権を主張したいところだ。
「ところでハル、おまえはエマさんと一体どこで知り合ったんだ?」
無事新刊が出て、一人息子がお祝いに駆けつけてくれて、さらにエマのような素晴らしい逸材と引き合わせてくれた。いい感じに一杯ひっかけていることもあり私は上機嫌だったが、それもここまでだった。
「エマとは、昼間に大学の構内で出会ったんだ。母さんの新刊を持ってウロウロしていて、日が傾いてきてもまだ徘徊していたから心配になって声をかけたんだけど…… 母さんにどうしても会いたくて、イングランドから一人で来たんだって聞いて……」
ハルは言いわけがましい説明をもごもごと並べていたが、いくら行きがかり上のこととはいえ、それで初対面の少女を家に連れこんだのか、連れてくる方もついてくる方もどちらも大問題だ。なにか事故があったらどうする気だったんだ? 私は記念すべき今日の日に、急転直下頭を抱えることになった。
「エマ、渡米するにあたってはちゃんと御両親の許しをもらっているんだろうね?」
問い詰めるとエマは視線を逸らした。よもや家出娘か!
「私、父はもういないんです。母は私のことなんかそっちのけで新しい彼氏に夢中で……」
うぐっ、とハルが嗚咽を飲みこんだ。我が家とて母子家庭は他人事ではないが、こちらはネグレクトのおまけ付きか?
「はるばる会いに来てくれたのをすげなく扱うようですまないが、エマ。良識ある市民たる私としては、家出娘を保護した以上はすみやかに警察へ連絡せざるをえない。それからハル、この馬鹿息子め。エマを保護したらなんですぐ警察に連絡しなかった? 場合によっては、これは未成年者略取と解釈されても弁解のしようもない状況なんだぞ」
私が電話をかけ始めたとき、ハルとエマは顔を見合わせていた。二人とも目に涙を浮かばせて、ようやく事態の深刻さを飲みこんだという表情だった。どうでもいいことだが血縁もないのに妙によく似てるなこの二人。もしもハルが女の子に生まれてたなら、エマのような感じに育っていたかもしれないな。
市警に電話して事情を説明したところ、すぐに女性警官をよこすという返事だった。さて、ここからが勝負だ。最悪の場合、私もハルも親子揃って誘拐犯でお縄頂戴だ。そんなことになったら、私はもう生きてはおれん、これまで世話をかけてきた人々に合わせる顔がない。
「警官が来る前に、君たちに話しておくことがある。そこに座りなさい」
私はリビングのフローリングを指差した。二人とも三角座りで並んでいたので、私は少々恐い声で言葉を継いだ。
「座れと言ったら正座だ。ハル、おまえにはそう教えたな? 人の話を聞くときはきちんと座るものだ」
ハルがあわてて座り直し、エマもそれに倣った。欧米人には正座ができない者もいるが、エマは問題なく正座ができていた。私も、二人の前に正座した。もちろん私だって正座くらいできる。なにしろ、あの島で叢雲の説教を聞くときはいつも正座させられていたんだからな。
「最初に私の方針を伝えておく。まずエマ、やはり君には一度イングランドに帰ってもらわねばならないだろう」
エマはシュンとした面持ちで顔を伏せた、涙が落ちたのか、眼鏡を外してレンズを拭いていた。
「しかし、せっかく来てくれたんだ。私としても君に興味が湧いた、できることならもっと君と話がしたい。私の個人的なアドレスを伝えておこう、国に帰ったらここに連絡をくれたまえ」
驚いて顔を上げたエマに私の名刺を渡した。これは特別なもので、大学ではなくプライベートな電話番号やメールアドレスが記載されている、めったには人に渡さないほうのものだ。エマは、それを私の新刊に挟むと、大事そうにリュックサックにしまいこんだ。
「さて、程なくここに警官がやってくるだろう。私たちはそれぞれ個別に事情聴取を受けることになるはずだ。いいか、なにを聞かれても正直にありのままを答えろ。何度同じことを聞かれてもだ」
「特にハル、変に話を取り繕おうとして勝手な脚色や隠し事をするのは厳に戒めておく。そんなことをしたって相手にはすぐわかる、かえって嫌疑を濃くするだけだと心得ろ」
ハルはブンブン首を振ってうなずいたが、まさにハルの父がそういう男だった。結局のところ、そういう性分があいつを破滅に導いたのだ。
玄関のチャイムが鳴らされ、迎えに出ると門口には二人の女性警官が立っていた。外聞に配慮してくれたのか、二人ともバッジは持っていたが私服であった。ロス市警のエーカーとパインヒルと名乗った二人の刑事を招き入れ、まずは通報者である私から事情を聞きたいと言われた。エーカー刑事を書斎に案内すると、聴取を始める前にエーカーはバッグから私の本を出した。子供向けに書いたストレンジラブ博士シリーズの最新刊だった。
「まず初めに、この本にサインをお願いできますか」
警察官も私の本を読んでいるとは意外だった。まあこれくらいはと思って快くサインを引き受けたが、聴取を進めていく過程でエーカーは何度も新しい本を取り出してはサインを求めた。これは職権濫用ではないかと思ったのだが、筆跡鑑定のためですのでご協力をお願いしますとエーカーは涼しい顔だった。それ絶対嘘だろう? なんで私の筆跡が必要になるものか。
ちょっとしたサイン会くらいのサインを書いて私の聴取は終わった。それなのになぜか当事者のはずのハルとエマの聴取は二人合わせても私の半分くらいの短いものだった。ただ、刑事たちが言うには、エマの実家の母親と連絡がつかずエマの身元確認ができないとのことだった。
詳しく聞いて驚いたのだが、エマの実家はマンチェスターにあるそうだ、まさか同郷だったとはな。私は、エマに自分が子供の頃のことを話してやった。マンチェスターに程近いウィルムスローに居住していたチューリング博士に知己を得て、夜しか出歩けなかった私はしばしば博士を訪ねては数学について議論を重ねた話だ。あの頃私はちょうど今のエマくらいの年頃だったろう。
ところで、エマの姓はダンジガーとさっき聞いたな。Danzigerは現ポーランド領グダニスク、ドイツ名でダンツィヒに由来するドイツ系の姓だ。グダニスクは長い歴史の中で何度もポーランドとドイツとの間で奪い合いを続けられた街で、長い間ドイツ系国家の一部だったが、第二次世界大戦の終結後にポーランドが独立を回復してからようやくポーランド領に復帰した。私がまだ子供の頃のことだ。
このように私がダンジガー姓について憶えていたのは、私の生家と同じブロックにもやはりダンジガーという家があったからだ。私はもう半世紀も前の記憶をたぐり、その頃そこに住んでいた夫妻の名を思い出し、二人の名を知らないかエマに訊ねてみた。もしも彼らがエマの縁者であれば、祖父母くらいの世代にあたるはずだ。
「ごめんなさい、そのお名前はわかりません。私の母は勘当の身で、祖父母には会ったこともないんです」
「いや、それは手がかりになるかもしれないぞ。向こうの警察に照会してみよう」
結局エマはその名を知らないようだったが、突然口を挟んだパインヒル刑事はどこかに電話をかけ始めた。マンチェスターの警察に連絡をつけるとして、向こうはもう真夜中どころか夜明けも近い時刻だろう。
それから数時間の後、こちらではそろそろ日付も変わろうかという頃になってようやくエマの母と連絡がついた。私の知るダンジガー夫妻はやはりエマの母方の祖父母にあたり、娘ジュリーを勘当はしたものの、会わせてもらったこともない孫のことを気にかけていたらしい。夜中の電話で叩き起こされて事情を聞いた老夫妻が娘の家に怒鳴りこむと、ジュリーは電話を切って新しい男を引っ張りこみお休み中だったそうだ。
ここからはずっと後で聞いた話だが、この件でエマを母親の手元に置いたままにはいかなくなり、エマは祖父母に引き取られることになった。その後ジュリーはロビンソンとかいう実業家と再婚したらしいが、その後はどうなったのか私は聞かされていない。
問題が片付いた頃にはもう真夜中で、エマは結局一晩うちで預かることになった。刑事たちは翌朝出直してくると言って帰り、ついでにハルを自宅に送っていってくれた。就寝までのわずかな時間だったが、エマと私は楽しい議論の時を過ごすことができた。若い才能に触れ、それは実に有意義な時間だった。かつて私を導いてくれたチューリング博士やザ・ボスも、今の私と同じ気持ちでいてくれたのだろうか。
翌朝、迎えに来た刑事たちに連れられてエマは帰国の途についた。私は彼女にこう伝えた、学業を続ける気なら私の研究室に来いと、エマの席を必ず用意すると約束した。エマの乗ったパトカーが見えなくなるまで、私は彼女を見送り続けていた。
あくびを噛み殺しながら出勤すると、研究室に来ている生徒はまだ一人だけだった。
「おはようノーラ、昨日はありがとう。来ているのは君一人だけか?」
「おはようございます先生、私の他にはサラが物置で寝ていますよ」
ノーラとサラはうちに所属する学生のなかでも最も優秀な二人だ。ノーラはしっかり者で研究のみならず私の秘書的な役割まで受け持ってくれている得がたい人材だ。サラは学業優秀ではあるが、少々酒にだらしない一面を持っているのが玉に瑕である。昨夜ここで私の新刊を祝ってくれたのだが、私が帰ってしまった後も夜遅くまで残って飲んでいたのだろうな。
「学内で酒盛りをするなと総務課のヘレナに先日も叱られたばかりなのにな。今度こそ処分が下るかもしれないぞ」
「実はもう叱られました。昨夜、ヘレナさんがここに来られましたので……」
ノーラはきまりの悪そうな顔で言った。ああ、これはあとで私も叱られるやつだ。気が重いなぁ……
「なんでヘレナがここに? 今は提出期限を過ぎて溜めこんだ書類などなかったはずだが」
「昨夕、大学のほうに先生宛てのお電話が来たそうです。先生の古いお知り合いを名乗る方で、先生からご連絡をいただきたいと」
自分で言うのもなんだが最先端の研究に携わっていると、そこから利益を掠め取らんとする胡乱な連中は群れを成してたかってくる。知り合いを装って連絡をつけてくるなどは使い古された手もいいところだ。そういう連中を遠ざけるためにも、直通の連絡先を他人に教えることはあまりない、昨夜エマに名刺を渡したのは例外中の例外だ。
「ほーん、いったいどこのどいつからだね?」
私はその知らせにまったく興味が湧かなかったが、ノーラの読み上げた名前を聞いて思わず手が止まった。
「えっと、アラスカのベネディクト・カズヒラ・ミラーさんとおっしゃる方からですね」
なんだって? カズが? 私は、こちらの世界に戻ってからずっと、あえてカズには連絡をしないままでいた。あの島で聞いたカズの人生の通りなら、米軍に伝手を探せばカズにコンタクトすることはできなくもなかっただろうが、あの島をまだ体験していないカズにその話をしても狂人扱いを受けるだけだろうと考えたからだ。私はカレンダーを確かめた、暦は2005年の三月に入っていた。あいつが襲撃を受けたのはたしか先月末だったとあの島で聞いていた、奴も私と同じように役目を果たして帰されたということなのか? ノーラがくれたメモには電話番号が控えられていた、あとで電話をかけてみよう。
ストレンジラブの幕間編、今度こそ終了であります。本来の最終話が長くなり過ぎたので分割して話数を増やしたはずなのにまた長くなった…… なんで?
ストレンジラブ博士、公式設定じゃ本名はわからないし正確な生年もわからないしで非常に書くのに困るキャラでした。本話ではストレンジラブ博士の本名、姓をリデルとしていますが、元ネタは不思議の国のアリスからいただきました。ストレンジラブとの数学者つながりと、あとどうせ勝手に名前つけるなら一番似合わない名前つけたろ! という筆者のイタズラ心以外の理由はなく、断じて公式設定ではありませんのでご了解ください。
本作では正史でのTPPまでの顛末がストレンジラブ生存、ヒューイ行方不明という結果に変わっているので、その後のハルやエマの生い立ちが大きく変わっています。特にハルの進学先や研究テーマ、その先の進路も変わっているので、本作ではメタルギアREXが誕生しないことになります。シャドーモセス事件自体は起きているのですが、オタコンとREXが登場せず、もしかしたらナオミ・ハンターとFOXDIEやゲノム兵も出てこないぐだぐだシャドーモセス事件になったかもしれません。オタコンとREXの代わりには多分別のメタルギアが出たんでしょう、あるいはガンダーかな?
また、ストレンジラブの発言でエマの姓ダンジガーを『ダンツィヒに由来するドイツ系の姓』としていますが、これは筆者の当てずっぽうでありソースはありません、これもご注意ください。
それでは、今度こそ次回からはまた南の島でのカズ視点のお話に戻ります。