駅を降り、改札口の前で軽く伸びをすると、後ろからスーツを窮屈そうに来ている小太りの男がぶつかる。 少しよろめき、たたらを踏むと、向こうも少しよろめいたらしい。 しかし、そこはさすが社畜歴十年を超えるであろう男だ。 こちらを見向きもせずに足早に去っていった。 急いでいるのは家族のためか、はたまた別の何かか。
そんなことを考えていると今度はもっと直接的に突き飛ばすような衝撃が背中に襲い掛かる。 流石にこれには思わず後ろを振り向くと、そこにはシャツをだらしなく出し、ネクタイもまともにつけられない高校生がたむろしていた。 彼らも俺を見向きもせずにギャーギャーと低能語をわめきながら去っていった。
俺が高校生の時は果たしてあんな奴だったか……。 久しぶりに定時で帰れたと思ったらこの仕打ちだ。 せっかくだから買い物でもして帰ろうかと思ったがやる気が失せた。 家に酒は冷やしてあるしさっさと帰ろう。
今日は金曜日。 ゆっくりと酒が飲めると思ったら心なしか足取りも軽くなる。 ツマミはあるし、酒もある。
それに……アレもあるし。
「ただいまー」
一人暮らしを始めて数年。 未だに挨拶をする癖が抜けない。スーツを乱暴に脱ぎ捨てスウェット姿になる。 冷蔵庫の中の適当な食材と缶ビールを手に取る。 電子レンジを適当に回して温めながらプルタブを捻る。缶を一気に傾け中の黄金の液体を呷る。
味も特にしない温かいだけの何かをほおばり、満腹感と酩酊感に身を任せる。 疲れからかいつもよりも酔いの回りが早い。 ぐったりとした体に鞭を打ってシャワーを浴びる。 熱めのお湯を浴びることで幾分かさっぱりした気分になる。
飯も食った。酒も飲んだ。 風呂も入った。 よし、後はアレだけだ。
ベランダに出てポケットから喫煙具一式を取り出す。 安っぽいモチーフが書かれているシガレットケースに入っている煙草を一本取り出し、トントンと数回叩く。 学生時代から使い続けている安物のジッポを軽く振る。 煙草を咥え、火をつける。 方焼けが起こらないように丁寧に炙り、軽く息を吐いて煙を吐き出す。
すると、本来空中に漂って消えるはずの煙は一か所に漂い、どんどん濃くなっていく。 それはだんだん人の形をとり、向こうまで透けていた白濁職の煙は薄い灰色になり、輪郭を帯びていく。
そうしてものの数秒で煙は一人の少女になった。
「こんばんは、マスター!」
「よう、ピース」
ピース。 それは俺が吸っている煙草の銘柄から取った彼女の名前だった。
彼女に出会ったのは覚えていない。 俺が学生時代何もかもが嫌になって深夜に河川敷で煙草を吸っているときに出会った。 いつの間にか俺の横に座って無邪気な声で俺に話しかけて来た。 最初彼女を見たときはいよいよこんな幻覚が見えるようになるまで弱ってしまったのかと軽く絶望したが、どうやら違ったようだ。 ちゃんと触れるし、俺以外のものも触れる。 物も食べられるようでたまに俺のツマミもをせがんでくる。 酔った勢いで押し倒したこともあったが、あんまり強い力が加わるとその部分が煙に戻ってしまうらしい。 それ以降過度なボディタッチはせずに適当に俺の愚痴を聞いてくれる相手になった。
「今日はどんなことがあったんですか? 愚痴までなら聞いてあげましょ!」
「愚痴がある前提かよ」
「そういうことは愚痴以外の事を話してから言ってくださいよ」
ぐうの音も出ない。 事実、ただ煙草を吸うだけではこいつは現れない。 丁寧に葉を詰め、クールスモーキングをしなければこいつは現れない。
「マスターは煙草の吸い方雑なんですよ。 もっと女の子の唇を吸うようにって言いますでしょ? あ、でもマスターは女の子とチューしたことないからわからないかー」
「黙れ、俺を呷りに来ただけならもう消すぞ」
俺が煙草を灰皿で消そうとすると、ピースが必死に俺の腕を掴んで制止する。
「わー! わー! 冗談ですよー! 私はそのタバコの火がついてる時しかいられないんですよ」
「わかってるよ。 冗談だ」
灰皿に持っていった煙草を口に咥えなおし、煙を灰に落とし込む。 そのたびにピースが硬骨の表情を浮かべる。 その蠱惑的な表情を見て昔は若い劣情を催した事もあったが、今はそんなことも起こらず夜中の雑談の相手になってもらっている。 一人暮らしが長いと話し相手すら貴重になるのだ。
「それで? 今日は何があったんですか?」
「残念ながら特筆するような話はないんだよな。 お前と話したかっただけだよ」
「わぉ。 もしかしてピースちゃん口説かれてます? そう言う事はちゃんとした女の子に言わないとー」
「女っ気が無いのを知ってその言い草はないだろー」
お互いに何も求めない。 なにも与えない。 そんな関係だ。
「あ、そろそろ時間ですね」
その言葉で手元を見ると、煙草がだいぶ短くなり、フィルターギリギリまでなっている。
「そうか。 今日も楽しかったよ。 ありがとな、ピース」
俺がそういうと、だんだん輪郭がぼやけて来たピースがほほ笑む。
「マスターこそ、いつも私を吸ってくれてありがとうございます。 dも、煙草の吸いすぎは毒ですよ?」
そんなことを言いながらピースは元の煙にもどり、夜の空に溶けていった。 手元のもう火が消えている煙草と、俺の服に纏わりつくにおい以外彼女の存在を示すものはもうない。