身を削るように長かった冬もようやく落ち着きを見せ、ようやく桜の蕾が開き始めた。世間一般では別れと新たな出会いを刻む季節。
トレセンの敷地内に植えてある桜は満開だったが、阪神レース場の桜は7分咲きといったところだろうか。どこかで花見でもしたいと考えが浮かんだがそれは一旦置いておこう。
少し雲の厚い肌寒さを感じるような天気にも関わらず、しかし阪神レース場は異様な熱気に包まれていた。
ついに今年のクラシック戦線が本格始動し始める。
その先駆けとされるのが本日阪神レース場で開催されるティアラの一冠目、GⅠ桜花賞——。
ついにウオッカとダイワスカーレットがGⅠで当たる。それを期待してかスタンドは満員で、観戦チケットを取れなかったファンたちが当日券を求め波のようにごった返していた。
現在は控室でミーティング中だ。もう間もなく出走者呼び出しがかかるだろう。
黒いレザージャケットに袖を通し、勝負服を着終えたウオッカがこちらに向き直る。肩を軽く回して感触を確かめているようだ。
「良かったな。サイズ手直しするようなことにならなくてョ」
「あのなぁ…そういうのは思っても口出すもんじゃないぜ?スカーレット相手なら今頃足が飛んできてるって」
「そいつはすまなかった。横に広がったって意味で言ったんじゃなかったんだがな」
「そうとられても文句言えないぜ今のは」
まだまだ成長著しい彼女らの事だけにとてもデリケートな問題だという。
どこかのティアラを乗せたツインテールウマ娘はさっそく勝負服のサイズが合わなくなって手直ししたらしいが、この事を茶化したマーベラスサンデーが翌朝にそれはそれはヤムチャな姿で発見された。2日ほど目の輝きを失いうわ言を漏らす彼女は決して語ろうとはせず、誰しもが戦慄したという。トレセン未解決事件簿入りである。
「昨日雨がパラついたがバ場は良、芝は少しヤワめだな。パッと見て内側が荒れているところは少ない」
「そりゃいいぜ」
1番人気に推されたウオッカ。阪神ジュベナイルフィリーズとチューリップ賞を勝って好調なところをアピールできた結果だ。このままの流れで桜花賞を獲りたい。
しかしながら2番人気の対戦経験があるロールスシーチャン、続く3番人気のダイワスカーレット、過去阪神ジュベナイルフィリーズやチューリップ賞で当たったパーカーカルストやエクスミューズ、レイニーワルツなど強いウマ娘もいる。
この辺りは過去にやり合っているし、当然ながらウオッカ対策をしてくるだろう。
「先行で上がっていくのはスカーレットだろうが、今回はお前さんの手の内を知ってる奴も多い。油断禁物だぞ」
「分かってるって!そのためにアウト側から差すトレーニングを強化したんだろ?特訓の成果見せてやるぜ!」
『——お知らせします。本日15:40発走予定、第11レース桜花賞グレードⅠに参加のウマ娘の皆さんはパドックまでお集まりください』
「呼ばれたな」
「おぉ、遂にか。気楽にやってきな」
「言われなくても」
ジャケットを羽織り、しっかりブーツの紐を結び終えたウオッカがこちらに向き直る。
ニヤリと笑い合い、右手の拳と拳を軽く当てる挨拶。レースの健闘と無事を祈る誓いのようなものでいつからかやるようになったレースの前の恒例行事だ。
控室で担当バを見送り、人気のない通路を進む。少し煙草を吸いたくなりあまり混んでない喫煙所を求めると必然このような裏を通るしかない。曲がり角の先に人の気配を感じて足を止める。どうやら複数人で何かの打ち合わせを行っているようだ。スタッフか何かだろうか?
「——じゃあみんなでブロックするってこと?」
「そう。あいつの走り方は3コーナーから最終直線に外側に抜け出して、スパートしてくるから内ラチ側に封じてあたしたちで壁になりながら上がっていけば掲示板から下せるよ」
「ホントにやれるかな…降着にならない?」
「大丈夫だって!わざとぶつけるわけじゃないのよ?阪神ジュベナイルフィリーズでやられっぱなしで良いわけ?あなただってチューリップ賞で悔しい思いしたわけでしょ?」
「そうだけどぉ…」
「わたしはこのままあいつに勝たれるのは嫌。今も土をぶっかけてやりたい気分よ。1番人気が消えてくれれば2と3はつぶし合ってどうにかなるもの」
「もうパドックの呼び出しかかってるって!早くいかないと!」
「えっ!?」
えらいもんを聞いちまったな…どう考えてもチーミング行為の話し合いだろ今の……
声に覚えはないがこの時間にパドックに呼ばれているってことは、明らかに桜花賞に出走するウマ娘たちだろう。阪神ジュベナイルフィリーズやチューリップ賞の話が出てきていることから過去ウオッカとの対戦経験がある奴らか?
ドタドタと足音を響かせて彼女らが走り去っていった。声や足音からすると3人。
残念ながら姿を確認することはできなかったがこちらもすぐさま動く。返しウマの前までにウオッカに接触しなければならない。
繰り返すが今日はクラシック路線の先鋒である桜花賞の開催日だ。この日を楽しみにしていたウマ娘ファンたちの期待も大きく、いたるところで人がごった返しパドックでも前に進むことができない。
「くそっ…パドックの衆目で接触を図るのは迂闊か……なら地下バ道か……?」
パドックでのお披露目も終えて地下バ道を進む
「しっかしGⅠってすげえ人だよな」
「アンタはもう体験してるんじゃないの?」
「いやジュベナイルフィリーズにはここまでいなかったぜ…やっぱりクラシックのレースなんだなって思ってさ」
「なぁに?今更ビビってるわけ?」
「んなわけねーだろ!武者震いだよ武者震い」
「はんっ。どーだか?いまさら内心でガクガクなんじゃない?」
「そういうお前はどうなんだよ?初めてのGⅠに足が動きませんじゃ話にならないぜ?」
スタッフから演出のために最後尾で入場してほしいと指示があったために、集団の後ろを並んで歩くダイワスカーレットとウオッカ。
列の前方は光と歓声の中に飲まれていく。もうすぐ自分たちもあの中に進むのかと考えていたが、ふと後ろから乱れた息遣いと足音が聞こえてきた。
「ウオッカ!」
「トレーナー…?おいおいどうしたんだよそんな慌てて…ッ!?」
ウオッカの腕を掴み壁際に押し付けて、両手を彼女の顔の横に突く。横を歩いていたダイワスカーレットが目を丸くして呆気に取られていた。先に行けと手で合図を出すと怪訝な目を向けながらも先に歩いて行ってくれた。
「なななな、なにすんだよ!」
「聞け」
彼女の耳にささやくようなことになってしまうが、他に聞かれてはまずい。彼女の耳がせわしなくあっちこっちに向いて視線もあっちこっちと乱れ飛ぶ。
「今日のレース、お前をハメようとしてる奴らがいる」
「はっ!?」
「シーッ!さっき通路で密会現場をたまたま通りがかっちまってな。声しか聴けなかったから誰だか分かんねえが3人でグルになってんだ」
「……」
「今日初っ端から内ラチ側につくのは避けろ。そのまま磔にされかねないし無理に行けばこっちが進路妨害を食わされるからな。躱す為には一旦鼻を引っ込めるのも手だ」
「鼻を引っ込める…?」
「あぁ。行ってこい」
彼女を開放して背を押し送り出す。この後はもう彼女の閃きと爆発力に賭けるしかない。
*****
『花曇りの空にファンファーレが溶け込んでいきます。待ちに待った本格的なクラシック戦線始動!その先駆けとなるティアラ一冠目桜花賞です!』
『スタート地点には芝桜が飾られています。場内760本の桜は7部咲き。1番から3番人気のウマ娘の位置取りが注目されますがどうなることやらこの桜花賞。まず奇数番のウマ娘がゲートインしていきますが、レイニーワルツにエクスミューズが入り、ちょっとロールスシーチャンが嫌がっているようにも見えます』
『やはりGⅠといえどクラシックの観客はけた違いですからね。少し緊張しているのかもしれませんが』
『ロールスシーチャン入りましたね。今度は偶数番であります。ウオッカは一歩一歩悠々と入っていきます。最後にダイワスカーレットが一周回ってからゲートに入り態勢完了です』
『さあお待たせしました今年の桜花賞、花に酔うも良し、ウマ娘に酔うも良し。』
バコン———
『いざスタート!』
*****
地がゆすられるような大歓声に包まれてウマ娘たちが飛び出した。宮下に取ってもらっていた場所に何とかたどり着き事の次第を見守る。
「ずいぶんと遅かったですね?」
「ちょっと野暮用ができてしまいまして。どうしてもウオッカと話しておきたかったんですョ」
「…何かあったんですね」
ダイワスカーレットの担当だけあって人の機敏を見る目が鋭い。参ったな…。話しておくべきか迷ったが流れだけでも話しておこう。いざとなった時に人手が必要となる案件かもしれないからな。
明確な証拠を確保しているわけじゃないから何とも言えないが…協力体制は築いておきたい。
「ミーティング後にちょっと一服しようと裏の方を通ったんですがね。どうやら出走しているウマ娘の中で3人ほど組んでウオッカをブロックしようとしてたやつらが居るんです
」
「えっ?チーミングってことですか!?」
「ええ…。ウオッカには注意しろとしか言えなかったんですがあとは彼女がどうするか見守るしかないです」
ウオッカなら大丈夫だろうが、不安は拭えず見守ることしかできない自分が歯がゆい。
*****
『まずまずのスタート、ちょっとルシルチャーリーはタイミングが合わないか!?ウオッカは少しバ郡に埋もれるか。横を見ながらタキノシャーリーが先行策で抜け出していきます。内を割ってアフロフィリアであります。セイショウメメントそれからキンウンツバキ、カヤバヨシノ』
『外から一気にロールスシーチャンが行ったいった!!ロールスシーチャンバ郡を抜けました!そしてそれと一緒にダイワスカーレットも抜け出していく!その後ろモンクロメオが4番手、外目にシンジイズモがいて、ウオッカが上がって中団であります!さらにレイニーワルツ続いている!さらに後ろにパーカーカルスト』
「あそこか…」
中団に上がったウオッカが内ラチ側に固められている。ペースも前のウマ娘に詰められていて折り合いが付けづらそうだ。少し顔を歪めていて舌打ちでもしそうな雰囲気だ。
『半マイル47秒後半であります47秒後半!大きなスパイラルカーブを描いて第4コーナーに入ってくるウマ娘たち!タキノシャーリーが先頭!ロールスシーチャン2番手!ダイワスカーレットががっちりと3番手!』
*****
トレーナーが言ったグルになってブロックしてくる、というのはこれの事か。スタートからジワジワとこっちに2人寄ってきては内ラチに詰めるほかなく、前と後ろも逃げ場なくピッタリ塞がれてしまった。
ロールスシーチャンとダイワスカーレットが序盤で先行策を取るために上がっていったが、自分の方はまるでペースを上げられていない。
「くそッ!走り辛ぇ!!」
このままこいつらのペースに合わせて走っていたら、まんまとロールスシーチャンとダイワスカーレットに逃げ切られてしまうし、それに自分のペースを保てておらず無駄なスタミナを消費している感がある。
「まんまと嵌められたわけか…!トレーナーはなんて言ってたっけ…!鼻を引っ込めるのも手ってどういうことだよ!!」
800看板を通過して、未だにオレの周りだけ内ラチに押し付けられてしまっていた。抜け出さなければこのままじゃ掲示板すら外れてしまう。こんな穴熊囲いは全く嬉しくない。
「今回はアンタに獲らせない!」
「ジュベナイルフィリーズでの借りを返してやる!」
「返し方が姑息すぎんだろ!?やるなら1VS1申し込みにきやがれ!!」
どうしたらいい?どうしたら…?600看板を通過して4コーナーに入った。もう時間が無い…!
「邪魔…!」
「うああ!まてぇぇぇえええ!!逃がさん!!」
「うぐっ…!」
後ろで足を溜めていたパーカーカルストとエクスミューズが上がっていく。その拍子に後ろの奴が少しヨレた。左後ろのスペースががら空きになるのが見える。やるならここしかない!
「鼻を引っ込めて…そこか!」
一瞬だけ減速し、サイドステップでその隙間から体を外に出すと、一気に踏み込んでストライド走法に戻す。ここからようやく全力のスパートだ!
「しまっ…」
抜け出されたと気づいた時にはもう遅かった。すさまじい踏み込みとともに一気にスパートを掛け始めたウオッカが前に飛んでいく。
「ぐっ…!!アタシたちも!」
「させない!」
その一瞬のタイムラグが彼女たちの命取りになった。瞬発力と加速で上回るウオッカを追従するスピードは無い。無理にペースを合わせた結果、スタミナを切らして失速していく———。
*****
『さあコーナーを抜けて先頭はタキノシャーリーが立ち上がってくる!後ろからパーカーカルストとエクスミューズが押し上げてきた!』
『2番手争いのロールスシーチャンとダイワスカーレットやり合いながらタキノシャーリーに迫る!』
4コーナーでようやく外に抜け出したウオッカが猛然と加速し始めた。追込組に押されて包囲網が崩れた一瞬を突いた形だ。しかし勢いづいた2番手争いにスピードを保った追込組…果たして間に合うかどうか怪しい
さらには自分の走りを無理に封じられたせいかスタミナが心配だ。
『真ん中からロールスシーチャンがタキノシャーリーを躱す!しかしダイワスカーレットが並んできた!抜けた!抜けた!ダイワが抜いた!ダイワスカーレットが先頭に躍り出る!!』
『そしてこちらもパーカーカルストとエクスミューズがやり合っているが、更に外からウオッカ!!すさまじい末脚だ!?ウオッカが2人をごぼう抜き!!先頭のダイワスカーレットを捉えにかかりますが!!届くか!?』
『ダイワスカーレットに迫るウオッカ!!しかし苦しそうか!!捉えられない!ウオッカ捉えられない!!ダイワスカーレット先頭!!ダイワスカーレット!!』
*****
ようやく抜け出せたが先に言った追込組を躱す為に更に外を回るしかない。大きく外を回りながら観客席のトレーナーと目が合った。
「やれ!ウオッカ!!」
「ハァッ…ハッ…おう!!見てやがれトレーナー!」
前を塞がれ無理やりにペースを併せて抑えつけられたからか、自分の想像以上にスタミナを消耗していた。1600mのレースもあと200mちょっと
あと2人、その先のダイワスカーレット。逃がさねえ!
「ハァ…スゥ…!」
一瞬大きくブレスを吸い込み息を止めた。前方視界には誰も映っていない。行ける…行ける…行ける!!!!
芝を抉るほど足を強く踏み込み力を推進力へ。爆発したのかというぐらいの力が足と体を押す!
「グッ!なっ…!!ここから加速…!?」
「速い……!」
追込組二人をオーバーテイクすると前を行く鮮やかな青い勝負服が目に入る。アイツだ!アイツこそ…!
「抜かす!!うおおおおおあああ!!」
あと100m…!50m…!足が、肺が酸素を猛烈に欲しているし、視界が霞んで白んでくる。最高速はキープできているはずだ。それでも背中は近づいてこない…
「くそ…間に合わない……」
ゴール板を先に飛び越えたのは先頭のダイワスカーレットで、オレは…オレは……負けたのか…
*****
『右手を掲げたダイワスカーレット!ウオッカ届かない!ダイワスカーレットです!ウオッカ敗れました!勝ち時計1:33.7が記録されています。』
最後にすさまじい末脚で猛追したウオッカが1バ身半差まで詰め寄ったものの、ダイワスカーレットを捉えることはできず2位入着。世間的には十分いい成績なのだろう。しかし彼女がそれで満足なぞするわけがない。
控室に戻ってきた彼女は表情を落とし俯き気味で、普段の彼女からは似つかわしくない表情だった。
「わりぃ…負けちまった」
「そうだな…でも、2着だぜ?十分いい結果だと思わないか?」
「そうかもしれねえけど、スカーレットに負けたんだ」
「あぁ」
「もっと上手く躱せたんじゃないかって」
「それ以上言うな」
彼女の頭に手を置きワシワシと頭をかき混ぜる。普段なら突っぱねる彼女も今日ばかりは疲れと精神的なものか抵抗らしき事も一切しない。
「俺もな、レース前に余計な事したんじゃないかって思ってんだ」
「余計な事…」
「チーミングしようとしてる奴らがいるって。言わなきゃ先入観を持たず抜け出せたんじゃないかってな」
「いや…たぶん言ってくれなかったら囲まれたままだったと思う」
「ここから先はタラレバだな。お前さんは頑張った。それでも届かなかったから仕方ないんだ。切り替えようぜ?次はぜってえ負けねえ!ってな」
「ああ分かってるって…ちょっと一人にしてくれねえか?」
ウオッカは今回の負けで少し精神的にキてしまっている…。トレーニングは数日ナシにして休養に当てよう。
紫煙を煙らし、そっと頭の中を整理して最適解を探す。彼女には日本ダービーが待っているのだから、ここで立ち止まっていられない——。