「用意…ゴー!」
トレセン学園2000mターフグラウンド。
俺が手を振り下ろせば、力強い踏み込みと共に一房の髪を流星のごとく靡かせウオッカが吹き飛んでいった。
今日は1時間枠が取れたため贅沢にもウオッカと俺のサシで二人占めだ。トレーニングの締めに、彼女から今度の秋華賞で走る距離であるターフ2000mのタイムアタックをやりたいと持ち掛けられたのでこれを了承。
トレーニングを一通りこなしてから最後の最後、この一本には彼女のにじみ出る気合いが垣間見える。なんでもダイワスカーレットがターフグラウンド2000mの自己ベストタイムを更新しウオッカのタイムを抜いたというのであるから、彼女の闘志がメラってるのも納得というものだ。
天気もよく、風も無風、タイムを出すのにいいコンディションである。夏合宿で行った砂浜トレーニングのおかげで、ウオッカとダイワスカーレットは以前よりもトモのハリが増し、ふくらはぎもボリュームが凄まじいパンプアップを果たしていた。
これを口に出すとウオッカに関しては喜ぶが、迂闊にダイワスカーレットに話してしまえば衝撃のファーストブリッドを叩きこまれる。彼女の機嫌によっては壊滅か抹殺を放ってくるので注意してほしい。
早いものでティアラ最後の一冠、秋華賞はもう2週間後に迫っている。
あれだけ居たはずの蝉はいつの間にか鳴き止み、こんどは夜に虫が鳴きだすようになっていたり、陽が暮れる時間も気づくほど早くなれば、少しずつ風にも涼が混じり始めた。
向こう正面の中間を過ぎた辺りから、ウオッカは姿勢を低く前傾にし、ストライドをより広く刻んで少しずつペースを上げ始めた。彼女の眼にはハナを逃げる紅い蒼穹が見えているに違いない。
するりするりと前を塞ぐ並み居るウマ娘たちを蹴散らし先団に近づき3コーナー、そして、最終コーナーの中間からさらに強く踏み込んでグンと加速した。
…という妄想をしながら走っていることだろう。
「いいぞ!そのまま上がって来い!」
最終コーナーを抜けて低い姿勢のまま直線に突っ込んでくる。あまりの迫力と形相にストップウォッチを握る手にも無意識に力が籠った。刻まれてゆく時計の針と共にウオッカがゴール地点に迫る。
200……100……今ッ!
「ぅぉぉぉぉおおおおおおああああああ!!」
雄叫びとともに目の前を駆け抜けた彼女がゆっくり減速してからターフの上に転げまわる。ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返して胸が激しく上下し、両手両足を大の字にして仰向けに宙を見上げれば、整わぬ呼吸のまま顔だけをこちらに向けまるで慟哭のような声を上げた。
「とっ…トレーナー……!!今のっ…!な、何秒……!?」
「…ベスト0.8秒更新」
「ッしゃあぁぁあああ!!!!!」
俺も彼女も夏合宿を通して手ごたえを感じており、それは如実にタイムに表れて、とても大きな成長を感じられる。ウマ娘でも、バイクや車のレースにおいても0.1秒の差というものはとても大きな意味を持つ。
———たかが千分の1秒がアタマ差の決着となるのだから。
ターフに転がりながらウオッカは空に向かって両腕を突き上げた。その手を掴んでゆっくり身を引き上げる。非常に喜ばしいことではあるが伝えねばならないことがある。
「まず、自己ベスト更新おめでとう」
「おう!……おう?まず?なんかあんのか?」
「残念だがスカーレットのタイムは超えてないのョ」
「うぇっ!??」
「1:58.4でスカーレットと全く同じタイムだな」
「ウソ…だろ……?」
「大マジなんだわさ」
ウオッカの全身から力が抜け、再びターフに体を放り出してしまった。
今日のトレーニングメニューは全部終わってるから問題ないが、傍から見たら絵面的に大問題だ。
「ほら、立て。今日のトレーニングおしまい。スカーレットは抜かせなかったがクラシック級ではトップタイ記録だぞ」
「アイツより速くなきゃ意味ねーんだよぉ…」
「その為に秋華賞に向けて励んでるんだろうが」
この後のレース日程は秋華賞にエリザベス女王杯とGⅠレース連戦となるのだが、そのどちらとも宿敵ダイワスカーレットとぶち当たることになる。
他にも過去のレースで当たったこともあり最近の連勝で勝ち上がってきたレイニーワルツ、オークスウマ娘パーカーカルストなど夏合宿を通して成長したライバルたちは全く気が抜けない。彼女たち皆揃って最後のティアラを死に物狂いで獲りに来ることは目に見えている。ウオッカが負けるとは思ってないが、このいいモチベのまま本番にぶち当てたい。
ウオッカと別れ、グダグダ書類作業をやっていると珍しくスマホが着信で震えた。基本業務用の連絡ばかりするスマホはもはや時計機能付き多機能文鎮と化していたが久々の出番だ。
『よう、サカキ』
「どうしたサク?この時間は珍しいな」
『どこか空いてる日あるじゃん?』
「…要件は?」
『ご希望に添えるタマが見つかったんよ。んで、納車できる状態になったじゃん』
霧の箱根で“ハマサキ潰し”とやり合ったあの日、頂上目前でXRZはコンロッドがへし折れ、死んでしまったエンジンが焼き付いてコーナリング中に後輪がロック。
エンジンと駆動系の間に余裕のない二輪というものは、エンジンがブローしてしまえばまるで後輪が引っ掛かったように回らなくなる。
そうなればどうなるか?俺は体勢を立て直せず、吹っ飛んで茂みの中にカップイン。崖下に飛んでいかなかったのだから運が良かったのだろう。
割り切れない感情を持て余した俺は、バイク屋であるサクに新たな愛機となりうるマシンの確保を依頼していたのだがようやくサクのお眼鏡に適うマシンが出てきたという事である。
「分かった。明後日なら時間が作れる」
『お、明後日ね。承知!乗ってみて飛ぶなよ?』
*****
「よっす」
「おー、いらっしゃい」
この2か月とちょっと世話になった原付ともようやくのおさらばだ。小回りは利くし楽ではあるのだが、幹線道路を走る分には125㏄はないと流れに乗るのがキツい。片側三車線以上あると二段階右折しなければならないし、二段階するために交差点のすげえ中途半端な場所で待たなきゃいけないのも、気まずいから好きではないのだ。
90㏄や125㏄のバイクでは二段階右折する必要はないし、二人乗りもできるので特にこだわりがないなら125㏄のスクーターなんかが街乗り最強だろう。150㏄になると高速まで乗れちゃうから便利。車検もないし。
所狭しとバイクの並ぶ店頭にはいつの間にかウオッカのぱかプチが飾ってあり、ビックぱかプチと限定版ライブ衣装プチなど…え?コンプリートしてない?トレーナーである俺のもとにはプチの試作品が来るからトレーナー室に揃ってはいるのだが、見た限り製品版はすべてそろっている。
「お前…アイツのぱかプチ揃ってるじゃねーか」
「あぁこれ!なんかついつい買っちゃうんよね!いやー京都と阪神レース場限定の奴は苦労したんよ!そっちに行くってやつに頼んだりしてさ!」
「お、おう…」
「トレーナーが引かないでくれよ…」
「いや目の当たりにすると言葉が出ないというか」
「まーいいじゃん。こっちよこっち」
店頭を離れ裏手にあるシャッターガレージへ。何台か整備中のバイクがあり一台はチェーンの張り替えで、もう一台はプラグの交換だろうか?燃料タンクを下ろしている。
サクがガラガラともう片方のシャッターを開けるとその中に1台のマシンが佇んでいた。後輪にスタンドを立てられ直立しているそれから、目が離せなくなった。このマシンからはまるで静かに値踏みされているかのような…そんな錯覚を感じる。
なんだろうか、今、俺は高揚しているのか?
「これ買取で入ってきたやつなんだけどね」
「お前これ…純正色じゃないだろ」
「お?気づくね~。さすがはハマサキ乗りって所かな?」
ふざけたツラをこちらに向けてまるでムフフとでもいうように口許に手を当ててニヤついてるサクにちょっと一発加えようかとも思ったが、こちらから頼んでいた手前、無得にはできない。
「サカキ、ハマサキのグリーンそんな好きじゃないっしょ?」
「好きじゃないわけじゃないんだが、目がチカチカしてな…だからってXRZのネイビーにしなくたっていいだろうよ」
「渋いっしょ?」
「最高だナ」
そこに鎮座していたのは〈ハマサキZR-10X〉
世界に名だたるバイク各社が世に送り出す、リッタースーパースポーツカテゴリーの中の一台。
近年フルモデルチェンジが成され改良の進んだマシンである。エンジンの見直しとシャシーの全面的な改良、エキゾーストの取り回しがデュアルセンターアップマフラーになるなど中身もビジュアルも大幅に変わったモデルになる。通称D型。
「走行は5000キロ、前オーナーは2000キロでオイル変えてたからちょうど慣らし終わったぐらいって感じかな」
「もったいねえ…」
「まあお子さん生まれちゃったから泣く泣くって感じよ」
「あーなるほど」
よくあるバイクを降りる理由の一つだ。家族のために今後の事を考えてバイクを手放す。これが一番多いんじゃなかろうか。だいたいそういう人は子供が独立してから買い直したりするけどね。ほぼアメリカン買うけど。アメリカンの良さは年を重ねた人の方が気づくものかもしれない。
マシンをぐるりと一周見回し、カスタムされた点を確認していく。シフトインジケーターが別で装着されており、リア周りはフェンダーレスにされていて、マフラーは欧州で圧倒的フェアを誇る蠍がトレードマークの〈スコーピオ〉のものだ。
「ほれ鍵」
そっと投げられた鍵を受け取ってシリンダーに差し込み回すと、インジェクション独特の起動音がした。まるで封印を解いたかのような音に、一瞬だけ間を置いてセルスイッチを押す。
———獣が起きる
待っていたと言わんばかりに、唸るような低いアイドリングを響かせ規則正しく鼓動を刻み始める。そっとスロットルを握り、回そうと少し力を込めただけでコイツはエンジンの回転を上げた。
「とんでもねえな…」
過去に操ったレースマシン並みのレスポンス。市販車でここまでのマシンを売っていることが驚きに値する。各社が戦い続けるステージであるがゆえにその作り込みには妥協が無く、軽くスロットルひねってみれば、腕の動きとリンクして全くラグなくエンジンが反応するしその吹けがる速度は末恐ろしいほど鋭い。
「サカキ…しちゃいけない顔してるじゃんよ…」
「は?」
「ニヤケてるじゃん?」
どうやら自然と頬が吊り上がってしまっていたらしいが、全く自覚がなかった。
「サカキの顔ちょっと怖いんだから気を付けないと子供が泣いちゃうよ?」
「ひっでえ言いようだなオイ」
「冗談っしょ!イケてるイケてる」
「バカにしてんなお前」
他愛のないやり取りを少ししていると、店頭からの呼び鈴がなってしまった。
どうやら思ったより長いこと話し込んでしまっていたらしい。あまり仕事の邪魔をするわけにもいかないからそろそろお暇させてもらうとしよう。
「ありがとうサク、こいつはもらっていくぜ」
「タイヤが新品だから気を付けてくれよな。ズルズルだから」
「もちろん。代金はあとで振り込んどく」
スタンドを払い、獣に跨ってみる。XRZよりもずっと前傾姿勢でマシンとの距離が近い。
甲州街道に出てゆっくりと立ち上がると、それだけで、思わず笑顔になるのを自覚する。後ろから迫ってくるような低いエキゾースト。
全く不満とでも言いたげな音だ。俺を満足させるならもっといい所へ、いいステージへ連れて行け、まるでそう言っているかのようにボコボコと不機嫌な音を立てる。
まだ帰るには早い時間だ。時計の針も昼の天辺を回っていない。
——少し遊びに行こうじゃないか。きっとお前も気に入るよ。