すっかり季節は秋めいて、夏と冬の間、束の間の人にもウマ娘にも優しい季節にどんどん進んできた。このまま季節が止まればいいのに。いや、夏と冬が嫌いなわけじゃないんだわ。
…いや、やっぱり二輪に優しくないから好きになれないわ
「おいトレーナー?サンドイッチ取ってくれよー?」
あぁ、今日みたいな秋晴れの日はきっと山とか走ったら気持ちいいんだろうなぁ…木漏れ日の中色づいた程よいワインディングを…。
「おーい戻ってこーい?」
「なんだよウオッカ…新幹線の中でじっとしてるのが辛いんだよ…」
「いや、いい加減慣れろよ…つかオレのニンジンサンド取ってくれよ」
「…ほら」
「さんきゅ」
包装を丁寧に剥き、両手を添えてニンジンサンドを頬張りだした。普段から悪ぶってはいるが、食べる姿勢は綺麗で育ちの良さが窺えるのはご両親の躾の結果だろう。
こうなると、窓枠に肘ついて10秒ゼリーを啜ってる俺の方が行儀が悪い。
“秋華賞”
本年度はどうしたことか、前評判でもレベルが高いと箔が付き注目されていた。
今年のダービーウマ娘ウオッカ、桜花賞を戴いたダイワスカーレット、オークスを獲りアメリカンオークスの出走を経て直行してきたパーカーカルスト、NHKマイルをなぎ倒してきたモンクロメオとGⅠウマ娘の4人が集結。オークス2着にトライアルのローズステークスで、ダイワスカーレットに半バ身差で敗れリベンジに燃えるエッザモデナなどこの他にも出走投票をもぎ取った計18人のウマ娘による、ティアラ最後の一冠を賭けた果たし合い。
夏合宿からの良い状態を維持して、そのまま持ってこられたウオッカの調子は好調でこのままぶつかればダイワスカーレットも捉えられるだろう。
———桜花賞の借りはきっちり返させてもらう
軽めの昼食を取ったのち、ライン取りの注意点、息を入れるポイントや要注意ウマ娘のブリーフィングを行っていれば、ほどなくして大津を通過した。
案内放送が流れ始めれば目的の京都まではもうすぐで下車の準備をする。ゴミをまとめ荷物を持ってデッキへ移動しようとするが、日曜日という時節のせいか家族連れが多く途端に車内は喧騒に包まれ始めた。
周りの乗客たちもちらほらと準備を始める姿が散見できる。停車してから車内を移動すると渋滞に捕まるのでウオッカにも移動を促した。
「ちびっ子は元気いっぱいだな」
「な。やっぱり新幹線なんてそうそう乗るもんじゃないから興奮してるんだろうな」
ホームに列車が滑り込み衝動もなく停止すれば、腕時計をちらっと見るとさすがの定刻通り。世界に誇る新幹線の技術力を感じていれば、扉が開いて前の方から列が進みだす。
わやわやと喧騒漂うホームに降りると、俺とウオッカは揃って背筋をうんと伸ばした。
「なんなんだろうな?この新幹線から降りた瞬間に伸びをしたくなる衝動は」
「あるよな。んぅー!」
少し冷たい空気に触れて顔の熱が冷めていく。少し深めに呼吸して体の中の空気を入れ替えると階段に向けて歩き出した。
「ママ!早くしないと新快速行っちゃうよ!早く!」
「ダメよ!駅のホーム走ったら危ないわよ!」
後ろから一人の子供が俺たちを追い抜かした。
どうやら新幹線からの乗り換えにそこまでの余裕がないらしいのか、母親を急かす様に階段の前で手招きすると背を向け再び走りだそうとした。
———走りだそうとして踏み出した足が空を切る。すっかり夢中になったその子は、自分がどこにいるのかすっかり忘れてしまっていたらしい。
そこはもう階段で、振り向きざまに再び走りだそうとした。そこにあるはずの床に足を着くはずだった姿勢は大きく崩れる。
「コラ!ダメだってば!————あっ!!」
極集中状態になると、人は物事をスローモーションに感じることがあるらしいが、それは本人だけの話。周りから見ていた部外者にとっては瞬きする間の一瞬の出来事。
悲鳴
耳鳴り
風がすり抜けていく。銅色の風。
俺が悲鳴を聞くより早く走りだしたその風は、放物線を描く小さな体を抱きとめて、俺の目の前から消え失せた。
「待て!ウオッカ!!!」
お前は…!これから大事なレースだろうが…!!
頭の中が塗りつぶされる。肺が掴まれたように呼吸ができない。血の気が引いて手の力が抜けていく。
ダメだ!怪我をしていたら……いち早く応急手当をしなければ…!
荷物も何も放り出して、階段を駆け下りると踊り場にしゃがみ込んで子供を立たせるウオッカの姿が見える。
「お前ぇ!駅で走っちゃダメだろ!?」
「う…うぇ……!」
「母ちゃんがダメって言ったろ!ちゃんという事聞かなきゃ!」
「ご、ごめんなさい…」
「ウオッカ!!無事か!?」
「おうトレーナー」
二本指をこちらに向かって立てると、ニカッと笑顔を向けるウオッカに全身の力が抜けてしまった。階段の手摺に体を預けてぐったりしてしまう。
…ひどく安堵した。
階段を踏みはずした子供にいち早く気づいたウオッカが、吹っ飛んだその子を抱き留めて踊り場に着地した。文字に起こせばこれだけだが、見ていた……否見ていることしかできなかったこちら側にとっては心臓が凍り付いた。
「お前…この後秋華賞なんだぞ…」
「…命より大事なレースってあんのか?」
「だからってなぁ」
「あの場で助けられたのはオレだけだった。そうだろ?ならそうするしかないだろ」
「カッコよすぎるぜ…お前よ……」
血相を変えて飛んできた母親に泣きじゃくる子を引き渡し、注目を集める前に退散することにした。ざわざわとする改札を抜けて少し冷静さを取り戻せたところでハッと気が付いた。
「ウオッカ、そういやお前さんケガしてないか?」
「あー、階段はちょっと踏み外しちまったけど、痛みとかはどこにもないぜ?」
そういってその場で駆け足のようにトモ上げするウオッカ。ちょっとちょっと制服なんだから下スカートだしやめなさいよ。
「後で足看るからな。淀着いたら医務室に行くぞ」
「平気だって!」
「頼むから、こればっかりは譲らん。お前の今後に関わるかもしれないからな」
「わーったよ!その代わり医務室で何ともないって言われたら絶対出走させろよな?」
歩様に問題は見られないが、子供を抱えて階段を数段飛ばしてダッシュで駆け下り、踏み外してすらいる。何らかのダメージが足に入っていてもおかしくない。いくらウマ娘の筋力などがヒトを超越していたとしても耐久値もそうだとはならない。
…状態によっては秋華賞直前回避なんて判断が必要になる。そうならないように祈りながらタクシーに乗り込んだ。
*****
彼女を椅子に座らせて、ローファーとソックスを脱がせ、思っている以上に細くしなやかな足をそっと持ち上げて自分の腿に乗せる。
「力抜いて、痛みとか違和感があったら教えてくれ」
「ん…」
少しづつ、ゆっくりと指で確かめていく。熱を持っていないか、赤みはさしていないか、指先と踵を持ってゆっくりと角度をつけていく。回したり、足の甲の内側を上げてみたり外側を上げてみたりと足首に負荷をかけてみる。
「違和感は?」
「…ないぜ」
医務室でも所見なしを伝えられ、念には念を入れて俺自身でも彼女の足を見てみたが幸い故障につながる異常はなさそうだ。軽く走ってもらっても歩様に問題は見られない。
…いけるか?走らせて大丈夫か……?
「なあ、トレーナー」
「……なんだ?」
「悩んでんだよな?オレを走らせていいのか」
「そうだな。ちょっと階段を踏み外したっていうのが引っ掛かってる」
限界に近い、それこそ人の体では出せない速度で走る彼女たちには前触れなく故障が起きることがある。そのリスクが通常より高い状態で送り出すのは…正直、怖い。
「正直な所、これが二、三日前で考える時間があったらって思ってる」
「…でもな、オレにとってアイツと走るってことは何にも代えられないんだ」
「分かった…。だが足に違和感を感じたらスパート中だろうがなんだろうがそれ以上の領域には行こうとするなよ」
「——おう、善処はするぜ」
「しねーやつのセリフじゃねーか…」
「まあ、行ってくる」
拳と拳を突き合わして軽く打ち合うと、背を押して彼女を送り出す。見送った背中に祈りを込めて。
順位は関係ない。今日ばかりは…ウオッカが無事に帰ってきてくれればいい。
*****
「遅かったじゃない」
「おー、気合い入れてたらつい入りすぎちまってよ」
「あら、から回らない事を祈るわね」
「お前こそ足りてないんじゃないのか?」
入念すぎると感じるぐらいに足首を回し、柔軟をしながらしっかりとターフの感触を確かめる。なにか違和感があるわけじゃないが、あそこまでトレーナーに心配されると少し不安を覚えるのも確かだ。
トレーナーがあそこまで神経質になるのは前担当バがああなっちまったからだろうな…。
「決着付けようぜ?スカーレット」
「1勝1敗ね。望むところよ」
ファンファーレが鳴り響く。今日の天気は薄曇り、芝は乾いていて良判定。
踵を返して自分のゲートに向かっていく蒼い勝負服。
トレセンに入って、栗東寮では相部屋で、同期。すげえヤツだと思うと同時に、勝つならお前を抜かさなきゃ勝ったと言えない。そんな相手。
…全てを賭けてでも。秋華賞…ぜってえ勝つ。
後ろの扉が閉められる。狭く暗い関の中。
ちりちりと耳の裏が熱くなる。歓声が遠のいて自分の鼓動が脈打つのを感じる。血が巡って体がだんだんと熱くなっていく。吐き出す息にも熱が混じり始めた。
———頂点になれるのはただ一人
*****
『風はありません京都レース場、良バ場の芝コース。ダービーウマ娘のウオッカがゲートイン、そして最後にオークスウマ娘の18番ゲートにパーカーカルスト、その葦毛をゲートに収めました』
『ヒロインになれるのはただ一人!桜花賞ウマ娘かダービーウマ娘かはたまたオークスウマ娘か無冠のウマ娘が戴くのか!?さぁ決着をつけよう…いざ!スタート!』
ゲートが弾け飛んで、18人のウマ娘が飛び出した。スタートで躓くことなく順調に足を刻んで加速していく。
「ほぼそろったスタート…ウオッカ君はずいぶん後ろに居ますね」
「スカーレットが掛かり気味なんじゃないですか?」
「…そうかもしれませんが、彼女には押し切れるスタミナがあります。2000mなら心配ないでしょう」
「まったく、油断できたもんじゃないですね…」
「ははは…。それだけスカーレット君も気合いが入ってるんですよ」
今日も今日とて、ダイワスカーレットのトレーナーである宮下と並んで最前列に居座っている。
『ウオッカもダイワスカーレットをいいスタートを見せていますが、さあ早くもダイワスカーレットが前に行った!内からチノアルペンさらにはガルマが追走、ウオッカは後方から4番目!これを見るようにエッザモデナの赤い勝負服』
『各ウマ娘が2コーナーにかかりました!先手を取ったのは1番チノアルペン、そして桜花賞ウマ娘13番ダイワスカーレットがここに居ます2番手です!3番手4番ガルマ、オークスウマ娘のパーカーカルストは9番手、モンクロメオはここに居て、さあいました今年のダービーウマ娘ウオッカはまだ動かない後方15番手!その後ろエッザモデナがまだ抑えている!』
…少しペースが遅い。
現在頭を取っているチノアルペンは先行逃げ型だが、真後ろにぴったりとダイワスカーレットが貼りついている為だいぶ掛かって消耗しているようだ。ここはもう3コーナーで片が付くかもしれない。
先団のガルマはそれを見て、前の二人がスタミナ切れで潰れると踏んで抑えている。中盤であるが、体感13秒後半から14秒といったところか…。
「ずいぶん抑えてますね…」
「先頭がそこまで速いペースじゃない…これは詰まってあがり勝負になるかも分からんですね」
800看板を過ぎてダイワスカーレットが動く。先頭のチノアルペンを躱すとそのままスパート体勢を取り始めた。先行で押し切る姿勢に入ったということか…!
『さあ早くも3・4コーナー中間に差し掛かろうというところ!先頭はチノアルペン、チノアルペンだがあぁー!ここでダイワスカーレットが動く!ダイワスカーレットが先頭に変わった!このまま早くも逃げ切り姿勢!そして3番手のガルマも躱す外からレイニーワルツ!』
『400看板を通過!来た!ウオッカ外から黒いジャケットがスーッと上がってくる!エッザモデナはまだ一番後ろ!さあ直線を向いた!これは切れ味勝負!』
*****
逃げウマが居るにも関わらず中盤のペースは遅く、どいつもこいつも足が残ってる状態だろうことは周りの表情を見れば分かる。
「みんながスパートを掛けに動くとしたら400…!だけどそれじゃスカーレットには届かねえ……!」
先に見える600m看板に差し掛かったところで、ダイワスカーレットが先頭に躍り出たのが見える。スカーレットに貼りつかれ続けたチノアルペンがスタミナを切らし、一気に垂れ始めた。
3番手4番手が垂れたチノアルペンを躱し始める。ガルマ、レイニーワルツ、次々と垂れたチノアルペンを躱そうと先団の幅が広がり始める。
———ここしかねぇ!
体を一気に外に持ち出して、足を強く踏み込んで歩幅を一気に広げ上体を倒す。まるでターフを抉るように!夏合宿で散々やった最適なトラクションを乗せるトレーニングを思い出して、今こそ実践の時!
ガン!と猛然と駆け出した体が一気に加速し、後続を置き去りにし始めた。
「クソ!速ぇ!」
「相変わらずバカげた加速してますわね…!ですがこっちも!」
400m看板を通過して、最終直線に向く!邪魔な前は捲った!視界が開けて目に飛び込むのは一面翠のターフ!このまま速度を乗せてスパートを続ければ!
———届く!
「桜花賞の借りは返すぜ!スカーレット!!」
手を大きく振りかぶって、右足を突いた瞬間
「ッ!?」
がくんと、右足が不自然に沈み込む。足首にピリッとした感覚が走った。何だ?…何だ!?
「くそっ!ターフのギャップを拾っちまったか…!?」
この秋華賞は今日、京都レース場で行われる第11レース。未勝利戦やメイクデビュー戦も同じくこのターフグラウンドで行われている。もちろん整備を行う時間を含んでいるがあくまでも穴を埋めての応急措置。荒れた箇所が残ってしまうのは必然——
…いつものウオッカなら、そのギャップごと粉砕して踏み込む。が、今日に限って軋んだ足首がその力を伝えきれずに崩れた。
————まだ、行けるだろ!もうスカーレットはすぐそこに!
左足を踏み込んで、再び右足が地面と接触する。
強く、強く右足を踏み込んだ。
「力が入んねぇ…!?」
足が、空を切るような感覚。足を突いているはずなのに右足からターフの感触が伝わってこない。これ以上はマズい…!
走っている筈なのに、最高速に近い筈なのに、体が、自分が遅くなっていくような失速感。
“足に違和感を感じたらスパート中だろうがなんだろうがそれ以上の領域には行こうとするなよ”
「くそっ!ちくしょおおおおお!」
遠くなっていく蒼い外套。すぐ前に居るレイニーワルツすら躱し切れない…
届かないのか…!また…!
*****
『先頭はダイワスカーレットだ!ダイワスカーレット踏ん張るか!間をついてレイニーワルツ!外からダービーウマ娘が襲ってくる——!!』
なんだ…?ウオッカの加速が鈍い……?
400m看板を通過して直線を向き、上手く立ち上がったように見えたウオッカ。そのまま勢いで直線を追込みさえすればダイワスカーレットに届くであろう速度が出たはずで…
「まさか!足に何かあって抑えてんのか!」
「え…?」
『ウオッカがきた!残り100!ダイワスカーレット粘るか!そとからレイニーワルツ!さらにはウオッカ!並ぶか!?並べない!!ダイワスカーレット二冠達成!!』
『ダイワスカーレット二冠達成!ティアラ最強世代の頂点はダイワスカーレット!GⅠの舞台でまたしてもウオッカを破りました!4コーナー手前から先頭そのまま堂々と押し切りました!』
握りつぶしてしまったコーヒー缶から中身が零れ、手にかかるのも気にしていられなかった。おそらく最終直線でウオッカの足に何かがあった。最後の100mに急に加速が鈍ったように感じられたのは俺の気のせいじゃなかったのだろう…。
「すいません宮下サン…。後を任せます」
「…分かりました。」
逸る気持ちを抑えつけて、スタンドを後にすると自分でも気づかずに駆け出してしまっていた。
頼むから無事であってくれ…そう自分にも言い聞かせるように。