ピットアウトのシグナルがグリーンに変わり、ピットレーンに並んでいたバイクたちが一斉にエンジンに火を入れ出撃していく。午前中の枠が始まり、A班の面々がコースインしていった。
「おわぁ…すっげえ音…堪んねぇ」
「ありゃあ金の燃える音だな…走ってるマシンの総額でいくらになるやら」
600㏄~1000㏄オーバーの国産4社はもちろんのことヘカティ、VMW、トライアルファと海外スポーツモデルまで揃い踏みだ。どのマシンも一捻りで100㎞/hオーバーのモンスターマシン達。
コースに慣れてない者を間に挟み、一列になって目の前を通過していく。
まだタイヤも温まっておらず全然速度を出していないと言われたが、出していないと言っても150km/h近いだろう。
それでもモンスター達の息遣いはまだまだ余裕と言った感じで底知れない。
隣にいるトレーナーを見ると、目を細めて通過するマシンを眺めていた。どこか遠いところを見るような目にセンチメンタルを感じる。やっぱりこういう場所は色々思い出してしまうのだろうか。
「顔に何かついてるか?」
目だけがこちらを向き、目線が結ばれる。普段からダウナーっぽくあるトレーナーなのだが、いつもと違った雰囲気を纏う姿に一瞬だけとくりと心が跳ねる。
「いんや……タバコ吸いてぇって思ってるんじゃないかって」
「良く分かったな」
サーキットではオイルやガソリンなど可燃性のものがあるため指定場所以外の喫煙は禁止されている。それさえなければ柵にもたれかかって煙草でも吹かしてたんだろうなと、想像に難くない。
たぶんそう、誤魔化した。
「お前さんがバイクに乗れるトシだったら色々レクチャーでもしてやるんだが、まぁ次の機会にってことだな」
「お?言ったな?絶対だぜ?」
「おぅ、だから無事に免許取れるぐらい勉強してくれよな」
そう言うとトレーナーは踵を返してピットに向かっていく。次のB班はトレーナーがインカムでレクチャーしながらカルガモ走行する枠だからそろそろ準備するんだろう。
ヘルメットを被り、グローブを填めて、感触を確かめるように手首を回している。普段見ることのない黒の革ツナギの立ち姿に、何故だか凄まじい威圧感を感じる。その威圧感に縫い付けられて目線を外すことができない。
「凄いっしょ。サカキのツナギ姿」
「サクさん!」
「あの雰囲気、絶対只者じゃないって一目でわかるじゃんよね?」
「なんか…うまく言えないんですけど、後ろに付かれたくないッスね…」
「言えてる!」
トレーナーがLZ-1に跨り、エンジンに火を入れると二回吹かしてピットレーンにマシンを出す。その後ろにA班と同じく、国産、海外メーカーのスーパースポーツマシンがずらりと並び列になっていく。
前走の班の撤収が終わると、数分してピットシグナルのグリーンが点灯しB班の列が発進していった。
発進していくトレーナーと目が合う。メロースモークバイザーの奥は見ることはできないが、きっといつもの仏頂面に違いない。親指立てたってカッコなんかつかねーよ。
「後ろについて見られると良かったんだけどね。サカキの走りは本当にスムーズでラインを外さないんよ。他と絡んでやり合ってるときでも、内外関係なくラインをクロスさせて捲っていくし、ホントどうやってんのかねぇアレ」
「そんな凄いんですか?」
「凄いなんてもんじゃないよ!後でフロントについてるカメラの動画あげるから見てみなって!」
快音を鳴らしてLZ-1がホームストレートを通過していく。
まだまだ領域まで程遠い退屈そうなエキゾーストではあるが、ZR-10Xとはまた違った高めの音に耳の奥がムズムズする。もっと回転数を上げた全開をカマしてほしいのだが、それは午後までのおあずけ。
期待を燃料にして少しだけ早くなる心臓。
でも、なんだか、違和感がある。
大好物なバイクを前にして浮かぶ興奮とは違う、高揚感。さっき発進していく前のトレーナーと目が合った時に跳ねた心が落ち着かずソワソワする。目の前を通り過ぎていくLZ-1に視線を送って、熱くなった息を吐きだした。
「…なんだ……コレ」
今まで感じたことのない波紋が胸の内で反響して、波立つ。どうしたらいいのか分からないし、どう止めていいのかも分からない。初めての感情はたぶん誰だって持て余す。
初めて来たサーキットに浮かれてるんだ。
“好き”なモノが咆哮を立てて走り抜ける。それに興奮しない訳がない。きっと、そう思う。そう思うことにした。
*****
午後になって始まったフリー走行。午前のフカシは何だったのかと思うぐらいの轟音を立てて、目の前をバイクが通過していく。
4気筒の甲高い音、クロスプレーンの音、ツインの音、どれもこれも腹の底まで押し付けるようにエキゾーストが響く。
最終コーナーを立ち上がって加速してきたと思えば、風を切って、風になって、一瞬で目の前をカッ飛んでいった。
「速ッえぇ…」
「新幹線並みに速度出てるからな」
今走っているのはベストタイムが2分以上の人達。少しでも今日のスクールを活かしてタイムアップしようと試みているらしく、ちらほら2分を切るタイムをマークするマシンも現れている。
「ここのレコードタイムってどのくらいだっけ?サク」
「えーと、GBR1000RRの1:44.5だったかな?600だと1:47とか。でも2分切れてる時点でじゅーぶん速いっしょ。俺は無理」
ある程度までのタイムアップはスムーズにいく場合が多い。こうしてスクールでタイムの出るラインやマシンの扱いを学び慣れてくれば、とりあえずは初心者脱却というところか。ここから更に上手いライダーの技術を吸収して自分に取り込んで効果が表れるまでは、かなりの時間が必要で、この辺りが中級者だろうか。
そしてその先、この先はまず行き詰る。
タイムアップも停滞し、ただひたすらに自分と闘う期間が訪れ、試行錯誤を繰り返し、タイムに一喜一憂するゾーンが来る。ここは本当に1段1段が果てしなく大きく長い。
言うは易く行うは難し。ここで降りるか残るか、たいていが前者だ。
「どうも、こんにちは」
「ん…藤堂さんじゃないっスか!」
「やあウオッカさん、さっきぶりだね」
SUZAKIのツナギを纏った浅黒い肌のイケてる男が話しかけてきた。
もうダメだ。一目見て俺とは相容れないと分かった。陽の者オーラが滲み出ているその立ち振る舞い。
「サク…あの人って……」
「あー、あの人がUtuberやってるっていう講師役の藤堂さんよ。全日本耐久出たりとか、WRCCも出てるじゃんね」
「よくスクールの講師なんて頼めたな」
「なんでもあっちのショップと馴染らしいじゃんよ」
「なるほどね」
そんな凄いらしいライダーがいったい何の用でしょうか?俺、なんかやっちゃいました?
「サカキさんどうです?次の枠つるんで走りませんか?」
「俺と?冗談は止してくださいよ。ブッちぎられて終わりですって」
「お噂はかねがね聞いてますよ。………ライダーとして、あのアイデルン・ラグナに迫った走りを間近で見たいと思うのは普通じゃないですか?」
その胡乱気な眼差しは変わらない。しかし、明確に男が纏っていた雰囲気が変わる。
龍の逆鱗に触れる、虎の尾を踏む、そんな言葉たちが頭の中を駆け巡った。やはり、そうだったか。この男がレースの舞台から姿を消したのは。
これは、卑怯な挑発だ。相手の痛い所を突いて煽る。……そうまでして、この男の本気を見たい。その価値が絶対にある!
「サク」
「……ん」
「コイツは、LZ-1はどこまでいける?」
「全開で1:52くらいかな…それ以上はたぶん、キツいっしょ」
———いや、そいつじゃない。
アンタにはもっと、ふさわしい相棒があるだろう。忘れたとは言わせない、奥多摩でGXSを、俺をぶっちぎった紺の獣!
「いえ…ZR-10Xで、やりましょうよ」
「えぇ、なので体を慣らそうと思いまして。次の枠には間に合わせますよ」
掛かった。
内心ほくそ笑みながら、どう千切ってやろうかと打算を始める。つるんで走るなんてそれはただの建前。本当は奥多摩のリベンジを返してやりたい。
相手は型落ち、それにあの時のGXS-Rは借りもので壊すわけにはいかなかった。今回はこっちも全開で行ける。パワーも何もこっちの方が上回っている。
「それじゃ、楽しみにしてますよ。サカキさん」
「トレーナー…藤堂さんになんかしたのか?」
「いや、何だか知らないけど向こうがやる気なら付き合わねーわけにはいかねーョ」
ピットの片隅に佇んでいたZR-10Xを前に、頭に血が上った自分をどこか冷静になって窘める。それでもアイデルン・ラグナを引き合いに出されたならば、引き下がるわけにはいかない。
……あの男はそれをした。ならそれは挑発に他ならない。
鍵を回して、獣を叩き起こす。
えらく不機嫌そうに伸びをして低く唸りだし、規則正しい確かな鼓動をマフラーからまき散らす。獲物を前に鎖を引きちぎらん。
———待たせたな。今日は“全力でいい”
「ウオッカちゃん、見る場所を変えよう。…凄いものを見られるよ」
「凄いもの…っスか」
「うん。たぶん君は、見なきゃいけないものだ」
*****
100Rというコーナーがある。
ホームストレートから右の1コーナーを曲がり、左の2コーナーを抜けたその先、ぐるりと長く大きく右に回り込み、その後左ヘアピンに繋がる3つ目のコーナー。
他に比べて緩やかで下り勾配での進入になるためスピードが乗りやすい。しかし入口は緩やかだったRが、出口では一気にきつくなる。
路面がバンクしているにも関わらず、外に流れようとするマシンを抑えつけ凄まじい横Gと闘わなければならない、隠れた難所。
「ここ、意外とウマ娘のレース場と似てるんよ。入口は緩くて、出口の方がカーブがキツいってね」
「東京の3・4コーナーとかみたいな感じなんですかね」
「そうそう、まあ勾配とか坂とか厳密にいえば違うんだろうけど」
内側にある丘からはぐるっと回りこむコーナーを左から右まで見渡すことができた。インベタをなぞりながら通過していくマシン、外を少し回り込みながら通過していくマシンと抜け方も様々。おおむね150km/hぐらいだろうか。
そこへ2台のバイクが差し掛かった。前は黄色のGXS-R、もう一台が紺のZR-10X。後ろがトレーナーだ。
「すっげぇ…」
尋常じゃない角度までバイクを倒して曲がっていった。
膝どころではなく肘まで擦りかねない角度まで傾けている。コーナーの最中はその姿勢のまま時が止まっているんじゃないかと思うように微動だにせず、あっという間に目の前から消え去っていった。
「膝を擦れば速く走れるんですかね」
「それは違うじゃんよ。速く走るために膝を擦るんじゃなくて、速くなっていったら膝を擦ってた感じ。過程なのか結果なのか、その違いよ」
「…トレーナーがここでインベタ走らずに少しミドルラインを取るのは何でなんスか?」
「ココが東京レース場の3・4コーナーとかみたいって言ったよね。入り口側の緩やかなRと出口側のキツいR、それを合わせて2つのコーナーを1つとして見てるんよ。」
「2つを1つに?」
「そう、ここをインベタに付いて抜けると出口で外側に膨らんじゃうんよ。そのままインに貼りつくためには速度を上げられないし、次の左ヘアピンにまたインベタで入らなきゃいけなくなって、その後の300R立ち上がりでものすごく速度差がつくんよね。だから、コーナー中間でミドルラインを取って、出口側のRで内に寄せてクリップに付くのが定石ってね」
「Rのキツいカーブに対して、少しでも緩やかにして立ち上がりで加速しやすくするためってことなんスね」
「そうそう。飲み込み早いね!ウオッカちゃん」
2つのコーナーを1つとして抜ける。その後の加速につなげるためのミドルライン。カーブで加速するよりも直線で加速する方が、速度が乗るのは当たり前だ。
そのためには内側に付き続けるのではなく、ほんの少し外側に持ち出して角度の厳しいRを緩和する。そうすれば外に膨らむ事がなく、立ち上がり加速へより早く移れる。
そういう事だろう。
「これ…使えるんじゃないか…?」
少女は一人、誰にも聞こえないような声で呟いた。上手く使えれば、レースでかなりの武器になるはずだ…!やってみる価値はある!後でトレーナーにも聞いてみよう。
そう考えながら、落ち着かない尻尾がぱさぱさと揺れる。
*****
とんだ食わせ物だ!旧型と侮った!
前を行く藤堂は自分の浅はかさに憤慨しながらコーナーを抜けていく。しかし見なくても分かる。後ろに貼り付いたまま全く離れないZR-10Xに業を煮やしていた。
峠というステージでは、軽さやバランスが武器となる。多少の年式差は簡単にひっくり返るだろう。それに比べサーキットではマシンの差というものは遥かに大きい。
GXS-Rと旧型のZR-10Xは15psほどのパワー差があるはずだ。その証拠にホームストレート立ち上がりからはジリジリと離れていく。なのに1コーナーのブレーキングで一気に後ろへ詰め寄られ、後はコースの全域で貼り付かれたままになる。
つまり、ブレーキング勝負で負けているということか!
確かにメーカーやマシンの違いによって、速い所は変わるわけだから多少の差は出るだろう。それを加味したって、ピーキーと言われているZR-10XのD型に追い詰められるという事は、それを操るライダーがバケモノにという事に他ならない。
もう何周目だろうか。
1:50を切る様なタイムで周回しているにも関わらず、離れていかないどころか、ジリジリと詰めてくる始末。後ろから感じる息苦しいまでのプレッシャーがまさか現役で走っていないライダーのものなどさらに信じたくない。
ストレートから一気に減速し、6から順に2速までブリッピングしながら速度を落とす。まただ。また、ストレートで稼いだリードが1コーナーで消し飛んだ。
今日に限って愛機のGXS-Rがやけに遅く感じる。
「クソったれ!1気筒死んでんじゃねえのか!?」
2コーナーを抜け、もはや100Rで差はない。半身差でそのまま左ヘアピンに突っ込む。ヤツはアウト側に居て、このラインは躱せないだろう。そう、油断した。
「ウオッカちゃん!サカキが抜きに行くよ!」
「……ッ!」
“イン”を突き刺されたGXS-R。
アウト側に居ると油断し、外へ膨らむラインを取った所をZR-10Xがフルブレーキでラインをクロスさせイン側に飛び込んだ。
———“一閃”だった
もう防ぐすべもなく、あっさりと一瞬で紺色の獣が食い破る。力を失うGXS-Rが緩やかに離れていく。
その周でチェッカーが振られ、紺色の獣が咆哮を上げながら目の前を通り過ぎて行った。
「1:47.9.…」
何てタイムだ。50秒を切るどころか、走り込めばレコードタイムを狙えるのではないか?そう感じさせるような走り。
こちらも48秒台。決して遅くはないタイムのはずだ。なのに上を行くのか!あのZR-10Xは!
「…参りましたよ」
「いえ、こちらもかなり厳しいものでした。タイヤが特に限界でしたね」
現にこのZR-10XもGXS-Rもタイヤは溶けて、まるで巨大な消し粕のようなものがこびり付いていた。
「レースに戻ってくるつもりはないんですか…!?なぜ…それほどの技術を持ちながら…」
「今はもう他に見るべきものがあるので」
「ウマ娘のトレーナーでしたね」
「……えぇ」
「残念ですよ。こんな負け方してリベンジもできないなんて」
「…機会があれば、またやりましょう」
“機会があれば”
……上等な躱し文句だ。だがいつかこの男を超えてみせる。そう思わせるような出会いなのに、挑戦することは適わない。
どうにかしてこの男と公式戦で戦いたい。そんな願いばかりが藤堂の中で大きくなっていく。
あの鎖を外された紺色の獣は抑えつけられる者がいるのだろうか?そんな好奇心ばかりが膨れていった。