空気が身を切り裂くように冷え込んで、陽光の温もりが恋しくなった12月。吐く息は白く、ヘルメットのバイザーを下げれば即座に曇り、ネックウォーマーは2重にして信号待ちのたびに太ももを掌で擦る。
寒かろうがVTは変わらず鼓動を刻み軽快に走るが、そろそろ駐車場の利用申請をして車に甘えようか…なんて考えも過ってくる。
早朝のロードワークをこなしているウマ娘の横を通り過ぎて裏門から駐輪場に入った。
いつもの場所に押し込んだVTは鍵を捻って休め、ヘルメットを脱ぐと上気した頬に冷たい空気が触れる。ゆっくりと息を吐けば煙草も吸ってないのに白い煙が解けて消えた。
物陰に隠れるようにして煙草を吹かしていると、先ほど抜かしたウマ娘が裏門から帰ってきた。
傍目で見てもずいぶん気合いが乗っている。体やトモの仕上がりも上々。もしレース前のパドックであのウマ娘を見たならば、トレーナーを齧っている者なら一発あると警戒する。
———オマツリホクサイ。GⅠの勝利はまだないがアメリカンジョッキークラブカップ、オールカマーと重賞の勝利はこれまで全て中山レース場で、有馬記念でも獲得ファン数の上位順で出走が決まっている。ウオッカが東京レース場を走りやすいと言うように、彼女は中山が波長の合う場所なのだろう。
ダイワスカーレットだけでも強敵だというのに、まだ見ぬ伏兵が居たんじゃたまったものではない。対策を考えようにも至る処が堰き止められて流れが乱れる有馬記念はなかなかどうして予想がしづらい。
「そう簡単にはいかねぇか……」
*****
とあるホテルの多目的ホール。今日のために集まった報道陣による黒山が築かれ、今か今かと少女たちの登壇を待ち望んでいる。
12月後半、暮れの中山で行われる大一番。“有馬記念”
今日はそれに向けた枠番抽選会および、ウマ娘たちによる合同記者会見と相成っていた。
有馬記念はファンの投票上位10名が優先的に出走でき、そこからファン数上位順に16枠までが用意され、中央トゥインクルシリーズの1年の締めくくるGⅠレースとして数々の名舞台が繰り広げられてきた。
近年はホープフルステークスが年内最後のGⅠではあるが、有馬記念で年の瀬を感じる人も多いだろう。
ダイワスカーレットやジャパンカップでやり合ったメイシンハドソン、ジョックロック、イクサトゥルース等もファン投票で選ばれメンバーは出揃った。
「時間となりました。本日はお集まりいただきありがとうございます。ただいまより有馬記念枠番抽選会を始めさせていただきます。諸注意としまして質疑応答時間以外のウマ娘へのご質問、フラッシュを使用しての撮影はご遠慮いただきますようお願いいたします」
駿川たづなからの形式ばった挨拶がアナウンスされ、マスコミたちはカメラやレコーダーの電源を入れ始めた。不測の事態に対応する要員としてトレーナーと生徒会委員はおおむね等間隔でマスコミを包むように展開していた。学園側が参加するマスコミについては選定している筈なのだが、どうしてもゴシップ側やマナーの悪い記者というものはいつの間にか入り込んでしまう。そいつらと“お話”するための囲った布陣だ。
「さて、期待のほどはどうなのかな?トレーナーさん?」
「この部屋に何人トレーナーがいると思ってんだョ……」
するりと音もたてずに隣に並んだのはフジキセキ。彼女もまた警備要員としてこの会場をうろついている。
「期待の程というのは?」
「もちろん!ファン投票で1位になった彼女の事だよ。第一回、第二回ともに1位なんて期待の表れじゃないか」
「ご期待に添えられれば良いが…ね」
今日の枠番抽選でどうしなければならないのかが決まるかなり重要なピース。
できればウオッカには内枠の経済コースを手にしてほしい。
有馬記念は中山レース場の内回りを使用する2500mの競走であるが、3コーナー奥の外回りコースの緩やかな右曲がりコーナーの途中からスタートとなり、急コーナーの内回りコースに入り丸々右回り一周。二度の急坂を上がりゴールというレース。
外枠を引いてしまえば、当然そのまま外ラチ側を回らされる。おおむね全員がGⅠレース経験者であるから、そう簡単には内側になんて入れてくれるはずもなく、距離に不安のあるウオッカにはかなり厳しいレースになってしまう。
「出走ウマ娘たちの入場です」
ウオッカが頭になって登壇、その後ろにメイシンハドソン、ダイワメジャー、ダイワスカーレット、ジョックロックと続き、最後のリグルスが上がって一列に並んだ。
メディアからカメラが向けられシャッターが切られる。バシャバシャとマシンガンの如き連射を浴びせられてもGⅠ経験のあるウマ娘たちは慣れたものだ。回避により繰り上げ枠に入ったオープンウマ娘であるリグルスは傍目で見てもガッチガチであるが。
「ではっ!これより!有馬記念枠番抽選会を開始する!私がこの箱を持ってファン投票一位のウオッカから回り!封筒を引いてもらう!後ほどそれを一斉に開き決定とする!」
恒例の一斉開封方式だ。宝塚記念と有馬記念の年二回グランプリのみこの方式となる。秋川理事長が直々に箱を持って周り、ウオッカから順に全員が封筒を引き終わった。
「開封ッ!各ウマ娘封筒を空けよ!」
目を覆う者、ガッツポーズをする者、無表情な者、どのウマ娘も三者三葉の反応をしている。因みに目を覆っているのはウオッカ。無表情なのはダイワスカーレット。
そして各々が紙を捲る。
————8枠16番
「やりやがった…」
「ふふっ」
なにわろてんねんフジキセキ
こんなシャッターの雨の中じゃ、そっと溜息を吐いても誰も気づかない。
お高いカメラから覗いたファインダー越しの彼女たちはさぞ美しく見えることだろう。
頭を抱える担当の事は綺麗に撮ってくれると嬉しい。あんなお手本のような頭を抱えるポーズはそうそう無いだろうからな…。
*****
記者会見において、ダイワスカーレットの従姉妹であり天皇賞(秋)やマイルチャンピオンシップを制したダイワメジャーと、昨年のエリザベス女王杯で運を見せたアサイチカンテラがトゥインクルシリーズから引退を表明。
これを含めたマスコミ各社の順位予想は割れており、1枠1番を獲得したメイシンハドソンが1番人気、ジョックロックが2番人気、ウオッカは外枠にもかかわらず3番人気に推されていた。
「今日はどうするよトレーナー?」
「大外枠だからな…。無理に内へ入ろうとすれば妨害が取られかねん。理想は先行位置なんだが…」
2500という距離で初っ端からやり合えば後半のスタミナが残せない。かと言って後ろ側に居た場合、急コーナー後の中山の300mちょっとしかない直線で捲り切るのは至難の業だ。
「できる限り前め、って感じか…。わりーが今日ばかりはどうしたらいいか俺も確信が持てん」
「しょーがねーか…」
「結果はともかく楽しんで来い。蹴散らしてくれれば万々歳だがな」
顎に手を当てて少し考え込むウオッカ。
「……中山のスタートは外コースの3コーナーの奥なんだよな」
「そうだな。“偽りの直線”とでも言えばいいのか?Rが明確に変わるのは600看板からだ」
「2つのRを1つとして見る…」
「…それをやるのは、ちょっと距離が長すぎるぞ」
「やってみなけりゃ分からねーだろ」
この前富士スピに連れて行った後、どこに刺激を受けたのかウオッカは妙なコーナリング練習をするようになった。
コーナーの途中でわざわざアウト側に少し膨らみコーナーの深くで内ラチに体を寄せ、直線への脱出速度を上げるという、まるでバイクや車のレースのようなコーナリング。こうすることで今までの走り方よりもコーナーからの直線加速は速く鋭くなる。
中山はただでさえコーナー半径が他のレース場より小さいから、コーナーはその分全体的に速度が下がり、そこから速い加速で直線に入れたなら有利に向くはずだ。
それに腐ってもファン投票1位の3番人気、ジャパンカップでやり合った連中からは当然マークされる可能性も織り込んである。
——だからこそスタートから内コースに入るこの一回だけ、立ち上がり重視のコーナーリングが使えるわけだ。前目に付けてマークを引っぺがす意味もある。
…だが当然、デメリットもある。
わざわざ少し外目を回ることはスタミナの浪費に他ならない。2500mというウオッカにとって恐らく厳しい距離にそれをやるのだから、最終直線は気合いと根性というオカルトに頼らざるをえなくなる。そうなった時だれが隣に居ればいいのか?
必然、答えは一人しかいない。
「それをやるならダイワスカーレットの後ろにつけろ。アイツは前のめりに出ていくはずだし必ず経済コースをもぎ取りに行くだろうからな」
「オッケー!面白くなってきたじゃねーか!」
控室を出て地下馬道へと進むと同じく控室から出てきたダイワスカーレットと鉢合わせた。本当に打ち合わせたわけでもないのに重なるのは何の因果か?
あからさまに「げっ」とでも言うように顔を歪めたダイワスカーレットにウオッカが絡みに行く。
「おうスカーレット!」
「なによ…後で会うんだからここで鉢合わせなくたっていいじゃない」
「おいおい釣れねーな」
いつも通りコンビが揃って喧しくなった通路を宮下と並んで歩く。ニコニコと眺めるだけで止めようとしないのもまたやらしい。
「…ドーモ」
「これはこれは」
器用に片頬だけを吊り上げて笑う宮下。
いつの間にかコイツも悪役のようなムーヴが板についてきてるいやらしい奴。見ている限りこの笑い方は俺の前でしかしていないはずだ。
「どうです?今日注目してるウマ娘はいますか?」
「“警戒してる”の間違いだろ…。当然、ダイワスカーレットだョ」
相変わらずウオッカと揃うとぎゃーすか言い合うのも変わらず、存外二人ともツッコミ気質なだけにその勢いは止まらない。
「そんな風に思っていただけているだけ光栄ですね」
「当たり前だろ。どちらかと言えば距離に分があるのはダイワスカーレット、スタートもちょうどいいぐらいの内側。警戒しないはずがない」
「ですがそれは“分かり切っていること”でしょう?」
当然、こいつも相手の事は研究してきているはずだ。うっすらと目の下にクマがあることも睡眠時間を削っていることの証拠だろう。ダイワスカーレットのために、勝利のために。
「……ダイワメジャー、オマツリホクサイ」
「ダイワメジャー君は分かりますが…オマツリホクサイ君……?」
「ダイワメジャーは当然引退レースなんだから気合も乗ってるだろ。距離はマイルから中距離と言ったところだが競り掛けられれば強い。2500ぐらいならこなすだろ。」
「そっちはそうでしょう…?ですがなぜ9番人気のオマツリホクサイ君を警戒対象に?メイシンハドソン君やジョックロック君と怖いウマ娘ならもっといるはずですが…」
「…オマツリホクサイはGⅠ勝利は無いが、これまでのGⅡ勝利はアメリカンジョッキー、オールカマーだ」
「……どちらも中山!」
「そう、中山に限ればとんでもない勝率で、条件戦の勝利もほぼ中山という特化したウマ娘なんだョ…。それぐらいそのコースのスペシャリストは…“怖い”」
サーキットでも、峠でも、一人はいる。そのコースの“スペシャリスト”と呼ばれる人物が。
そこでならとんでもないパフォーマンスを発揮し、誰が来ても負けない、プロですら食い散らかされる速さを持つ魔物がいる。それは走り込みの数によるものなのか、経験によるものなのか、それともコースと“波長の合うもの”か定かではない、が。
———ウマ娘にも当然、それがある。時にそれは考えられない番狂わせを生むだろう。
*****
「フジキセキ…なんでまたお前さんが居るんですかねぇ……メイシンハドソンの応援ならリギルメンバーと居りゃいいじゃねぇか」
「いいじゃないか!減るものでもないし、たまには最前列で見るのも一興だと思ったのさ?」
「本音は?」
「サカキトレーナー目つきが悪いから周りに人が寄り付かなくて楽」
「減ったよ。今俺の精神的耐久度が減ったよ」
バインダーで顔を隠して肩を震わせている宮下。ほんとに顔面偏差値の高ぇ奴らはこれだから…
『澄んだ空に昇った陽光ももはや少し傾き始め気温も少し落ちてまいりましたが、まだまだ熱気は消えそうにありません中山レース場!暮れの中山大一番、10万を超える大観衆、これが無ければ終われない!今日のメインレース有馬記念も間もなく出走です!』
スターターがトラックに上りその旗を振り上げるとともに軽快なファンファーレが流れ始めた。
耳が飽和攻撃を受けているかのようなスタンドの大歓声。今日は満員御礼で外にまで押し掛けたファンたちがあふれ返っている。
奇数番のウマ娘がゲートに収まり、今度は偶数番のウマ娘が収まっていく。
『向こうの方でコリカンチャ、ロックトゥソング、そしてファン投票一位!堂々とした歩みで常識破りの女帝今年のダービーウマ娘ウオッカが入り態勢完了!今年の締めくくり、実力拮抗の豪華メンバー2500m!グランプリウマ娘の栄冠は誰の手に?』
『————スタートしました!』
*****
普段浴びる大歓声も今日はずいぶん遠くに聞こえて、落ち着いて皆ゲートに入っていくほとんどがGⅠ経験者。レースで何度か当たっているヤツも居る。メイシンハドソンやイクサトゥルース、ジョックロックなんかはジャパンカップから連戦だ。
荒れることもなく静かに待つ者、ソワソワと前かきしている者、周囲に殺気をまき散らしている者、いろんなやつが居るもんだ。こんな風にゆったり観察ができるのも大外枠の利点ではあるか…。
先に収まっているダイワスカーレットの鋭い視線を感じ、ニヤリと笑って目線を返してやればプイッと前を向いてしまった。
「相変わらずだなぁ…ん」
その右側、何人か挟んで2枠3番。どうしようもなく何かある雰囲気を感じるウマ娘が一人ゲートに収まっている。鼻にシャドーロールを付けて精神を落ち着かせるかのように胸に手を当てていた。
なんとなく、本当になんとなくなんだが、何かある。その感覚を無理やりに押し込めた。
「オレはオレのやれることをやるだけだ」
係員の誘導に従ってゲートに入った。スタンドからの歓声が、波が引くように静かになって行って隣のヤツの息遣いが聞こえる。服の擦れる音、蹄鉄の踏みしめる音。…雑音の中に聞こえるほんの一瞬のそれを待つ。
……集中して目を閉じ聴覚を研ぎ澄ます。今日の作戦はスタートダッシュを決められなければ一気に苦しくなる。ついに試す時が来た、立ち上がり重視のコーナリング。
ジリ…とほんの少しの小さな音、それを合図に踏み込んで突っ込むと、同時に鉄の檻がはじけ飛んで視界が緑一面に染まる!今日の勝負所はここだ!
「よっしゃあ!いくぜぇ!」
———ジャパンカップと同じような流れ、いつも通り、想像通り、ゲートが開いた瞬間ハンチョウはスタートダッシュを決めてそのピッチ走法で全開加速をカマす。
目指すは蒼い勝負服のダイワスカーレットを押さえ、ハナを取ってスローペースに持ち込むこと。2500mを逃げるというのは、並大抵の事ではできない。ダイワスカーレットとまともにやり合ってペースを上げてしまえば自爆するのは自分なだけ、だから無理やりにでもハナを抑え込むと、そう目論んでいた。
だが、いつもと違う異常事態が起きた。
左側から聞こえる炸裂音のような足音。8枠15番の自分の更に外枠なんて1人しかいない。その1人は末脚の伸びを活かして終盤に差しに来るスタイルだし、ジャパンカップだってその背中をまざまざと見せつけられた。今日だって後ろに控えると思っていたのに。
「何で…!?そこにいるの……!?」
追い立てられる心理がそうさせたのか、必死にペースを上げるハンチョウ。ダイワスカーレットやダイワメジャーが目を剥き、冷静に事を運ぶ事で名の上がるメイシンハドソンですらこの異常事態に動揺した顔を見せた。
加速が得意なピッチ走法の使い手であるハンチョウに並んでウオッカが加速していく————!?
「ぐっ!?」
この事態で動揺し、立ち直る隙に外目からかぶせられた最内1枠のメイシンハドソンとユメノパスポートは行き場を失くしズルズルと後退。メイシンハドソンが11番手、ユメノパスポートが15番手まで順位を下げてしまった。
追い立てられたハンチョウはダイワスカーレットを抑えハナに立つもののペースは掛かり気味。これにダイワスカーレットが追走、余裕をもって内ラチ沿いの好位で経済コースを取ったのがオマツリホクサイだった。
中枠だったジョックロックとコスモスバースは偶然にも、何か仕掛けると踏んでいたイクサトゥルースはこの隙に乗じて4~6番手と前目に付けることに成功する。
「小癪な…」
ギリッと折れそうなほど歯噛みするのは、好位追走する先行型のダイワメジャー。オマツリホクサイの位置辺りを狙っていた彼女は、騒動の最中に位置取り争いに巻き込まれ、中団8番手に控えることになってしまった。これが自身の引退レースであり気合いの乗っていた彼女は初っ端から腰を折られた形になった。しかし、最後の花道がこんな形で終わっていい筈がない。
確かにマイル、長くても2000mで勝ってきた自分にとって2500mという距離はずいぶんと長いかもしれない。
それでも…これが自分の終着点。目に激しい炎を灯して、ダイワメジャーのその身が燃え盛るように熱くなっていく。
「ふざけたことをしてくれるなよ…!!」
*****
『ほぼそろいました!ダイワスカーレットとダイワメジャーこの辺りが好スタートから先に行きます!やはりダイワスカーレット!その後ろからジャパンカップと同じようにハンチョウがハナを取りに行く!』
『そしてその外…ウオッカ!?ウオッカだ!?大外の16番からウオッカが少し外目に持ち出して4コーナーで…なんだこの加速!?』
少し外目を回っていたウオッカが緩やかな弧を描き、内ラチに沿ってコーナーリングする速度の上がらない中団を纏めて捲りにかかった。4コーナー中盤の400看板に向かってクリップを取り、直線に向けて速度を乗せていく。
『どよめいている!スタンドからも困惑の声!なんと後ろにつけて進めると見られていたウオッカが3番手!外目でありますがダイワスカーレットの後ろにつけた!その内にオマツリホクサイ!』
「やってくれましたね…サカキさん」
「思い切ったね…。大外枠にもかかわらず前につけて先行とは…。それにハンチョウを追い立てたあの加速はどうやったんだい?」
「あれは中山のカーブだからこそできたことだョ…。最近妙な練習ばっかりしてたから何か目論んでやがると思ったが、ココでやるとはね」
やるとしたらスタートから仕掛けるとは踏んでいたが……まさかここまで上手くいくとは思っていなかった。
…後は精神力との闘いになる。長い々い中山にどこまで合わせられるか、一度目の坂を駆けあがっていく彼女たちを見送って、一度も瞬きできない2分間が幕を開けた。
『ハンチョウが先頭で3馬身のリード、その後ろダイワスカーレットは控える形になりました!その後ろにオマツリホクサイと今日は奇策仕掛けのウオッカ!ハンチャップリン、コスモスバース、イクサトゥルースが先団を形成、ジョックロックにペースを狂わされたダイワメジャー!ロックトゥソングが中団!ワリを食ったメイシンハドソンは後ろ目に通らされることになりました有馬記念!』
『あのジャパンカップと同じようにハンチョウが逃げていきます!1000mの通過タイムは60秒6!ちょっとスローなペースになってきている!』
リズムを乱されペースが上がらないハンチョウ。これで1・2コーナーは緩やかに回って息を入れられる。
400m掛けて駆け上がった約3mをゆっくりと下り、向こう正面から3・4コーナーは平坦。ここは折り合いに徹して上手くもたせてくれと願うしかない。
最大の障壁はゴール前の約3mの坂…これが問題だ。この坂のやらしいところは平坦から上がるのではなく“150mほど掛けて少し下ってから一気に上り坂になる”点に尽きる。
平坦な道から上り坂に転じるのと違い、下りで勢いが乗ってから上り坂に転じるのではより大きなエネルギーが体を抑えつける。2200m近く走ってきて最後に待ち受ける坂に辿り着く頃には、もう息も絶えて体中が酸素を欲している頃になる。頭も回らなくなってきて、足は一気に重くなり姿勢を保つことすら難しくなるほどに…。
あの時の事が頭にチラつく。大丈夫だと思っていても勝手に脳が思い出す。中山のターフに沈んだ1人目の担当……。
「やはり、中山のレースは少し辛そうだね」
「……何のことだ」
「エスタの事。思い出してしまうのではないかい?」
「だからわざわざこっちに来たってか?舐められたもんだ」
「そう尖らないでおくれよ。彼女なら大丈夫!同じ栗東の釜の飯をいただいてるからね!」
「…そりゃ頼もしい」
先ほどとは違う、眉根を寄せて困ったような微笑みを向けるフジキセキ。思えばこの笑顔にも何度か助けられたような気がする。
そうこうしているうち向こう正面を過ぎてウマ娘たちがコーナーに突っ込んでくる。あと30秒もあれば決着がつくだろう。長い長い30秒、しかし気付けば終わっている30秒。その先に微笑むのは…誰か。
『まだハナを進むハンチョウ、その後ろにGⅠ3勝ダイワスカーレット、続いて内にオマツリホクサイと今日は奇策を打ったウオッカ、背後にハンチャップリン!少し間が空いてイクサトゥルースこのウマ娘は何処で動いてくるのか、コスモスバース、ジョックロックが続き、内に今日でその雄姿をトゥインクルシリーズで見るのは最後になりますダイワメジャー、ロックトゥソング、外にどう動くかメイシンハドソン!』
『3コーナー過ぎて各ウマ娘がスパート準備をし始めました!前の方が塊ってくる!ハンチョウは苦しいか!?外からダイワスカーレットが行った!ダイワスカーレットが仕掛けます!オマツリホクサイはまだ内で控えるか!?そしてダイワスカーレットに合わせて上がっていくのがウオッカ!後ろからメイシンハドソンが大外で来た!』
激しく叫びたてる大観衆。10万人を超える、大きすぎる声援は全く耳に入ってこなくなった。
先頭を走るハンチョウはもう顎が上がってしまって苦悶の表情を浮かべている。それでも歯を食いしばりながら必死にゴールを目指していた。だがもうこれまでだろうと見るまでもなく分かってしまった。
その後ろからは前傾姿勢になり、目に紅い電を迸らせてダイワスカーレットがその勢いを呑み込んばかりに飛び出した!さらにそれを風よけに、ピッタリとスリップに貼りつきウオッカが同じく抜け出して躱した!
哀れ馬群に呑まれたハンチョウの横を叩き割って進出してきたのはこれが最後の花道ダイワメジャー。彼女はもう完全に前をブチ抜くことしか考えていない獰猛な表情で、全身から何かを迸らせながら、なんと3コーナーからロングスパートを仕掛け上がってきていた!
……その時、宮下は戦慄した。
控室を出て地下馬道に向かう道すがらの話の中で「それぐらいそのコースのスペシャリストは…“怖い”」となぜかサカキが警戒対象に上げたその名。9番人気、ダイワスカーレットに注意するようにと伝えもしなかったそのウマ娘
———ウマ娘にも当然、それがある。時にそれは考えられない番狂わせを生むだろう。
馬群を蹴散らして抜け出したダイワメジャー、そして呑まれていったハンチョウのさらに内側、最内から抜け出したシャドーロール。
『ダイワスカーレットが先頭!その後ろにピッタリとウオッカが貼りつくが、猛烈な勢いで馬群を叩き割って出てきたのはダイワメジャー!!メイシンハドソンは大外回ってきたが苦しいか!?経済コースを伸びてきたのは———オマツリホクサイ!!オマツリホクサイが最内から伸びる!!オマツリホクサイ先頭!!』
*****
前を行くハンチョウはもう苦しい。顎が上がってもうペースががくりと落ち始めた。
4コーナーを回って直線に向いた。こっちだってもう一杯いっぱい…!もうスタミナはすっからかんで今から搾ったってなにも出やしない。そのぐらい体がカラカラに渇いているし喉は不自然な音を立てる。目だって掠れてぼやけてきた。
だけど、だけど、前を走っているのは誰だ?蒼い勝負服を追え…!!追い越せ!!じゃなきゃ勝てないだろ!!
「ああああぁああああ!!」
ダイワスカーレットのスリップについて風よけにしてさらに加速する!ゆっくりとその背は近づいてきた!
もう脚は限界だ。これ以上はやめろと体が警告してくる。
「うるせぇ!!あと200mなんだァ!!オレの体なら気合いを入れやがれ!!」
———その瞬間
凄まじいまでの束縛が足を縛り付けた。
…足が上がらない!体がターフに沈まされたような感覚。そして隣で聞こえるターフを抉る様な凄まじい音に体の力が霧散していく。ゾクリとした感覚に振り返れば牙をむき出しにして並びかけてきたウマ娘が一人。
「やって…くれたなァ!…小娘ェ!!」
「ダイ…ワ…メジャー……!!」
更に重力がのしかかってくるような凄まじい重さが体を襲う。足に力が入らなくなりターフを蹴っている感覚が消えた。
「なッん———!?」
中山の最大の障壁。ゴール前に待ち構えるウマ娘を弾き返す、そのあまりにも過酷な勾配。ヨレる体を必死に立て直した時にはもう遅い。オレを抜き去ったダイワメジャーがダイワスカーレットに迫る。
全て足りなかった。何もかも。足りないのはオレ自身…。
「ちくしょおおおお!!!」
*****
『オマツリホクサイ先頭!!ダイワメジャーがダイワスカーレットに並びかけるが掴まらない!!ウオッカは坂で失速!!ダイワスカーレット届かないか!?経済コースを滑るようにオマツリホクサイ!!オマツリホクサイだァ————!!』
『なんと9番人気オマツリホクサイ!!中山巧者のマジック炸裂!!初のGⅠ制覇!!それも暮れの中山!グランプリをやってのけましたオマツリホクサイ!!!』
「凄まじいものを、見てしまったのかな」
柵を握り締め、耳を震わせるフジキセキ。彼女の中で燻ぶっていた火種が大きく燃え上がり始めた。リギルのトレーナーはしばらく仕事が増えてしまう事だろう。同情だけはしておくとしよう…。
「宮下…。今日焼肉行かねーか?」
「…いいですね。お供しますよ。ATMでありったけ下ろしてきます」
「…そうしよう。しばらくは減量メニューを組まねぇといけねぇな…」
ゴール板の先でガッツポーズをし歓声に応えるオマツリホクサイ。
気高く上を向いたまま息を整えるダイワスカーレットに、膝をついてしまったウオッカ。おしかったと言えばそこまでだ。だがこれを勝たせられなかったのも、トレーナーの責任。
控室でなんて言葉を掛けようか。いくら考えても解答欄は埋められなかった。