富士スピリットウェイの最終コーナーから見る富士山は本当に美しいのだが、残念ながら走ったことのある人間にしか分からない事だろう。霊峰富士は相変わらず恥ずかしがり屋で、その顔を雲で覆い隠してしまっている。1か月前には、まさかこの景色を再び見ることになろうとは思ってもいなかった。
まだ午前のサーキットは冷えていて、不思議な静寂に包まれていた。ようやく陽も射し始め気温も少しは上がるだろう。
各メーカーごとに4つパドックが与えられており、トラックからマシンを下ろしデータ取りの準備が着々と行われているようだ。それぞれのパーソナルカラーがありホンマが赤、ウマハが青、スザキが黄、ハマサキが緑といった様に色分けが成されていた。
邪魔にならない様な位置に車を置き、ハマサキのブースに近づいていくと、ずいぶん不躾な視線を感じる。それもそうか。チームの場所に見ず知らずの男が近づいてくるんだから怪しい以外の何者でもない。ハマサキのコートを着た若いスタッフがさっそく声を掛けてくる。
「すみません。ここから先は関係者以外立ち入り禁止でして…」
「岡谷チーフに会いたいんですが…。彼の方から呼ばれてまして」
「えっ?失礼ですがお名前は…?」
「いーんだよ。俺が呼んだんだ」
「チーフ!?」
相変わらずの黒い肌。岡谷がニヤリと笑いながらこちらに近づいてくる。若いスタッフは慌てて身を退かして岡谷を通した。
「悪かったな。昨日の今日で来てもらってよ」
「おかげで眠くてしょうがねぇよ」
「まあ期待しててくれや。跨れば眠気なんて吹っ飛ぶからよ」
岡谷がついて来いと手で合図したため、スタッフに軽く会釈だけしてパドックに通してもらう。メカニックやスタッフからは異物を見るような目を向けられ居心地は良くない。完全にアウェイである。
「ほら、コイツだ。今日お前が乗るマシンさ」
「へぇ……」
まず強烈なのはがらりと変わった見た目、先代ZR-10Xよりも鋭い目つきの端整なフロントマスクにすっきりとした形になったフレーム。今まで独自の形状を突き進んでいたハマサキがそれを捨ててまでオーソドックスな形に変わっていた。
まだ研究段階のためカウルなどはカモフラージュされているが、それでも一目で明らかに先代と違うことが見て取れる。
エンジンがかけられセルの音と共に戦闘機が目を覚ます。スムーズなエンジンの回り方を意外に思いつつ、重く威圧感のあるエキゾーストは変わらずハマサキらしさを感じた。
「エンジンは200ps、マスの集中を図って低重心化、足まわりは今までのものと味が全く違う…それは乗って感じてくれ。言葉でどうこうより一発乗ってもらったほうが手間は省ける」
「200…遂に大台に乗ったな」
『チーフ』
一人の男が声を掛けてくる。金髪、碧眼に整った顔。明らかに日本人ではない顔立ち。身長は俺とそう変わらないがずいぶん若く見える。
その顔にはありありと疑念が浮かぶ。貴様は誰だと、表情も目もそう言っていた。
『そちらの方は?』
『そう警戒するな。人を殺してそうな目つきをしているが俺のダチなんだ』
『チーフと言えど部外者を入れるのはあまり感心できませんね』
『こいつは元チームメンバーでな。完全な部外者というわけじゃない。今日コイツに乗ってもらうアドバイザーさ。速いぞ?お前よりもな』
岡谷が英語でぺらぺらと喋っていく。彼の目がさらにスッと細くなり俺を睨みつけた。なんでわざわざ挑発するん…。
「サカキ、紹介しとく。今年ウチから専属として走ってもらうアンドレイ・アレキだ。EUの方じゃそれなりに勝ってるライダーでな。まだ19だがいいものを持ってる」
「あぁ、よくやってくれそうだ」
右手を差し出して一応敵ではないアピールをしておく。握手には応じてくれたものの、まだまだ警戒は解かれていない。
『アナタ、オカヤが言うほど速いんですか?』
『ご期待に添えるよう頑張るさ』
アレキは肩をすくめて、せいぜい頑張ってくれというジェスチャーを向けてきた。若いだけあってまだ怖いものを知らない振る舞いをする。2年3年と経験を重ねていけば必ず壁にぶち当たるだろうが、その時の彼の苦労を憂う。降りた俺に言えることなど何もない。
今回はテストに過ぎず公式戦ではないため、ライダーの出走登録は必要ない。しかしそのまま公式戦で乗るマシンになるのだから、他メーカーのライダーは壮観な顔ぶれが揃っていた。
更衣室で手早く着替えを済ませ、準備運動で体を暖めておく。辛うじてプラスではあるが立っているだけで体が冷えていくような気温。人間もマシンも念入りな温めが必要そうだ。ピットを出てから3周は様子を見るべきだろう。
機械的な動きでマシンの準備をするスタッフたち。音を聞いているだけで奥底から湧き上がってくる闘争心。
久しく忘れていた、忘れかけていた。忘れようとしていた何か。
そういったものが奔流となって押し寄せてくる。
ホンマのマシンが出ていき、絡まないように間隔をあけ次いでウマハ、スザキが発進していった。
「使っていいのは12000まで、3周はたっぷり使って温めてくれていい!絡んだら譲ってくれ!」
親指を立てて返事をしておく。
マシンに跨ると感じたのは足つきが少し良くなっている事。引き起こしてみると多少車重は重くなっているが、気になるレベルではない。そっとスロットルを開けてピットレーンに出る。
それだけで、たったそれだけで今までのZR-10Xとは明確に違うと感じた。前モデルまでは“乗りこなして見せろ”と声のする拒絶するような硬さを感じるマシンであったが、新しいモデルはどうだ。顔に似合わず“速く走ろうぜ”と歩み寄ってくる。
シグナルグリーンを確認してピットアウト。
ゆっくりと慣らす様に、息を合わせるように、マシンに歩み寄る。やはりとても大人になった。どんな乗り手でも許容して合わせてくれるかのようなそんな深さ。
「これは…もしかするかもしれねぇな……」
サカキを送り出した岡谷の元へ一人、アレキが近づいた。納得いかないと表情を隠そうともせず不満をぶつける。
『アレキ』
『チーフ…なぜ先に行かせたんですか?初めて乗るんでしょう?あの人。スタッフもみな不審がってますよ』
『よく見ておけ。俺はアイツ以上に上手くハマサキを乗るヤツを知らない』
『……』
『ライダーにもいろんな乗り方をする奴が居る。速い乗り方をする奴、命を削るように走る奴、魅せるように走る奴…これが絶対王者ラグナだ。荒っぽい乗り方をする奴、これはアレキ、お前だ。もっとマシンをいたわる乗り方をしろ。……そしてアイツは舞う。舞うように走るのさ。気づいた時には後ろに居て、いつの間にかすべてが終わってるんだ。そんな走り方をするのさ』
————今までのZR-10Xというマシンの評価はあまり良くない。
独自の形状を一貫してきた高い剛性のフレーム。多少の改善が見られたが、比較的短いホイールベース。他社と比べても高い負荷をかける前提の硬すぎるサスペンション。
この硬すぎるパーツ構成からくる反動から、あっさりとタイヤの限界を超えてしまうキャパシティの無さ、短いホイールベースによる直進の不安定さ。硬すぎるボディとサスペンションからなる悪すぎる乗り心地は確実にユーザーを
「———笑わせるぜ。何も見えてないくせに」
サーキット使用がメイン、上手くタイヤのマネジメントをできる上級ユーザーには捻じ伏せて乗る感覚がたまらなく楽しく感じるだろう。タイヤの限界まで突き詰められれば高い速度域でも捻じれることのない車体は凄まじい一体感を生み出し、恐ろしい速さで舞えるマシンとなる。
しかしそれはタイヤの限界域を使い続けるという事に他ならない。それは長く続くはずもなくレースでは必然ペースを抑えるしかなくなるのである。これがハマサキが勝ちきれない理由であると思う。
極力荷重のリズムを良くしてタイヤを持たせるために前ZR-10Xと培ったフォーム。3周ほど走ってタイヤが暖まってきたタイミングで気づいた。
……これではダメだ。
今までの乗り方ではこのマシンは速く走らせられない。ずっと成長していたZR-10Xは跳ね返すような硬さではなく、路面をいなし舐めるようなしなやかさを得ていた。タイヤをただただ切りつけていき、それを人間が整えていた乗り方をしてきた俺にとってマシンと一体となりコーナーをクリアするという未知の領域。
旧型は良い。旧型は好きだ。だが、他のマシンも認めろ。
————
そういう事か……ッ!ウオッカの勝ちきれない理由…!
高等部になり身長だってすらりと伸びたし、女子に体重云々言いたくないが筋肉量が増え、体重もその分増しているはずだ。その都度チェックしてきたと思っていた走行フォームは本人の走りやすさのために大きく弄らなかったが、それは逆に彼女の能力を押し込める鎖になってしまっているという事。
つまり彼女は常に、無意識にリミッターが発動している。ここがレース終盤の失速感を感じさせている要因。これを取り除くことができればあるいは……!!
「変わる。———変わらなきゃいけない、変えなきゃいけない」
息を止め、壁を飛び越えて
マシンと共に、
『チーフ、あの男は全くタイムを上げられていない。どのくらいあの男を買っているのかは知りませんが、ピットに戻しては…?』
『分からないか?走り方が変わったのが…』
最終コーナーを立ち上がり、カーボン地の車体をしたマシンがホームストレートを通過していった。
明らかに本気を出していなかった。今までのペースは何だったのかというぐらいの響き渡る咆哮。産声を上げた地上を行く戦闘機。
迸る雰囲気が明らかに違う、誰が見てもそう思える。アレキは言いようのない畏怖のようなものを感じていた。
必然、それは取材を行っていたメディアたちの目にも留まる。長年この業界を取材してきた記者の一人が異変に気付いた。
「あのハマサキを記録しておけ」
「ハマサキ……?あのとりあえず側だけ作ったカーボンマシンを?ッ冗談でしょ?今年フルモデルチェンジするからって買いかぶりすぎでは?」
「あれは……なぜかわからないが、違う。他の3社と明らかに。タイムだけでもセクタータイムだけでもいい。とにかくデータが欲しい」
「分かりましたよ!やっとけばいいんでしょう?」
そもそもハマサキから出走するライダーは、事前情報でアンドレイ・アレキという若い外国人ライダーであったはず。ハマサキ以外は全日本ライダーや所属のワークスライダーを用意していた。むしろそれ以外は全く情報がない。急遽用意されたライダーだろう。
あの走り、そもそもピットアウトしてすぐは今のSSマシンに合っていないようなライディングだった。それがどうだ?この3周でマシンに合わせ、更にマシンと一体化するような走りに代わっている。今までの自分の走り方を崩してまで、それができる人間がどれだけいるだろうか———
————10
————11
————12
エンジンの回転数を差すタコメーターがゲージを伸ばしていく。280㎞/hで風を切り裂いて、新幹線と変わらぬ速度で走る。
クラッチを使わなくても変速できるクイックシフターはご機嫌にシフトを刻んでいって、気の遠くなるようなホームストレートはしばし時が止まるような感覚に陥ってしまう。しかし富士スピのホームストレートから1コーナーは一気に200キロ近い減速をするから集中しなければならない。
岡谷に指定されたエンジン回転数は12000まで上げていい。上限が14000まであるからマシン的にはまだイケるといった感じであるがここでスロットルを緩めた。
250mを切った看板で一気に身を起こしフルブレーキをかけると、空気の壁に上体を殴りつけられ、一切の容赦もない強烈な減速Gに意識が掠れる。だがこんなことを何十周と続けるのだ。たかが一発でへばっていられない。
ハンドルに食らいつきステップを踏みつけてマシンを引き倒す。
地面にステップが擦れ、火花が音を立てて吹き飛んでいく。旧型がこの傾け方をしたらタイヤに負担が行き過ぎてとっくに破綻している速度域。それが新型はどうだ?きっちりと自らのボディをしならせて受け止めていく。
それ故に、遥かに早くスロットルを全開にしていける。
「…全く酷ぇ野郎だよ。せっかく忘れかけていたのに、無理やり思い出させるんだもんナ」
腹の中で燃え盛る感情を持て余し、周回を重ねていく。スピードという麻薬に脳内を蝕まれ、その時だけは何もかもを忘れていた。
————
こいつとなら、もしや。だがそれは叶わない望み。叶えてはいけない願い。
「ほら、大したことないタイムですよ。あのマシン」
「それはストレートを含めた話だろ?明らかに手を抜いてる。他メーカーのマシンはホームストレートで300㎞/h以上をマークしてるがハマサキだけ280km/h中盤、それなのにタイムは他と遜色ない…現にセクター1,3のテクニカルセクションは……ちょっと、とんでもないぞ。どういうことか分かるか?」
「え…まともに走ってればレコードタイムですよ!??」
「本番じゃあ無いからな。ここでいたずらにタイムをマークしても警戒されるだけだろうし、チームオーダーがかかってるのかもしれん」
記者の中でこの事に気付いたのは果たして自分だけのようだ。今年の二輪レース界隈は波乱が巻き起こる。そんな確信を持ちながら、通り過ぎていくマシンたちの記録を取り続けた。
そして疑問が残る。あのハマサキが用意したZR-10Xを操るライダーは一体何者なのか…。
走行を終え、戻ってきた男がヘルメットを脱ぎ髪をかき上げた。鋭い瞳に吊り上がった口元。そんな様子から聞かずとも分かる、このマシンの完成度。
男の獰猛な表情にアレキは何も言えない。エンジンの良い所を封印されてホームストレートは遅い筈なのに、他社のマシンとほぼ変わらないタイム。コンマ3秒もズレることのないラップタイム。どこをとっても異常。
そうとしか思えなかった。自分にあれほどの走りができるのかと疑心暗鬼に陥りそうだ。いったい何者なんだ。あの男……。
「どうだった?」
「よくもまあ、こんなマシンを作ったもんだ。ぶっ飛んだよ」
「きっちり12000までで抑えてくれて助かった。まだ壊すわけにもいかないんでな。で?」
「2速と3速が遠い。もう少し近ければ一番おいしい所が使い続けられるョ。もう少し加速寄りでいい。このエンジンなら十分ここのストレートでも引っ張れる」
「買うか?」
「欲しいね」
手に入れるだけの価値がある。それだけのものが、この翼のない戦闘機にはある。
「もう一度聞く。戻ってくる気はないか?」
「前も言ったが、断る。今の俺にはやることがある」
「惜しいぜ。それだけの走りができるのによ。今日は悪かったな…。これで更に戦闘力の底上げができそうだ。礼を言うぜ」
「あぁ、じゃあな。もう会うことも無いだろうよ」
「どうだかな」
2、3言葉を交わし、もう用は済んだと言いたげに、手を振りながら岡谷は立ち去って行った。次はあの外国人がマシンを操りデータ取りをするのだろう。彼はあれだけ生意気を言ってきたんだ。少しはやってもらわねば困る。
忘れたと思っていた、こんな高揚感。ただそれは燻ぶっていただけで薪をくべられてしまえば再びパチパチと音を上げながら燃え始める。ずっとずっとあの時から、何も考えずにがむしゃらになって求めていた。スピードに魅せられた男たち。それがまた燃え上がりそうになるのを必死に押さえ付ける他なく。
“最速”という、何の意味もないその称号————
それが堪らなく欲しかった。もう戻れない、あの頃の話。