「————踏み込めッ!」
「うおおおおおッ!」
抉れた芝がはじけ飛び、ウオッカの姿勢が地を這うように低くなる。
「これはちょっと……凄いな」
ストップウォッチの表示されたタイムは、秋華賞以前の仕上がった状態のウオッカを更新したことを示していた。
凄まじく低いフォームから繰り出される直線の速さ。その姿はまるで————
『ナリタブライアン……か』
『正解だけど外れかな。確かにあの子の走り方が少し似てたのはあるけど、アレは対ナリタブライアン用に組み上げようとしてたフォームの応用。加速する際のばねが強いから、逆に枷になってた上半身を前に倒すことで安定させたの』
頭の中で反芻したローレルの言葉。
それを完成させる前に……。決着をつける前に、彼女の体は限界を迎え競走できなくなってしまった。
そうまでして、彼女はナリタブライアンと決着を望んでいたという証明。
「ウオッカ、ちょっとシューズを見せてくれ」
「シューズを?」
「蹄鉄の状態が観たい」
怪訝な目で見つめてくる彼女を宥めすかし脱がせたシューズを手に取った。
ニオイだけは嗅ぐなよ!!と散々に五寸釘を差されるレベルで念を押されたが、2stバイクの後ろについた時の方がよっぽどフローラルな香りがするから安心してほしい。そう伝えるとウオッカはまるで苦虫を噛み潰したような表情になった。
「オレの足は2stのオイルみたいな臭いがするってか……?」
「違うから拳を下ろしてくれな……。な?」
今までのウオッカが使ってきた蹄鉄は踏み込みに当たって地面と接していた後方から前、踵からつま先に向かってなだらかに角度がつくような、蹄鉄全体が擦り切れるような削れ方をしていた。
だが現在の蹄鉄はローレルからあの走り方を伝授され、踏み込みが変わったのか踵側1/4程度は接地すらせず、半分からつま先に近い部分ほど極端に削れている。
成る程、この走法……ローダウンストライドとも呼ぼうか?
この走法は踏み込む際にとにかく足先で地面を抉るように捉えることで推進力を得る。強靭な掻く力を膝を畳むことによって増幅し体を前に進ませる走り方だ。このために足を上から降り下ろすのではなく、斜めに地面へ突き刺すようなつき方をするわけだが、通常の走り方をするよりも遥かに関節部に負担が行く。
股関節、膝、足首。特に酷使するようになったのは股関節と、より大きな力を伝えるようになった足首の屈腱である。
ウマ娘の足首を支える屈腱。
骨に近い深屈腱と筋肉に近い浅屈腱の二つがあるが、トラブルを起こすのは圧倒的に筋肉側の浅屈腱。踵から脹脛に向かって後ろ側に沿うように位置し、つま先の上下に関わる特に大事な部位だ。これが衝撃や部分断裂などで炎症を起こしたり内出血することで、まるでエビの腹のように脹脛が腫れる。これが走るウマ娘につき纏う屈腱炎である。
名前を上げればキリがないほどのウマ娘を闇に葬った病。一度発症してしまえば治り辛く再発可能性がとんでもなく高い、まさに爆弾を背負った状態となる。
サクラローレルが得意とした主戦場は長距離で、勝ったGⅠは有馬と天皇賞(春)、それ以外にも目黒記念、冬至ステークスと長距離級。
そんな彼女はこの走り方を絶えず研究し、打倒ナリタブライアンを掲げその思いは天皇賞(春)で報われる事になったが、この走りを完成させようとしたローレルは、果てに炎症を通り越して屈腱の断裂に至った。
……つまりこの走り方で2500m以上を戦うにはウマ娘の体がもたない。
ローレルに、あの世代に強さを刻みつけたナリタブライアン。彼女も他のウマ娘より異様に低いフォームを用いてクラシック3冠を獲得、シャドーロールの怪物という異名を持つまでになった。本人は怪物と呼ばれることは好きではないらしいが。
その一方でナリタブライアンも股関節炎を患い、戦線離脱した事があった。復帰した後は明らかにフォームが変わり、それ以前の低いフォームは脚に負担をかけない範囲のみで使用していた。
……つまり姿勢を低くすることによって生じる皺寄せが、股関節にかかるのだ。
以上のことから、上体を折って重心を極端に低くし、脚自体を1本の棒のように地面へ突き刺しながら走るローダウンストライドは脚の付け根と足首に対して多大な負荷が掛かる。
普通に走ることで衝撃を吸収する膝を全く作用させずに振り回すのだから当然か……。
———2000mで限界だろう。ローダウンストライドをスパート時だけに絞ったとて精々2200m。これはスタミナがもつもたないじゃなく、安全のための絶対距離。
どう皺寄せが来るのか未知数であることで、今まで以上にウオッカの脚のケアには力を入れなければならない。
しかし、どうしたものか。
ウオッカには今までも執拗なレベルでストレッチをさせ、トレーニング後は必ずアイシング、時間をかけて脚全体のマッサージを行っていたのだが、ここに股関節ほぐしを入れなければならない。
まさかウマ娘とトレーナーという関係と言えど、年頃の女子の股関節を揉み込むワケにはいかない。同性であっても抵抗のある部位だろうし「おーい」となればウマ娘で構成されたトレセンの専門整体部門に頼むしか無いのだが、これがまた予約が「おーい!!」取れない。
「おい!!!!」
「……どうした」
「どうしたじゃねーよ!!オレのシューズを見つめながらトリップすんのはやめてくれよ!!」
ん……そういえば彼女のシューズを脱がせたままだった。
「悪い。返すよ」
「ったく……」
シューズをひったくるようにして剥ぎ取り、履き直すウオッカ
「安心しろよ。花みたいな匂いしかしないから」
少し考え込んでしまった弊害か、勝手にそんな事を口走る舌を止めることは出来ず、ハッと気づいた時には彼女のしなった尻尾が鞭のように俺の顎を捉えていた。
*****
「京都記念?」
「そうだ。淀の外回り2200m。これを次走にしたい」
明くる日の昼下がり。相変わらず狭い我がトレーナー室は、今年も絶賛
新年明けてから2月まで中央トゥインクルシリーズにウオッカが走れるGⅠ競走はなく、3月に入ってようやく大阪杯が狙える。ここへ弾みを付けて飛び込みたい。
そのための前哨戦として期間もちょうどよく空き、適正距離にもGⅡ京都記念が適任だった。何よりもエリザベス女王杯と全く同じ条件でもある。
「ここを勝って勢いに乗りたい。で、大阪杯だ。……ダイワスカーレットの次走はここだろうしな」
「……」
有馬ではダイワスカーレットに先着を許したし、以前やり合ったメイシンハドソンもここと天皇賞(春)を目指してくるだろう。当然、春シニア三冠の一発目であるから有力なウマ娘が揃ってくるはずだ。胸を借りるには絶好の舞台が揃う。
「…その先は?」
「大阪杯のデキ次第で5月のヴィクトリアマイル、6月に安田記念か宝塚記念でどうだ」
「2000mに1600mか…!いいねぇ!燃えるじゃねーか!」
コタツに足を突っ込みながらやる気に満ち溢れた目を向けられてもてんで迫力がないが、モチベーションが高いのはいい事だ。
「まあ、焦るなよ。今日はターフが空いてねェんだわ」
「何処もか!?」
「ホラ、選抜レースだから」
「あぁ」
彼女も、というかトレセンの生徒である以上、選抜レースを経験している手前文句は言えない。
今年も期待に胸を膨らませた中等部1学年たちや編入学生がトレーナーに自己をアピールするための場が設けられるのが選抜レースというものである。約500人が自分の得意とする距離で同期達と少ない席を奪い合うまさに乱世めいたやりとり。
トレセンにはざっくり2000人の生徒が居るが、当然ながら新入生は競走科が1番数が多い。
そこから篩にかけられピラミッド式に数は少なくなっていく。高等部最高学年ともなれば競走科は70人2クラス程度まで減ってしまう。
その分学年が上がる毎にサポート学科の生徒数が増え高等部で生徒数が上回る逆転現象が起きるのだが、それはケガであったりでトゥインクルシリーズからの引退がだいたいの原因。
後は本人の心が折れたり、家庭の事情、地方トレセンに編入したりで中央を去る……そういうもの。
なんとも世知辛い。春に入学してくる生徒が多ければ、去る者が多いのはこの時期なのだ。
「他は?」
「筋トレルームもプールも大きいチームが押さえちまってるからなぁ…」
ターフもダートも選抜レースで空いてないとなれば、当然みんな他のトレーニングをするだろう。おかげでルーム予約はどこもかしこも×印である。
「選抜レースでも見に行くか」
「は?スカウトすんのか?」
「敵情視察だよ」
じゃじゃウマ1人で手一杯なのに、チームやってるトレーナーマジですごいと思う。チーム設立にあたってメンバー5人が条件なワケだし最低タスク5倍でしょ?補助予算出るったって無理よ。
「じゃあ今日はオフってことにしてくんねーか?」
「そうするか…トレーニングも続いているし自由にしようか。このあと京都記念までは少し調整メニューにオトす。ロードワークは控えめにな」
「おしっ!じゃあ明日な!」
「おう」
言うが早いか、ウオッカはコタツから出るとカバンを引っ掴みトレーナー室を飛び出して行った。
もともと何か予定があったのか?それならオフにするぐらい考慮するんだがな……。
何はともあれ次の京都記念、勝ちに行くために少し練るとしようか。