はっきりと分かったことがある。
私はまだ、春の傷を引き摺っている。
いや、この傷はもう一生癒えることは無いのだろう。阪神大賞典を競り勝ち、前年の不調を払拭して最高潮とも言っていいテンション、勢いをつけ挑んだ春の盾。
3200mの向こう側で抜け出した私を差したアイツの背中は、私の中で癒えることのない傷となった。
今も鮮明に思い出せる。いや、無理やりに思い出させたんだ。
────あの姿が
────忘れようとしていた心が
あぁ。無理やりに縫い合わせたはずの傷が開いてしまった。流れ出たものは、渇き。
あぁ、渇く。傷が渇いていく。
トレセン学園ターフグラウンドの一角。ターフ上から発せられるあまりの剣呑な雰囲気に、怯えたウマ娘達はそこから逃げるように遠ざかっていた。見ればただの併走トレーニングの準備ではないかと思うかもしれないが、準備運動をしている者達の目がギラつきすぎている。
「まさかブライアン先輩の方からご指名頂けるなんて思わなかったッスね」
「……少し前のようにがっかりさせるなよ」
ナリタブライアンとウオッカの二人は似たように犬歯を覗かせ探りあっていた。
リギルの東城トレーナーからは「最近ブライアンが掛かり気味なんだけど何を言ったのよアナタ」と不審な目を向けられていて返答に苦慮していたし、ウオッカについても似たようなモノなので困ってると伝えておいた。似た者同士なんだろうか。
「ねぇ、これ併走でいいのよね……?」
怪訝な表情を浮かべるのはダイワスカーレット。いつものようにウオッカと併走トレーニングだと聞いていた彼女は、ターフの上で何故か笑い合う二人を見て困惑していた。
「わりーが、今日宮下は助けに来ねぇぞ」
「それは分かってるしそこじゃないわよ。ブライアン先輩がなんであんなバーサーカーモードなのかの方よ」
俺も分からん。いや、理由の見当はつくが。
「ブライアンさんスピード狂だからなぁ……」
「マーベラスは走れればどこでもいいな☆」
ここに飛び入り参加したマヤノトップガンと至極どうでも良さそうなマーベラスサンデー。今だけは彼女らの能天気さが羨ましい。ちなみに彼女らのチームのトレーナーは健康診断で引っ掛かったようだ。まさに不健康診断である。
「最近ブライアンもマンネリみたいだし協力感謝するよ」
「フジ……お前さんがコントロールしてくれよ」
「そういう時のためのトレーナーじゃないかな?」
「丸投げかよ」
トレーニングに協力するという名目でフジキセキがついてきた。しかしトレーニングに必要ないカメラを持っているあたり、データ取りも兼ねている事らしい。
まあいい。たかが映像をくれてやるだけで
「準備はいいか?おふたりサン」
「いつでもいいぜ」
「……待たせすぎだ」
マヤノがゴール係の配置に着く。
今日は右回りの2000mと洒落込むとしよう。王道の中距離ディスタンス。ウオッカの相手にとって不足はない。
「ブライアン内、ウオッカ外、ゴールはマヤノの所だ。走った後はクールダウンを徹底して連続での走行はしない事。いいな?」
準備は良いかとウオッカを見ればサムズアップしたのでこちらはOK。ブライアンを見ると耳がこちらを向いているのでOKという事にした。バインダーを持ち上げてると二人が走る構えを取った。一気に引き締まった表情。
「……行けッ!!」
トレーナーがバインダーを振り下ろした瞬間、前に置いた左足と後ろに置いた右足に力を込め、弾かれたバネ仕掛けのように飛び出す。途端にごうごうと耳が風切り音に包まれて加速Gに上半身が持っていかれそうになる。しかし隣から聞こえる踏み込み音は どうだ?そんな事していたら、横を走る
「やっぱ速ッェえ……!!」
「……」
こちら側が次のコーナーでは外側。ハナを奪い合い続けるのでは2000mと言えど体力がもたない。
コーナーに差し掛かると共に加速体勢から巡航速度へ移る。ここでしっかりとブライアン先輩の背後に付き、
ブライアン先輩が一番得意としている戦術は、先行で抜け出し圧倒的速度でブッちぎるやり方。シニア級も終わりドリームトロフィーリーグに上がってなお、勝利を重ねる王道かつ誤魔化しの効かない強さ。コレで全盛期は過ぎているってンだから……ホントどうかしてるよな!!
しっかり体をバンクさせ、内ラチに体を擦り付けるようにクリアしていく。
「丁寧に……!しっかりと踏みつけた足の裏の角で芝を捉えるように……!!」
この併走トレーニングは、しかしトレーニングの範疇に収まらない。リギルでも当然、オレのローダウンストライドについては研究に入っているハズで少しすればコレも対策されるようになる。
そうじゃない。そうでなくとも前を行くこの怪物には自分の全てをぶつけなきゃ勝てない。
これはもう二人だけのレースなんだ……!千切られるか、ブチ抜くか、そういう走りのやり取りなんだ!!
横から行こうとすれば、ブライアン先輩は体を少しだけズラして当たるようなブロックをしてくる。
さすが、まるで後ろの事を当たり前のように把握している。
チラリと後ろを見たブライアン先輩と目が合う。それは悲哀の色を含んでいるような、そんな色をしていた。
なんだ、なんだ、その目の色は?
───オレが、ブライアン先輩の期待したような走りが出来てないからか?
それはあるかもしれない。スタートダッシュから1コーナーまでの加速、息の入れ方、いなし方はさすがとしか思えない。そういった細かな技術はまだ劣っているような気さえする。
───あの走り方にローレル先輩を見ているから?
もう、ローレル先輩は走れない。ブライアン先輩からしてみれば勝ち逃げされてリベンジも果たせないような境遇になった。それは……それは
あぁ……悔しいなァ…………。
だってそれって……
向こう正面は終わった。ブライアン先輩が前のままコーナーに差し掛かると共に一段体勢が低くなる。
────上等だッ!
「───こっちを見ろォ!!ナリタブライアンッ!!」
ブライアン先輩がハナを押さえたまま、最終コーナーへと入った。スタートダッシュ、1・2コーナー、向こう正面とアイツは後ろに控えとにかく折り合っている。競りかける所までは行くが前を取りにいく所までは出ないのだ。
むしろ、出られないの……?
「ブライアンはウオッカが並ぼうとするとほんの少しラインをズラして塞いでるんだよ」
「えっ……?」
「ブロックライン。斜行と疑われないレベルでほんの少しウオッカのラインを塞いでるの。だからウオッカは前に出られないの」
いつの間にか隣にいたフジキセキとマーベラスサンデー。いつもの様な笑顔が抜け落ちたマーベラスは二人の走りを凝視していた。フジキセキは目を細め事の行く末を見守っている。
「スカーレットはよく見ておいた方がいいよ?スタミナですり潰すだけが先行の走りじゃない」
「……」
スタミナですり潰すだけが先行じゃない。マーベラスの言葉を頭の中で何度も反芻するスカーレット。
最終コーナーに掛かった二人の応酬は遂に佳境を迎えた。これは併走であって併走じゃない。首を突っ込むべきでは無いものだ。まるで果し合いのような殺伐とした空気がジリジリと肺を焼く。
ブライアン先輩が先着するはず、それは間違いない。だけどアイツなら……アイツなら何かをやるはずだ。それも確信めいていた。
二人だけの芝2000m。その行く末は、今、この場にいる者だけが見る資格がある。
後はいつも通りスパートをかけてあのうるさい栗毛が立っているゴールに飛び込むだけだ。後ろでチョロチョロと目障りな事この上なかったがほんの少しハナを抑えてやればウオッカは競りかけるのを止めて下がっていく。
並としか言えなかった。そうとしか思えなかった。ちょっとはできるようだがスタートダッシュも、加速も、コーナーは多少上手いがそれも
「私にとって、いつも通りのフィニッシュだ……」
アイツの走りが重なって見えただけの幻影。私にとってただの有象無象と変わらん。それがなんだってあんな風にみえたのか───
刹那、背後から凄まじい圧を感じた。
続いて、咆哮。
───よもや、私を呼び捨てにしようとは。いい度胸だ。それは褒めてやる。
背後の気配が掻き消えた。
「な、に───ッ?」
最終コーナーをクリアして後は直線、後ろの圧が消え……た?
どこだ……?どこに───ッ!?
「うらぁあああああ!!!」
真横だとッ!??
外ラチ側に恐ろしく低い何かが見えた。後ろに居たはずのウオッカが一房の髪をたなびかせながら前に出た。その、低い低い姿勢はなんだ?まるで───ッ
「くっ、は、ははっ、はははははっ!!」
否!違う!何もかも!!なにが栄誉か!なにが名誉か!困ったな!!私は何を見ていた!!どこを見ていたんだ!!
「狩り尽くす────ッ」
この
最終コーナーで咆哮したウオッカが低く、低く、あまりにも重心を下げた地面を掠るようなフォームで凄まじい加速をし始めた。
「なによ……あれ……!?」
目を見開いたダイワスカーレットの頭の中は混乱に支配されていた。トップスピードに至るまでの加速、そして最高速、何をとっても以前の比ではない。むしろ同一人物なのかさえ怪しい域に達していた。
あんなフォームでアイツはスパートかけたって言うの……!!?どうしてアレで走れてるのよ!?京都記念の映像でも見たけど実際はもっと
「あははは!マーベラス☆!!」
「……はぁ」
爛々と輝くマーベラスの瞳はいつもの輝き方では無い。獲物を、見つけた獰猛な輝きを瞳に宿していた。反対にフジキセキは深く溜息を吐いた。それは走りに対するものではなく、今日は直ぐに帰れなくなった事への憂いを含んでいた。そのフジキセキの頬も段々と弧を描き始める。
「やってくれたね……?ふふ、ふふふ」
「コワイぞフジ」
「こんなの見てるだけだなんて、ウマ娘なら耐えられないよ……!あぁ!できることなら今すぐシニア級に戻りたいくらいさ!」
残り100m、一旦は最終コーナーで呆気に取られていたナリタブライアンが差をつけられたものの、走りながら吹き出して満面の笑みになったかと思えば、牙を剥いてスパートをかけだした。獰猛としか言いようがない笑顔に、こちらもどうしようもなく心が躍る。
ウオッカの切り裂いた
「ごーる!!」
だが、あと2バ身と言ったところでマヤノが旗を振り上げた。ウオッカがナリタブライアンに先着。2000mの果し合いは終わった。ただ二人が並んで走っただけなのに、GⅠレースを見終わった後のような疲労感が体を包んでいた。
スポーツドリンクを2本持ち、走り終わった二人に近づいた。
ウオッカもブライアンも吹いて出た汗が止まらず、それが湯気となってオーラのように漂っていた。実際漂っていたのかもしれない。
「お疲れさん」
「わぇひゃぁ!!おい!首は止めろ首は!!」
一気に呷るウオッカを横目にブライアンにもドリンクを渡す。
「ほれ」
「すまん」
「こういう時はありがとうだよ」
「……ありがとう」
こちらも蓋を開ければ勢いよく飲み始めた。
「はい!ブライアンさん2ちゃーく!」
「喧しい……言わんでも分かる……」
「ウオッカ!!キラキラしてたよ!!?1ちゃーく!!」
「おう!」
ギラギラしてたの間違いじゃなくてか?なんて疑問を飲み込んで後はウマ娘諸君に任せるとしよう。なにより、ダイワスカーレットとマーベラスサンデーが待ちきれないと言った感じで準備運動をしているしフジキセキも制服なのが惜しいのか尻尾が落ち着きなく揺れていた。
「おい……ウオッカ。もう一度やるぞ」
「……!」
ブライアンが珍しく、名前で他人を呼んだ。驚きで跳ねたウオッカの耳が俺の幻聴ではないことを物語っている。
「踏み込みの足運びと左右の乗り換えがまだ甘い。もっとバ場の荒れ具合によって調節するんだな。そうすればもっとお前は速くなる」
「ブライアン先輩……ありがとうございます!やってみます!」
「あ~!!ダメ!ブライアンさんは次はマヤと走るの!!」
「……うるさい」
「うるさいって言った!!もうマヤぷんぷんだからね!!」
おハナさんには怒られちゃうけど、今日の併走トレーニングを記録することはできないな。私も、きっとあの走りに魅了されてしまったんだ。いつもの仏頂面に戻ってしまったブライアンも尻尾が忙しなく揺れていて……ふふ。期待しているんだな、彼女も。
ウオッカはもっと速くなる。たぶん、いやきっと、ダイワスカーレットも。間違いなく今年は彼女たちが席巻するだろう。そう予感めいたものを感じる。困ったな……。私も柄にもなく熱くなった内を持て余してしまうかな?