ある昼下がり。
事務仕事を終えトレーナー棟の屋上で至福の時間を享受しているとスマホが震え出した。
はて、最近ウオッカの取材申し込みやグッズメーカーとの打ち合わせなどが以前にも増して多くなったが、今日に関してはそういったモノを入れてなかったはず。
『よーよー、元気してるじゃん?』
「おう」
取ってみれば電話の主は馴染みのバイク屋で、なんだ身構える必要も無かったじゃないかと僅かな緊張を解きつつ、拍子抜けした声をそのまま返した。
『ちょっと頼まれて欲しいことがあるじゃんよ。暇な時にウチ来られない?』
「あんまり日にちは空けられんぞ」
『へーきへーき。ちょっとだから』
「分かった。今日の仕事終わりに寄る」
『よろしく~』
「これを?」
「そうなんよ。オーバーホール終わって組み上がったから売り物にする前の慣らし運転をしたいんだけど、しばらく忙しくて時間も取れんしミサもこの手合いのバイクは慣れてないってんで頼みたいんよ」
「俺もあんまり得意ってわけじゃないぞ」
「まあ、ホラそこは転けたら買取って事で」
押し付けられるレベルが高すぎんだろ。
俺の前に鎮座する、圧倒されるボディサイズ。ボディは黒だし、陽も暮れかけ夜の帷が降り始めたのだが、闇の中にあってなお存在感がある。
ウマハ〈トラックスター1100〉。ひたすらに広い大陸をクルーズするために生まれたスタイル“アメリカン”
その系譜の中に存在する大型クルーザーの1台。アメリカンスタイルで縦に長い巨大なVツインエンジンと、二輪には珍しいチェーン駆動ではなくシャフト駆動。エンジンから伸びる2本の極太のスラッシュカットマフラーはスティールな輝きを放ち、その重圧感に違わぬ重量は約280kg。VTは約140kgという事を考えれば2台分だ。バイク乗りの間ではTS
「慣らしねぇ…」
「この排気量なら回さずに走れちゃうし、サカキが乗る事を考えれば500キロぐらいはすぐ行くっしょ?」
俺とてそんないつも走り回ってるわけじゃない、断じて。
ちょっと海を見に行きたくなってバイクを転がしていたり、気づいたら峠に居たりするだけだ。至高の一服がしたいだけなのだ。
気づいたらオドメーターが3000キロぐらい増えてるのはゴルゴムの仕業なんだ。犯人はヤス。
「まあまあ、最近ウオッカちゃんもレースだトレーニングだと詰めてるっしょ?大阪杯は惜しかったけどリフレッシュも必要じゃん?」
確かにサクの言うことにも一理ある。秋になりウマ娘のレースシーズンになって、いつのまにやら冬になってしまったというのもあるが、京都記念から息を入れずトレーニングしていたのもあって少し詰まりすぎているとも感じる。冬ではないが春爛漫にはまだ至らないこの時期に適している行き先と言えば……南だろうか。
「んじゃ、頼むじゃんよ」
「おう、少し借りる」
いつもの真上からではなく首の右側に鍵を刺す。スピードメーターもライトの上ではなくタンクの上にあって、ハンドルが少し遠い。
跨って引き起こすと普段感じない重量がずっしりと手にかかり、セルを回せば250㏄マシンとは比較にならない厚みを感じる音と共に火が入った。4気筒のような調律された鼓動じゃなく、不揃いのアイドルが不思議に揃う、腹に響く低音がマフラーから撃ち出されている。
少しスロットルを捻るとゆったりと回転を上げていく心臓。VTのように軽くなく、ZR-10Xのように超反応する訳ではない。しかしその秘めたる力強さはまた違った高揚を感じさせる。たまにはこんな不揃いも悪くない。
昨夜、唐突にトレーナーから『明日はオフ。空けといてくれ』なんて連絡が来た。
なんというか、トレーナーの計画が無い事が計画性みたいな所は何とかならないのか?とも思うが、そうなってたら
「ヘルメ持って裏門で待つのも久々……か」
1年前のこの時期は桜花賞だったな。スカーレットに負けて2着。
………
───1勝3敗1分
1分とは言うがその時も先着したのはスカーレットで、勝率でも連対率も負けている。大阪杯の後、ウイニングライブで2人ともが次走はヴィクトリアマイルであると宣言した。
どんどん負の感情が溢れてくる。しょうもない事を考えてはどんどん沈みこんでいく。
「早く来いよトレーナー……誘ったのはそっちだろ……?」
今日はいつもより少し待ち合わせの時間が遅い。下級生だろうか、朝のロードワーク組が裏門からスタートして行った。ちらっとコチラに視線を向けられるのも数度目。
いい加減視線でコゲそうだと思い始めた頃、曲がり角からいつもの軽快なVTの音ではなく、調律された4気筒サウンドでもなく、重く厚みのある不等長なサウンドが鼓膜を打った。それに跨るヘルメットとジャケットはトレーナーのもので間違いないが、問題は下だ。
……デカくね?
黒は収縮色だから、まぁ……引き締まって見える色のはずだ。その筈なのに、それは重圧な雰囲気を伴って目の前に現れた。
「よう」
ドドッドドッと不揃いに奏でられる鼓動が、腹の中を直接揺するように響く。鈍く輝く黒、反して煌びやかな銀。ウマハのロゴマークである3つ蹄鉄が陽光に当たって輝き、すっかり心奪われてしまった。
「か……」
「か?」
「カッケーーーー!!」
さっきまでの薄曇りな心模様はどこかに吹き飛んでしまった。
我ながら単純だとは思うがしょーがねーだろ!!目の前にカッケー物があるってのにシケた面してちゃ無粋ってもんだ!
「ウマハのTS
「諸事情でな。ちょっと預かるからついでにどこか行ってリフレッシュでもと思ったんだがどうだ?」
「乗るに決まってんだろ!」
尻尾を納めてグローブをしっかり填めて、タンデムシートに跨るとXRZやVTよりも低い視点が出迎えてくれた。
すっげえ!これはこれで新鮮な気分だ。ドライバーシートの方が1段低いから背を伸ばせば前も見ることができるし、これはこれで……いいな!
後ろを確認して、細腕がベルトに回されたのを確認するとそっとその手を叩く。スタンドを払ってギアを1に入れればその指に力が籠る。
少しだけ吹かしてクラッチを繋ぐと不規則なエキゾーストがだんだんと揃った鼓動へと変化していく。
2人が乗っていても、重さを感じさせないパワーはゆっくりと車速に乗っていく。
クラッチを切って次のギアにつなぐ。
重い車重は直進をとても安定させる。分かっているんだ。このマシンは飛ばすマシンじゃない。
――――頭を空っぽにしてただ真っ直ぐ
今日は晴れだ。この時期には珍しい澄んだ晴れで空が霞みがかっていない。東京のビルの隙間から富士の頭がちらちら覗くが、残念だ。今日向かうのは離れた方角だから、また今度会おう。
府中から都心方面に上り、年がら年中混雑している悪名高い都道311号環状八号線、通称“
3車線あってもいちばん右の車線が右折専用に化けたりするなど初見殺しも多く、特に
それをここで言っても仕方ないが、ようやく抜けられた今愚痴の一つも吐きたくなる。
羽田空港のほとりにある湾岸環八インターチェンジから首都高湾岸線に合流した。すぐにトンネルへ潜ってひんやりとした空気に包まれる。もう春なのに、肌寒さを感じるぐらいの風が肌を撫でて行って、横を速い車が通り過ぎていく。それでもこの厚いボディは揺れない、流されることはない。
トンネルを抜けて、狭くとぐろを巻く道路が再びトンネルに呑まれていく。さっきの所よりずっと生暖かい空気がこの闇の長さを物語っていた。車の流れに身を任せトンネルに反響するコイツの鼓動に身を
ずっと下っていた道がレベルになると、程なくして上りに転じた。行く先に光が見えて、だんだんと光は大きくなっていき俺とウオッカを包んでいく。
……嗚呼、9.6kmの
海の上を走る、頭を空っぽにしてただ真っ直ぐ
「あぁ……」
それはどちらが溢した胸の内か。そんなもの溶けて分からない程の蒼。アクアライン。
――――不揃いの鼓動が、不思議に揃って奏でられるから。青すぎる空と海に怖がって、腰から回した手に力が入ってしまうんだ。
アクアラインを渡り切った木更津から、館山道を南下していくつめかのインターチェンジで一般道に降りた。信号を左折し、そのまま道に任せて進んでいく。
高速を走っていた時から変わらない速度の鼓動に身を任せていると視界に海が飛び込んできた。
「おお!海だ!」
さっきまで海の上を走っていたのに、こうして木々の間隙から見える青に心が弾む。鼻を突く磯の香りを感じて、遠く見える向こう岸から来たのだと数瞬遅れて気がついた。
普段、トレセン周辺で生活しているオレたちは海を見る事はなかなか無い。府中から海までは遠いから、朝のロードワークに出掛けて授業をサボって走り続けるぐらいしなければ着かない。こんなこじんまりした漁港なんていうのもまた新鮮。
海沿いの道は走っていて気持ちがいい。
こういう道はのんびりしたペースで風を受けて走るアメリカンスタイルが最適で、すれ違うマシンにもアメリカンをよく見るのが、それを物語っていた。
そういえば今日はコッチもアメリカンか。
そうして海の見える少しの住宅街、交差点の角にある店の駐車場に滑り込んだ。
「おつかれさん」
「なんだこ…こ?」
ヘルメットを外すと焦がした醤油のような香ばしい匂いが漂ってきて、途端に腹の虫が暴れだした。そして意外と体が冷えてる事にも気づく。時間は11時半ば。少し早いが昼でもいい時間だ。
「ラーメンさ」
「ラーメン!?」
ピンッとウオッカの耳が立つ。どうやらお気に召したらしい。
千葉は三方を海に囲まれているだけあって海産物が強い。伊勢海老は三重と並んで千葉の漁獲量が多いし、アワビやサザエの貝類、タイなどの魚類を使用した“漁師メシ”を提供している店が多い。
最近はアジフライバーガーなどの新たな特産フードの開発も進んでいてこちらでもよかったのだが、ツーリングはやはり外せないのがラーメンだろう。
東京湾に面した
訪れたのは竹岡式ラーメンを提供するうちの1店である。
店の前には短いながらも列が出来ている。もう少し時間が経てば並ぶのが億劫なほどの列に成長する事だろう。
この店のメニューはラーメンかチャーシューメンの並および大の4種しかない潔いものだ。
程なくして対峙したチャーシューメンは、濃い醤油に浸かったチャーシューが花弁のように並んでいて圧倒されるばかり。
「すっげえな……これ……」
「美味いぞ」
「見りゃ分かるぜ」
1口啜ると見た目ほど主張してこない醤油味が、しっかりとチャーシューにも染みていて口の中で
自然と頬が緩みしっぽが勝手に弾んでしまう。
「~~~ッッ!!」
「はしたないぞ」
「ひょーはへへはほ!!」
「こらー?ちゃんと飲み込んでから喋れー?」
ン"ッッッと飲み込んでハフゥ……と息をついて固まるウオッカ。
「あ"あ"あ"……染みるぜ……」
「居酒屋かよ」
分からんでもない。
4月のまだ肌寒い時にバイクに跨ってきたんだ。その先にあるラーメンは格別の味がする。
頬を緩めながら食べ進める彼女を横目に、コチラも伸びる前に頂くとしよう。