「そうかッ。彼は二人を受け入れたのだな……!」
「ええ。彼女達も悪感情は持ってないようですし概ね心配はないでしょうな」
トレセン学園校舎棟の最上階には、教室やトレーニングルームと言った類の部屋は無く、他の階より静謐な空気が満ちている。放課後であってもウマ娘達の姦しい喧騒は少し遠く聞こえていた。
最上階の一角にある蹄鉄の紋様を携えた重厚な扉は、一部には酷く見覚えがあるのかもしれない。
───理事長室
トレーナー達は採用前に行われる面接において、この扉の前で胃を痛めた事だろう。生徒たちにも門扉を開いてはいるが自分から進んで入ろうとする者は居ない。
……何故ならここに訪れる場合、良い話でない事がほとんどだからだ。
理事長の秋川やよい、秘書の駿川たづな、そしてチームプロキオンのトレーナーアオバの3人が膝を突き合わせて会談していた。別段トレーナーが理事長や駿川たづなと会談することは珍しいことでは無い。なんなら校舎棟最上階はウマ娘よりトレーナーとすれ違う数の方が多かったりする。
「ッ…!彼からしてみればこれは謀略に近い……。断られてもおかしくなかったが……」
「これがテストモデルとなりますし、慎重になるのは仕方の無い事ですよ理事長」
「しかしだな……」
会談の内容はここには居ないトレーナーに対するものだ。専属契約しておりチームを持っていないはずの彼に、2人のウマ娘を担当させる事の是非、それがこの会談の目的だった。
トレーニングを共に行うことや、出張や研修により専属トレーナーが離れなければならない場合、親交のあるトレーナーに数日間担当ウマ娘のトレーニングを見てもらうというのは、まぁよくある事だ。
しかし月単位で他のトレーナーに、ましてやチームを持っていないトレーナーに指導を任せるというのはウマ娘達の心象も良くなければ、指導に手を回せないトレーナーの力量不足と考えられ他から突き上げを喰らうだろう。
チームの設立維持にはウマ娘5人以上の所属という条件があるし、やたらめったら許可を出せば“とりあえずチーム維持のためにウマ娘を所属させ、指導は別トレーナーが行う”なんて事もできてしまう。もしそれで怪我や事故が起きてしまった場合、責任の所在はどうなるのかという問題もある。
確かに新入生ガイダンスを受け持ち、新人サブトレーナーの受け入れ先となるプロキオンを統括するトレーナーは普段以上の忙しさであるが、アオバにはクラシック級二人を統括するだけのキャパシティはあったのだ。だが今回は秘密裏にアオバが全責任を持つ条件でひと芝居打ち、サカキにディープスカイとオウケンブルースリの2人を任せた。
これで複数契約の場合の動きを掴んでもらって、サカキがチーム設立に舵を切ってくれれば万々歳。
これはさんざんケツを叩いてきたのに煮え切らない彼らへの反省を促す理事長のムチ。「火急ッ!ウマ娘達を指導できるトレーナーが足らん!だからチームを設立していない腕の立つトレーナーに複数指導の経験を積んでもらう!!反論は認めん!!慈悲はない!!」という事。
要するに、“既成事実を作ってしまえ!そこを強請ってチームを作らせる!!”という理事長考案ゴリ押しの一手。
そのために考案したこの“出向契約制度”。ある程度信頼のおけるトレーナーにしか使えないし、チームトレーナーもいい顔はしない。それをこの筋骨隆々な男はウチならできると名乗りを上げてくれたのだ。
サカキら専属契約しかしていないトレーナーにも、GⅠウマ娘を排出しているトレーナーは複数居る。彼ら彼女らがチームを持ってさえくれれば数十人というウマ娘が指導を受けられることになる。
少しでも報われるウマ娘を増やすために───。
現状、中央トレセン学園は約2000人のウマ娘が在籍している。対するトレーナーはわずか約200人。およそ1/10の割合。
今いる人数では単純計算でトレーナー一人ひとりが10人のウマ娘をチーム指導できれば良いが、残念ながら力量差やチーム戦力差というものはどうやったって存在する。ウマ娘は皆勝つためにトレセン学園に入学するし、自分がレースで勝つためのチームに所属したがるのが普通だ。
トレーナーだって得手不得手があり、まんべんなく距離をカバーして指導できる者、一極特化で指導方針がある者などそれぞれの特色がある。理想を言うなら一人のウマ娘にマッチする一人のトレーナーをあてがえれば良いのだが無いリソースは絞れない。
まず、
そこからトレーナー契約してメイクデビューできて半数以上、重賞で勝ちを上げられれば一流、GⅠレースで勝つことができれば一家で誇れるほどの超一流となれる。メジロやサクラ、シンボリのようにGⅠウマ娘を何人も輩出している名家というものも存在するがそれはほんの一握りにも満たない。
光があれば影ができるのが常、トレーナー契約すらできないウマ娘はトレセン学園を去らなければならない。サポーター課への転向や地方トレセンへ編入するなど様々な進路はあるが、強すぎる光に焼き尽くされた彼女たちはもう、灰になるだけ。磨けば光る原石であったはずのモノが、磨く機会が無いだけで戦わずして打ち捨てられる。
……惜しい、あまりに惜しい。
…………なんと歯痒い事か。
────なんと無力な事か。
ウマ娘ファーストを掲げる
その為なら私は───。
くしゃみをした。
生理現象は抑えられるものじゃないんだから許して欲しい。
室内プールで、トレーニング中で、4人が飛び込み台に上がったタイミングで、「位置について、よーい」まで言って、盛大にSPLASHしてしまった訳だが再度言う。
生理現象は抑えられるものじゃないんだから許して欲しい。
高めていた気勢を削がれたダイワスカーレットは、腰に手を当ててため息を吐き抗議の視線を向けてきた。その鋭い視線は耐え難いから笑顔の君でいて欲しい。
突然のスプラッシュにずっこけたウオッカはあらぬ姿勢でプールに転落し盛大に水柱を上げる。それを見たディープスカイはツボに直撃したらしく腹を抱えて笑い出してしまった。
オウケンブルースリは静かに飛び込むと綺麗な背泳ぎで水面を滑っていく。
「ちょっと!?いくら何でもタイミングってもんがあるでしょ!!?」
「しょーがねーだろ急に来ちまったんだから」
「あははははぁあははは!!!!」
「うぁー……耳ン中に水入っちまった………」
「イイッヒぃ!!……ふふっ……あははははは!!!」
「スカイ!!笑いすぎだろ!?」
「ごめんなさぁい!!……んぐっ…あっ……ダメ!……お腹痛いぃあはははははは!!」
ずぶ濡れになって雫を滴らせながらプールサイドに戻ってきたウオッカもダイワスカーレットと同じく抗議の視線を向けてくる。これからプールに飛び込むのだから、どうせずぶ濡れになるし遅いか早いかの問題だと思うのだが。
「
「そうするか……うりゃ!」
いつの間にか後ろに回っていたウオッカのヒヤッとした指が首筋をなぞる。
「おい……濡れるだろうが」
「うっわ……リアクション無しとか無敵かよ」
「キャンディ舐めてるからな」
「キャンディwwwwwレインボーwwwwwwwww」
ダメだ。ディープスカイはツボが浅くなり過ぎて何を言われても笑うゾーンに入ってしまった。ゲラゲラと転げながら自分で腹筋を鍛えるとはストイックな事この上ないがそろそろ酸欠が心配になってくる。
「まぁ……悪かった。花粉症はない筈なんだが」
「噂されてんじゃねーか?」
「いい噂はされてなさそうね」
「おい、自分でもそう思うがもっとオブラートに包め」
オウケンブルースリがターンして今度はクロールで泳いでいった。この騒動の中でもひたすらマイペースにトレーニングを続けているのはメンタルが強い。彼女はまだ完全な本格化を終えておらず、膝が不安定なのでプールトレーニングの比重を多めに設定することにした。他3人もスタミナ強化に繋がるから暫くはプール練と筋トレメインになるだろう。
「…お腹いたい……カヒュッ」
「そりゃあんだけ笑い転げてりゃあな」
「……こん…な中にハァ……直接クる…腹筋トレーニング……初めてです…ゼェ…見かけによらず……やりますね黒ジャケさんコフッ……」
いや自爆なんだが?
ビクビクと引き攣る腹筋をゆっくり擦りながら、産まれたての子鹿のように立ち上がるディープスカイ。まだ波が引いてないのか少しでも刺激を与えればまた腹筋トレーニングを再開しそうだ。このまま変な筋肉痛になられても困るのでやらないが。
「じゃあウオッカとスカーレットは10往復をめどに休憩。バタフライ3、クロール3、背泳ぎ3、犬かき1でやっていってくれ」
「あ…アタシは……?」
「お前は少し落ち着くまで休憩な。今のまま泳がせたら沈みかねん」
「おっしゃあ!行くぜ!」
「あッ!!待ちなさいよ!!」
バトルジャンキー二人は話を聞くやいなやプールへ飛び込み猛烈な勢いで水をかき分け始める。あのテンションの高さでこのままヴィクトリアマイルに向かいたいものだ。彼女らの泳ぐ様子を視界に入れながらトレーナー端末を叩く。
「ねぇ黒ジャケさん」
「なんだ」
「ウオッカ先輩もスカーレット先輩もスタミナは充分なんじゃないですか?ましてやお二人ともジャパンカップや有馬で入着して走り切れるわけですし」
「何か勘違いしてるようだがスタミナはあればあるだけ良いんだ。短距離でもマイルでも長距離でもな」
いつもの声ではなく飾らない声でディープスカイが尋ねてくる。横目で見てみると普段のおちゃらけた表情は鳴りを潜め、スッと目の吊り上がったキレのある表情になっていた。
車にガソリンを満タンに入れたとしよう。
スピードを出すためには当然アクセルをべた踏みしてエンジンを回し、燃料であるガソリンを燃やしパワーを出す。もちろんエンジンをたくさん回すという事はガソリンを膨大に消費するという事だ。あっという間にガソリンは無くなるだろうがレース距離が短ければそれでいい。
反面、長い距離を走る場合はエンジンをぶん回す乗り方をしていれば走り切れない。ガソリン残量とペースを考え、適した速度で適したスパートを掛けていく。要は走り方の違いなのだ。
そして用意できる燃料が30Lタンクなのか45Lタンクなのかでやれる事はかなり変わってくる。水泳はその燃料タンクを大きくする為のトレーニングである。足に来る負担も軽いし。
「ディープスカイ、お前も2400mを走り切れるスタミナはあるだろう。だが余裕をもって走り切れるのかヘトヘトに絞り切って何とかなるのか、それで全く変わってくる。ただでさえレース中は邪魔されたり一定のペースで走る事なんてできない。そうなればスタミナはさらに削れていく。2400でレースをするためには2400分のスタミナでは足りないんだ」
「あはは……。トレーナーとおんなじこと言うや」
「おいおい。俺はあの筋肉の弟子だぞ?」
「全然タイプ違うじゃないですか……!まあいいや、泳いできます」
「行ってこい。あの二人には張り合わなくていいぞ」
立ち上がった彼女は後ろに手を組みゆっくりと伸びをする。
「そりゃもちろん。今のアタシじゃあの二人には勝てないですよ?でも、秋ぐらいなら何とかなるかもですね」
────そう言って流した目をこちらに向け妖しい笑みを浮かべた彼女は、いったいどこまで計算に入れてるんだろうか。そんな不安を覚えた眼差しだった。