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栃木県の北西部。
群馬県と福島県の県境に位置する日光市は関東で最大の土地を持ち、1位の岐阜県高山市、2位の静岡県浜松市に次ぐ全国で第3位という広大な面積を誇る。
鎌倉時代よりも昔から山々を神として『山岳信仰』が開かれ名が広まり、江戸時代になって徳川家が祀られる日光東照宮が造られたことで参拝客や観光客で賑わうことになった。「日光を見ずして結構と言うこと
そんな日光市は市内の80%超の面積が山林であり、自然豊かな景勝地としても有名で
山が多ければその分道も楽しくなる。そして俺達バイク好きや車好きにとっては〝いろは坂〟と言えば「あー、あの道ね」となる筈だ。
麓の馬返しから中禅寺湖畔までを結ぶ上り専用の第二いろは坂(い~ね)と下り専用の第一いろは坂(な~ん)で分けられた一般人ですら知っているメジャーな峠道は、春は萌ゆる新緑、秋は山々が色づく紅葉色の黄金が出迎えてくれる。
もっとも、そういったシーズンは走りに適さない程渋滞し9.5kmを登り切るまで3時間、6.5kmを下り切るのに3時間なんてこともありうるほど。
そして、日光の楽しい道はそれだけではない。今日はもう一つの方にお姫様をご招待した。
ここまで走ってきた4気筒は全くその調律を崩すことなく、モーターのような滑らかな回転を保っていた。日光は関東の市街地よりも気温が低くすっきりとした湿度で非常に過ごしやすい気候となっている。
人間にもバイクにも優しい。もう少しすればバイクに厳しい茹だるような暑さに包まれるのだろうが、もう少し先の事はもう少し先の俺に任せる。
今日は後ろに跨った相棒のリフレッシュも兼ねたお出かけなのだ。そう言った気が滅入る事は考えないようにすることにしよう。
VTでのタンデム長距離は少し辛いから、今日はZR-10Xにタンデムシートを取り付けて運んでもらっている。いつからか躊躇なく腰に回されるようになった手は少し強めに結ばれていた。
少し、色々重なってしまったのだ。ヴィクトリアマイルで勝利したものの、レース中にウオッカの蹴り上げた芝塊がダイワスカーレットの右目を直撃し長期離脱を余儀なくされたこと。これによってダイワスカーレットの春シーズンは終了してしまったことになる。
スカーレット陣営は不運なアクシデントだと表明したが、例のネットメディアはウオッカがわざとダイワスカーレットを潰そうとしたと書き立てた記事を公開した。
当然URAが抗議しトレセン学園に至っても今後当該メディアの取材等一切を拒否すると公表したが、メディア側は厚顔無恥にも表現の自由と報道の自由を謳い泥沼と化し始めていた。
渦中のウオッカは気丈に振舞っているように見えたが、いくらウオッカが精神的に成長していようとも強いストレスを感じるはずだ。現に責任を感じてか、ここ数日のトレーニングではダービーに向けて追い込んでいるディープスカイに気圧されるほど弱ってしまっていた。
「さすがに看過できないわ!何とかしなさい!」とダイワスカーレットに言われてしまえばこちらも2つ返事で返すしかない。
ちょうどどうにかしたいと思っていた所だし、フジキセキにもディープスカイにもお小言をいただいた。オウケンブルースリにはパソコンで作業していたら脳天にチョップされた。首が死ぬ。
数度の料金所を抜け日光インターチェンジで一般道へと降りる。府中では曇っていたが、幸いにも東北道の途中から雲が途切れ始め、宇都宮を越えれば空は深く澄み渡った。体に受ける風は少し冷たく、しかし爽やかに吹き抜けていく。
国道119号を少し進み、賑わいを見せる日光駅前を通り過ぎ県道169号線へ入る。この道こそ、今日お姫様を招待したお目当ての峠道。
しばしホテルやロッジの立ち並ぶ通りを走ると次第に森が深くなっていき、そしてキャンプ場を過ぎヘアピンカーブを抜ければこの道の本格的な始まりだ。
県道169号栗山日光線。日光の森林を貫いて〈
アスファルトの割れで少し振動するものの、ZR-10Xはその振動をよくいなしてくれていた。右のヘアピンを抜けて左のヘアピンを抜ける。
少しずつ空が近づいてくる。
森が開け、駐車場にバイクを止めた。そこそこのペースで走ってきたものの、まだまだ紺の獣は満足し足りないとエキゾーストをまき散らす。申し訳ないが鍵を捻って休んでもらうことにした。
スタンドを立てヘルメットを脱ぐと、涼しかった日光市街地よりも数度ほど低く涼しい空気が出迎えてくれた。
霧降高原、キスゲ平園地。通り抜けてきた日光の街並みが遥か眼下に見え、周りの名もなき山々よりも自分たちは空に近い。
「すげぇ……」
ヘルメットを脱いでほうと息を吐いたウオッカが風に誘われて山々を見下ろした。風に浸された髪と尻尾が靡き、葵い香りの中にほんの少し彼女の温もりを感じる。
「もう少し上もあるんだ。せっかくだから行ってみるかい?」
「……いいぜ。せっかくだからな」
駐車場から伸びた木造りの階段。
彼女の弾む後ろ髪が前を行く。珍しく先を行く人も居なければすれ違う人も居ない。空に近いと思った駐車場から一歩ずつ更に空へ登っていく。階段に取り付けられたプレートには50/1445段と記載されていた。
「結構あるんだな」
「ここから更に登るからな。長いぞ」
「そっか。トレーナーは一緒に登ってくれるんだろ?」
「お前さんが降りない限り付き合うョ」
「……そうかよ」
前を行こうとしたウオッカは少し待つと、俺とペースを合わせて上り始めた。まだまだ先は見えない。
一歩また一歩と、空は近づいてきた。〝霧降〟という名の通りこの付近は突如として霧に覆われることもままある。霧が降りるというよりかは、標高が高いため雲に入ってしまうと言った方が正しいと思うが。
しかし今日は周りに雲らしいものはなく、このまま晴れてくれるらしい。
「……」
「……」
言葉数少なく、お互いのペースに合わせて上っていく。聞こえるのは風が平原を撫でる音と、ウオッカの息遣い。
「もうちょっと暑い時期になればこの辺りはニッコウキスゲが咲くんだ」
「ニッコウキスゲ?」
「そう。黄色の小さい花なんだが、涼しい気温と湿気を好み、標高の高い湿地なんかに群生するんだ。んで、朝に咲いて夕方に萎むという不思議な性質がある。花言葉は『日々を新たに』『晴れの喜び』ってな」
「トレーナー、花言葉なんか知ってんだな」
「良いじゃねーか。知識は無駄にならないぜ。使えるか使えないかはさておきナ」
残念ながらまだ時期としては早すぎるために、風に揺れる山吹色の絨毯はお目にかかれなかったのだが。
日当たりの良い場所では数本程度が花開き始めていた。
他愛もない話をしながら踏んできた階段は1000段を超えた。振り返ればここまで昇ってきた長い階段が見え、しかしここからも永遠と思えるような階段が空へ向かって伸びている。
「トレーナーはなんか後悔してることはあるか?」
「……星の数ほどあるョ」
それこそレース中の出来事なぞタラレバの連続だ。「あの場面でああしていれば」「こうしていれば良かった」なんて幻影はいつでもついて回ってくる。
その結果、俺はレースから離れることになった。結果は悔やんでも変えられない。
1秒過ぎれば全て
永遠と空へ昇っていきそうな階段も遂に終わりが見えていた。足に残る疲労感もこの景色が見られるならお釣りが来るだろう。晴れ渡る空、日が当たり輝く山肌、人の営みを写す市街地全てが小さく見える。このスケールは登った者でなければ見る事は叶わない。
「後悔の大きさは本人じゃなきゃ分からねーからな。するなとは言えないさ。さっさと忘れろって言うのも無責任な話だ」
「……」
「だけどお前さんには下じゃなく前を向いて欲しい。挑んで欲しい。俺のエゴだがな」
1445段。一緒に上ってきて、最後の1段だけは俺が先に踏み出した。
振り返ってウオッカを見れば唇を噛み下を見ている。頭に手を置くと少しだけ肩を震わせた。
「今だけは雨が降っても良いんじゃないか?」
強ばっていた彼女の耳から、力が抜けていく。彼女の後悔が風に
「天皇賞だ。ダイワスカーレットが照準を合わせるのならば、今回負けたステージでリベンジしに来る」
「……」
頷く。
「出るか?」
「……出る」
「分かった」
ゆっくりとこちらを向いた
……その瞳が眩しくて俺は目を細めた。
勝者は胸を張るべきだ。かつて勝ちから逃げ出した愚か者の
今でも、俺は後悔しているよ─────。
栗山日光線に戻り、再び上りへ進路を向ける。暫し上り続ける道に進路を任せ、右へ左へ。
山間に高く架かる六方沢橋を渡ると、道はようやく上るのをやめた。数台のバイクとすれ違い、家族連れの車とすれ違い、もういくつかのコーナーを抜けると今度は森が終わりになる。
広く丘のような土地に柵が立てられ、遥か向こうに牛が見える。
今日のゴール地点〈
道はまだ続いているものの、これ以上進むともう福島県へ抜ける道になる。これ以上進めば
ダイタクヘリオスの言葉を借りれば「正座は10分でキャパい」
……俺からすればああいうタイプのノリがキャパいんだが。
「ここで何すんだ?」
「肉食うんだョ。ここはジンギスカンが美味いんだぜ」
「おお……!」
少しお高くはあるが、ここではジンギスカンのセットを注文でき新鮮な牛乳まで頂けるスポット。もちろん他にもメニューはあるし土産屋も併設。休日ともなればライダーや観光客で埋まるほどの人気がある。
「スカイとブルースリも連れてきてやりたかったな」
「まあ……大人しくしてくれれば全然構わんが、あいつらはレース前だからな。そろそろ体重を気にしなきゃいかん」
「じゃあ、今日はオレだけ思いっきり食えるのか!やったぜ!」
「おいおい、お前さんも安田記念までそうないからな」
「わーってるって!肉を前にしてシケたことは言いっこなしだぜ!」
幸せそうに頬張るウオッカに促しつつ、よく弾む耳が彼女の機嫌を表していた。これでモチベーションが回復してくれるならわざわざ日光まで来て山登りした甲斐があったというもの。
……その夜、土産話を聞いたダイワスカーレットから抗議の電話が来たのは、俺のせいでは無いはずだ。謝るから絶対許してほしい。