「よし!こんなもんっしょ!!」
パキリと関節を鳴らして立ち上がった店長さんが「あー」とか「うー」とか言いながら腰を伸ばす。私の姿勢が辛くならないようにステップなどを調節してくれたのだ。
「あとは走ってみて違和感があるとか、腰が辛いとかあったら電話なりお店来てくれるなりすれば調整するから!」
「了解です」
「あとは……そのバイク400ccで車検あるから、その時は案内状送るね?」
ちょっとした冒険。これから風を切れると思うと高揚感が湧き上がった。
レースで屈腱を断裂して、私はもうウマ娘としてレースのような速度で走ることはできなくなってしまった。日常生活は問題なく、力強さはヒトの比ではないが、走るスピードはヒト並みかどうかも怪しい。
……私はもうあの
だが、鉄の相棒の力を借りて、これからまたあの
「はい、じゃコレが鍵ね」
店長さんから渡された車の物より幾分か小ぶりな鍵。それがこの子と私を繋ぐもの。
鍵を首元のシリンダーに差し込み、カチリと回す。指先の感触とともに、二つ並びのメーターが淡い緑色の光を
「右レバーがフロントブレーキ、ここ捻ればスロットル、左レバーがクラッチ。で、これがウインカー、パッシング、ホーン。これがキルスイッチ、エンジンが掛からなかったらまずこのスイッチ入れてみて。んで、最近のバイクは常時発光なんだけど、このバイクちょっと古いからヘッドライトは手動ね」
一つ一つを確認しながらカチカチと押し込んでみると、スイッチはそれぞれの役割を果たした。ホーンの思ったより大きい音にビクッと耳がはねてしまったが、レクチャーを続けてもらう。
「こっちがタコメーター!この針が1を下回るとエンストしやすくなるからクラッチ操作して下のギアにしてね!スローな速度域は半クラして調節ね。普通に走る分には6ぐらいまでで問題ないよ」
メーター自体は15までメモリを刻んでいた。13からがレッドゾーンというようだ。さすがに怖くてそこまで回す気にならない。
教習所のバイクにはもっとカラフルにライトが付いていたが、それよりも少し古いこの子の文字盤は、必要最低限しかないスッキリとしたメーターになっていた。
「これフューエルメーター、ガソリンの残量ね。あんまりアテにならないから1/5切ったところで給油するぐらいかちょうどいいかも」
「はい」
「えーっとバイクのギアの段は分かる?」
「1
「そうそう。Nに入るとこの緑ランプが点くから、エンジン掛ける時はこのランプがついてからね。最後に、エンジンスターターが右手のオレンジボタン。鍵を右まで回したら押し込む」
キュキュキュというモーターのような音が数度。
ブォンと勢いよくエンジンが起きると、金属のノイズを伴って鼓動を刻み始めた。ボボボボという一定の排気音と混ざって反響する。
なるほど、この鼓膜を揺らす音の圧。
聴力がヒトの何倍もいいウマ娘にとってはちょっと辛い子も居るかもしれない。その辺りを店長さんは配慮してくれて、静かなノーマルマフラー?に戻してくれたそうだが、それでも音が耳に響く。
お腹に
「耳、大丈夫?」
「ええ、このぐらいなら……。走る時はヘルメットもかぶりますし」
鍵を回し、エンジンを切ると静寂が戻る。
鼓膜を揺らしていた音が無くなると、さっきよりも静けさが増したように錯覚した。まだ着慣れないライダージャケットのチャックを少しだけ開ける。
「このバイクは大型と設計が一緒だから真っ直ぐは安定するけど、重たいからカーブは苦手なのよ。ローレルちゃんがそんな飛ばすとも思えないけど一応ね!」
確かに教習所で跨ったバイクよりは重いがそれでも、せいぜい20キロと言ったところだろうか。持ち上げるぐらいなら造作もないが、フレームが曲がっても困るし向きを変えるときぐらいにしておこう。
「あと、ABS……ブレーキをかけすぎた時にタイヤがロックしないようにコントロールするシステムがあるんだけど、二輪に搭載するようになったのはホント最近じゃんよ。けっこー簡単にロックするから気をつけてね。後輪は何とかなるけど前輪ロックしたらビターンよ!」
初心者がやりがちな立ちゴケ、握りゴケ何てものもあるようだ。Uターンをする時にしやすいんだとか。
「まあ説明はこれぐらいにして、ローレルちゃんもずっと目が向いてるしね」
「あぁ……すみません!楽しみでちょっと……!」
「分かるよ!この自分のモノになるって時がワクワクするんだよね!」
ちょっと暗めのシルバーで、黒いホイール、四角いおめめが一つ。カタログで見ていた新しいバイクにはない直線的なデザイン。
華美な装飾はないが、それがまた周りを引き立てて見せた。
「うーん……ローレルちゃん、初公道だよねぇ……」
「そうですね……ついてきてくれる人がいれば良かったんですが忙しいって振られちゃいました」
「まあ、もうダービーだもんなあ。アイツ、二年連続でダービー行くんだもん。ヤダヤダ、歳食うと年々時間が早く経つ気がするじゃんよ」
お店の前にバイクが戻ってきた。私のバイクよりもうるさくアイドリングして、数度エンジンを吹かす。が、だんだん弱まっていきエンジンが自然に止まってしまった。
「てんちょーこれダメっスね。キャブが固着してるッスよ」
「だよなぁ……。これオーバーホールコースじゃんねえ……」
彼、割と顔がいいのにバイクにしか興味無いからなあ……。頑張ってアタックしようとしてる同じゼミの子が可哀想になってきた。
「ちょうどいいや!ミサ!今日はアガりで!」
「エッ!?このRRZバラさないんスか!?」
「バッカ俺っちがやるから!お前はお嬢様のエスコートじゃんよ!」
「え?ラリーカーっスか?」
店長さんが三才山クンをハリセンでシバいた。良い音。
「お前なあ……そんなんじゃ彼女の1人もできねーっしょ!」
「なっ!?てんちょー気にしてんスから言わないでくださいよ!!」
気にしてるんだ。帰りバイクだからってゼミの飲み会にも来ないのに……。
「ミサが成れの果てでサカキみてーなスカした野郎にならないか心配だわ」
「オニーサン、モテるんすか?」
「アイツはなぁ……。何故か知らんけどきっちりしてる子ほどアイツにハマるんよ。海外遠征で知り合った子とか、ファンの子とか、アメリカの山でブッちぎったウマ娘とかにもアプローチされてたな。レースにしか興味無いってんで、みーんな振ってんだけど。ありゃウマ娘に蹴られて死ねばいいんよ」
ちょっとトレーナーさんと詳しく話をする必要ができた。
これは近々時間を作って貰わねばなるまい。いや、絶対に作らせる。
おっといけない。平常心平常心。できる女は常に余裕を持たないと。
「ともかく、ローレルちゃんの公道デビューだから慣れるまで付いててやんな!なんかあったら俺サカキに〆られちゃうじゃんよ!」
「やー怖いッスね!オニーサンに〆られるとか」
「怖いからね!?アイツキレると……いーや止めとこ。ともかくローレルちゃんのサポートしてあげてよ。ローレルちゃんもいい?」
「大丈夫ですよ。むしろ経験者がいてくれた方が頼もしいです」
鍵を再び首元に刺し、パチリと回す。スタートスイッチを押し込むとセルの音と共にエンジンが起動した。ノイズと共に回り出す鼓動は一定のリズムを刻む。
なんだか、嬉しくなってスロットルを少し捻る。
手の動きに合わせて回転数をあげるエンジンに、私の心のボルテージも少しずつ上を向いた。
『どう?聞こえる?』
「聞こえてるよ?」
『おわぁ…!耳元でローレルさんの声が』
「三才山くんの声も聞こえるから」
バイクというモノは、連れ立って走ろうとしてもその独立性から意思疎通が難しい。
よってボディランゲージなりで伝えなければならないのだが、インカムという無線機のようなものを耳元に装着すると、ヘルメットをしながらでも会話ができるというものを店長さんが貸してくれた。
『じゃあ準備はいいッスか?』
「いつでも」
ヒュインと甲高い声を上げて三才山くんのバイクが走り出す。
こちらも行くとしよう。クラッチを握って左足のペダルを下げるとガコンッというショックと共に緑のランプが消えた。
ゆっくりと右手を捻り、これまたゆっくりと左手を解いていくとググッとバイクが進み始める。
「おっ、おっと」
次のギアにしようとクラッチを握ったが、スロットルを戻し忘れエンジンが勇ましい音を奏でてしまった。一瞬針が8とかまで回った気がする。
『大丈夫ッスよ。エンジンぶん回してもバイクは簡単に壊れないッス!むしろたまに回さないと調子悪くなるッスよ』
「恥ずかしいね」
『誰しも初心者なら通る道ッス!俺もたまにやるし!』
大通りに出るために左ウインカーを出そうとして、ホーンを鳴らしてしまった。煽ってない!煽ってないからこっち向かないで!
『よくやるpart2ッスね!ウインカーつけようとしてホーン鳴らしちゃうの』
「恥ずかしいから言わなくていいよ!」
くそう、微笑ましいみたいな顔しやがって。こんど絶対飲み会にブチ込んでやる!
スロットルを捻りながらクラッチを解いていき、速度が乗ってきたら繰り返す。だんだんとこの子のコツが掴めてきた。
もう諦めていた
「ふふっ」
全て知っている懐かしい感覚。長く遠ざかっていた感覚。腰下の相棒によってもたらされる一体感。
『ローレルさん飲み込み早くないッスか?俺バイク乗り始めた時、初回でこんなスムーズに走れなかったッスよ』
「なんでだろうね?この
『あー確かに。ウマ娘だと慣れてるから恐怖心とか無いのか』
「私たちがおかしいみたいな言い方しないでくれる?」
『あー!!そういう意図はないんスよ!!』
決めた。心に決めた。こんどこいつは絶対に飲み会で潰してやる。それでこいつに懸想してる子に持ち帰らせる。後は知ったこっちゃない。
「よいしょっと」
三才山に試乗してもらったバイクをスタンドで持ち上げた。
見立て通り燃料供給装置に不具合があるらしく、アイドリング状態になるとエンジンが停止してしまうようだ。
だとすると
作業を始める前に、店頭に離れる為の注意書きを置かねばならない。そう思い作業場を出ると1台のバイクが店の前に止まった。
「GEz-900R……金かかってんじゃん……」
金属音の混じった重く威圧感のあるエキゾースト。
赤と黒の配色は映画にも登場したカラーリングで、そのプレミア価格の乗った色合いは、他のカラーよりも高く取引されたりするほどに人気である。状態が良ければ200万オーバーするような個体まであるような車種だ。
それが大人しめに、されど見るものが見れば気づくようなさり気ないカスタムがなされていた。
そういえば、同じ色をしたGEzを駆る男が脳裏に浮かんだ。浅黒い肌に偉丈夫。最後までハマサキに残ったあの男。
「よォ。探したぜ───」
「……岡谷、サン」
かつて空中分解したチームの、何年も音沙汰無かったリーダーが突然訪ねてくるなど、
一体何の用事か探りを入れてみると、かの男はあっさりと口に出した。
「オタリーの所にあったZR-10X、お前が頭下げて譲ってもらったらしいじゃねえか」
「……どれの事ですかね」
「とぼけんなよ。アイデルンが死んだ翌年サカキに用意されてたあの10X、お前が改良に関わってたんだ。忘れたとは言わせねーぜ」
あの当時、ハマサキの持てる全ての技術と速さを詰め込んだ夢のマシン。
その全てにサクが手を入れ、徹底的にサカキの癖と技術に合わせてカスタムされた本当の意味の
───あの時までは。
結局それは、全て狂い、何もかもが水泡に帰した。本当に、
「なんだってあの封印されたに近かった10Xを、よりにもよってアイツにやったんだ? 1番遠ざけてたのはアイツ自身だろ?」
ふう、と。ため息をついて岡谷は煙草を咥えると、カチリとライターを開けて火をつけた。
「アイツが……サカキ自身が望んだんだ。ZR-10Xが欲しいってサ」
「……なんでまた?」
「あいつ、
「……は?」
ポロリと岡谷の口から煙草が落ちた。まだ火をつけたばかりの煙草がさりさりとその身を灰へ変えていく。
無理もない。俺も岡谷もサカキが負ける姿なんて、想像できなかったからだ。
どんなに上手いライダーだって勝ち負けすることぐらあるだろう。しかしアイツが最速だった峠で、負けたことを信じたくなかった。
「相手は?」
「分からんのよ……。ただ、“ハマサキ潰し”って呼ばれてたセンダブがその後一切出てこなくなった」
「サカキがお目当てだった……てか?」
「そういうことじゃんよ」
ソイツとまたやり合うなら、XRZなんかじゃ歯が立たない。撃墜された本人がいちばんよく分かっているだろう。
当然、俺も生半可なマシンなんか用意できない。そう考えて、心から乗って欲しいと思ったのはあのZR-10X。
かつて同じ時を過したハマサキのメカニックであり、チームメイトだったオタリーという男が自前でハマサキからマシンを引取り、保管していた。それしかないと、それしか有り得ないと、そう思った。
そんなマシンを、アイツが乗るならと譲ってくれた。
オタリーもまた、アイツの走りに魅せられてしまった者だ。いつかマシンを乗ってもらおうと、コンディションを保つに1週間に1回はエンジンを掛けていた。そんな事
「オタリーから連絡があったんだよ。富士のマシンテストで乗ってたライダーはサカキなんだろってよ」
「レジェンドモータースか……」
「まーだ中身に勘づいてる所はないだろーがナ。勘のいいライダーなら分かってるんじゃねーか?───それこそアイデルンとかな」
そこか。それこそが岡谷の目的か。
「アイツに乗ってもらうためにコンタクトを取りたい。だからこそお前の店に来たンだよ」
「保証はしねーじゃんよ。俺はハマサキがあの時ライダーにした事を忘れてないし、今の、アイツの笑顔も知ってる。アイツは自分のやりたい事を見つけたんよ」
「だろうな。たまたま草津で会ったんだが、随分喋るようになってたョ」
そこに行くまでに、どれだけ長かったか。
「もし、アイツがまた走るって言うんなら俺は協力するじゃんよ。アイツの乗るマシンを他の奴には預けたくない」
「はっ……大概お前も狂ってるよ」
岡谷は新たに咥えた煙草に火をつけて吸い込むと、天に向けて紫煙を吐き出した。
解けて消えていく煙の先は、果たしてどこへ向かうのか。