皐月も終わってしまい、春の陽気もなりを潜め季節は水無月へと移ろう。梅雨でバイクに乗れないと思ったら、あと少しすれば更にバイクにも俺にも優しくない夏がやって来る。
勘違いしないで欲しいが、夏の景色は嫌いじゃないんだ。
青い海の向こうにもうもうと立ち上る白い入道雲。照りつける太陽に当てられて海岸線をただ流して走る、ある種の気持ちよさは何物にも代えがたい。
ただ気温と湿度とエンジンの排熱が
「はい吸って」
「すぅ……」
ウマ娘の勝負服は伸縮性に富む素材のはずだが、ボタンがギチギチと悲鳴を上げている。
目一杯息を吸い込んだディープスカイの成長著しい胸がグッと張り出す。後がうるさいので努めてそちらを見ないようにした。
「吐いて」
「はぁ……」
ゆっくりと、それでいて体の力をゆっくりと抜いていく。
熱くなる体を冷ますように吐く息へ乗せて、しかし彼女の闘志だけは爆ぜる寸前まで高められていく。より強靭に練り上げられていく。
「もう一度、吸って」
「すぅ……」
「吐いて」
「はぁ……」
緊張しないような方法は無いですか、なんて柄にもない事を聞いてくるディープスカイの為に緩和措置をメンバーで相談したところ、こういう時はやはり深呼吸。深呼吸は全てを解決する!と結論が出た。
「はい吸って」
「スゥー」
「吸って」
「スゥゥゥゥゥウウ」
「……もっと吸って」
「スゥゥゥゥゥウウウウウウウウウウウ……ンッ!?ゲッホ!!アッフ!!」
───まあ、そうなるな。
せっかく高まった雰囲気と緊張が一発で霧散する。
いくらウマ娘の肺活量がヒトよりも優れていると言えど、んな噎せるまでやる奴があるか。
顔を赤くして咳き込むディープスカイの背中をオウケンブルースリが
ちなみに最後まで吸えと追い打ちしたのもブルースリだ。
「吸ったら吐き出させてくださいよォ!!!!」
「……どこまで、吸える……のか、気になって………」
なでりなでりとスカイのウマ耳を弄ぶブルースリ。
クワッと猛ってブルースリに詰め寄ったスカイは「あっ……みみはダメぇ……」とすぐに溶けた。完全に遊ばれている。
椅子に沈められモミモミと耳をコネられ、年頃の女子がしていいのかちょっと疑問な
「ウケんな」
「ウケてる場合じゃないでしょ……え?これアタシがおかしい?」
「まぁ……緊張してガチガチになるよかいいんじゃねーか?」
トレーナー室でよくワチャついてる仲良し二人なので、ウオッカも俺も慣れ切ってしまっている。
GⅠレース当日だと言うのにいつもと変わらないスカイとブルースリに、まだ慣れていないダイワスカーレットもじきに染まってしまうだろう。
スカーレットは拳を振り上げる前に牙を抜かれ、腕を組んだまま溜息を吐いた。
控室にコンコンとノックの音が転がった。誰にも見せられない顔のウマ娘が居るのに困ったもんだ。
「ガハハッ!失礼するッ!」
控室の室温が2℃ほど上がった。
いつもの高笑いと共に失礼してきた
その歯がピカリーンとするエフェクトはどうやってるんですか師匠。誤魔化すように二の腕を見せつけるのは止めてください
「ディープスカイ!NHKマイルは見事な勝利だったッ!あの後ろからの捲りは素晴らしかったぞ!感動したッ!」
「ぁりがとぅございますぅ……」
ぐでんぐでんに脱力したままのスカイはゆるゆると手を振る。
「ふぅむ……。リラックスするのはいい事だ!!ちゃんと力の入れどころが分かっていればよい!!」
「いや、その理屈はおかしい」
もうちょっと……こう、あるでしょ?!という視線をこちらぶつけてくるスカーレット。言いたいことは分かるが、マッスルの妖精と会話する為には、自らもまたマッスルでなければならない。
「緊張していたら一言かけてやろうとも思っていたが杞憂だったな!!」
「しなさ過ぎじゃないかしら……」
それがいつも通りである。
「さて、と」
復活したディープスカイが膝を叩いて立ち上がると、アオバに向き直ると一礼した。
蕩けていた顔はどこへやら。スっと細められた真剣な眼差しに、アオバもまた真剣な顔に変わる。
「トレーナーさんのおかげでここまで来られました。黒ジャケさんもありがとうございます」
「スカーレット先輩もウオッカ先輩も、一緒にトレーニングして頂けて、色々な技術を学ばせてもらいました。たぶん同学年でいちばん贅沢なトレーニングをさせていただけましたことに感謝を。おかげでこの舞台でも、負ける気はしません」
ウオッカに、スカーレットに、視線をぶつけ、そしてスカイは1度息を吸う。
「その上で、挑戦状です。私は自分の力を信じたい。その為にふさわしい泊をつけてきます。そしてお二人に
───ダービーウマ娘が二人もいるレースなんて、最高じゃないですか?
宣戦布告。シニア級でも自分の力は通用すると、信じて疑わない瞳。現世代のトップとも言える戦績のウオッカとダイワスカーレット。
その二人を、ディープスカイは
「菊花を捨てる……その意味、分かってるのよね?」
「はは……オイオイ、相手は見誤るなよ?」
その意味を理解すると共に、重圧が襲いかかる。緋色の女王と常識破りの女帝。途端に彼女らそれぞれから吹き出す圧倒的なオーラ。
それに剣を向けた愚か者は、果たして勇者となり得るか。
「ええ、もちろん。でも今日は
「ウハハハ!それが聞ければ満足だ!!心配しなくても用意しておこう!!」
ガチリとスイッチが入ったディープスカイの雰囲気が変わり、控室が更に暑苦しくなる。
よくできたウマ娘達だ。俺が何か言葉をかけずとも、自分たちで高め合い挑んでいく。
───俺には、眩しすぎる。
控室を後にして、ウマ娘達は先にスタンドへ席取りに行かせた。
俺はいつもの如くタバコを吸ってから合流するために喫煙所へ向かう。1つ違うのは隣に
「どうだ?ここしばらくあいつら二人も担当してみて。楽しいだろう?」
「退屈はしませんでしたね。その分騒がしかったですが。というより手のかからない二人を送ると言っときながら、クセの塊を送り込んできたのは物申したいですが」
「おいおい!クセのないウマ娘なんぞ居やしないさ!強い奴ほどクセがある!!」
1本取りだして、火をつける。軽く吸い込んで火を回し服に臭いがつかないように上へ向かって吐き出した。
「俺にチームを持たせて、あの二人はメンツに食い込ませるつもりですか?」
「……うむ。そこまで見通されていたか」
あまりに時期が不自然だからだ。
これから春のレースシーズンを控えた大事なクラシック級の二人を、わざわざチームも持たないトレーナーに預けるなど混乱の元となる。夏合宿や大きなレースの少ない1~3月ならまだ理解できるが春シーズン、それも2、3日ならともかく、月単位。
「どこまで上が噛んでるんです?理事長あたりまでですか?」
「そうだ。専属契約しかしておらず、かつ担当が重賞を勝っているトレーナー数名に、貴様と同じ様な仮チームを持たせて複数指導の経験を積ませている」
やはり……か。
トレセン学園は慢性的なトレーナー不足に陥っている。まずトレーナー試験自体がかなりの難関で国家資格もかくやという倍率を叩き出している。
試験を合格し、今度は上層部との面接。理事長のお眼鏡に適ってようやく採用と相成る。何故か受かってしまった俺が言うのもなんだが、成る可くして成る人材不足なのだ。
「貴様はかなり良いペースでのチーム化を果たしていてな。専属契約していたウマ娘と出向契約をしたウマ娘で対立してしまい中止したところも有るぐらいだ。それぐらい難しい事を押し付けてすまないとは思う。ただこれも、担当契約すらできずにトレセンを去るウマ娘を減らすための苦肉の策というのも理解して欲しい」
言っていることは理解できる。
トレーナーと契約すらできず、走ることもままらないウマ娘が失意の内に学園を去る場面は、華やかな入学式や卒業式の裏で目にする事がある。
俺には去っていく彼女たちをどうすることもできない。
「思うんですよ。俺はこのままトレーナーを続けていいのだろうかと」
「何?」
「サブトレーナーとしてお世話になって、指導で預からせてもらったサクラローレルもタロットダンサーもノールブライトもGⅠを勝った。初めて自分で契約したエスタビオレも重賞を勝ち皐月まで出走した。ウオッカに至ってはダービーすら勝って、先日のヴィクトリアマイルで3勝目」
煙草を咥え直し、深く、吸い込んだ。一気に先端から1センチほどが灰になって掠れていく。それが自分の心と重なった。
「だけどそこに俺は必要だったのかと、そう思ってしまう自分がいるんです。俺には眩しすぎたと、そう考えてしまう自分がいる」
灰皿へ灰を落として、紫煙を
それを待って、考え込む師匠が苦い表情で口を開いた。
「俺が思うに、そうだな……。貴様自身に何かやり残していることがあるのではないか?」
────やり残している事。
脳裏に浮かぶのは、いや、フラッシュバックと言った方がいいだろうか。あの日、あの時の取り戻せない光景。
なぜ、今になってそれが脳裏に浮かんだのか理解できなかった。理解したくなかった。だってそれは───。
拝啓、ダービー卿。
今年も貴方に勝利を誓うウマ娘達が18人。世代から選ばれし優駿達は己の力を信じて走り抜きます。
彼女達が得るものは勝利か、或いは敗北か。
それは貴方にも、そして私にも分かりません。
一つ言えるのは、その勝利は永遠と語り継がれるという事。
さあ、ご覧に入れましょう。
ただ1人の、栄光を!
日本ダービー/東京優駿
東京 芝 2400m
枠番 馬番
1枠 1 ディープスカイ
2 サクセスブローゼン
2枠 3 メランシエル
4 アマツミカヅチ
3枠 5 アルネストローチ
6 モンドクリストス
4枠 7 スマイリーシャット
8 アラバスタプロント
5枠 9 ネイリスチャーチル
10 レインボーバリウス
6枠 11 ウィアゴーマツシマ
12 オルジェクト
7枠 13 アドブェーナイン
14 テーシンオフェンス
15 ミラーテーション
8枠 16 メイシンクリオネ
17 セイショウアルナ
18 クリスタルウインド
東京レース場は今日もまた、満員を超えるように人が押しかけていた。
クラシック級最高峰を決める戦いとも名高い日本ダービー。
毎年誕生する7000人近いウマ娘から、中央という狭き門を潜り抜け、メイクデビューを果たす上澄み。その上澄みが更に篩にかけられ、粒の大きいモノだけが残り、その中で最も強い輝きを放つ宝石を決める。
そのただひとつが決まる所を見たい。皆その期待を胸に秘めてここまで来ていた。
ある者は推しウマ娘の応援に。
ある者はカメラを担いで記録を残しに。
ある者は連綿と続く歴史を感じに。
それを紡ぐ
「うわ……」
「ちょっと、人の顔見てあからさまに不満な表情するの止めてくれる?」
浮ついた熱が篭もる表とは違って、音がよく響く、少し冷ややかな地下馬道。
そこで何かを待つように壁に体を預けていた黒い勝負服のウマ娘。
「アナタとお話するならここしかないと思ったのよ 」
ひらひらと手を振り、親しげな雰囲気で近づいてくるメランシエル。
「私はお話すること無いので」
「そう冷たいこと言わないでよ。同じレースを走る仲じゃない」
頼んでもないのにメランシエルは隣へ並んで歩き始めました。
二人分の靴底が、コツコツ地面を叩く音、互いの息遣いさえ耳に刺さります。
「デキはどう?」
「退屈はさせませんよ」
「そう……。良かったわ。貴女がNHKマイルで燃え尽きました、なんて困るもの」
大概、この人も物好きですね。どうしてわざわざ私を待ち伏せてまで話したかったのでしょうか?更に面倒な話題を振られても困るのでこちらから返してみます。
「負けてくれって相談なら受けませんよ?」
「頼まないわよそんな事。それこそダービーを、レースを愚弄する事になるわ」
スポ根み溢れるこの人の事ですから、そう答えるのは予想していました。
ですけども、これだけは譲れません。
一緒にトレーニングしてくれたスカーレット先輩、ウオッカ先輩、ブルースリ。私を拾ってくれたプロキオンのアオバトレーナー、そしてウオッカ先輩をして捻くれ散らかしてるあの黒ジャケットの野郎に分からせてやらなきゃいけないんですよ。
みんながみんな勝ちたいのは分かってます。けど……
「勝つのは私なので、