「……どういう……事だ?」
「どうしたもこうしたも無いですよ。言葉通りです。日本ダービーを勝ったんですよ私?もっとこう喜んで抱き合ってぐるぐる~みたいなそんな感じになるでしょう?普通」
それはいったいどういう普通なのか。元のチームであるプロキオンと師匠であればそうなるかもしれないが、ウオッカともそういうことはしたことがない。
「それは冗談として、実際されても困りますし?ちょっと冷静になって考えてみれば全力疾走して汗だくになった後抱き合うとかニオイとか体温とか泥とか気になっちゃうしだからごめんなさい……まあ、それはいいんですよ今は」
ひと息で言い切ったディープスカイが、1拍置いて息を吐く。
少しだけ前を行き、こちらに振り向いたディープスカイは行き先を塞ぐように顔を覗き込んでくる。その瞳に飲み込まれた。
「問題は、黒ジャケさんが一線を引いてしまっているんです。
……一線を引いている?何をバカな。
そうじゃなきゃトレーナーなんて職には就かない。俺はお前たちの勝利を望んでいるし、お前たちが勝てれば嬉しいはずだ。
口を開いたが、掠れた空気が漏れるだけで、言葉が出てこない。「そんなことはない」と反論はいくらでも脳裏に思い浮かぶ。だがそれが声と言う形を成して喉から出てこない。
ディープスカイはこちらのアクションを待ったが、発言がないことを肯定とみなしたようだ。
「黒ジャケさんが私、ウオッカ先輩然りブルースリに考えることは〝アイツが勝てればいい〟なんですよ。〝アイツと勝ちたい〟じゃないんです」
レースで走るのは俺じゃない。他でもない彼女たちの舞台なのだ。そこでどうなるかなど、流れに任せるしか無いのに。それの何が違うってんだ?何が間違いなんだ?
「別に責めてるわけじゃないんですよ。そういうスタンスでやるなら、そういうスタンスで良いんです。ただ、それはウマ娘と絶望的に相性が悪い。ウオッカ先輩みたいな太陽みたいな人だと尚更」
「……どうして、そう思うんだ」
「黒ジャケさんは一定以上のラインを踏み込もうとしないんですよ。レースに対してすごくシビア。うぅん、ドライって言いますか
彼女の怜悧さをよく現した視線。普段の垂れ気味な目尻は角度を変えて刻まれていた。抗議とも説得とも取れる、諭すようにも思える声音。
「すみませんディープスカイさん!後検量を行ってください!」
「あっごめんなさい!すぐ行きま~す☆」
振り向き直して、俺を一瞥する。
「私たちは1人で走るんじゃないんです。おそらく指導法を見るに、黒ジャケさんは何らかレース経験があるんではないかと思うんですが……」
───その時、自分一人で走ってましたか?
言いたい事を言い終えたのか、声の出ない俺にちらりと視線を合わせるとニコリと笑ってディープスカイは係員と共に検量室へ行く。これで何も違反がなければ順位は正式決定だ。今年の日本ダービーは〝ディープスカイというウマ娘の勝利〟で幕を閉じる。
それを導いたのは当然、彼女が所属するチームプロキオンのアオバトレーナーだ。彼女の勝利は俺ではなくディープスカイ彼女自身のもので、ただ預かっていた俺の入る余地などないはずだ。
違うって言うのか?それが間違っているというのか?
ウオッカに対してもそうだと彼女は言った。
考えれば考えるほど分からなくなってくる。頭の中をガリガリと掻き毟りたくなる衝動。
……俺が、
ヘルメットを脱げど、耳に入ってくる外の音は静かなものだ。風が木々を揺すって葉が摺れる音がするのみ。
その中に異物となる、俺とZR-10Xの
そもそもこんな山の上で、星の瞬くような時間に走ってくる者など居るはずがない。なんなら鹿の方がよく会うぐらいだ。
遥か眼下のイルミネーションも、この時期は霞んで綺麗とも思えない。
もともと、そんな夜景を楽しむような殊勝な趣味など持ち合わせていないし、夜景を求めて走るのではなく、走った先に夜景があるだけだった。
それが今日ばかりはよく見知ったこの景色を見たくて、祝勝会の後でも構わず相棒に飛ばしてもらった。
ナトリウムライトに少しの間照らされて、車間を縫う様に泳いだ。普段はしないようにしている独り善がりの危険な存在証明。
それだけが俺のあり様な気がしていた。
いや、違うな。
────
『俺が思うに、そうだな……。貴様自身に何かやり残していることがあるのではないか?』
『黒ジャケさんが一線を引いてしまっているんです。勝利というものに』
少しの頭痛。
それと共に頭の中に反響する声。記憶として刻まれたものがフラッシュバックしてリフレインする。彼ら、彼女らの期待、視線が耳鳴りとなって更に頭を巡る。
「はっ……どっちにもバレてやがる」
師匠はまあ分かる。アレでいて俺以上の人生経験を積んできているから酸いも甘いも察する力があるのは当然だ。
そしてディープスカイ。彼女は普段のキャラがどこかへ吹っ飛ぶ程の、俺が想像する以上の聡さがある。むしろ、聡いからこそ普段から猫を被り、相手の内面を見透かして来るのか。怜悧な面を併せ持つからこそ彼女はあの走りができるのかと、1人で納得する。
煙草を1本取り出して、火をつける。そっと赤熱する先端を下に向け、気つけとばかりに吸い込んだ。
肺にいっぱいになる山特有の冷たい空気と、思考を覆い隠す不誠実な泡沫。吹けば消える
走り慣れた柊ラインには終ぞ他の誰も訪れない。むしろ今だけは、そうあってほしかった―――。
どんなに考えてみても結局、答えは一つへ収束した。
あの日、あの時、あの瞬間、俺の時計は止まったままなんだ。それから目を逸らして、蓋をして、見えないようにした。目に入らないようにしていた。
その意識がウマ娘に対しても、――――ウオッカに対してもそうしてしまっているんだ。それをものの見事にディープスカイに暴かれた。
彼女はよくついてきてくれた。こんなに……こんなのって裏切りじゃないか。あぁ愚かすぎる。今さら気づくだなんて。一回り以上年下の子供に言われてようやく目を向けた。大人失格だ。
信じている筈のトレーナーがウマ娘を見ていない。
―――
先日、オウケンブルースリが怒ったことにも納得が行く。メイクデビューで負け、未勝利戦で負け、距離適性が長距離である彼女の出られるレースは少ない。それに勝たなければならないのに、当のトレーナーは「結果が全て」なんて宣った。彼女は「お前の走る内容なんか見ていない」とそう言われたに等しく感じただろう。
「はは……」
あんまりじゃないか。俺のやったことは、あの許せなかった大人たちと同じじゃないか――――。
この場に居たら吐きそうだ。煙草をもみ消して灰皿に突っ込みヘルメットを乱暴に被る。健気に待っていた紺の獣に跨るとスタンドを払って右手に力を込めた。
唸り上げる心臓がその力を駆動に伝え、力を受けた駆動系は大きすぎるパワーをタイヤに伝える。ガリガリとタイヤの削れる音と燃え上がるエキゾースト。
前輪がパワーに押され浮き上がる。それも構わずに獣に身を任せた。
ガンと背中から蹴とばされるような加速が襲い、たかが人の身は一瞬で3桁を超える速度に達した。マシンに対するいたわりなんてあったもんじゃない。
コーナーが近づけば今度は後輪が浮き上がるほどにブレーキを握った。タイヤをアスファルトで切り付けるような自暴自棄を叩きつけるように、その勢いのままに後輪を滑らせ無理やりに姿勢を作る。綺麗なラインなんてあったもんじゃない。
バイクのパワーでものを言わせ、脱出ラインに乗せて加速する。ハネ上がるエキゾーストを緩めたりなんてしない。流れるテールをそのままに、ガードレールを蹴っ飛ばして姿勢を戻した。
……ひどい走りだ。
タイヤを労わらず、マシンを痛めつけて、ただただ自分の独りよがりをぶちまけるだけぶちまけて、癇癪を起こして……。
もう何も分からない。
こんな精神でバイクに乗るべきことじゃないのは分かってる。あまりに危なすぎるから。今だってタイヤがスライドするのも構わずスロットルを煽り続けた。
――――何が正解なんだ……!?俺はどうしたらいいんだ……!!
「くそっ!!」
左コーナーを曲がって視界の開けるほんの少しの全開区間。
即座に反応し跳ね上がるタコメーターに比例して、体に巻き付く風が強くなる。こちらを憐れむように、霞みがかった空に昇るしららかな三日月。
俺を見ないでくれ……!こんな哀れな俺を!
「教えてくれ!!教えてくれよォ――――!!」
タイヤがパワーに負け、リアが暴れまわる。スキール音が鳴り響き、アスファルトにはブラックマークが刻まれた。
そして俺はスライドし始めたタイヤを戻す為に、スロットルをほんの少し戻してしまった。
「……!!」
平行線が崩れた。
パワーを収めたことにより、タイヤが急激にグリップを取り戻し横に寝たマシンが突如起き上がる。〝ハイサイド〟した。一瞬のうちに宙に放り出された体を何とかマシンに押さえ付け姿勢を保とうとするが、ハンドルが暴れまわりマシンはあらぬ方向へ向く。
ここは峠道。
――――薄いガードレールの向こうは
「ぐっ!?」
ハンドルを無理やりに逆へ向け、両手を握りこむと、体に走った数度の衝撃と共にマシンは停止した。
「はっ……はぁ………!は……!」
心臓が掴まれたように呼吸が浅い。閉じていた眼を開くと三日月だけが俺を見下ろしていた。幸いにも崖下へは転落していない。
ガードレールには筋のように紺の塗料が付着しており、俺の下にはその身をこすりつけるようにして、紺の獣はガードレールに寄りかかっていた。
数瞬の内に理解した。この獣は、今の俺を乗り手にふさわしくないと牙を剥いたんだ。ただ独りよがりの幼い走りを良しとしなかった。あまりにもいろんなメッセージを発していたのに俺は無視して風を切った。
その結果がこれだ。
幸い走るための部品にダメージは入ってなさそうだ。何か液体が漏れているわけでもなく、エンジンは唸るようにアイドリングを続けている。帰る分の巡行はできるだろう。
カウルが流線形であり、横に擦れるような形でぶつかったためダメージをだいぶ受け流せたようだ。しかしガードレールに打ち付けた方のカウルは砕け、中が見えてしまっている。
運が良かったんだ。
あれだけの速度で投げ出されていれば、良くて地面に叩きつけられ骨折。崖下に転落したならば行方不明者の出来上がりだ。
「教えてくれ……!」
未熟すぎる自分の走りで、宝石とも呼べるようなマシンを傷つけてしまった。いつも、後悔は後にやってくる。遅すぎたんだ。
「どうすればいい……!?」
どうすれば、俺の止まったままの時計はまた動かすことができるんだ?問いかけても応えてくれない三日月だけが空に漂っていた。月もZR-10Xも答えはくれない。自分の中だけにある事は分かり切っている筈なのに――――。
「サカキ、お前―――!」
「サク、すまない。そいつを直してやってくれ」
無残にも砕け、カウルの中身が覗けるマシン。何かを受け止めたような傷を残すZR-10X。白い塗料が付着していたり、高さからしてガードレールへぶつかったのだろうが、問題はそこではない。
マシンを前にしてサクは絶句していた。懸命に頭を下げるサカキにも。
「なんたってこんな……!」
「それは俺の未熟さゆえにやっちまったもんなんだ……10Xは悪くない……!」
ステップやミラーなどは削れたようになってしまっているが、幸いフレームやホイールなどにも歪みは無い。ZR-10Xはすぐに直る範疇だ。
それ以上にサカキがバイクを当てたことの方に驚いてしまっていた。
峠を走っていれば、
「どーしたんよ……?」
「……悩んでることで、無性に腹が立ってな。力任せにマシンに乗っちまった。コイツはそんなんで許してくれるほど甘くないっていうのにな」
「死んでなくて良かったじゃんよ」
心から安堵した。自分の売ったバイクで客が死ぬなぞ寝覚めが悪すぎる。ましてや、若い頃からの親友と呼べるような男を死なせてしまったのなら、なおさらだ。
「バイクは直すよ。そこまで時間のかかるモノでもないじゃんね」
「分かった。恩に着る」
「代金もいらん。ただしこれに出てくれよ」
そう言って、サクはサカキにあるチラシを渡す。
「お前……!これって」
「そう、富士スピでやる耐久レース。ZR-10Xと、