「“スリップストリームとはなんだ”と聞いてお前さん達ならどう答える?」
以前ウオッカにも同じ事を教授したので彼女には人差し指を立てて黙っておいて欲しいとジェスチャー。彼女は頷いたので復習がてら聞いてもらおう。
その時と同じ話を後輩二人に振ってみる。二人はまだ言葉にするまでの深い部分を理解しきれていないようで、険しい顔をしてウンウン唸るディープスカイとオウケンブルースリ。
ここに居るのは皆差しスタイルをとるウマ娘のため、これはとても大切な知識なのだ。二人とも身体では分かっているだろうが、言語化するにはとても苦労していた。
数度言葉を選び直した二人。
「……前走者が空気の壁を割ることによって、後ろの走者は抵抗を受けなくなる?」
「抵抗が少なくなるから……スタミナの、温存が……できる……?」
「半分正解だナ」
まず、スリップストリームの話をする前に空気抵抗の話をしなければならない。
この世界で生きる限り、物体は空気に包まれる事になる。そして物体が高速で動こうとすればするほど、力の作用によって抗力が発生、つまり空気抵抗というものは強くなっていく。
空気抵抗には物体の当たる面積とそれによる摩擦のようなものが密接に関わる。速く走るには面積を小さくし、凹凸の少なく風を受け流しやすい形状が最適と言えるのだ。ウマ娘がスパート時に姿勢を低く下げ走るのも道理だと言える。
身近な例では、新幹線はスピードアップの為に座席数を犠牲にしてまでロングノーズとなっていった。
丸っこい形だった初代0系の220kn/hからシャークノーズと言われる流線型に変化した100系の230km/hに至り、排障器を一体形状にしロングノーズとなって270km/h運転を可能にした300系。空気を裂いた上に受け流す形に進化した700系、さらに鼻を長くしてより受け流す形になったN700系は300kn/hでの運転を可能としていて、技術者達の苦労と工夫が見てとれる。
それらは空気抵抗と戦い、快適性を確保しながらもスピードアップを果たす為の研究の成果が詰まっているのだ。
物体が高速で過ぎ去った後、その背後では気圧が一時的に下がり、物体に沿って流れた空気が流れ込んで物体に向かって引き込むように渦を巻く気流が発生する。
これこそがスリップストリームと呼ばれる現象で、前走者を風避けにしてスタミナを温存することではないのだ。
大体のウマ娘はここを勘違いしているし、知っていても説明できるトレーナーは少ない。
「電車やトラックがすぐ側を通り過ぎた後に風で引き寄せられた経験はないか?」
「ありますよぉ~!制服でウマ娘レーン走ってたらそれでスカートめくれちゃって大サービスしちゃった事もありますよぉ!見せてないですけど!!」
「なんで制服で爆走してたのかはさておき……それもサイドスリップっていう一種のスリップストリームなんだョ」
「しくしく……さておかれたよブルースリ」
「……黒のレース、だった…………」
突如ブルースリが爆弾をぶち込んだ。
「あにゃあああああ!!?!?ウソッ!?ブルースリ見てないって言ってたじゃん!!!」
「…………時に優しさは残酷」
「ああああああ……もうお嫁に行けない…………」
頭を抱えてのたうち回るスカイを生ぬるい目で見下ろすブルースリ。うん、現在進行形でお嫁さんポイント大暴落してると思うんだが。
そんなアクションすると大サービスがまろび出そうだから抑えてくれないか。ついでにウオッカは鼻を押さえておきなさい。
閑話休題。
空気抵抗が軽減され、スタミナの温存できるという点でスリップストリームというのは大変役に立つ。
スポーツ競技であるマラソンや自転車レースなどでも前走者の背後につくことによって体力の温存ができるからこそ、とても重要視されるテクニックの一つとなっている。
60km/hを超える速度で走るウマ娘達にとっても同様で、先行・差し・追込スタイルのウマ娘は非常に恩恵が大きい。
サイレンススズカやメジロパーマーなどの大逃げならともかく、逃げウマ娘が長距離で不利になるのも、風除けが無いからスタミナの温存が難しい為だろう。
「スリップストリームの別の使い方だ」
───発射台
一言で表すならばコレだろうか。
前走者が割いた空気抵抗の少ない空間に入り込み、前走者に向かって巻き込む空気の渦を利用し加速すれば
モータースポーツ、主にワンメイクレースやNASCAR・スーパーGTなどの箱車レースは特にスリップストリームを多用する。そうしなければあまり差のないマシンではオーバーテイクが難しいからだ。
相手の背後につきスリップストリームを使って最高速を稼ぎ、ストレートで抜き去る、そういう使い方をする。
つまり
当然注意しなければいけないこともある。
F1などの競技マシンはギリギリまで空力を煮詰めているからこそ、スリップストリームから脱出する際に姿勢を崩しやすい。
スリップストリームとは乱気流に他ならない。高速であればあるほど、まるで幅寄せを食らったと勘違いするぐらいの引き寄せられる力が発生するのだ。
「これを上手く使え、ブルースリ」
ホワイトボードにマジックで中京レース場のレイアウトを書き込んでいく。
中京レース場はスタートから1コーナーまでがほぼ平坦、2コーナーから向正面途中まで400m程で1m上り坂、向正面途中から転じて緩やかに降り続け、3・4コーナーをクリアして最終直線がなかなか長い412mを駆けゴールというレイアウト。
向正面から降り続けた勾配は最終直線の残り370m~330mの長さで約2mを一気に行く上り坂が待っている。
「仕掛けるポイントはこの最終直線の上り坂だ」
「坂……」
「道中はとにかく誰でもいいから風避けにして、後に張り付き温存。最終コーナーで前と3バ身ぐらいの間隔を保ってスリップの範囲に潜る。そして前が一気に垂れるこの坂のタイミングでスリップストリームを使ってスピードを載せてあとの200mはぶっちぎれ」
「……」
「大丈夫だ。お前さんならやれるさ。出走メンバーの中じゃスタミナはダントツ、そもそもこの未勝利戦でウオッカとスカーレットのトレーニングに着いてこられるヤツなんて居ない。自分の力を信じろ」
ブルースリは頷いて、ギュッと音がしそうなほど掌を握りしめた。
「……私は、どれくらいで……勝てると思う?」
「3バ身はチギれる計算だ」
「じゃあ…………もっと……上を、行く!!」
もう6月だ。
新緑の季節は過ぎ去ってじめりとした湿気がまとわりつく様になり始めていた。あとは少しの間雨が降って、そうなったら茹だるような暑さがやってくる。
その中でも、幸い今日は青空が広がっていた。“
中央トレセン学園における未勝利戦突破の
奨められると言えど、もうこれは強制のようなもの。
そこまでして勝てないなら、
同じチームであったディープスカイはGⅠを2勝。世代の頂点とも言える日本ダービーを制したまさにスターウマ娘と言える活躍をした。
なら私も続かなければならない。
「オウケンブルースリさん。ゲート入りを」
頷いて、大きく息を吸う。ここに居るのはもうみんな後のない者たち。当然私もそう。
────間に合わせる。私たちのクラシックに。私だけのクラシックに。
クラシック級未勝利戦
中京 芝 2000m
枠番 馬番
1枠 1 トウセイトルゥース
2 イグドラセル
2枠 3 シードシャイン
4 キャントフレーム
3枠 5 オウケンブルースリ
6 バナージエリオ
4枠 7 モノトーン
8 ミズバショウ
5枠 9 メイシンケンジャ
10 アルルシュタイン
6枠 11 ペイルキック
12 アルネスミラージュ
7枠 13 コメットスクライド
14 トーオーサイキ
15 アンジュラス
8枠 16 ヘムウィンダム
17 ヒビヤゴング
18 オーニシカエン
『スタートしました!ミズバショウがいいスタートを切りました!メイシンケンジャ並んでいきます!その外からペイルキック、ヘムウィンダム間を突きましてシードシャイン上がっていきますがミズバショウが単独先頭に立ちます!メイシンケンジャ、ペイルキック、シードシャインが二番手三番手四番手』
少しバラついたスタートだ。ブルースリのスタートは可もなく不可もないが、ちょっと力が入りすぎている。焦りに呑まれたら終わりだぞ……!気づけブルースリ!
「ブルースリ!!りらーっくす!」
スカイの声援が届いたのか、ブルースリは無理に追うのをやめ中団へと身を潜めた。トーオーサイキとオーニシカエンに挟まれてしまっているが、ヘムウィンダムの後ろへしっかりと入り込んでスリップストリームの効果を享受している。
『ヘムウィンダム、トーオーサイキ、ヒビヤゴングと続いていきましてトウセイトルゥース中団グループにオウケンブルースリ、外からオーニシカエン、アルネスミラージュ、イグドラセル、アルルシュタインと続いて1コーナーをカーブしていきます』
最前列ばかりに人の集まったまばらなスタンド席には、熱心なファンや記録する程度のメディア数人が集まっていた。
東京都にあるトレセン学園から離れている中京まで応援に来るウマ娘は少ないからか、ダービーウマ娘として顔が売れたディープスカイは目立っており、ちらちらと視線が送られている。
そんな彼女は愛嬌たっぷりの笑顔を振り撒いていた。
「せっかくデートのお誘いだと思ったのにさぁ……。新幹線のチケットいきなり渡されてさぁ……。なんでアタシ中京に居るわけ?」
隣にいる、少し気合いの入った余所行きの服装で柵に肘をつきながら観戦しているウマ娘。
ブスッとした表情を晒すサクラローレル。
「もう頼れるのがお前さんしかいなかったのョ」
「いや確かにOGだけどさ。もうトレセン関係ないのに現役の引率させる?他のトレーナーと一緒に席取るとかあったでしょ」
「他のトレーナーに頼めるようなコネクションがない」
「うわ、すんごい情けない事言ってる……」
15点違反で一発免停、と俺に言い渡したローレルにおもいっきり頬を抓られる。痛い痛い抉れる取れる。
「いくらウオッカちゃんのレースと日付が被っちゃったからってさあ……。前もって理由話してくれたら協力してあげたのに何でいつも急に連絡してくるわけ?私の淡い期待を返してくれない?」
それについては大変申し訳なく思っている。
最後まで色々な方面で探してみたのだが日頃の行いが悪いのか、俺の噂が良くないのか協力してくれるトレーナーが現れなかった。宮下はGⅠの受付諸々があるウオッカの方に着いてもらうしかなかったのだ。
「新幹線は地方から戻ってくる
パァンッ!!
そうではないという視線とともにローレルさんの尻尾ビンタが俺のケツに炸裂する。ケツ割れるって!
もう僕これ以上分からない……。
「ふんっ。スカイちゃん聞いてよこの人サブトレの時にね」
「何ですか!?面白い話ですか!?」
どうやらローレルの逆鱗を撫で回してしまったらしい。BAD COMMUNICATION
『単独先頭はミズバショウ!リードを4バ身ぐらいとりました。二番手も単独でメイシンケンジャ、この後は集団でペイルキック、ヘムウィンダム、ヒビヤゴング、シードシャインが好位かたまっています。向正面に入りました』
レースは向正面に入り、ポジションの取り合いが一旦落ち着いた。ペースメーカーが決まり、各々仕掛け所を伺っている。
先頭を行くミズバショウのペースはそこまででもなく、このまま行けば最終直線はかなり密集した状態になりそうだ。
『トーオーサイキ、オウケンブルースリが追走していきまして外からオーニシカエンです。中団から後方にかけましてトウセイトゥルース、アルネスミラージュ、アンジュラスが続いていきます』
レースを観戦していたローレルは、まるで結果が分かりきっているように呟く。
「身体の
「本格化が急すぎて膝が弱かったんでな。ひたすらプールトレーニング。安定してからはウオッカとスカーレットと同じ事やらせてた」
「GⅠウマ娘二人とやってればああなるか……」
「どう思う?」
「うん。レース経験さえ積めば
彼女の暮桜色の瞳が妖しく覗く。ぞくりとした冷気が背中を撫で、スカイもビクリと身を捩った。天皇賞(春)を制したステイヤーウマ娘からのお墨付きだ。
『あとはアルルシュタイン、内からイグドラセル、モノトーンは後方から4人目になりましてあとはバナージエリオ、押し上げて行ったキャントフレーム最後方はコメットスクライドで3コーナーカーブに向かっていきます!』
レースは半分を終え向正面を過ぎようとしていた。自分の前には5人、左右に2人、後ろに3人の足音がする。
ペースはあまり速くはなく、これなら終盤に追込勢も詰めてくるはずだ。
どう行く?どう仕掛ける?
左右に挟まれ、前は蓋をされている。このまま行けば埋もれて間に合わなくなるはず。
『先頭ミズバショウとリードが縮まりまして体半分、メイシンケンジャが二番手の位置、シードシャインが三番手ヘムウィンダム、間からペイルキックの3人が一団となって好位を形成その後ろからトーオーサイキ、オウケンブルースリがじわっと上がっていきます!』
想定よりずっと早く、先頭のミズバショウが垂れ始めた。顎を上げて喘ぐように呼吸する彼女はもう限界の色を滲ませる。4コーナーの入り目で先頭も入れ代わるだろう。
抜け出すならここしかない!
ズルズルと後ろに下がり始めたミズバショウを避けようと先団の内ラチ側が開く。オーニシカエンがコーナーで外に膨らみ1人分の隙間が空いた。
───そこだッ
『外から各ウマ娘が上がっていく!外からはヒビヤゴングなどが前に接近して行きました!そしてアンジュラスも外に持ち出しています!メイシンケンジャ先頭!メイシンケンジャ先頭で4コーナー抜けて直線コースに向かいます!』
空気の渦を意識してスリップストリームの空域を保つ。轟々と耳の中を削っていく風、前のウマ娘が割いた気流が髪を流す。
───
「
『並んでくるのはヒビヤコング!外からアンジュラス!内を突いてヘムウィンダム!シードシャイン前を狙っている!後ろからトーオーサイキ!大外からはオウケンブルースリ!』
風切り音が目の前を通り過ぎる。それを巻き起こしたウマ娘は、ウマ娘の顔はギラついた笑顔をしていた。
『さあ200を通過してオウケンブルースリが一気に抜け出してきた!!二番手争いシードシャイン、テーオーサイキも加わるが抜けた抜けた!!オウケンブルースリゴールイン!!』
スピードを載せたブルースリが後続を切り捨てた。着順掲示板には1着と2着の差を4と表示している。
彼女は宣言通り、俺の想定を上回った。
落胆するウマ娘、泣き崩れるウマ娘の中で、そのウマ娘は笑顔。腹の底から冷たくなる様なそんな笑顔だった。
「スカイ。ブルースリのライブサポートを頼む。ローレルも悪かったな。今度埋め合わせする」
「いい加減出頭命令出すからね?」
「……わかったョ」
しっしと手を払って俺に行けと促すローレル。安田記念まで、あと3時間と少し。その時間があれば充分だ。
「───こんないい女を放って他の子のところ行くなんてさ。自分がどんだけ贅沢してるか分かってないよね」
「どーよこの加速!」
「うっひゃあ速ェっすよ先輩!!」
乱暴なアクセル操作で唸りを上げるエンジン。トンネルの中で反響する排気量の暴力。
「オラオラ退けや!」
そそくさと前を行く車が前を空ければ再びベタ踏みで乱暴に加速する外車。スピードメーターはあっという間にそれ以上の領域へ行く。景色はグングンと後ろへ流れ、置き去りにしていった。
「やっぱV8よV8!あー!周りが遅くて仕方ねえぜ!」
「すげーッスよ先輩」
「アハハ!またトンネルで踏んでやるよ!」
車は再びトンネルに入り、唸り声を上げて加速する。トラックや他の車を強引にパスして右へ左へと車線を移った。
「こんなにチンタラ走ってたら中国経済に置いていかれちまうぜ!」
「ん?先輩後ろから何か……」
「はあ?こんな速度に着いてこられる奴なんか居やしね──」
──────────ッッッッ!!!!
男二人の鼓膜をぶっ叩いた音の塊が一瞬のうちに真横を通り過ぎ、彼方へと姿を消した。トンネルの中に外車の音をかき消して残響だけが響く。
風なんて生易しいモノじゃない。遠く尾を引く一瞬のそれはまるで閃光。
「はっ─────」
「な、なんスか今の……」
とんでもない
「……大人しく走んないッスか?……先輩」
「…………そうだな」