今日の東京レース場、第11レース安田記念までもうすぐだ。
現在はコースにて若鮎賞が行われ、この後は湘南ステークスを挟みメインレースの安田記念という流れ。普段のオープン戦の比じゃない歓声が控室の中まで揺らすように響いている。
勝負服に袖を通し、グッと身の引き締まる思いがする。軽く物を食べてコンディションもいい。脚にも特に異常はない。
だけど、何かが足りない。何かが引っかかる感情。
靴紐が解けた訳じゃない。何かを忘れたわけじゃない。勝負服が合わないワケじゃない。けど何かが足りない。
「ウオッカ君、何かありましたか?」
「えっ?いや特にはねぇっスけど……」
優しい眼差しで宮下サンが顔を覗き込んでくる。この人もどこか鋭い所があるから何かを見抜かれたのか?
「そうですか……。どこか落ち着かない様子でしたので」
「あー、まあもうすぐ本番だなって思うと」
「アンタ今更ビビるような性格じゃないでしょ?」
「っせーな。スカーレットと違ってオレは繊細なんだよ」
「あんですって?アタシがガサツって言いたいわけ!?」
売り言葉に買い言葉。ピンと耳を立たせたスカーレットが腰に手を当てて前屈みになり顔を覗き込んでくる。トレーナーと担当で同じような距離のつめ方をしてくるのでつい笑ってしまった。
「何がおかしいのよ」
「いや、宮下さんもスカーレットも同じような覗き込み方してくるもんでさ」
ヒトは長く同じ時を過ごすと、だんだんと仕草や言動が似てくるらしい。夫婦が似ると言われるのもそのせいなんだとか。この場合宮下サンがスカーレットに引っ張られてるのか?
「そういうアンタもアイツに似てきたわよ?せいぜいあの腐った目が伝染らないようになさいな」
「アレだけは勘弁だぜ」
そうなったらいよいよ、口寂しさに何かを咥え出してしまうかもしれない。そうなる時は全てが終わった後だろうが。
今はまだその時じゃない。
……そうか。トレーナーが足りないのか。
いつもレースの前に、控室から言葉を掛けて拳を当てて送り出してくれる。
一言だけアドバイスをくれる。スタンドから見ていてくれる。微かに香る、紫煙と鉄の入り交じったような匂い。
人によっては、いや大多数の人間はあまり良い匂いとは言わないだろう。
今まで、なんだかんだ
今更だ。ブルースリの未勝利戦を見に行くって言い出した時点で
切り替えていけ。
──
「……やはり、ご自身のトレーナーが不在なのは堪えますか?」
宮下にあっさり見破られてしまった。
まさかそんなに顔に出ていたか?いやいやそんなはずは……。やっぱりこの人苦手だぜ。
状態観察に長けてて、トレーナーとして凄く理想形だと思う。
……だが完璧過ぎるモノには魅力を感じない。そういう風にオレもされちまった。
「私たちトレーナーはウマ耳や尻尾で精神状態を探る講習を受けますので。それにウオッカ君は素直に感情が出やすい方ですし」
「うげぇ……そりゃないッスよ……」
抑えようとして押さえられるモノじゃないのに。そういう所ヒトミミはズルい。
「スカーレット君は無くても分かり易いですが」
「ちょっと!?アタシまで巻き込む必要無いじゃない!?」
見えてる導火線に放火して行くあたり、この人もなかなか愉快犯の気があるんじゃねーか?スカーレットが引火して即爆発するからなんだろうけど。
『───スタートから抜け出したまま逃げ切る!逃げ切る!ゴールイン!1400mの逃走劇でした!!』
歓声とともに実況者の声が響く。
第9レース若鮎賞が終了したらしい。やはりGⅠレースがメインだと観客の入りも多く、その分盛り上がり方も通常より遥かに賑やかだ。
未勝利戦やオープン戦でさえこの大歓声。出走したウマ娘が緊張して掛かってしまうのも無理もない。
「決着がついたわね」
「未来のスターウマ娘誕生かもな」
長針が進んでいって、短針は緩やかにそれを追いかける。カチカチと音を立てる機械仕掛けの文字盤は無慈悲に時を伝えていた。
まだ、控室の扉は叩かれない。もうそろそろパドックでのお披露目を行う時間となるのに。
「……すゥ─……フゥゥ───…」
長く息を吐く。4秒かけて息を吸って、4秒止めて、7秒かけて息を吐く。
───よし、切り替えた。
今後はこういったことも増えるだろう。
なにせ、アオバトレーナーはオレのトレーナーにチームを設立させようと動いている。
当初はひと月ほどと聞いていた出向契約は未だ満了させられる気配がない。
スカイとブルースリをメンツとして組込み、あと2人もどこからか混ぜるなりされて5人になればチームの最低人員を満たす。というか強制的に満たされるのではなかろうか。
それがどこから手引きされてるのかは分からない。ひょっとすれば理事長まで噛んでいるかもしれない案件かもな。
───コンコンと扉がノックされた。とくりと胸の内が高鳴る。
「ウオッカさん。パドックの準備ができましたのでご移動お願いします」
「……分かりました」
ちょっとだけトレーナーを期待してしまった。トレーナーのノックはもっと雑だと、返事をしてから思い返す。
はっ、ヤキが回ったもんだ。トレーナーが居ないだけで、まさかこんなに揺れちまうなんて……。
2枠4番、イトシノメリーがジャージを軽やかに拾うとパドックの袖へと引き上げていった。
その花びらを模したガーリッシュな勝負服がひらりと広がって可憐な印象を受ける。そしてその裾から覗いた脚は鍛え上げられた一級品。
ここまで上がってくる事が並みの努力では不可能であることを示していた。
「やっぱりGⅠに出てくるだけあってレベルが高いな」
「イトシノメリーはヴィクトリアマイルも入着してるし期待できるぜ」
やはりパドックを見に来て正解だった。パドックではコースよりもずっと近くでウマ娘を観察することができる。ここまでウマ娘に近づけることなんてなかなかない機会だ。新しく推しが増えそうでイカン危ない危ない……。
『続いて、3枠5番ウオッカ。シニア級1年目』
ざわめきが、波が引くように静かになって、その静けさと共にゆっくり歩みを進めたウオッカが立ち止まった。
安田記念3枠5番、ウオッカがジャージを解き放って黒いレザー調の勝負服、そのしなやかな肢体を観客に見せつける。不敵な表情で周囲を呑み込む切っ先のようなその姿。観客たちは皆その姿に手を振ったり、カメラを向けたり思い思いの行動をとる。
しかし前走のヴィクトリアマイルより何かが違って見えた。体がガレているわけじゃない。だけど、どこなく雰囲気に違和感がある。
「……ん?なんやトモに気が宿ってへんな」
隣でパドックを見ていた男がそっと呟いた。それを聞いてこの違和感が自分だけのものじゃないと確信した。ウオッカは何らかの不調を抱えているように思う。
それでも高い実力があるからこそ、上位に食い込んでくるだろうか。だがもう一つ、一つ何かが足りないような気がする。
ジャージを拾って、ウオッカがパドックを後にした。その背中にはなにか哀愁のようなものを纏っているように見えて考えてみると1つ原因を思いつく。
「ひょっとして、トレーナー不在だからか?」
「あん?」
「いやーウオッカがなんか元気ないじゃん。たしかトレーナーが中京に行ってるんだよな」
「まさか、それで?」
「いやいや、今まで専属でやってきて必ずトレーナーが居たのに、それが今日は居ないんだぜ?可能性あるよ」
ウマ娘はヒトよりも聴覚、嗅覚が優れているだけではなく、本能的なウエイトが大きいからこそ、精神的な影響を受けやすい。
普段と違った物事が起こったり、欠けたりすると些細な事でも調子を崩すと言った話はよく聞く。
走る為の訓練を積んだ彼女らもそれは例外ではないのだろう。年齢的にもまだまだ成熟に遠い彼女たちには、トレーナーという頼りになる大人が隣に居ることはそれだけ精神的な支えにもなるはずだ。
……つまり今のウオッカにはそれがない。
「名残惜しいけど今のうちに場所取り行こーぜ。パドック終わってからじゃあ動けなくなっちまう」
「そうすっか……」
───その時、目の前の道を1台のオートバイが走り抜ける。オートバイは観客用の駐車場に止まることなく、関係者用の駐車場へ飛び込んで行った。
「今更来る関係者とかいるんだな」
「何?」
「いや、いま関係者用のトコにバイク入ってったんだよ」
「寝坊じゃねえの?」
安田記念
東京 芝 1600m
枠番 馬番
1枠 1 ハリアーゲーム
2 キスオンヘヴン
2枠 3 テーシンオーバー
4 イトシノメリー
3枠 5 ウオッカ
6 オーシャンケープス
4枠 7 グレートディディ
8 ジェリーオンス
5枠 9 ネクストタイム
10 ゴウリキアシュラ
6枠 11 レガシーホーネット
12 ドラコワイルズ
7枠 13 モンクロメオ
14 レアジェイディ
15 ブラッシュリック
8枠 16 エラルダ
17 ヒビヤポイニクス
18 ドリームウォーカー
「では、ここまでですね」
「はい、ありがとうございました」
前検量をすませ、進んできた地下馬道。この先に広がる緑の海は許されたものだけが飛び込める。宮下もスカーレットも着いていけるのはここまでだ。
「国際招待競走だからって関係ないわ。勝ってきなさいよ」
「もちろん」
身を翻して進む。
──ふと、こちらに吹き抜ける風に乗って香る嗅ぎ慣れた匂い。
1歩、また1歩と歩が早くなる。気が急く。いや、駈歩になっていたかもしれない。壁にもたれて腕を組む黒い
「よォ──。湿気たツラしてんじゃねえか」
「ハッ、誰かが遅くて待ちくたびれたんだ」
「そいつは悪かったな。静岡は良かったんだがなぁ……大井松田から事故だの工事だの渋滞続きでョ。参っちまった」
欠けていた何かにぴったりと埋まる声。腹の奥から湧き上がる熱が全身を巡って行き場を求める。
ああ……熱い!
「ブルースリは?」
「勝ったよ。4バ身差の強い勝ちだ。
「……!」
……そうか。そうか!
「───後輩からの挑戦状だ。受けるか?」
「たりめーだろ!」
トレーナーはふっと微笑むと、壁から体を起こしてオレに向き直る。
見ていてくれるんだ。
いや、見ろ!オレの走りを!
差し出された拳。もう何度目か、これをするのは。
オレの、オレ達だけのイグニッション。
──拳を打ち付けて、離れる。
ようやくキーを回された体は、圧倒的な熱をもって燃えだした。
「見てろよ……。勝つぜ」
「───あぁ、行ってこい」