「ミサ、大丈夫か?」
「店長やべぇっスよ……吐きそうっス」
峠で走りを高め、小さいサーキットでのレースは経験ある
「トレーナー…三才山さん大丈夫かよ……」
「こればっかりはナ。俺が声かけても余計重圧になっちまいそうだし……」
タイムアタックを行った者はレースのスタートライダーにはなれない。
並み居る全日本ライダーの強豪たちを押さえつけ、あまつさえ世界王者アイデルン・ラグナの前に、ただの大学生ライダーが陣取ったのだ。そのプレッシャーは尋常ではないものだろう。
そうしている内にも時間は刻一刻と過ぎる。
これから先は4時間の長丁場。交互に休みながら走ったとしても気温も高い6月のサーキット、そしてバイクから発せられる熱は確実にライダーを苛む。そんなときに体のエネルギーが切れることは致命的なミス、悪く行けばクラッシュに繋がり兼ねない。彼にはブロック食料でもいいから口にしてほしいところだ。
「食べないとあとが辛ぇぞ若いの」
「分かっちゃいるんスけど……」
そう言っても、食が進まないのも事実。夢に出るほど夢見た光景がそこにあるのに、足は
「ちょっといいかミサ」
サクはいつになく真剣な声で三才山に話し掛けた。代表として、自分が大丈夫だと思って連れてきたライダーなのだ。確かな実力がある。
「たぶん、めっちゃ緊張すると思うし、失敗もすると思う。でもそれは誰もがそうなんよ。レースなんてタラレバの連続やし、あそこで何ともないような顔してるヤツだってこの前バイクでコケて帰って来たじゃんよ」
そう言ってこちらに視線を投げるサク。どうしてそこで俺を巻き込んだ。
ウオッカがジトッとした目を向けてくる。
「おい、どういう事だよ?」
「……いや、未遂だから」
「心配になるからちゃんと言えよな」
横にはイってないから!
「お前が憧れてたライダーだってそんな事やらかすんよ。でも今の俺らチームじゃん!?頼れる仲間がミサの失敗なんてどうにかしてくれるんよ!だからめちゃくちゃ失敗しろ!!」
そうだ。今の三才山は失敗を恐れるあまり、極度の緊張で縮こまってる。
大丈夫だ、俺も失敗する。みんな失敗する。少しマシな顔つきになった三才山は栄養ブロックをポリポリと食べ始めた。一先ずはこれで大丈夫だろう。
「で、作戦を伝えようと思うんだがいいか?」
「……勝てるのか?」
「やる前から負ける事考えるバカいるかよ」
全ては、逆境。
勝つ為と入賞する為の作戦は全く違うのだ。これは勝つ為の作戦。他のチームが絶対にやらない盲点を突き、奇を
「───いいねェ、これはおもしれぇや」
聞きなれない声がする。否、ここに居る男達からすれば嫌という程聞いた声。
「水くせぇじゃねーかよ皆してこそこそやりやがって」
「おいおい、ハマサキワークスチームのディレクターが作戦盗聴なんて生かして帰せねぇぞ」
「プランどうこうしたところでウチにはこんな
ハマサキワークスチームをまとめ、かつてここにいたメンバー達とも一丸となって栄光を目指したことがあるチームディレクターの岡谷。
浅黒い肌の偉丈夫はにかりと笑って白い歯を覗かせる。
──彼もまた魅せられた者の1人。脱退していく者達の説得を最後まで続けていたのも彼だった。
「
「よろしくやってるよ、今や2人とも部門のリーダーなんだ。むしろ
「どうしても都合がつかなかったじゃんよ。今頃2人とも歯ぎしりしてるだろーナ」
ここに居るメンツを1周ぐるりと見渡して、岡谷は鋭い目を俺に向けた。幾度となく岡谷の誘いは断っている。その俺がここにいるんだから言いたい事の1つはあるだろう。
「どーいう風の吹き回しだよ?サカキ。お前、もう戻って来る気は無かったんじゃないのか?」
「走りを諦められねえクソったれがウジウジしてたら皆してケツを蹴っ飛ばしてくれたのさ」
「はっ、スーパーラップでポール取った奴がよく言うぜ」
ちらりとウオッカをみる岡谷。短く息を吐くと視線をこちらに向け直した。彼女は彼女で「全て知っている」とでも言わんばかりに勝気な表情を崩さず視線を返す。
「なるほどねぇ……。草津で話聞いた時は半信半疑だったが、マジでウマ娘のトレーナーやってやがるのか」
「未練タラタラだってバレちまったがな」
「ははっ、ウオッカちゃん。このじゃじゃウマ野郎はしっかり縄かけとかないとすぐ逃げちまうぜ」
「オレ、差しなんでどこまでも追っかけますよ?」
分かってるのか分かってないのか、天然100パーセントの返答を聞いて思わず吹き出したメンバー達を咳払いで黙らせる。
「まあお互い頑張ろうや。今日は相手が強すぎるからな」
「さあ、どうだかナ──」
いつもであればトップ10はメーカーワークスマシンが独占し、次いで大手チューナーショップや名のあるパーツメーカーが自前でチューンしたマシンが上位に並ぶはずだった。
──ゼッケン23番、黒いZR-10X。
聞いたこともないショップの無名チームがタイムアタックで一番時計を叩き出す。
どこだどこだと観客たちが必死にリストを探すと、登録はまさかのBクラスエントリー。既にこの時点で番狂せが起きていた。
そもそも、ハマサキというメーカーのマシンは過去モデルのスパルタンだった特性が災いし、ライダーやファンたちからは“扱いづらい落ちこぼれ”というイメージが擦り込まれてしまっていた。
フルモデルチェンジでガラリと様変わりし、WRCCで勝ち星を上げるようになったものの、信頼性では疑念を持つショップがほとんど。
この富士4耐でもバランスの良さに定評のあるホンマGBR1000RRやコーナーリングに特化したウマハYZL-R1といった信頼性が高いと評判のマシンが大半を占めていた。他はスザキGXS-R、へカティやVMWが数台ずつ。ハマサキZR-10Xに至っては……たったの2台。その2台ともがトップ10に食い込む大健闘だ。
『大変長らくお待たせしました!スタンドの方々も今年この瞬間を待ったことでしょう!スタンドに響くエキゾースト!さあ、フォーメーションラップにマシンたちが出ていきます!』
ベールに包まれた全くの未知数。
果たしてこのunknownはどんな風を吹かせるのか。各々の存在を高らかに誇示して、色とりどりの輝きを放つマシンたち。揺らめく陽炎の向こう側、後ろを従える黒いZR-10Xは鈍い輝きを放つ。
『ようやくですねぇ……』
『えぇ!ようやくです!1周約4.5kmの富士スピリットウェイ。マシンたちは約1分50秒で駆け抜けます。単純計算で130周、ピット時間等を含めましても125周前後の長い戦場、それでいて一瞬の煌めき達は少しのよそ見も許してくれません!』
1周のフォーメーションラップ。レッドフラッグを持ったマーシャルの前、タイムアタック順にグリッドへマシンが並んでいく。スターティングライダーは三才山。幾分かマシにはなったもののまだ表情は固く、緊張した面持ちだ。
チームからのオーダーは『タイヤを終わらせる勢いで逃げろ』
『今年は既にタイムアタックでハマサキが、しかもBクラスのマシンが先頭に立つという大番狂わせが起きました!更には絶対王者アイデルン・リゲルの電撃参戦!霊峰富士の山懐、いたずらな魔物が筆を加えた歓喜と悲劇のドラマティックなストーリーは果たしてどのような結末を綴るのか──!?』
今この時だけは、何者にも邪魔されない静寂。
自分には手の余る猛者だらけの戦場、チームの想いを託された若き武者の
『レッドシグナル点灯!』
何台ものマシンが咆哮をあげる。その全てが自分の後ろから聞こえる。自分を捉えようと追いかけてくる。知らず知らずのうちに、たらりと汗が垂れた。
右手を捻り、スロットルを開ける。ブラックアウト───ッ
唸りあげる
ウィリーしかけながらも猛加速し急ブレーキで1コーナーに突っ込む!
全開だ。全開だった。自分でも上手くいったと思う。なのに──
隣にもう、マシンがいる……!?
「クッソ……!」
インは空けない。空けた瞬間飛び込まれて終わる!!しかしどうやっているのか、アウトサイドの方がラインはキツいはずなのに、コーナーリングスピードは全く変わらない。
どうなってんだよ……!!
『さあ唸りを上げて走り出す歓喜に震えるマシンたちが1コーナーへ突っ込んでいく!!ポールショット争いは彗星マシンZR-10Xか!?それとも絶対王者GBRか!?』
「コーナーを抜けてフルスロットル……!」
右に曲がる1コーナーの次は左に曲がる2コーナー。インとアウトが入れ替わり、しかも直線的に曲がるこのコーナーは、隣にマシンが居ると途端にラインの制約を受けオーバーランすれば縁石でジャンプしてコースアウトまっしぐら。
ちくしょう!
三才山の前に出ようと思えば出られるのに、それをしない。実力を測るように隣についたまま並走するアイデルン・リゲル。
「くそっ!!ミサのヤツ貼り付かれてる!!」
「そう簡単には行かせてくれねぇか……」
三才山がこのマシンでタイムアタックをして、全開で出したタイムは1分48秒。
それが彼のベストタイムと言える。
しかしそれは〝1台でコース幅をフルに使い、レコードラインにしっかりとマシンを載せて走った場合〟だ。
隣に並ばれればスペースは無くなり、結果的にレコードラインには載せられなくなる。
……そんな事をされれば当然のごとく三才山のペースは上がらない。後ろに連なる、手練のライダー達にとっては生温いと言えてしまうペースまでタイムが落ちていた。
スプリントレースとは違い、このレースは6月の暑さの中で4時間を走りきらねばならない長丁場。
当然そんな中を全開で走り続けるなんて事はしない。マシンのパーツやタイヤを保護するために80~90%でペースをキープするのが普通だ。
手練の彼らにはそれだけの引き出しがある。
それだけのマージンがある。
───それだけの余裕がある。
そのペースまで三才山の全開は落ちてしまっていた。その分ただ1人だけ焦燥し消耗していく───。
『スタートからずっと23号車ZR-10Xと100号車GBRがやり合っている!その後ろから先頭集団が団子になって続いている状態!ワンミスで順位が大きく入れ替わるぞ』
『いやこれアイデルンがね。ワザと並んで走ってるんですよ。でも幅寄せはしてないしペナルティにはなりません。上手いですね、自分だけブロックライン使って後ろを牽制して、隣にはプレッシャーかけ続けてるんですよ』
『つまり23号車の三才山のミス待ちと』
『しかも後ろがダンゴになってますから、1回ミスしたら一気に順位落ちちゃいますよ!』
『絶対絶命三才山!彼が1スティントでどこまで行くのかは分かりませんが、26周前後が交代のタイミングになりますので、まだまだ先は長いぞ!』
「ハァッ───!ハッ─」
2、3と周回を続けているうちにどんどん苦しくなってくる。息は上がり、マシンとの一体感がどんどん無くなっていき、三才山はおかしくなりそうな精神を何とかマシンにしがみついて耐えていた。
ずっと、視界にはアイデルンが映り続けて、生かさず殺さずラインをずっと塞がれるだけ。それなのに向こうは全く涼しい顔して走っていた。
こっちは全開で逃げてるってのに───ッ
(……彼が組んでるっていうからちょっとは楽しみだったのに、EUのClassⅢにも届くかどうか。おそらくスクールにも通ってない独学だ)
このハマサキを駆る青年はまるで話にならない。
だから、ここで行く。
君の舞台は終わったんだ───。
ずっと隣を走っていたアイデルンが、ついに三才山を抜きにかかる。長い右コーナー100Rからの左ヘアピンカーブ。
奇しくも、以前見学していた走行会でのトレーナーの走りとよく似ているとウオッカは思った。
アウトサイドにマシンを振り、クリップポイントを奥にとってラインをクロスさせる。見ている方はそれだけなのだ。それだけにしか見えない。
〝消えるライン〟
前走者の死角に潜り込み、コーナリング中の絶対に防げないタイミングで抜き去るテクニック。
──こんなところでッ!?
突如イン側を突き刺された三才山は驚きに固まり、反応が遅れた。僅か0.1秒の操作の遅れが200km/hを越えて走るバイクでは数十メートルの遅れになる……!
「しまっ……!?」
突っ込み過ぎた……!インに付けない!
『あーっと!一番手争いをしていた23号車がオーバーラン!!これは三才山手痛いミス!!』
『これを待ってたんでしょうねアイデルンは……』
アウトサイドで粘るも大きくガタ落ちしたスピード。すぐ後ろについていた全日本の猛者たちがこの機を逃すはずがない。
『三番手須賀川!四番手松川ウマハの二台も順位浮上!あぁ五番手のスザキ国見も前に出る!!六番手ホンマワークス金谷も行った!トップを走っていた23号車三才山7位後退!!』
「……準備するぞ」
他の陣営を欺くために、ギリギリまで動きを見せなかった陣営がまるで一夜城を築くが如く統率の取れた動きを見せ、三才山が4周目のホームストレートを通過したタイミングで一気にピットレーンへ飛び出した。普通、マシンのピットインを受け入れるチームは10分以上前から準備をして待機する。
……それをこのチームはたかだか2分にも満たない時間で完了させてしまった。
そして機を待つ黒いツナギを着た男。得体の知れないオーラを纏う
異変に気付いた他の陣営は少ない。せいぜい両隣のチームが気づいたに留まり、ピット出口に近い場所を割り当てられたのも功を奏した。
すべての準備は完了した。
『さあ早くも先頭に躍り出た王者アイデルンの快走でホンマワークスGBR100号車が逃げていきます!前に出たウマハの須賀川、松川が追走!おっと!?1台ピットイン!?』
『23号車ですねぇ!』
『七番手に齧りついていたはずの23号車!?5周目にして三才山がピットイン!?マシントラブルか!?後続がどんどん前に行く!』
『志茂田さん!志茂田さん!』
『はいピットのゴローさんどうぞ!』
『23号車これルーティーンですね!タイヤの準備と交代のライダーが控えてます!!』
『えぇ!?僅か5周目早くもライダー交代、奇策に打って出たチームvodka23号車!そんな素振りは全く見せていなかったピットレーンはすでに準備が終わっています!』
チームのピットエリアに飛び込んできた三才山。
マシンにクルーが飛びつくと、すぐさまスタンドを掛けてマシンを固定する。引き上げられたマシンのタイヤが一瞬のうちに外され戸狩と大町の超速タイヤ交換で新品へと整えられる。
他チームが目を見張る程に速いその連携プレーは瞬く間にマシンを待機状態まで戻した。
「すみませんオニーサン!てっぺん守れなかったっス……!!」
「まだ4時間のうちのたった10分さ!気にするなョ」
「終わったぞ!オタリー!」
「Yes!!」
給油タンクをマシンに突き刺しすぐさま燃料がチャージされる。再び満タンまで給油されたマシンはここからの長い戦場を戦い抜くための火を待つ。
「頼みましタ!サカキ!」
マシンに跨り、翼のない戦闘機は発進準備を整えた。スタンドが払われエンジンスタート―――!!
『23号車再発進!ピットタイムは……16秒!!!?』
『なんですかこれ!?ライダーだけじゃなくピットワークまで常識外れに早いじゃないですか!!』
再び戦場に戻ったチームvodka23号車は誰も居ないコースを行く。悠々と走り出すその姿はかつて絶対王者をも墜とした男の走り───
『由羅さんこの戦略はどういった見立てで行われたんでしょう……?』
『すごいですね……俺たちはピットワークでも巻けるんだぞという自信の表れですか?通常のルーティーンでセオリーに乗っ取ったやり方をするなら、どんなに早くても50秒前後ピットで時間取っちゃうわけですね。それは給油量が多いこともあるんですが、ライダーがどんなにコース上で差を詰めても秒単位でしか差がつけられないモノをここでなら数十秒の差が付けられちゃうんです。』
『そして他のマシンが全くいない所で走らせたら、タイヤにもエンジンにも負担を掛けない自由な走りができるわけで、当然やり合ってるマシンはペースが上がらない訳ですから』
『つまりタイミングをずらすだけで、最下位に沈んだのは計算のうちだということですか!?』
『えぇ、このままいけば、他のマシンがピットに入るタイミングでも一人だけ全開走行できてしまうわけで、タイミングをずらしたことによりピットレーンも空いて作業しやすい筈ですね』
『なんとここで戦略をがらりと変えてきた23号車!果たして吉と出るか凶と出るか!?』
「1ピット増やす!?」
「あぁ、
「……」
スタートを務める三才山は酷く緊張しており、ただでさえ相手は猛者犇めくメーカーワークスライダー達。それに加え王者まで降臨してしまったと来た。辰野の見立てでは、周回を続けるほど
その遅れを取り戻すためには早いタイミングでサカキを投入する必要があり、それ以外で時間を巻くためにはピット作業を爆速で終わらせるほかない。なれば5周だけ全力で逃げ、タイヤを新品にし、ガソリンもありったけ積めてサカキに
だがそのためには、1スティント26周の所をサカキには30周、もしくはそれ以上の走りを要求しなければならない。つまり、三才山が軽くなる分、サカキに負担が行ってしまうのだ。
「あいつなら、できるじゃんよ」
「お前の、全幅の信頼をアイツに置いてるところ、嫌いじゃないぜ」
「当然じゃん!?オレの作ったマシンを一番走らせてくれる、一番速くしてくれる、それはアイツしかいないんよ!!」
「なら頑張るのは俺たちの方だな。ライダーの稼いだ一分一秒も無駄にはできねえ」
舞うように、ブレーキは一瞬、コーナーのラインを広く使って、駆け抜けるただ一台の黒。まだ集団で固まっている内にピットに入ったため順位は一番後ろまで落ちてしまった。
それでも、まるで攻めているような姿勢じゃない、ただ遊んで走っているかのようなもの。泰然自若、という熟語がピッタリとハマる様な走り。23号車は集団に埋もれることも無くただひたすらに1分48秒台を刻み続けていた。
悠々と。走り去っていく。吹き抜ける風のように。
22周を過ぎ、ちらほらをピットに入り始めるマシンが出てきた。ここで各チームは早めにピットインするか、ギリギリまで粘ってマージンを築くかという二手に分かれることになる。先頭を行く100号車アイデルンはペースが良く、こちらはギリギリまで引っ張る作戦のようだ。そうなると走る位置が散らばりだし、サカキの前にも他チームのマシンが出現し始める。
「─────」
マシンとシンクロする。感じたことのないような一体感。どこまでが限界か、マシンは素直に教えてくれる。ハマサキの進歩、サクのチューン、噛み合う波長。
「はっ?」
抜かれた方のライダーは何が起こったのか理解できなかった。
コーナーが近づいたから自分はブレーキを掛けた。しかしまるでノーブレーキのような速度でコーナーへ突っ込んだ黒は、何事もなかったのように、蝶が舞うようにコーナーをあっさりと抜けていく。限界をも振り切ってしまっているような走り。
……
他のマシンを意にも介さずただひたすらに1分48秒台に揃えてタイムを叩きだす。恐ろしいまでの体内時計。
『さあ各車続々とピットに戻ってきます!目まぐるしく順位が入れ替わる!ライダーの頑張りに応えるためにはピットは一秒でも早く出したいところです!』
『42号車トラブルです!ロックピンが外れない!!』
『これは痛恨のロスです42号車!』
スルスルと順位を上げ続ける23号車。ピットインしたばかりのタイヤが冷えたマシンを抜き去り、それでもタイムをずらさず回ってくる。
『ちょっと目を離した隙にこのマシンが来た!23号車!11位まで順位を押し上げる!』
『とんでもないですよ……。このマシンずっと1分48秒台で周回してるんです。他車と絡んでもタイム揃えてきてここまでくると気持ち悪いレベルですね』
さらに数台を躱し、32周の長いスティントを終えサカキがピットレーンに帰ってきた。最下位まで落ちた順位を7位まで回復させ、このピットが終わったころには17位前後でピットアウトできるはずだ。ピットクルーがマシンを立て給油を行っていく。
「オニーサン!お疲れさまっス!」
「頼むぜ。無理はしなくていいからな」
「オレ、もう迷わないっスよ!!」
再びエンジンスタート。いい表情になった三才山を送り出し、ピットの椅子に座りこむ。
「どーだったよ久々のサーキットは?」
「はーっキッツいわ。だけど……楽しくてしょうがねーよ。後はアイツに期待だな」
レースは後半戦の中盤を過ぎた。マシントラブルで数台がリタイア、長丁場を走り続けてきたライダーにも疲労が蓄積し、徐々に他のチームにも綻びが出始める。
その反面、平常心を取り戻した三才山は全日本ライダーを抜けないまでも順位を落とさずキープ。現在23号車チームvodkaはBクラスで最上位、総合7位の位置で走行を続けている。
しかしこの先の順位へ上がっていくためには、いまいち決め手がなく、拮抗する実力を持つプロチームはそう簡単にミスってもくれない。レースは膠着状態に陥り始めた。
現在は三才山が走っており、交代のタイミングまで間もなくといった所だった。
「次はソフトのタイヤで行くか……?」
「それで最後まで持つのか戸狩?」
「他と絡まなきゃいけんだろーが……まあ、そう簡単には前も譲ってくれねーわな。あとはライダーの好み次第だ」
「ソフトにしてくれ。後は……俺が何とかする」
「おーおー頼もしい限りだ。承ったぜ」
次のピットインの準備を始めるメンバー。それぞれが配置につき、ガソリンを用意するオタリーがもうすぐに準備を終える。
『あーっとクラッシュ!クラッシュ発生です!!2コーナーで3台が絡むクラッシュ発生!!』
「───!!」
「セイフティーカー出るぞ!!」
「三才山は!?」
「最終上がってくる!!」
「オタリー!ガソリンは!?」
「OK!」
トップのホンマワークスチーム矢板操る100号車まではあと1/3周程度のギャップがあった。
セイフティーカーが先頭を捕まえて追い越し禁止になる前に作業を完了させて前に出られれば、あと一回ピットインしなければならないトップのホンマワークスチームを躱すことができる。
しかしこのセイフティーカーが通過する前にマシンを出せなければピットレーンから出ることができなくなり、そうなったら周回遅れで優勝権利の一切を失う事となる。
ピットレーンがクローズとなる前に入ってきた23号車は、この間に作業をしていい権利がある。表裏一体の絶好のチャンス―――。
三才山がピットに到着しマシンがスタンドで持ち上げられエンジンが一時停止される。
戸狩と大町が超速タイヤ交換を行い、無駄なくソフトタイヤが装着された。ブレーキに異常はない、チェーンも大丈夫、ミッションも問題ない!
「OK!オタリー!!」
「Yes!!」
後は給油を済ますのみ……。
オタリーは給油口にガソリンノズルを突き刺そうとするが、なぜか上手くハマらない!!
「どうしたオタリー!!」
「タイヤカス!!そのカスとっテ!!ノズルが入らなイ!!」
「ちくしょう!!」
たまたま、給油口に貼りついたデブリが妨げとなって、給油ノズルが上手く入らず給油が遅れてしまったのだ。なんとかデブリを除去して給油を開始したものの、セイフティーカーは最終コーナーを曲がりホームストレートへ帰ってくる。
「間に合わねえ!周回遅れになっちまうぞ!」
「あトちょっト!!」
「リミットだ!!離れろオタリー!!」
マシンに跨り、スタンドを払われ最後のスティントへ飛び出す用意ができた。かかれ……!かかってくれ!!エンストするんじゃねーぞ!!
「サカキ!!ガソリンが最後まで入り切ってない!!キープで走れ!!」
……ZR-10Xは息を吹き返す。すぐさま発進して黒い風はピットロードを出た!!
『23号車がセイフティーカーの
『これは上手くやりましたね!!すごいなぁこれに合わせられるんだから!!!』
「オタリー!ガソリンはどれくらい入れられなかった!?」
「250ml入ってナい……!」
「辰野!」
「今計算してるよ!!」
入れられなかった容量から、ペースから消費するガソリンを逆算し必死に解を求める辰野。
ピットタイムを極限まで削るために、最後まで走り切る量を計算して用意したガソリンはガス欠ギリギリの量と言っていい。……それを250mlも入れられなかったのだ!
「ペースにもよるが……。ファイナルラップが持つかどうか……だ。抑えたペースならギリギリ……だがそれ以上はきついかもしれん」
「キープで走れというのは辛うじて伝えられたけど……後はホンマがどう出てくるかだな。1分50秒を上回るペースで来たらアイツもペースを上げるだろうからそうしたらまずいぞ……!」
セイフティーカーがコースを空けて、富士4時間耐久はレースを再開させた。
まだピットインを残していたチームたちが一斉に作業に入り、ライダーを交代させていく。
時間を勘案すればこれが各チームのラストスティントとなり、観客たちも固唾を呑んで見守っていた。
ここで労せずトップに立ったのは23号車。チームvodkaZR-10X。
セイフティーカーランギリギリのタイミングにピットを終了させたこのマシンが、ライダーもタイヤも暖まった状態でごぼう抜きして首位に躍り出る。
『ピット作戦成功か!?23号車チームvodkaハマサキZR-10X!!最強のハマサキ乗りが復活の狼煙を上げるのか!?いやいや、王者の沽券に掛けて勝利は君に渡さない!さあラストスティント、アイデルン・リゲルがコースに出ます!』
『面白くなってまいりました!!』
しかし、23号車はガソリンの制約がありペースを上げられない。反面バッチリと作業を終えピットアウトした100号車はペースを上げ猛追し始めた。
『ハマサキZX-10Rの23号車は1分50秒ペースから上がらない!?猛追する100号車は1分47秒ペースに上げてきた!ギャップは30秒!さあどうなる!?』
『これ、もしかしたらセイフティーカーの前に出すために給油時間を削った可能性がありますよ23号車!』
『先程のスティントでは1分47秒台で走っていた23号車はここに来てペースをあげられない!しかし100号車も35秒でピットアウトしてますから、満タンではないはずです!こちらもギリギリか!?面白くなってまいりました』
せめぎ合い。我慢の走りを強いられるZR-10X、半周分築いたはずのギャプは、徐々に迫ってきていた。
周回を重ねる毎に、サカキとアイデルンの差は縮まっていく。
「頼む、トレーナー……!最後までもってくれ……!」
チームメンバーは最早祈るしかない。自分の呼吸をも忘れて、モニターに縋り付く。
その差は10秒を切った───
我慢比べだ!俺とアイツの……!
焦ってペースを上げたらガソリンがもつかどうかは分からない。後ろのGBRも、給油はギリギリまで削ったはずだ……!
俺は俺に出来る事を──。
スロットル操作をできる限り滑らかに、エンジン回転数を上げないようにしてシフトを操作する。減速を最小限にする為にブレーキはかけない。
その為にソフトタイヤを履いてコーナーリングスピードを稼ぐ。だがこのタイヤもいつまでもつか……?
今できる最良のペースを計算し走っていく。レースは時間にしてあと5周……!
『長かった4耐も思い返せばあと10分を切りました!周回で言えばあと5周程度になりましょうか!トップはまさかのBクラス、23号車チームvodkaZR-10Xが未だに逃げ続けます!しかしそうは問屋が卸さない!ホンマワークスチーム100号車GBR1000RR絶対王者アイデルンが猛追!ついにギャップは5秒を切りました!』
『1周1秒ペースで縮まってますが、分かりませんよ!?』
迫ってきている……!
後ろからGBRが、ホンマが、
「頼む…!もってくれZR-10X……!」
「兄さん……!これが貴方が認めた男の走り……!」
タイヤはもう限界だ。一瞬気を抜けばどこにすっ飛んでいくかも分からない。
長時間の走行で疲弊した身体は悲鳴を上げていた。しかし彼を突き動かすのは執念。
兄を超えた男を撃墜す───。
ただそれだけの為に、私はここまで来た──ッ
『残り2周!あれだけあったマージンはほぼ0!逃げるZR-10X!逃げるサカキ!追うGBR1000RR!追うアイデルン!奇しくも、かつてあの時の鈴香とは逆の立場!』
───1:48.208
追いつかれない為にはペースを上げるしかない、追い抜く為にはペースを上げるしかない。
『さあ貼り付いた!後ろにアイデルンが貼り付いた!ファイナルラップ!4時間が経過しましたので、この周、先にチェッカーを受けた方が優勝となります!!』
『分からない!これは分からないよ!!』
『さあホームストレートエンドで並んだ並んだ!!アイデルンが被せる!!しかしインのサカキも譲らない!!』
ついに、ホームストレートでZR-10Xが追いつかれる。全く並んだまま1コーナーへ飛び込み、縺れあったまま2コーナーへ!
『譲らない!2人とも譲らないサイドバイサイド!!』
『ひええ2コーナー並んだまま全開で行った!!』
男達は言葉が出なかった。皆が皆モニターに穴が開きそうなほど視線を縫い付けられ、もどかしい気持ちでいっぱいだった。精一杯やった。俺達は最善を尽くした。
魅せられた者達は行くところまで行くしかない───!
目が離せない。見たくない。心臓が早鐘を打って止まらない。でもこれは、目を背けちゃいけないんだ。
「トレーナー……!」
自分でも知らないうちに手のひらを握り込み、叫びたい衝動が自らを突き動かす。
「トレーナー……!トウシロウ!!てっぺんで帰ってきてくれよ!!オレ、トレーナーが勝つところ、見てえんだよ!!」
『ブレーキング勝負だ!!ブレーキング勝負!!ZR-10Xイン!GBRアウト!前に出た!前に出たZR-10X!しかしすかさずGBRも鼻をねじ込む!!なんという果たし合い!!』
もう残すは最終コーナーとホームストレートのみ。僅かに頭を押さえたのは黒。
────ZR-10X
『2台並んで最終コーナーを立ち上がる!!僅かに!僅かにハマサキが前!ZR-10Xが前!』
そして、並んだ獣の咆哮は一つになる────
『あーーーー!?ハマサキが遅い!?ハマサキが遅い!!スローダウンだ!!100号車アイデルン・リゲルがオーバーテイク───!!』
『なに!?なに!?えーーーなに!?』
黒い獣は咆哮をやめ、力尽きた。甲高いエキゾーストを響かせて遠のいていくGBR。
死んでいく────。
『大逆転!こんなドラマがあるのか!?ファイナルラップのホームストレートでオーバーテイク!!!ホンマワークスチーム、アイデルン・リゲルがトップチェッカー!』
『ガス欠かもしれない……』
クラッチを切り、惰性で何とか走り抜けたゴールライン。もう、走れない。コース脇にマシンを止めて、空を仰いだ。
最高のマシン、最高のコンディション、最高の仲間
───それでも及ばなかった。
ほんのわずか、あと200mも無かった。2着、それでも大健闘だろう。
『23号車……完全に動けません……。サカキは天を仰いで何を思うか』
『これは…立ち直れないですよ……僕ならもう泣き崩れてるはずです……』
その、あまりに劇的すぎる結末は語るには長過ぎた。
いつまでも蒼空を見つめるライダーは芝生に立ちすくむ。それは1つの男の物語が終わった瞬間だった。