しとしと、と梅雨らしく灰色の雲から降り頻る空の涙。
もう
これがなきゃ水不足になるだなんて、恵みの雨も今日ばかりは自重をお願いしたい。
雨は嫌いじゃないけども、せっかくのおめかしが崩れてしまうじゃないか。なんて睨んでも仕方ない事は分かっているけど、それでも恨まずにはいられない。
湿度を増した電車の中で額に髪がまとわりつく不快な感覚。でも今日はあの黒いのとようやくデートを取り付けた。この前の期待させて中京に連行された恨みは忘れていないから、めげそうな気分を上向きにして、ターミナルに近付く電車に身を任せる。
雨の中で逢瀬をするのも秘されたようで嫌いじゃないが、今は少しでも雨が弱まりますように。
俺はサクラローレルからの呼び出し(強制)を受け、日本が世界に誇る大ターミナル新宿駅の雑踏の海で
ちなみに世界の駅一日利用者数TOPは新宿駅で、2位渋谷、3位池袋、4位大阪梅田、5位横浜だそうだ。
東京だけでも600駅以上あるのだから、よほど明るくなきゃ案内も無しに辿り着けやしない。
改札で道行く人をボーッと眺めていたら、するすると人の群を避けながら今日のお相手がやって来た。
「ごめん待った?」
「おう待ったわ」
にこやかに近付いてきたサクラローレルはその返事を聞くと、途端にムスッと眉間に皺を寄せ、振り抜かれた尻尾がバシッと太ももを
帰ってきた尻尾は往復で打ち抜いた。こら、癖が悪くてよ?
「やり直し」
「めんどい」
笑顔なのに
「やり直し」
「はい……」
かつんかつんとヒールを鳴らして離れると、フワリとした微笑みを貼り付けて振り向いたローレルがずいっと顔を覗き込んでくる。
これがドラマの撮影ならそのまま使えそうなワンシーンだが、生憎ながらここには俺の肉眼レフしか無いんだな。
───その笑顔の裏に秘めたものは如何なものか。
「ごめん、待った?」
「待ち遠しくて堪らなかったさ」
聞いておいてポカンとするなって。
「……え、あ、そう?」
そっぽを向いたローレルの耳がひくひくと我慢したような動きしてる。TAKE2やらせてその反応は辛いですよローレルさん。
頬を揉んでちょっと落ち着いたのか、持ち直した彼女がにんまりとした笑顔を向ける。背筋にヒヤッとしたものが流れた。
「ともかく、今日は一日付き合ってもらうから」
「はいはい……で、何すんの?」
「まず、あなたには髪を切ってもらいます!」
へ?初手散髪ってどういうことなのローレルさん。女性と出掛けたことはままあれどいきなり髪切ってこいは初めての経験ですよ。
「え、髪……?この前の
「え…したいの?」
「ヤだよ」
髪を伸ばす趣味は無い。
ただただ床屋に行くのが面倒でこうなってるだけだが、幸いまだ荒れ果てた荒野ではないことは確かだ。大規模な森林伐採はご勘弁こうむりたいところである。
がしりと腕を人質に取られ、視線で「来るよね?」と無言の圧力を掛けられた俺に従う意外の選択肢は無い。だけどほら、美容院って予約いるじゃない?
「うん、私がいつも行く所予約してあるから」
「Pardon?」
駅から連れ立って歩き、ふたつの傘が並んで進む。お互いの傘に水滴のはねる音が響いて足音が混じり合っていく。
隣を歩く彼はいつも通り、上も下も黒い服装で長い髪をただ縛っただけ。私よりも少し高い、猫背気味の目線。抑揚のあまりない低めの声。人を寄せつけ辛い印象を与えるそんな風体。
担当を受け持つ子達の話をしたり、私の大学の話をしたり、後輩たちのトレーニングプランを話し合ったり。
雨の中で、傘の中で、2人だけの会話が流れていく。彼は話をよく聞いてくれて、彼の話を聞きもした。
やり取りは特段いつもと変わらないが、トレーナーさんの反応はウマ娘に寄り添おうするもので……それはいい事だ。
けどそれが彼のスタンスだったかと問われれば、私は「ちょっと違う」と答えるはず。
『待った?』
『待ち遠しくて堪らなかったさ』
彼ならこのやり取りもさらりと流されていただろう。
以前しつこく迫った時は投げやりな反応が無かったわけでもないが、今日は真剣な声色が乗っていたせいでちょっと面食らってしまった。
主人の意思に関係なく総崩れした表情筋には説教をしなければいけないが問題はそこじゃない。
「ここ」
「こんなシャレオツな所入ったら塩かけられたナメクジみたいになりそう」
「そしたら私で満たしてあげる」
「大変魅力的な提案だが何もできなくなりそうだから遠慮しとく」
「あら、残念ね」
取り留めもない会話の中にもおかしな所はない。だが、私の中では妙に気になる小骨が喉に引っかかるような些細な違和感がある。
きっとジトつく梅雨のせいだ。
長かった髪をバッサリ切り揃えられ、今流行りのつーぶろっくなるものにされてしまった。
久しく感じることのなかった側・後頭部のジョリジョリ感とヒンヤリ感がちょっと新鮮で、なんだか自分じゃないみたいな感覚になる。
シャンプーもセットもされてローレルの前に引っ張り出されると駅で会った時よりもニヨニヨとしていてたいへんご機嫌らしい。
「ぷくくっ…似合ってるよ」
「笑いながら言われてもな」
ホントホント。なんて美容師も相槌を打つしたまには良いのかもしれないが、やっぱり慣れないことはする物じゃなくソワソワと心が浮く。
「はいこれ掛けてみて」
「目悪くないんだけど」
「伊達だよ」
手渡されたのは黒縁フルリムのシンプルなメガネ。
度は入ってないらしく目を回したりしないが、掛け慣れてないこともあって鼻頭がむず痒い。
グラスを通して見た世界は、別に何ら変わりは無い。だけど少しだけ色が変わったような気がする。
「色入ってる?」
「ブルーライトカットだからね。パソコンスクリーンばかり見るだろうからあげるよ」
鏡を通して見た俺の姿はまるで様変わりした印象だった。
自分で見て思うのだから、他人から見たらそれはもうすごいのかもしれない。髪をいじる人間の気持ちが少しだけ分かった。
なんというか、生まれ変わるような感覚なんだろう。ちょうど今の俺のような
何かをやめた人間が変わるには、そこそこの努力が必要だと思う。
忘れる努力というものだ。
今までしていた事から離れるとか、別の没頭できる事を見つけるだとか、散財して別の物を買うだとか、知らない界隈の知識を学ぶとか、まあ色々あるだろう。
バイクでバカばかりしていた俺は、ようやくその事に気づけたのかもしれない。
あの時の仲間たちは皆、自分の行くべき道を見つけていた。スピードという麻薬に取り憑かれ、幻影に囚われてウマ娘を捌け口にしていた俺と違って。
──それももう終わった。
ようやく、何年も経って、俺はトレーナーになったと思う。胸に空くどこか虚ろな感覚も、これから新しい事を詰めていけばいい。
始める事に『遅い』なんて事は無い。きっとそうだろ?
どこか上の空。そこに居るのに心が居ない。一緒に歩幅を合わせて歩いてみた感想。
髪を整えて、伊達メを掛けて、服も見繕って、隣を歩く男は待ち合わせした時とはまるで別人になっていた。おかげですれ違う女性がみんな目で追ってるぐらい魅力的になったと思う。本人は気づいてなさそうだけど。
だけど、肝心の彼は空気の抜けた風船のよう。
言うならば
「ねえ」
「ん」
「何かあった?」
そう、彼に聞いてみた。正面を向いたままこちらを見ようとしない。これじゃあ何かありましたって言ってるようなものだ。
たぶん、ここで逃すと後悔する。そう思って懐に切り込んでいく。
なにか悩んでいるなら力になってあげたいしウマ娘関連なら私でも分かることは多い。
「なんもねーよ」
「嘘。正直にお姉さんに話しなさい」
グラス越しにじっとりとした視線を向けてくる鋭い目。弱った時、そーやって目だけでこっちに向く彼の癖。ほんと素直じゃない。全てしょい込んでこっちには相談もしてくれない。これじゃあウオッカちゃんも苦労してるんだろうな。
「………引退レースで負けたウマ娘はどういう気分なんだろうな」
「全力を尽くして負けたなら、後悔もないと思うけど……。やっぱり、何だろうね。喪失感とかそういうのはあるかもね。終わっちゃったんだなぁって」
自分なりに言葉を選んで紡ぐ。その言葉はどう聞こえているのか。
サクラローレルたる私自身も、最後は凱旋門の前戦であるフォア賞で屈腱を断裂し、挑戦せずに競走引退を迎えた。だから言葉にも重さが出たはずだ。
「皆通った道なんだな」
「なるべくなら、通りたくないけどね」
敗北せずに
トゥインクルシリーズに限らずほかの競技だってそうだろう。全戦全勝でキャリアを終えた幸せな人間など居やしない。
「……終わったんだ。勝てるはずのレースだった……いや、それも時の運か」
「……」
おそらく、三才山クンや店長サンが言っていたレースのことだと思う。
それにトレーナーさんも出ていた。そうすれば話しの辻褄が合う。
「負けたのさ。最後の最後でオーバーテイクされてな」
「決めたんだ。もう終わりにするって……」
だんだんと途切れていくトレーナーさんの声。そうか……。彼の中では終わった事になっているんだ。
───何も終わってなんかないのに。
「俺はトレーナーなんだ。アイツらを支えなきゃいけないのに、やらなきゃいけないことが分からなくなっちまったんだ……」
不安定なこやりの上で揺れる気持ちの天秤。彼の中で
あぁ、彼の時計は止まったまま、きっと動き出していない。
そして、たぶん私では、救えないんだ。