ふぅ、と男が虚空に向かって紫煙を吐き出す。長く灰になった煙草が少しの時間が過ぎたことを教えていた。男は灰皿に二回、先端を叩いて嘆息と共に虚空へ解かす。
ジリジリと地面を焼く陽炎が立ち込めた揺らめきの向こう側、街並みは熱で満たされてすっかり夏の様相を呈していた。
「それで、お話と言うのは?」
「もちろん富士4耐に関わることだよ」
スーツに身を包んだ恰幅の良い老人と浅黒く日焼けした背の高い男。
この広い談話室からは人が払われその二人だけが向かい合って顔を合わせていた。双方とも表情は明るくなくこれから為される会話が明るいものではない事を物語る。
「格下の相手に負けて、更には表彰台にも上がってこられない。これを君はどう見るかね」
やはり、そういう話か───。
ハマサキのメーカーワークスチーム、そのオーナーは包み隠さず男に向け問う。
プロアマ混合で行われる富士4耐でのハマサキワークスチームの登録はプロチームに値するAクラスであり、格下であるはずのBクラスよりも順位が下など本来ない筈なのだ。あってはならない筈なのだ。
ましてやそのアマチュアチームの機体は市販のZR-10Xをチューンしたマシン。
同じメーカーのバイクを改造したとしても市販車をレース用にしたものと、そもそもレース用に作られたマシンに戦闘力の差があるのは歴然。裏を返せば市販車のレベルがそれだけ高いものであることの証明だが、ふつう用意できるタイヤ、パーツ、ライダーなどはメーカーの方が遥かに質で上回る。それだけの差がつく。
………
「無茶をおっしゃらないでください。確かに今回ウチのチームは5位となってますが、それはマシンがまだ出たばかりで熟成が進んでないことが正直な所であります」
「ほう。では今回2位になったチームはどういう事か?GBRにも引けを取らない戦闘力だったじゃないか」
まあ、実際を知らねばそういう思考にもなろう。
客観的に見れば同じ車種をベースに弄ったマシンで、公式のメーカーがその辺のバイク屋に上回られた結果だけが残る。
実情は、男が知りうる中で
「プライベーターがメーカーを下すこともまたレースの中では有り得ることです。そこはご理解いただけると思いますが……」
八百長でもしない限りレースでは何が起こるかなど誰も分からない。それを踏まえてもハマサキワークスチームが置かれている状況は……なお厳しいものだ。
「わざわざ君が言う富士4耐に出場したのだから収穫があるのかと思いきや……」
「いや、収穫はありましたよ。煮詰めればあのレベルに至れることは分かりました。ライダーに合わせてマシンが柔軟にいけることも分かりました。ならばこちらにだってできるはずです」
男が悔しさを滲ませるように灰皿へ煙草を押し付ける。砕けて折れた灰の芯。いつか終わりは訪れる。万物人間みな平等に。
───けれども、もし、あの時の未来があったなら
───それは二度と叶わぬ御伽噺
恰幅の良い老人は表情を変えずに男を見やる。分かっているならなぜ?とでも言いたいんだろう。
貴重なチームを国際グレードのレースではなく国内の
「
「ええ……チームの解体、私の解任、ですね?」
それだけ確認すると男は席を立ち談話室を後にする。
オーナー側もそれを引き留めることはしない。話は終わったとばかりに視線を向けることもしなかった。
そういう計画、そういう予定だ。こういう何かあれば個人に責任を被せなかったことにする所が変わらないからこそ、ハマサキというチームは勝てなかった。
吐き捨てるように男は思う。だが、それを言葉にしたところで───。
『俺たちが失ったものは余りに大きかった』
それはホンマに掛けられる言葉であり、アイデルン・ラグナに掛けられた言葉であり、ハマサキのライダーだった男ただ一人に対して向けられた刃物だった。
世論の風当たりから、オーナーは世間体を気にしてさっさと保身に走り、タイトル返還かこの業界から消えるかをライダーに投げかけた。俺たちがどんな思いでこのWRCCに臨んでいるのか、そんなもの知らぬと言わんばかりに。
誰か1人欠けようものなら優勝は有り得ない。ましてやあのチームは針の
……刃物を向けられた彼らは
鍵穴に射し捻ってイグニッションへ。パチ、パチという感触が指先に伝わってきてメーターに
金属ノイズを含む、低く特徴的なハマサキ特有のアイドリング音。
好きでやっていた事。好きで乗っていた物。今でもそれに携われている事は幸せなんだろう。いつまでも縋り付いて離れられない俺のような人間には。
なんでバイクって物が好きになったんだったか。
そうだ、映画だ。ある映画の主人公がマシンを駆る姿が格好良くて酷く憧れた。
……それがこのGEzだったんだ。
新しく開発された水冷エンジンに、エンジンをフレームとみなして一体化させ、低重心化を図り最高時速は250km/hに及ぶ。約900ccで115ps。
その性能は発売当時世界最速を誇り、並び立つものなんてないと思えたし、映画の主人公に憧れていた俺は当然このバイクにも惚れ込んだ。
今でこそ250km/hなんていうのはどのメーカーでも楽に到達できるモデルを有している。1000ccどころか600ccのスポーツバイクがこれと同等のパワーを持っていて、簡単に上回るスピードを出せるなんて事があるくらいだ。
だけど、250km/hという
身体がどうにかなりそうな風圧と、視界を吹き飛んで行く景色に対する恐怖。音なんて聞こえなくなって、ただ孤独な世界に取り残される。それを知る人間がどれだけ居る?
マシンがその速度を出せる事と、実際に跨った人間がその領域まで行けるかどうかは全く別だ。一瞬の判断ミスが命取りになる。
───命を乗せて走るんだ。
なら、一番好きなマシンで行くのが当然だろう。
ヘルメットを被り、革のグローブに指を通した。右手でスロットルを操作すればエンジンは鋭く
外を見れば晴天だ。
夏の強い陽射しが地を照らして、汗が吹き出るほどに暑い。これから更に暑くなるなんて考えたくない事だ。高温多湿という日本の環境はマシンにも人間にも優しくない。
ハマサキワークスチームは持ち直し、WRCCという舞台でもようやく勝利を収めるようになってきた。若いライダーを迎え、勝つために開発されたマシン。二つが揃い、ようやくやり合えるだけの力を得た。
……ただバイクに関わりたくてここまで来た。だけどもう俺という人間は必要なのか?
あのオーナーは今後チームがどう転ぼうと、俺にチーフを続けさせる気は無い。チームも何らかの形で移して他のカテゴリーに行くか、この先WRCCに出場するかどうかも分からない。それだけに固執する必要もないからだ。
ヘルメットを被って愛機に跨る。光を受けてギラギラと輝き光を反射するビルのガラスにそこらを行き交う人々。ジリジリと肌を焼く盛夏の中、スロットルを吹かして走り出した男の表情は明るくない。
男には
心底惚れ込んだあの走り。心から信頼した知識。両方とも失って久しい。それでも走り続けていた。
「お先真っ暗……か」
この先の展望は何も見えない。覆すだけの力も男には無い。家族すら
男は1人、この蔦が這うように人が湧く街を走っていく。
信号に捕まっては走り出し、陽光の反射に目を細める。抜いていく車を追うこともせず、喧騒の中に溶け込むひとピースとなって街に呑まれて行った。
複数車線のあるこの幹線道路は、分岐するために交差する道を陸橋でオーバーパスし、他方からの道路はこちらへ合流するジャンクション構造になっている。このオーバーパス付近は信号もなく比較的流れが速い。
それでいて道自体が曲がっており見通しが悪く、この先の交差点は右左折車線が分かれる事から、合流車線から無理やり車線を跨いでくる車も少なくない。
警察もそれをわかっていて取締ポイントにするような、走り慣れた者なら無茶なことはしない場所だった。
前車とは間隔を空け、流れに乗った速度で走る。
他方の合流から車線を跨いで来る1台の車が更に車線変更して突入して来た。その車はウインカーも点けずに車線を飛ばしていて、危険だと男は感じていた。
車という乗り物は鉄に囲まれ屋根を
それを補う為にドアミラーという物があるが、それでも首を回して確認しなければ後ろを見渡すには限界がある。得てして車よりもコンパクトなバイクはこの死角に入り込んでしまうのだ。
後ろもまともに見ていないのだろう。前走車と後ろを走る車の間にいた男のことに気付かず、車体を無理やり捩じ込んでくる。車と壁に挟まれた男のバイクは行き場を無くし壁との間に詰められる他ない。
ほぼ真横にいた男は、ウインカーも点灯していない事から、回避の判断が遅れてしまった。
「なっ───」
ふざけるな!右側は壁なんだぞ─────ッ
クラクションを鳴らす間もなく前輪と車の右後ろ部が接触し、ハンドルがあらぬ方向に向いたバイクは押し出されるような形でバランスを崩す。暴れるマシンを制御できずに男は投げ出され宙に舞った。
眼前に壁が迫る。
身体を包む浮遊感。
裂かれるような激しい衝撃と、明滅する意識。
身体から聞こえる破砕音。衝撃で身体の中身が全て吐き出されたかのような嘔吐感が込み上げる。臓を握られたように呼吸ができない。
掠れた視界の先に見えた、アスファルトの上に転がる変わり果てた姿の愛機。
こんな所で終わるのか。こんな形で終わるのか。
薄れ行く意識の中、トラックが迫る事だけは分かった。
───俺はもう一度、御伽噺の続きが見たくて