男の元へ運び込まれた1台のバイク。そのマシンが発売されたのは30年以上も昔。
このぐらいの年月があれば、産声上げた人間が家庭を持つぐらいだろうし、働き詰めていた人間は引退を考え始める。
長いようで、瞬く間の時の流れ。
かつて一世を風靡し、今なお根強い人気を誇る不朽のマシン。
クラシックと呼ばれる域に達し始めたバイクは、数々のバイクを弄ってきたこの男も大好物だったし、思い入れもあり、今なお憧れを抱く1台と言えた。
───ハマサキ GEz-900R
よくメンテナンスされていたらしいマシンにも、しかし年相応の劣化や小傷、汚れはある。それは公道を走る以上は仕方ない事だし、どんなに綺麗にしたところで避けられないものでもある。
だからこそ整備士という自分達が居るのだ。
気難しいキャブレターも、当時最速を誇った908ccのエンジンも、新設計の水冷式な為にその苦労を感じ取れる造形も。
そこを如何にメンテして乗り続けてもらえるか。これ程の腕の見せ所はない。
それが嫌なら大事に室内で保管するしかない。
綺麗でいてほしいその心情は理解できるところであるが、走る為に考えられ、走る為に生まれたマシンを
「だからって、こんな姿で会いたくはなかったさ」
そのバイクは外装が大きく
一目見てどこにダメージがいっているかも分からない、廃車も視野に入れるような事故車。ライダーがどういう末路を辿ったか……考えたくもなかった。
整備士ゆえに、事故で散ったバイクはごまんと見てきた。
自分の店を持つようになって、売ったバイクが変わり果てた姿で戻って来た事も一度二度ではない。それでも、ライダーが無事であれば、また二輪に乗るにしろ、もう降りるにしろ、顔を見れればそれで良かった。
だがこいつのオーナーは、かつて肩を並べた
どうして。
何があってこんな姿になっちまったんだ。
これは俺が扱ったマシンでもなければ弄ったこともない。言うなれば面倒を見なくてもよい物だった。しかし、気づいた時にはそうしたいと、そうしなきゃいけないとオーナーの家族に頭を下げわざわざ買い取ってきたマシンだ。
誰かが求めた訳でもない。これを直したところで感謝もされない。
だけど、これは俺がやりたいんだ。
───俺がやらなきゃいけないんだ。
暑さで垂れた汗が目に入ろうと、男は作業を続けていく。それだけが男のできる事だったから。
「よし、ここまで。各々ストレッチに入ってくれ」
「ふぃー!あれ?もう終わりなんです?」
「なんでよ!まだ明るいじゃない!もうちょっとやらせなさいよ!?」
陽は傾き始めているが空は明るく、トレーニングを切り上げるには些か早い時間だ。砂浜ではまだ他チーム集団がトレーニングを続けておりディープスカイの疑問はもっともだろう。
ウオッカもオウケンブルースリもまだまだ足りないという表情だし、ダイワスカーレットに関しては牙を剥いて詰め寄ってきた。そのまま噛みついてきそうな勢いだ。
「すまないが俺も野暮用があるし、この後は監督できるトレーナーが居ないんでな。この時期にケガでもされたらたまらん」
普段2000人居るウマ娘がゴッソリと消える夏合宿・夏休み期間というは、トレセン学園にとっても広報などがやりやすく、オープンキャンパスもこのタイミングで開催される。
生徒会メンバーや運営委員などもいったん合宿所から戻らなければならないため、教師を兼任する宮下もトレセン学園へ戻っていた。
「そもそも野暮用ってなんなのよ」
「えぇ~?もしかしてコレですぅ?」
ピコりと小指をたててディープスカイがニヤリと笑う。妙な邪推をしているようだが、残念ながら違ったものだ。
「ちげーョ。そもそも延々とお前さん達の相手しててできるわけねーだろ」
「それはそう。理解のある彼女さんなんてウマ娘でもない限り無理ですね」
確かに、とでもいうようなリアクション。ストンと表情を戻す落差は夏だと言うのに風邪をひきそうだ。食ってかかっていたスカーレットもとりあえず矛を収めてくれたが、後でそれ以上のものを要求されるだろう。すまん宮下。
「今日は体を休めて疲れを残さないように個別トレーニングも自主トレ禁止。明日埋め合わせするからそれで勘弁してくれ。以上」
「自主トレも!?ちょっと納得できる理由を言いなさいよ!」
秋戦線に向けての大事なステップアップ。その為にはウマ娘からすれば一日でも多くの時間が必要で、とにかく成長するための糧が欲しい。
特に目の負傷で春シーズンの後半を棒に振ったスカーレットと、ようやく重賞に挑める目処の立ったブルースリは思いも強いだろう。その気持ちも理解しているつもりだが、今日だけは時間が欲しかった。
「……悪いナ、もう行くわ」
「お、おいちょっと待てって!」
ウマ娘たちは怪訝な目を向け、揃って返事をしない。納得してないんだろう。だが手を叩いて解散を促し、俺は有無を言わさず話を切りあげた。
踵を返してホテルに向かう。背中にはちりちりとした視線を感じていたが、気にする余裕もないほど俺の意識は上の空だった。
詳しい事情も話さぬまま、トレーナーはそそくさと立ち去ってしまった。
自主トレも禁止にされてしまってはできる事もなく、4人のウマ娘はしぶしぶホテルへ引き上げていく。
あのトレーナーの口下手は今に始まった事ではないし、そのせいでウオッカは衝突してしまったこともあった。最近改善の兆しはあったものの、またぶり返してしまったのか。
「なーんか隠してますよね。あの人」
「向こうだってガキじゃねーんだから、必要ならオレたちに言うだろ」
そう言う割にウオッカの尻尾は落ち着きなく揺れる。
トレーナーの様子を見るに、おそらく良くない事が起こったんだろう。身内に不幸とかだとしたらちょっと申し訳ないが、あれでは反発必至である。
「だからって……言い方が、ある、と思います……」
「ちゃんと理由を説明してくれたらアタシ達だって納得できるのに!」
二人の言うことはもっともだ。オレだって説明が欲しい。
「こうなったら車で張り込みでもします?あの様子ならどこかへ向かうでしょうし」
「さすがに、そこ、まで……するのは………」
このままだと
正直、あの状態のトレーナーとカチ合わせたら
「分かった……。知られたくねぇ事かもしれねーし大人数はやめようぜ。オレが行ってくるから今日のところは抑えちゃくれないか?」
「まあ、アンタがそう言うなら…しょうがないわね」
荷物を手荒に放り込み、キーを取り出してシリンダーへ突き刺し捻る。数度のセルと跳ねたタコメーター。バイクよりも低く太い音を吐き出すエキゾースト。
シートベルトを引いていざという所で、ガチャリと助手席の扉が開かれ影がするりと入り込んできた。慣れたようにバケットシートへ身体を収めると、さも当然というように発進を促す。
「……降りてくれねーか?ウオッカ」
「
前髪の流星とじいと覗く銅色の瞳が、咎めるように感じて据わりが悪い。俺の言動を思い返せば、ウマ娘側から抗議のひとつもしたいだろう。だからか、俺は強く出られなかった。
「なあ、頼むョホント」
「わりーけど、オレも譲れねーぜ?そんなシケたツラしてる奴を1人で行かせるほど優しくないんだよ」
「……来てもつまらんぞ」
「承知の上」
短いやり取りの中でも、俺を独りにしてくれない意志を感じる。
バックミラーに映る男の目は相も変わらず濁っていて、確かにこんな淀んだ奴がハンドルを握るなど危なく感じるだろう。この短い会話だけでも、俺の中で張っていた糸が少しだけ緩む。
クラッチを踏んで1速。いつもより、少しだけ乱暴な操作。クラッチミート。
動き出したら2速へ、3速へ。
てっぺんはすぎたと言えど、まだまだ肌を焼くように日差しは熱い。照り返したアスファルトはぼやけるようにして、先を覆い隠してしまっていた。
逃げ水の先、蜃気楼。
かつての
仕事が落ち着いてきたので、また細々やっていきます。よろしければお付き合い下さい。