【完結】シンボリルドルフを轢け逃げられますようにと、彼女は願った   作:ムーンフォックス

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皐月賞

『さぁ最終直線へと突入しましたこれまで逃げ続けた7番オレコソガイチイ。差がどんどんと縮んでいく。縮ませているのは3番ゾディビライト。内から仕掛けていきます』

 

 誰も知ることはない。私の真実を。

 

『ここでゾディビライト抜きました! どんどんと差を広げていく』

 

 誰も理解してくれない。私の真実は。

 無能共めが、知らしめてやる。

 

『おおっと? 外からドンドン速度を伸ばし上がってくるのは二番ハイリボルケッタ。いつからそこにいたのかわからない』

『追込バは最後の粘り強さが特徴です』

 

 この世の真実は爆発力。瞬間的に人が出せるスピードは時に音速すらも超越する。

 

『ゾディビライト逃げるがハイリボルケッタ追い込んでいく逃げようとするが差はドンドンと縮まっていく。先ほどの光景と全く一緒となりました』

 

 この場における真実は唯一つ。私より早いウマ娘は存在しないということのみ。

 

『とうとう追い抜きましたハイリボルケッタ、しかしゾディビライト諦めはしないスタミナ残りの距離は考えないただハイリボルケッタさえ抜ければいいという乱暴なな走り』

 

 無能者は自身を傲り。侮り。弱くする天才。だから勝てない。

 

「貴様らは弱く、脆く、疎く、酷く、荒く、虚しく、儚く、そして遅い」

 

 だから敗けるのだ。貴様ら烏合の衆愚の痴れ者共は。

 

『だがハイリボルケッタ伸びる伸びるゾディビライトの我武者羅特攻を意に介さない! その勢いのままゴールイン! 一着は圧倒的距離差で見事勝利のハイリボルケッタ!! 二着はゾディビライト、三着はラムエルサスペンス』

 

 こんなレースに勝ったとて、得られる幸福のなんと低いことか。

 

 


 

 

 レースが終わった私の目の前にいたのはトレーナーだった。(あかつき)(あきら)、という名らしい。あのキングダムエクスプレスのトレーナーとのことで、どんな異常者或いは怪人かと思ったが、至って平凡で真面目に真摯に真剣に、一週間の期間で私の走りの問題点を見抜き、そして指導してくれた。

 

「デビュー戦までたった一週間しかなかったてのに一着かよ……すゲェな。最後の追い込み、良かったぞ」

「この程度のレースで一位も取れないのでは、エクスプレスのヤツにコケにされてしまう。アイツの生まれながらにして培った煽りだけは反吐が出るからな」

「ははは……」

「ところで」

 

 閑散としたレース場を見回す。辺りには私とトレーナーしかいない。二人以外には誰も……

 

「エクスプレスのヤツは何処へと?」

 

 トレーナーは俯く。そう、同じチームだというのに、あの問題バ──キングダムエクスプレスの姿がどこにも見当たらなかった。

 

「……ああ、アイツか。アイツなら多分今頃……」

 

 


 

 

 秋の肌寒さが身に沁みる今日この頃の東京レース場。サウジアラビアカップの観客席。そこに一バ、ウマ娘。轢き逃げバのキングダムエクスプレス。視線は行われてるレースに注がれている。

 

 試合は既に終盤、最終直線。先陣を切るのはハツノアモイ。2番人気のウマ娘だった。レース距離残り300m、事態の急展はそこだった。

 

『先頭走るのはハツノアモイ。しかし上がって来たのは1番人気のシンボリルドルフッ!!』

 

 実況が告げる名前にキングダムエクスプレスの顔が険しくなる。忘れない。忘れてたくても忘れることのできない名前。寝ても覚めても思い浮かぶのは彼女のことだけ。そんな愛のような呪いの感情をもたらすウマ娘──シンボリルドルフである。

 

『一気に抜け出したぞシンボリルドルフ!! 勢いのままゴールイン! 我らが人気に応えてくれました我らがシンボリルドルフ! まごうことなき一着です!!』

 

 やはり恐ろしいウマ娘だ。2着との差は1と3/4バ身と一見するとただ上出来な成績。だがそのバ身差に最後で見せた驚威の加速、マイルや短距離などに対しての適性があまりない筈なのに獲得できる堂々の一着。そしてレースが終わり息も絶え絶えな他のウマ娘と違い、なんと涼しげな表情か。全力を出していないことが伺える。

 

「やはり強敵か、シンボリルドルフ」

 

 ファンに向け手を振るシンボリルドルフを一瞥すると、キングダムエクスプレスはやがて去っていく。

 

「だからこそ、轢き応えがあるというものよ」

 

 キングダムエクスプレスは言う。激突のその時までを楽しみとし───。

 

 皐月賞まで、残り6ヶ月。

 

 


 

 

 月日が流れるのは早く、皐月賞まで残り一週間を残すところとなった。

 

「ほれ」

「……この箱は?」

「プレゼントだ」

 

 困惑するキングダムエクスプレスに対して、暁はニンマリとした笑顔を向けている。

 

「……ホワイトデーはとっくのとうに過ぎたんだけど?」

「いいから開けてみろ」

 

 疑問を覚えながら渡された箱を開けていく。包装を乱暴に剥がし、中身をまさぐりソレを手に取った。

 

「……服ぅ?」

「勝負服だよ。皐月賞はGⅠだろうが」

 

 ウマ娘が走るレース一つ一つに、名前とその格が定められてる。全5段階に別れる評価の最上位に君臨するレースをGⅠと呼ぶ。GⅢ, GⅡ, GⅠと評価が上がるに連れ、そのレースに出場するウマ娘も当然強敵となる。

 

 そしてキングダムエクスプレスが出場する皐月賞は俗に呼ばれる『クラシック三冠』と呼ばれる栄誉ある商号のウチの一つだ。皐月賞、東京優駿、菊花賞。この三つで構成されるクラシック三冠を制覇したウマ娘は数少ない。クラシック三冠とはそれほどまでに強敵、それほどまでに誉れ高いモノ。

 

 そしてあまりにも高級なレストランには正装(ドレスコード)をしなければ入れないように、GⅠのレースを出るためにはそのウマ娘の正装(ドレスコード)が必要なのだ。それこそが勝負服。そしてその箱に納まっていた服は、そのキングダムエクスプレスの勝負服(ドレスコード)なのだ。

 

「……これ、アンタが製作(つく)ったのか?」

「オレがそんな器用なことできるタマに見えるか? まあそのデザインはオレが考案したモンだが……」

「じゃあ誰が──」

「私よ」

 

 突如として現れた第三者の声にキングダムエクスプレスは顔を上げる。そこにいたウマ娘、あの赤髪は見たことある。

 

「……ザナルグレイビア」

 

 ザナルグレイビア、異名を時戻し。デビュー戦にてキングダムエクスプレスと激突し、惜しくも敗れたウマ娘。

 

「……アンタがこれを編んでくれたのか?」

「……貴女に敗けられちゃ困るのは、私なのよ」

 

 恥ずかしそうにそっぽを向きながら彼女は答える。キングダムエクスプレスの脳裏に裏返るのは懐かしいデビュー戦の出来事。

 

 

『……次会うときは負けないわよ。奇想天外の貴女の走りに負けてたまるものですか』

『だから貴女も、次会うときまでに敗けないでね。アンタを抜かすのは──この私よ』

 

 

 あの時のことか、と思いを馳せながら、丁寧に畳まれた勝負服を広げ、鏡越しに自身に被せる。青緑にパープルピンクのラインが入るパーカー、白いワイシャツ。控えめの灰色のスラックス。首元には390kmを出すと言われる某新幹線色のスカーフがあり、両手に用意された手袋は手首から指先に向け色が白から黒に変わっていくように設計されている。だが何よりも興味を引くのは、制帽であろう。耳を出せるように穴の空いた制帽は、紺という本来の色を残したままぐるりと囲むように青緑とピンクと白の三原色の細い線が通っていた。

 

「…おぉ……!!」

 

 喜びを隠しきれず、笑みがキングダムエクスプレスから溢れる。が、直ぐに気づきハッと表情を固くする。しかしそれは暁たちに既に見られていたようで、ニヤニヤとしながら感想を聞いてくる。

 

「どうよ、感想は?」

「ま、まあ、アリガトウ……」

 

 ぎこちない様子で感謝の言葉を述べる。だが、その言葉はザナルグレイビアを喜ばせるには十分すぎる言葉だった。

 

「……ところでだ、アンタらのせいでせっかく貯めに貯めた勝負服代が全部無駄になっちまったよ。どうしてくれんだコレ?」

「良かったじゃないの」

「何か食べなくなってきたな……お前ら、ナニ食べたい? 勝負服代分は奢ってやるさ」

「寿司だな、特上一人前出前で頼む」

「うな重特上。出前でお願いするわ」

「欲張りすぎだよバカ共」

 

 静かな声が部屋に木霊した。

 

 


 

 

「……今日か」

 

 皐月賞当日。そんな重要な日だというのに、やけに落ち着いている自分(シンボリルドルフ)がそこにいた。太陽が私を見下ろす中、やることは変わらない。ジャージに着替え、誰もいない800mの道を全力疾走する。走り終わるとタイムの確認は怠らない。

 

「49.7……か」

 

 初めてここで走った時は55秒すら切ることができなかったというのに、進化しているというのを強く実感できるのはやはり気分がいい。

 だがその裏を返せば彼女もまた進化しているということだ。彼女、キングダムエクスプレスもまた。

 

「楽しみだぞ、貴様とぶつかれる今日という日が」

 

 シンボリルドルフを轢くウマ娘。彼女は私に向けそう良い放った。その真価がどれほどのものか、彼女がどれほど成長したのか。轢き逃げという戦法がいかほどの脅威を私にもたらすのか。

 

 ただそれが、楽しみだった。

 


 

 春にしては珍しく寒い日だった。飲料水ではなく熱いお茶でも持ってくるべきだったと後悔するほどには、そんな春というには烏滸がましい日だった。

 

「お前はあの勝負服、アイツに似合うと思うかハイリ」

「トレーナー。それは林檎は樹から落ちるよレベルの愚問だな」

「やっぱり似合うかァ~、何せデザインしたのはこのオレだからな」

「逆だ逆。あの奇走バには何物だろうと合うことはない。アイツ自身が目立ちすぎてる。どんな服だろうと、アイツという存在を着こなせられるものはないだろう」

「じゃあ、あの勝負服も似合わないと?」

「いや、100%似合うとまでは言わないが、90%は似合うだろう」

 

 だらだらと、私はレースが始まるまで駄弁る。そうしてるとやがてザナルグレイビア達も合流し。レース場に活気がやってくる。

 

 15分がそこから経過した頃、ようやくパドックが開始された。

 

『5枠10番。シンボリルドルフ。1番人気です』

 

 最初にパドックから現れたのはシンボリルドルフ。黄色い歓声に出迎えられ、アピールをしている。

 

「1番人気だよなァ~~、やはりシンボリルドルフは」

 

 グレイビアのトレーナーの昼部が呟いた。サウジアラビアカップを一着で勝利したシンボリルドルフ。仮にもサウジアラビアカップはGⅢのレース。それを快勝する恐ろしい才能。

 

「おぞましいオーラだ。多くの者がこの一世一番の勝負に勝とうとしているのに、ヤツとくれば悦楽(たの)しんでいる」

「………」

 

 寒い日だというのに、気づけば私の額から冷や汗が滲み出ている。見ればザナルグレイビアも同じようで、無言のままであった。優雅に手を振るその背後には、獲物に嗤う鬼が視認()える。

 

『4枠9番。キングダムエクスプレス。惜しくも2番人気ですね』

『やはりデビュー戦で見せた轢き逃げ戦法に、未だ疑問を感じる人が多いという印象ですね。シンボリルドルフ

を果たして勝つことはできるのでしょうか』

 

「おお、似合ってるな。勝負服」

「正直なところ俺も驚きだ。インパクトも着こなしも、シンボリルドルフはあの軍服と張り合えてやがる」

「まあ、私が作成したのだから当然ね! それにしても、偶然……にしては出来すぎね」

 

 ザナルグレイビアの言葉の意味は私にも理解できる。シンボリルドルフの緑を基調とした勝負服に、キングダムエクスプレスの青緑を主とする勝負服。二人の勝負服は、どこか似ている。偶然にしては、定められていたかのように出来すぎだった。

 一見すると、パドックのキングダムエクスプレスは余裕を見せている。だが私たちは気づいた。その余裕の裏、そこには焦りがあるのを。

 打倒シンボリルドルフを理念に掲げる彼女にとって、シンボリルドルフとの勝負に余裕などないということを。私は理解した。

 

「……勝てるかな、エクスプレスの奴」

「勝たないと困るわ」

 

 ふと漏らしたトレーナーの言葉に真っ先に反応したのはザナルグレイビアだった。

 

「貴女はどう思う? ハイリ?」

「昼部トレーナーの意見を伺ってから答えるとしよう」

「俺かい? 厳しぃんだろうけどなぁ。してほしいよなぁ。優勝。まぁこんなフワッとしてるけど、そんなところか。俺の意見は言ったぜ」

「……なるほど」

 

 三者三様に答えるのは好意的な反応のみ、なるほどと、これなら納得できる。

 

「道理で、敗けるワケだ」

「はァ?」

 

 私の言葉に真っ先に反応したのはザナルグレイビアだった。ツカツカと歩みより、私を睨み付けてくる。

 

「同じチームなら、応援したりするのが普通ってモンじゃないの?」

「私も本来ならば応援はしたいが、あの彼女の体たらくを見て応援するわけにはいかん」

「……どうして、そう思ったんだ?」

 

 場を諌めようと、トレーナーが私に問うてきた。薄々気づいているのだろう。私の言葉の意味を。

 

「自身を導くトレーナーの指導を受けようとせず、自身の才能に溺れ傲る。そんなウマ娘では、努力を怠らず、天武の才能を持つウマ娘などに勝てるわけがなかろう。努力だけでは才能に勝てず、されど才能だけでは才能と努力には勝てず。だ」

「…………」

「私は、トレーナーにも問題があると思うが」

「オレに……?」

「指導を受けて気づいたが、トレーナーの意思は薄弱で流されやすい傾向にある。対しエクスプレスは傲岸不遜でプライドが高い。強引に押されたんだろう?」

「ま、まあ……」

「ウマ娘をサポートし、ウマ娘をレベルアップできる。それはウマ娘を誰よりも近く見て、誰よりも第三者の視点で物事を把握できるトレーナーだからこそ行えるものだ」

 

 パドックでこちらに手を振るエクスプレスに手を振り返す。

 

「アレでシンボリルドルフを抜くなどと、随分な妄言を吐けるものだ。中央を無礼(なめ)てるとしか言いようがない。まあそれを今の今まで見過ごしてきた私も私だがな」

「…………」

「トレーナーなら、一度話し合っておくべきだ。どうせこのレース、エクスプレスは敗北()ける。その時に話せばいいさ」

「だ、だが。何もエクスプレスが敗けると決まったんけじゃあ」

 

 大きな、大きなため息だったと思う。私から出たものだとは信じられないくらいに長く、大きく、そして冷たい。

 

「どうしてウマ娘にはトレーナーがいると思う?」

「それは。ウマ娘が強くなるためだろ」

「確かにそうだ、だがそれだけじゃない。我々は過ちを犯す。自身の才能に溺れ 独りよがりになる時がある。レースで故障した自分への自己嫌悪に陥る時がある。明日のレースで巧く走れるか不安で 誰かに支えられて欲しい時がある。その時、独りよがりを叱り、自己嫌悪を解消し、不安を支える存在が必要となる。それこそがトレーナーだと私は思う。パートナーと言っても差し支えないだろう」

「パートナー……」

「個我を通せ、話し合ってみろ。トレーナーとして接するな、パートナーとして接するんだ。同じ言葉の通じる者同士じゃないか」

「……ああ、そうだな」

 

 トレーナーはいつもそうだった。自己というより個我がなく、いつも流され続ける指示待ち人間。だがようやく、その決心がついたらしい。俯いてたトレーナーが顔を上げた。決意が固まったような目。覚悟したものの目。この目をする者の強さを、私は理解している。

 

「ありがとう、ハイリ。オレ、話し合ってみようと思う、アイツと。何も変わらないかも知れないけど、ひとまずやってみるよ」

「……ああ。応援しているぞ、トレーナー」

 

『さぁ各バ、ゲートイン完了。出走の時を待つのみです。勝つのはシンボリルドルフか、はたまたキングダムエクスプレスか』

 

 と、いつの間にやら出走の準備が整ったらしい。私たちの視線がゲートへと向けられる。

 

 そしてとうとうゲートが開かれた。

 キングダムエクスプレスの覇道は、ここからであった。

 

 


 

 

 試合が始まる少し前───

 

 シンボリルドルフはターフへ繋がる道を歩いていた。着ている服は軍服。それは彼女の勝負服だった。物思いに耽り、歩を進む彼女の目の前に現れたのは、キングダムエクスプレスであった。

 

「……久しぶりだな、キングダムエクスプレス」

「毎日学校で会ってるだろうがよ。ルドルフ」

 

 にこやかに微笑むシンボリルドルフに対し、彼女の目は鋭く余裕がない。両者は互いに歩きながら話を続けていく。

 

「聞いたぞ、サウジアラビアカップ見に来てくれたのだろう? それなら弥生賞も見に来ててくれれば良かったのに、最後のビゼンニシキが強敵でなぁ──」

「……皐月賞が今から始まるってのに、随分余裕じゃないの?」

 

 歩みは遅く、それはまるで神聖な空間に来た時のような厳かな空気がある。両者の視界に、皐月賞の舞台である中山レース場の芝が近づいてきた。

 

「余裕、か。そういう君は、余裕がないように見える」

「気のせいさ。まあそんな調子じゃあ、敗けちまうのも無理はない」

「……ほう?」

 

 ふと発した煽りに、シンボリルドルフは足を止めた。彼女の柔和な瞳が、途端に鋭い光を帯び始め、キングダムエクスプレスを捉える。

 

「私が敗ける、と?」

「ああそうさ。アンタを轢いてこの皐月賞に勝つ。クラシック三冠の称号は譲らせないよ」

 

 次にキングダムエクスプレスの頭から生える耳が捉えた音は笑声だった。まごうことなく、それは目の前の彼女が発した嘲りの笑いだった。

 

「……何がおかしい?」

「獅子搏兎、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすという言葉を四字熟語で表すとこうなる」

「は?」

 

 突如とした空気の変貌にエクスプレスは感じとった。唐突、突飛、そんな言葉が似合うほど目の前の彼女が話す言葉がエクスプレスを動揺させた。

 

「簡単なことにも全力を尽くす。という意味で知られるこの言葉だが、実は違う。獅子が兎を全力で狩るのは、その兎の持つ敏捷性を決して侮っていないからだ。兎は小さくすばしっこい。故に獅子でさえ全力を出さなければ逃がしてしまう」

「……講釈は嫌いなんだが」

「さしずめ、君は大海を知らない井の中の蛙と言ったところか」

「はぁ?」

 

 シンボリルドルフの歩が早くなる。それを追い、やがて両者はターフへと降り立った。多くの観衆の拍手と歓声を受け手を振り返しながらルドルフは微笑んだ。

 

「どんな獅子だろうと、薄物細故の蛙ごときに全力を出すわけなかろうに」

 

 キングダムエクスプレスはこの瞬間に理解した。

 自身が、目の前の彼女に侮られたということに。

 

「楽しみだ、アンタが私に敗北(まけ)てワーワー泣きわめく姿が」

「私も楽しみだ。己の無知蒙昧さを理解し、傲岸不遜さを恥じ、再び私の前に立ってくれる君のその未来の日が」

 

 口喧嘩も従業員の案内により中断され。二人はそれ以降何も発することはなかった、ウマ娘たちが、ゲートへと入っていく。

 

『各バ、ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 レーススタート開始の合図がかかるまで5秒ほどだろうか、その合間、シンボリルドルフの脳裏に甦るのは、かつての言葉。

 

『なァ ルドルフ、ウマ娘なんてのは所詮新幹線のスピードすら超えられないチッポケな存在だと思わねェか?』

 

 ───そうか、あの言葉はお前が発した言葉だったな、キングダムエクスプレス。

 

 古き良き記憶。懐かしき話題。錆びれた匂い。かつての情景。

 それらの全て、シンボリルドルフが否定する。

 

 懐かしき匂いはゲートの発する鉄臭さに否定され、懐かしき光景は周囲に佇むウマ娘たちに否定された。

 

 唯一の懐かしきモノ、それはお前の轢き逃げ戦法だけだ。それを今日、シンボリルドルフが否定してやる。私の走りを以てして。

 

 過去との決別。それは出走の合図と共に───

 

『各バ、一斉に飛び出しましたッ!!』

 

 秘めたる思いの交錯する皐月賞、ここに開催せり。

 

 


 

 

 キングダムエクスプレスの持つ異名は多い。鉄塊と呼ばれることもあれば、轢き逃げバと呼ばれることもある。

 『110%』とは、その多くあるの異名の中の一つである。

 

 轢き逃げ戦法とは、最終直線までを100%の力で走り、最終直線で停止、他の何人かのウマ娘が自身を抜いてる間に、体力の10%を回復し直線を全力で走る戦法である。この戦法の利点は100%を超える走りができること。自身の限界を超す走り、それこそが轢き逃げ戦法なのだ。

 だがこの轢き逃げ戦法、一歩間違えれば走行妨害となり、自身のレース順位、最悪の場合は競走ウマ娘として引退すらありえる恐ろしい走りでもある。後方のウマ娘に走行妨害にならない程度の距離を最終直線まで確保しなければいけない。限界(100%)を超える壁とはそこまで高いのだ。

 

 だから今回の場合、彼女の走りは間違いなく走行妨害にならない程度の走りを見せているだろう。

 

(ひとまずは一着。ルドルフはどこだ? 作戦は先行の筈だから、4番手或いは5番手の位置にいると見るか……)

 

『やはり先頭はキングダムエクスプレス。18人のウマ娘を引き連れて先頭を走って行きます。他の逃げを得意とするウマ娘も必死に追走を続けますが追い付かない、渋々二番手につきました』

 

 第1コーナーを曲がる。このカーブで抜かれるウマ娘は数多くいる、しかしキングダムエクスプレスが引き離している距離 既にバ身では表せないほどの大差、カーブで多少距離が詰められようとそこまでの変化はない。

 

(最終直線までに6バ身以上離れてればいい……あとは轢き逃げるだけだ……!!)

 

 レースは直線へと突入する。

 

『先頭を駆けるのはキングダムエクスプレス。8バ身離れその後ろにはアサカジャンボとルーミナスレイサー。注目のシンボリルドルフは4番手についています。外を突いて上がってくるのはスズマッハに対し内から攻めるのはビゼンニシキ……』

 

(シンボリルドルフは4番手、攻めてくるとすれば───)

 

 前方を確認する。直線も終わり、第3コーナーのカーブがそこに見える。

 

(このカーブだ、間違いない。今何バ身まで引き離してる…? わからないのが辛いな)

 

『第3コーナーの先陣を駆るのはキングダムエクスプレス。5バ身ほど離れ二番手はアサカジャンボ、いや違うここで上がって来ましたシンボリルドルフ! 勝負を決めに来ました!!』

 

 やはりか、とキングダムエクスプレスは思うと同時に危機感を覚えた。もう8バ身あった距離がもう5バ身も近づかされてる。

 

(一筋縄で行くわきゃねェよな、将来の皇帝は)

 

 だがひとまずここは、やるしかない。

 

 

 キングダムエクスプレスは走るのを止めた。観客席から大きな声が上がる。それは歓声か、驚声か。

 

『ここで停止(とま)ったぞキングダムエクスプレス!! 貯金(ため)ている、相手を轢くために、今! キングダムエクスプレスがクラウチングポーズをとったッ!!

 シンボリルドルフが抜く!! キングダムエクスプレスは動じない!! アサカジャンボが抜く!! キングダムエクスプレスは動じない!!』

 

 スピーカーからのハウリング音。その言葉通り、目の前を2バが通過していく、誰かが土を蹴り、泥が勝負服についた。だがキングダムエクスプレスは動じない、手は地面に、上体を撓らせる。脚を地面に張りつけ、引き伸ばす。盛り上がり、自分の足裏の形となるターフの土。これが踏切板の代わりである。

 

 目の前をまた二人、抜けていく。そして、

 

『そろそろ来るぞ、5番手のニッポースワローここでキングダムエクスプレスを抜いた!! ということは!! 動き出します!!』

 

「そんなに、焦るこたァないさ」

 

 ポツリと、独りごちた。

 相手が自分を抜くその瞬間に、自分もまた、その伝家の宝刀を抜く。それだけの話。

 

「コンマ1秒2秒稼ごうと、轢かれるのはどれも一緒さ」

 

 身体が急激に熱を帯びるのが解る。自身が風に抗っているという実感を感じる。そう、自分は今、走り出したのだ。

 勝負だ。シンボリルドルフ。ここが歴史の転換点となるであろう。ここで、お前のクラシック三冠は潰えるであろう。

 

 観客はその日、彼女が鉄塊と呼ばれる故を理解した。

 

 

 

 

開始(はじ)まってしまいました。驚天動地の奇走戦法こと轢き逃げ戦法!! 110%の理論外の競走(はし)りが次々とウマ娘を抜いて行く!!』

 

(懐かしい走りと言ったが前言撤回だ! やはりこの走りは脅威だ!)

 

 大して時間はかからなかった。アナウンスがシンボリルドルフの後方にいる4人のウマ娘の内3人が彼女に轢かれたと告げた。先ほどまで6着だったというのに、もう既に2着、しかも荒い息までもが聞こえるほどにヤツは近い。

 

「どうだいルドルフ、私が譲ってやった一着の景色はさ?」

 

 と、すぐ後ろから声が聞こえた。走っている最中だと言うのに彼女と来れば私に話しかけている。

 

「最高だよ、エクスプレス」

「だろう? だからアンタにはもう二度と譲ってあげない」

 

『キングダムエクスプレス! シンボリルドルフに追い付きました! ほぼ並走の状態!! やや優勢かシンボリルドルフ!! しかしキングダムエクスプレスどんどんと近づいてくる!!』

 

 理解した。彼女は強い。その余裕はやせ我慢ではなく正真正銘に彼女自身が強者だというのを理解させてくれる。

 私は全力を出している。だというのに彼女は私を余裕で抜こうとしている。お前と全力でぶつかれるように特訓をしたつもりだった。それがこのザマ、弄ばれてるようだった。こんなことを考えてるうちにもドンドンとその鉄塊は近づき、私を脅かしている。

 

 もしかして、まさか、あり得るのか?

 

 私は、敗北(まけ)るのか?

 

 この道半ばで、

 この皐月賞で、

 私の妹の前で、

 敗北(まけ)るのか?

 これが私の限界なのか?

 

 ───嫌だ。

 

 脳裏に浮かぶあの日の光景。懐かしきあの日、お前が私達の家から去った時、お前の部屋にあった手紙。そこに書かれていた内容。

 

『強くなります』の僅かな文面。その紙の裏にある涙に滲んだ文字。

 

 いつもお前は呟いていたな、「強くならないといけない」と。

 

 だから私は強くなった。お前が再び帰ってきた時、強くならなければいけない壁として私が立ち塞がれるように。

 

 今のお前と並走している私がいるのは、お前に抜かせまいとする現在(いま)の私がいるのは、間違いなくお前のおかげなんだ。

 

 だからこそ言いたい、ありがとうと。

 だからこそ言いたい、さようならと。

 

 

 私はお前の壁に成りたい。いずれ踏破するであろう壁に、高い壁に。

 

 だからこそ

 故に

 

「……させんぞ」

『キングダムエクスプレス近すぎる!! ハナ差だぁぁああァァァッッ!!』

「この程度で登れるような壁にはさせんぞッッ!!!! キングダムエクスプレスッッ!!!!」

 

 眼前に浮かぶ、黒きソレ。

 ピシリ

 ピシリと

 今、そのナニカが

 私の目の前で、崩れ落ちていき───

 

「……ん?」

 

 ──瞬間、私の脳裏に広がる地平線。どこまでも真白でどこまでも白亜が広がる世界。どこまでも続き、どこまでも孤独、しかし暖かく、優しい。

 

 あれ? 先ほどまで隣にいたハズのキングダムエクスプレスの姿がいない。先ほどまで聞こえてた歓声も聞こえない。

 

 まあいいか

 ここは私の世界(くに)

 ここは私の独壇場(せかい)

 唯一抜きん出て、並ぶ者無し。

 私は、この世の『皇帝』なのだから──。

 

 


 

「……なんだありゃ」

 

 観客席、先に言葉をあげたのは暁であった。だがそれは昼部もハイリボルケッタも、ザナルグレイビアも、皆が、同じ気持ちを抱いていた。

 

『な、なんとッ!! ここに来てシンボリルドルフ奇跡の加速!!! シンボリルドルフ異次元の復活!!!! キングダムエクスプレスの魔の轢き逃げから、逆に逃げているッッ!!!!』

 

「……領域(ゾーン)

「やはりか……!」

「ゾーン?」

 

 ザナルグレイビアが不意に漏らした言葉に、ハイリボルケッタが苦虫を噛み潰したような顔になる。昼部が問う。

 

「『領域(ゾーン)』。脅威的な集中力の末、ウマ娘のみが到達できる次元の名前よ……」

「時代を創造(つく)るとされるウマ娘は必ずこの領域に突入する」

「つまり、どういうことだ?」

「今ヤツが相手してるのは、時代ということだ……!」

 

 ハイリボルケッタの言葉が不自然と、暁の耳に残った。

 

 


 

 

「──バカ、な、」

 

 もうどのくらい引き離された? 2バ身か?いや違う、3バ身だ。

 

 驚愕した。目の前で信じられないことが起きた。

 確かに轢いた筈だった。3バ身先にいる彼女とはかつて言葉を交わせるほどまで近づいていき、やがては()いていた筈だった。

 

 残っているスタミナは、彼女だって少なくはない筈。

 なのに

 

「なぜ、走れる?」

 

 なぜ、こんなにも遠くに彼女がいる? 勝負を廃棄(すて)た? いや、彼女はそんな真似はしないと、頭の中の思考を投げ捨てる。

 残り距離200m。考えてる時間は無い。彼女は何らかの方法によって私より強くなった。今はそれで納得しないといけない。

 出すしかない、私の全力を今ここで。例えこのレースに敗けてしまうとしてもここで追いかけなければいけない。

 

『ここでキングダムエクスプレス加速したッ!! 諦めていない!! 鉄塊(エクスプレス)切迫(せま)っています!! おぞましいスピードです!! シンボリルドルフへとどんどん近づいていってる!! 猛悪に迫りくる!!』

 

 ようやくその背中を捕捉した。距離がドンドンと縮まっていく。

 

『再び迫りましたキングダムエクスプレス!! ちょうどシンボリルドルフの背中についた!!』

 

 抜いてやる。轢いてやる。

 じゃないといったい、私は何の為に走ってるって言うんだ。

 

 足に力を込めて、今、駆け抜く───

 

 

「ああ、良いなぁ」

 

 

 刹那、耳から聞こえたルドルフの独り言。

 

 

「この景色、譲りたくないなぁ」

 

 

 無垢なる言葉。気づいた時既に遅し。

 

 

『シンボリルドルフ! ここで更なる急加速!! シンボリ強い!シンボリ強い! エクスプレス体縮まらない!! 捉えているのはゴールラインただ(ひと)つのみだァッッ!!!!』

 

 

(ま、だっ、余力をっ……?)

 

 アイツは、私より遥か先に

 今、そのゴールへと

 

 

『ゴォォォォォォッッルッッ!! インッッ!!! クラシック三冠の第一歩を征したのはシンボリルドルフッッ!! 皐月賞制覇はシンボリルドルフ!!! キングダムエクスプレスの轢き逃げをかわし、シンボリルドルフ華麗なる勝利です!!』

 

 歓声鳴り響く中私は地に伏せ、ただえずく。汗と共に涙が滲み吐き気がする。疲れが押し寄せてくる。レースを走った後は、いつも襲ってくる筈のそれ以上の『勝った』という快感と気持ち良さ。それらが今、一斉に私へ牙を向いているのだ。

 

『シンボリルドルフ、指を一本掲げました!! 宣誓しております!! クラシック三冠制覇の夢 先ずは一冠達成と雄々しく指を立てているぞ!!』

 

 膝をつき呼吸が荒く、目の前が霞み、彼女が何をしているのかはアナウンスのみからしか判断できない。脳裏にふと、兎と亀の童話の話が甦った。

 なぜ兎は勝てず、亀は勝てたのか。それは兎は亀しか見なかったから。亀が兎に勝てたのは、亀がゴールのみを見てたから。

 

 私は唯、ルドルフに勝つことしか考えてない。だが一方の彼女は、私などまるで眼中にない。見ているのはクラシック三冠達成の景色。7冠達成の景色。

 

 それを理解した瞬間。急に、自分はなんとチンケでちっぽけでチープなウマ娘だろうかという思考が襲ってきた。

 

 今は、何も考えたくない。そんなことをひたすら考え続けている自分の矛盾にさえも気づかず、私にできたのは、溢れた涙を汗で誤魔化すことだけだった。

 

 


 

 

 暗い夜道だった。トレセン学園の帰り道、電灯に照らされてもまだまだ闇は深く、黒い。

 

「……まぁ、GⅠしかも皐月賞で2着なんて、凄いじゃないか。あのような成績、他の並々たる愚鈍共にはできん芸当だ」

 

 その宵闇に二人のウマ娘、キングダムエクスプレスとハイリボルケッタである。

 

「ああ……ありがとう」

「何も気に病むことなどない。相手が悪かった。領域(ゾーン)に入ったウマ娘と競うのは、即ち時代を相手にするようなもの。それに喰らいつき、もぎ取れた2着など、100人中100人が称賛するだろう」

「うん……ありがとう」

 

 ハイリの必死の擁護も、彼女にはあまり効果がないようだった。

 ハイリは先ほどの皐月賞を思い返していた。圧倒的大敗、そうとしかいいようがない。彼女の心境をありありとハイリは理解できた。同じプライド高き者同士だからこそ、理解できるその心境。

 

 領域(ゾーン)に突入していたから。だから?

 時代を風靡するウマ娘だったから。だから?

 出たレースが皐月賞だったから。だから?

 

 それは負けていい理由にはなり得ない。それは言い訳でしかなく、負けたという事実が変わることは決してない。それがわかるからこそハイリのかける言葉は次第にすぼんでいき、やがては無の時間となっていった。

 

「……わリィ、ハイリ。先に帰っていてくれねェか?」

「どうしたんだ?」

()()()を、したんだ」

「忘れ物か? 別にそれくらいなら──」

 

 いいかけてエクスプレスの顔で気づく。その顔が、悲しみに濡れていることに。

 

「──そうだな、なら、先に帰ることとしよう」

「ありがとな、それじゃあ──」

「エクスプレス」

 

 去ろうとする彼女を、ハイリは声をかける。

 

「何さ?」

「……ゆっくりで、いいんだぞ?」

「……ああ、すまねぇな、いつも、アンタにも迷惑かけっぱなしだ」

「同じチームの仲だ、気にすることない」

 

 彼女はそう言い去っていく。その後ろを見送りながら、ハイリは独りごちた。

 

「あとは頼んだぞ……トレーナー……」

 

 

 

 

(負けた)

 

 トレセン学園の夜道はなんともまあ暗いものだろうか。私有地故に電灯の灯りが入り込む余地などまったく無く、更に暗さが増していた。

 

(勝たないと、行けなかったのに)

 

 だからこそそんな中で歩く彼女の姿は端から見れば、幽鬼としか言い様がないだろう。あの時ルドルフに言われた言葉を、未だ反芻している。

 

『獅子搏兎、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすという言葉を四字熟語で表すとこうなる』

『さしずめ、君は大海を知らない井の中の蛙と言ったところか』

『どんな獅子だろうと、蛙ごときに全力を出すわけなかろうに』

 

「獅子……搏兎」

 

 とあるベンチに座った。誰もおらず、誰もエクスプレスの話すことなど気にしない。

 不思議な感覚だった。あの大敗、未だに気分は沈み、涙で顔を濡らした筈なのに

 

「……走りたい」

 

 体のどこか、胸の奥にあるナニカが、彼女に再び熱を燃やしている。

 シンボリルドルフを轢くために費やした途方もない時間。それは報われることなく、領域(ゾーン)などという正体不明の存在の前に呆気なく潰れていく。

 打倒ルドルフに費やした年月すら、轢き逃げ戦法を確立させるまでの時間すら、努力の全てが、圧倒的な才能の前では意味を為さなかったというのに。どこかで、また走りたいと思う自分がいる。

 

「でもこんなんじゃ、会わす顔がないな……」

 

 沸き立つ闘志そのままに、満面の星空を見上げる。

 

「最強のウマ娘になるって決めたのに……シンボリを轢くウマ娘になるって決めたのに……」

 

 一人になるとついつい漏らしてしまう。本音というのを。

 

「どこにいるんだよ……母さん」

 

 本音は誰にも聞こえるというものでもなく──

 

「よぉ、随分とまぁひでぇ(つら)してんじゃねェか」

 

 失意のウマ娘の前に現れる一人の男。(あかつき)(あきら)であった。

 

 


 

 

「隣、いいか?」

「変な気、起こすつもりじャあなきゃいくらでも」

 

 ベンチの隣に座る暁を、エクスプレスは警戒していた。こんな時間帯、こんな場所。なぜここに彼がいる?

 

「負けたな」

「負けたさ」

「悔しいか?」

「悔しいよ」

 

 見事なオウム返しを繰り返す中、話を変えたのは暁からだった。

 

「負けて、悔しい。それだけか?」

「それだけなワケないさ。次のレースで勝ってやる」

「具体的には?」

「それは練習しながら考えるよ」

「なるほど。怒るかもしれないけど──そんなんじゃルドルフには勝てねェよ」

「……何だと?」

 

 エクスプレスの鋭い双眸が暁を睨みつけた。人すら殺せてしまう。そう錯覚するほどまでには強い瞳。暁は内心、それに慄いた。だが脳裏に浮かぶのは先ほどまでのハイリの言葉。

 

『我々は過ちを犯す。才能に溺れ 独りよがりになる時、レースで故障して自己嫌悪に陥る時、明日のレースで巧く走れるか不安な時。その時、独りよがりを叱り、自己嫌悪を解消し、不安を支える存在が必要となる』

『個我を通せ、話し合ってみろ。同じ言葉の通じる者同士じゃないか』

 

 その約束は守らないといけないという矜持が、暁にもある。

 

「一度ミスったクセに、自分ならなんとかできると思い込んでるようじゃ。何もできねぇよ」

「………」

「そして、それはオレもそうだ。変わらないといけないんだ。オレも、エクスプレスも」

「……どう変われと?」

「オレは、逃げていた。あの時のオレは、オマエに圧されて逃げちまった。そして、オマエを皐月賞に勝たせてあげられなかった。不甲斐ないオレをどうか許してくれ」

「……いや、私も謝りたいんだ」

 

 深々と頭を下げる暁に、キングダムエクスプレスは話しかける。

 

「わかったんだ。やっぱり私は、シンボリルドルフに勝ちたい」

 

 その口から漏れ出た言葉は、誠の陳述。黒く深い闇を見上げ、燃え尽きることのなき闘志に燃え立つひとみが告げていた。ここで終わりではないと。

 

「例え見る景色が違ったとしても、それでも私はルドルフに勝ちたいんだ」

「……ああ」

「どれだけ才能の違いがあっても、どれだけ壁が高くても、どれだけ差が離れていても、私はシンボリルドルフを轢き逃げたいんだ」

「そうか」

「あの皐月賞の絶望、あの200m地点での絶望。負けるのがどんな気持ちなのかわかった筈なのに、アンタの話を聞くとまた、勝ちたくなってきちまった。勝ちたいって気持ちが冷めてくれないんだ」

「おう」

「でも、私だけじゃ、ルドルフには勝てない。今日のレースで、それを味わった」

「ああ」

「暁、いや。トレーナー」

 

 エクスプレスが暁の前に立った。暁は改めてキングダムエクスプレスの瞳を拝見した。もう、今までの執着のエクスプレスではない、盲目と化していない。力強い目が暁を魅せてくれる。

 

「私を、強くしてくれ……!! シンボリルドルフを轢き逃げられるほどのウマ娘に私をしてくれ!!」

 

 少しの時間、返答はなかった。沈黙を破り、聞こえてきたのは笑い声。笑いの主は暁だった。

 

「……なに笑ってんだよ」

「いや、当然のことをこうもハッキリと言われると、笑いたくなるってもんだ」

 

 先ほどまでの笑い顔から一転し、暁は真剣な表情でエクスプレスの目を見据えた。

 

「オレから言わせてくれ、エクスプレス。オレにオマエを強くさせてくれ」

 

 差し出される右手、エクスプレスは鋭い笑みを浮かべると、その手を何の躊躇いもなく握りかえした。それぞれの手が締め付けられる、それほどまでの力強さを以てして。

 

「ああ、最大限をやって見せてやる。シンボリを轢き逃げた後の、その景色を見せてやる。よろしく頼む、トレーナー」

「ああ、これからよろしく頼むぜ、エクスプレス」

 

 握手を解き改めて相対する二人。あの無頓着で真っ白だった視線が打って変わり、今や暁へ向ける目線には信頼が宿っているような気がした。

 

「それで、私はダービーまでに何をすればいいんだ? トレーナー」

 

 一拍置き、エクスプレスが問うた。

 

「いや、オマエは日本ダービー出んな。三冠は無理だし、ダービーまで時間無いし、いずれにせよ今のままじゃルドルフには負けるから」

「は?」

「ひとまずはオークスで1着なオマエ、それじゃ──アアッ!!」

 

 ゲシリと、キングダムエクスプレスは容赦なく去ろうとした暁の背中を蹴る。絶叫が響く。

 

 

 その夜のことを、夜勤中だった駿川たづなはこう説明する。

 

「地獄の釜の底から、亡者の叫び声がした」と。

 

 

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