【完結】シンボリルドルフを轢け逃げられますようにと、彼女は願った 作:ムーンフォックス
「やぁ、アードルフ」
「……よオ、ルドルフ」
「こんな場所くらい、姉さんと呼んでくれればいいのに」
エクスプレスの病室、そこへノックと共に入りこんできたのはシンボリルドルフの姿だった。花を大事そうに抱え、手に提げてるバスケットからは色とりどりの果物の姿が見える。
「脚は、良くなったか?」
「良くはなってるらしい。退院はまだ当分先だけどさ」
「そうか、良かったな」
「良かったァァ? こっちは菊花に出られなかったってのに」
「……すまなかった」
ルドルフは腰掛け、改めて目の前の彼女を見た。尚も吊られている右足以外に、傷らしい傷は特には見当たらない。だがその肝要の脚に、どれほどの傷があるのか。
「医者は来年の春には完治するって言ってたが、頑張って年末の有馬には間に合うようにするさ」
「病気平癒だ。無理はするなよ」
「ああ、わかってるって」
忠告を真剣に聞いているのか聞いてないのか。おそらくは後者だろうなと、ルドルフは心の中で思考する。回想してみれば、昔から彼女は自信過剰な面があった。だがそれは逆に言えば、彼女が通常通りのコンディションへと戻りつつあるということでもある。
「んなことより、アンタはこんなところで油売ってるヒマがあるのかい?」
「ん? ああ……」
ちらりと、ルドルフは窓を見て、そして壁にかかったカレンダーを確認した。窓から見えた景色は紅葉しきった椛の葉、カレンダーに書かれてある月日は──10月後半を指していた。
そう、今日はクラシック三冠最後の関門、菊花賞開催日の前日である。
「お前に、言いたいことがあってな」
「私に?」
「明日、私は菊花を制し、見事クラシック三冠ウマ娘の名を得る。だから──」
次の言葉を発しようとしたルドルフを、エクスプレスは手で制した。太陽は落ちかけ、暮れ泥む空が窓の外から見える。
「止してくれよ、菊花はまだ取ってないでしょうが」
「……私が負けると?」
「そんなこと言ってないさ、アンタは勝ちは99%確定していて、1%を引くのはほぼあり得ない話だ」
落ちていく日の影で、隠れるルドルフの顔。だがその声色が伝えていた。彼女の、その笑いという表情を。
「だがその1%を切り開いてくれるって100%信じられるようなヤツを一人、私は知っている」
「聞かせてもらおうか、そのウマ娘の名を?」
「ハイリボルケッタ。皇帝すら下になるほどの高低差にて、更に上を目指す者の名前さ」
飄々と、憎たらしいほどの言葉の数々はシンボリルドルフの闘争心に火をつけるのは十分すぎた。
「応援してるぜルドルフ、勝てるようにな」
キングダムエクスプレスの喜色満面の笑みが、その火を静かな青く燃える炎にさせる最後の一押しだったのは、言うまでもない。
何から何まで恵まれていた。両親は私に愛を持って接してくれ、その一方で金に困ることはなかった。頭もよく、テストでは勉強せずとも上位だった。体力も、生まれがウマ娘とあってか人間よりは上だった。私が天才だというのは、もはや誰もが知る『絶対』の常識だった。
そして私は、そんな自身を嫌悪していた。
私は絶対の天才だった。だからこそ生じる他者にとっての一位と自身の持つ一位との価値の食い違い。
私が一時間程度の勉学で得た一位の裏で、ひたすらに努力を重ね、遊ぶ暇を制限し、それでも才能という絶対の壁の前に屈し、二位という称号になってしまう者たち。その泣き叫ぶ姿が、未だに頭から離れない。
私は才能があった。才能しかなかった。努力の果てに手に入れるカタルシスとやらも、乗り越えて得る満足感とやらも、わたしが得られることは絶対になかった。
だがその才能ゆえに、私がその世界に気づけたのだとすると感謝しかない。
親に連れてかれた東京レース場。そのレースで最低人気だったウマ娘が、驚くことに圧倒的バ身で一位を獲得した時の光景。
童心ながらも、理解していた。
この競走ウマ娘の世界に、『絶対』がないということを。
この絶対がない世界にて、得られるカタルシスとはどれほどのモノなのだろうか。
画家、教師、美容師、なんにでも『絶対』に成れる私が選んだのは、そんな『絶対』が存在しない世界だった。
そんな世界で、常に
私のハイリボルケッタという名前は、そんな意味なんだろうと、勝手に思ってる。
そして、そんな世界だからこそありえない話だった。
『3枠、5番。シンボリルドルフ。一番人気です』
『このレースに勝てば、初となる無敗でのクラシック三冠制覇です。果たしてこのウマ娘に勝てる猛者はいるのでしょうか』
絶対は絶対にない、とは誰の言葉だったか。
絶対にこの世界にはないと思っていた筈の『絶対』。
目の前の彼女には『絶対』があった。
そのウマ娘、シンボリルドルフには。
「曇りかぁ……」
ぼんやりと何の気なしに見上げた空の表情は曇り、はっきりとしていない。最先端な病室の人口的な光でも、この薄暗さを完全に消すことはできないらしい。
『さあ各ウマ娘それぞれゲートに入りました。出走のお時間です』
テレビから流れる無機質なファンファーレの音は試合の展望を期待させるには十分なスパイスだった。液晶の奥で沸き起こる歓声がそれを証明している。
「かぁ~っ!! 出たかったなぁぁぁ~ッ!! 一着で勝ててたのになぁ~~ッッ!!!!」
吐露した言葉は紛れもなく真だ。病室が防音なのかを一切考慮しない。嘆息と共に出た大声は、きっと迷惑千万なこと間違いないだろう。
「ま、仕方ないモンは仕方がない。頑張って私の仇討ってくれよー!! ハイリー!!」
どれだけ喚こうと画面の向こうの彼女には聞こえる筈もないというのに、恥ずかしげもなくなぜ自分は応援できるのだろうかと自身に向けて詰問する。
自答。多分それは何処かで自分たちが繋がっているからだろう。おそらくは魂に。
その時ちょうど、ハイリが私の方を見て笑ったような気がした。或いは、それはテレビや、観衆に向けて笑ったのかもしれない。だが、16番人気で知名度もない彼女を応援しようとする好き者が、私以外にいるとはとても考えられなくて
「やっぱ、繋がってるんだなぁ……」
曇天の空が、少し晴れたような気がした。
「仇討ち、か」
「どうしたんだ?」
ハイリボルケッタが空を見上げていた。シンボリルドルフの怪訝そうな瞳は始めこそ、そんな突然の行動を見ていたが 察したかのように微笑むと、同様に灰空に目を向けた。
「……エクスプレスが、私にせがんでいるような気がしてな『仇を討ってくれ』と」
「はは、アイツらしいな。で、仇は討てそうか?」
「うーむ……」
彼女は頭をポリポリと掻き、僅かばかり考えを巡らせている様子である。その芝居がかった演技のせいか、ルドルフにはその動作がどうしても、敢えて結論を言うののを遅らせているようにしか見えなかった。
「実は、結構難しそうでな、これが」
観念の混じった声色には、苦く辛くの重みが含まれている。だがそれだけじゃないと、ルドルフは直感していた。ほんのりと、それは甘い香りがしている。
「まあ、だが、その分。楽しみでもある」
甘いソレの正体に、ルドルフは気付く。
それは、圧倒的な余裕。ヘラヘラと笑う彼女の笑いが突然深みを増した。さらに凄まじいのは、それだけのことで彼女の笑いは不適なモノへ、不適なソレから子供をあやすような挑発的な意味で変化してくという点である。
笑顔とは、本来は威嚇の意味もあるそうだがそういう点で見れば彼女の魅せてくれるその満面の笑い顔は───
「……いい顔をしてる、ハイリボルケッタ」
「責めてものの情けだ、お前の敗北くらい笑って見届けられるようなウマ娘にならなくてはな」
「言うじゃないか」
シンボリルドルフは静かに微笑んだ。
以降で二人が言葉を交わすことはなく、静かに、厳かにゲートへと入っていく。感情に燃える観客とはかけはなれ、両者はただ。その時を静かに待っていた。
『さあ!! スタートです!!』
したがって、開かれるゲートにいち早く対応できたのは、シンボリルドルフだけだった。ゲートの開かれる音が嚆矢となり、ハンマーから射出された弾丸のような走りは先頭集団の群れへ易々と合流でき、4位という地位は確固たるものとしている。
対照に出遅れたのは、ハイリボルケッタであった。
菊花賞の舞台である京都レース場には、一つの坂がある。通称を『淀の坂』。
第3コーナーから第4コーナーにかけて存在するその坂の高低差は、なんと驚異の4m。さらに菊花賞は3000mという長さのため、この坂を二回通る必要がある。
問題はその通るタイミング、なんと一度目の坂を昇るタイミングは───スタート時である。一斉にスタートを開始し、横に逸れるという戦法が使えない最初の場面でのこの坂は、ウマ娘にとっては致命的なのだ。
スタートダッシュこそが肝要なこの菊花賞において、彼女の選択は英断、或いは愚策と呼ぶ者もいるだろう。
だがハイリボルケッタは応えてくれるだろう。これは未来を拓く勇者の剣だと。
敢えての出遅れ、それを望んでいた。
『出遅れたぞ2番、先行きが少し不安です』
後続集団へ合流したならば、本来は先へ進もうと必死になる筈だというのに──
そのウマ娘の笑みは止まることを知らず、その走りはとどまることを知らず。
ハイリボルケッタの顔は依然として、焦ってはいない。
『黄金の不沈艦』と呼ばれるウマ娘がいる。
だがそのウマ娘の名前には、不思議なことに『不沈』を意味する単語は存在しない。
ならばなぜ? それは不沈と呼ばれるのか?
スタートが重要な競走に於いて、遅くても構わない作戦がある。
後半にかけて徐々にスピードを出していく姿はまさに死神の歩。『追い込み』である。最後尾だった筈のウマ娘を一位にさせるその魔法は、多くのウマ娘を魅了させてきた。
私もまた、それに魅せられた一人に過ぎない。
悲しいかな、目の前の景色をどれだけ見ても、そこに
嬉しいかな。そんな先頭を見れないことが、こんなにも幸福だとは、先頭を意識できないのであれば、信じられるのはもはや私だけ。
『第2コーナー抜けて直進の滑走路へと突入しました。シンボリルドルフはまだ力を見せません』
だからこそ、自分の肉体がどれほど信用できるのかなど
それは諦念故か、勝ちを確信しているからなのか。それはきっと、
『さあ直線も終了し疲労困憊のウマ娘たちを待ち構えるのは、この京都レース場の名物の
高低差4メートルの坂。人が落ちて、打ち所さえ悪ければ死んでしまう高さの坂。
最前線で戦い続け、もはや脚が限界のウマ娘たちを、その坂は容赦なく襲い速度を落とさせていく。それは、あの皇帝でさえも例外ではない。
先頭集団のスタミナが切れたと確信した刹那。私の脚に力が籠められる。
この坂でなければ、皇帝を抜くことは叶わない。
今こそ高き革命を。
私はそれを、放出した。
辛うじて入手した新バ戦の映像から、ハイリボルケッタの作戦は追い込みだということがわかった。
次にルドルフは、もし自分が追い込みならば、どこで勝負を決めにかかるかを考えた。
出た結論は、この坂だった。
そして予想通り、そいつは来た。
そのウマ娘、ハイリボルケッタは。
恐ろしい爆発力だった。高低差4メートルの上り坂など物ともしないようなその走りは、限界までスタミナを温存した追い込みでなければ行えない芸当。
『上り坂を駆けていくのは3番! 内から上がってきたのは3番! どんどん他のウマ娘を抜いていく!!』
ここが分水嶺、ここで彼女を引き剥がさなければ負ける。確信めいた予感に、考える時間はなかった。
意識を集中させる。直後、急速に色を失う世界、即座に音が消える景色、発現する私だけの独壇場。
目の前にいた筈のウマ娘たちが見えなくなる。それはきっと、
『――――――――!!』
靡く髪は冷たく、心中にある炎は青く、しかし心地はよく。第4コーナーを曲がり終え、視界に見えるゴール板。何かを叫ぶ司会の声は聞こえず、静寂こそがルドルフの心を凪いでくれる。
「──へ」
気づく、そんな孤高の世界に混じる、一つのノイズ。
「──こへ」
振動が地面から伝播してくる。あり得ない筈のその音。領域が、侵されるかのような不安。脚は自然と、スパートをかけていた。本人には気づかなかったであろうが、そのスパートは凄まじい速度を誇っていた。気づけば残りの直線距離はもはや400mを切っている。
このスパートでどのくらいのスピードが発せられた? ルドルフにはそれがわからなかった。
だが、それはきっと背後にいたウマ娘など十分に引き離せて───
「何処へ、行くんだ?」
引き離せて───いない?
背後で挑発を行うその声の主の正体は、ルドルフにとってはつい先ほど言葉を交わした者であるというのは容易に理解できて
「……
疲労による汗とは別に、気味の悪い汗も流れていることにルドルフは気付く、次なる思考は、この汗は一体という自問、しかし答は、幾度待てとも帰ってはこず。
当然だった。
それは
否、皇帝という頂点に立つ存在が故に理解できない感情。
その感じたことのなき物の正体は、革命。
皇帝をその座から引きずり下ろさんと、革命が、恐怖として皇帝を今、襲い───。
視界に色が宿り始める。しまったと後悔する暇などなく、シンボリルドルフに孤高の世界を魅せてくれた魔法は、解けてしまった。
直後、耳から聞こえた情報を、嘘ではないのかとルドルフは考えた。だがそれは状況から照らし合わせると、簡単に想像ができてしまい───
『せっ、先頭を走るシンボリルドルフの背後を、ウマ娘が1人、完璧に張りついています!!』
またもや理解する。これこそが、私に恐怖を味会わせ、
完璧に彼女の策に嵌められた。
顔の歪むルドルフに、ハイリボルケッタは静かに語りかける。その顔は対照的に苛つきを覚えるほどの笑みで、邪悪さが滲んでいる。
「ようこそ、皇帝よ。我々の凡庸たる
堪能してくれ、
ハイリボルケッタがルドルフの前に躍り出たのは、その直後であった。
競馬に絶対はないが、彼女には絶対がある。誰かが言う。
だがそれは転ずれば、彼女には絶対があるが、競馬に絶対はないということである。
表面では最大限の注意を払っていた。だが、ライバルの筈のキングダムエクスプレスが今回のレースにいなかったことで、心のどこかに油断が生まれていたのかも知れない。
「マジかよ……」
病室で、エクスプレスが最初に発した言葉はそれだった。青ざめた表情には焦りと驚愕が浮かんでいる。
だがその一方で口元は緩み、ニンマリとした笑みが存在することに彼女は気付いた。喜んでるからだと、一瞬の答。しかし再び浮き彫りとなったのは、何故喜んでいるんだという新たな疑問。結論は至ってシンプルに出た。
「……すげぇ」
応援している存在が、勝っているからだ。
子供のように純粋な心の声が漏れてた。
ハイリボルケッタ、彼女ならば、或いは──。
「……頑張れ、ハイリ」
たった一人の声援が、病室に広がる。
その一人で十分だった、革命が起こるのには、皇帝に近づく走りを見せるのは。
どうして、
息は苦く。息は辛く。息は痛く。
そうか、末脚か。最後まで温存していたスタミナによる末脚のスピードで、私に食らいつけていたのか。
全身は呼んでいた。全身は想っていた。全身は願っていた。
だが先ほどので、その溜め込んだスタミナは尽きたに違いない。そうでなければ、彼女はとっくに私から距離を離している。挽回の余地は、充分に残されている。
全身を加速させよと呼んでいた。目の前の革命者を倒せと想っていた。皇帝として、ここで負けは許されないと願っていた。
負けられない。
敗れられない。
それは許されない。
身体さえも、吐く息さえも、全身さえも。
全てを、総てを。加速させよ。
『ここで更なる加速を見せたのはシンボリルドルフッ!! 風と化し、嵐と化し、颯と化し。前方のウマ娘を吹き飛ばさんと迫りきります!!』
恐れることはない。イレギュラーは怖くない。そうでなければ、この頬を伝う水滴はなんなのだ。この熱き雫は、何故出ているというのうか。
恐れているのか?
畏怖しているのか?
『この距離で差し返せるかシンボリルドルフ!? 猛追のシンボリルドルフ!! 不可能ではない! 距離がどんどん縮まっていくッ!!!』
思い返すあの日、アードルフが私たちから消えていってしまった日。自身の不甲斐なさに腹が立った。腸が煮えくり返るほどの無力感を味わった。強ければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
私があの日、彼女を止める勇気さえあれば
このようなことにはならなかったかもしれないのに。
ゴールが迫る。終わりの時が近付いてくる。
だが彼女との距離はそれよりも近付いてる。
目の前の革命者など、恐るるに足りない。皇帝は、革命など恐れない。
私が負けるなどと
無礼千万にも程が有る。
再び、
目の前の彼女に、何を恐れる必要があるというのだ。
ゴールを踏むのが許されるのは、私一人だ。
『両者ともにモツれるようにしてゴールイン!!』
私へ向けられる歓声はスピーカーから流れる結果を掻き消した。観客席を一瞥した。溢れんばかりの多くの大衆が、私へ向けて一心不乱に手を振っている。喜んでくれている。そう、誰しもが疑わない。私の勝利。初めて達成するであろう。無敗の三冠ウマ娘というのを。
それよりも気になったのは瞼から止めどなく出てくた、水の正体だった。一体、なんだったのだろうか。
「なんだ、泣いてたか?」
ハイリにかけられた声で、ようやく理解する。
涙だ、その痕。流したのは何時ぶりになるだろうか。最後に流した日はそう、アードルフが私たちの前から姿を消したあの日であるのを思い出した。
「……そう、か。泣いていたのか、私は」
「イヤミか? ……そんなことより、煽る材料ならいくらでもあるというのに……」
ハイリボルケッタの視線が移動した。目的地は、電光掲示板の表示。
ハナ差。
私の勝利だった。
「……無敗の三冠、おめでとう」
華やかな初の無敗三冠、応援を続けてくれた人々の歓声の中、辛うじて三本の指を掲げる。勢いを増す声援に、ハイリボルケッタのことを称える声は聞こえない。
負けたというのに彼女は落ち着いている。その凪いだ心は諦念によるものだろうか。だがよく見れば、静かに喋る口調と裏腹に握った拳は固く、仄かに血が滲んでいる。
「さて、エクスプレスの奴になんと弁明すべきかな……」
なんて強く、高貴なウマ娘だろう。悔しかろうに、目の前に自身を負かした相手がいるというのに、彼女は悔しさといった素振りを一切見せることなく、純粋に勝利を喜んでいるように振る舞っている。そんな存在が、この世にどのくらいいるだろうか。
「ハイリボルケッタ。エクスプレスに、伝えておいてくれ」
「……構わないが、何を?」
問う彼女への返答は、イメージした通りにハッキリとしており───。
「『有馬記念で待つ』か……」
「すまなかった。勝てなくて」
私の目の前で、その誇り高き革命者は頭を下げた。言葉には自身への戒めが籠められている。何かしらの言葉をかけようかという思考が頭を過るが、彼女には逆効果だろうと、それを一蹴した。
「……顔を上げてくれよ、ハイリ」
「合わせる顔など、私にはない。走る理由を、お前に与えてやれなかった」
「見つかったさ、走る理由は」
彼女はついに、顔を上げようとはしなかった。冷静な言葉とは裏腹に、声は僅かに震えている。そんな彼女の肩を軽く叩く私の顔はきっと愉快に晴れていた。
「菊花賞でアンタの走りを見て、柄にもなく高揚した。ルドルフの前に立った時なんて、こいつなら本当にルドルフに勝ってしまうとすら思ったさ」
「……だが勝てなかった」
「そうだ、でも得られるものがあった。私に走れる理由があるとするならば、その得られた物以外にはない」
「それは……」
「悔しさ、だよ」
皐月で負けた。菊花で負けた。悔しさしか残っていない。私はいつか、彼女にそれを精算させなければいけない。心中を青い炎が渦巻く。
「アンタの復讐を、私にさせてほしい」
「………」
返事は来ない。必要もない。彼女の握り拳は私のベッドの上にあった。
そこへ深い皺が刻まれていく。布団には水滴が染み込んでいた。
「……バカが、この私がそんなことをお前に頼むと思うか?」
立ち上がった彼女の顔は見ていない。涙に濡れていたを知るのは野暮だった。夕焼けの破滅的なオレンジに晒された彼女は扉をあける。
「有馬の出走届けは……出しておいてやる」
「……ありがとな」
ピシャリと閉じた戸。新たに背中に積んだのは彼女の想い。ずっしりと重たく、だが心地悪さは一切感じられず。
「上等だ、有馬で待ってろ」
その時の私が笑っていることに気づいたのは、もう少し後の話。
前話にてあんな大見得を切ったのにこの結果、誠に申し訳ございません。よろしければお気に入り登録、評価お願いします。
次回では、僅かばかりの特殊タグを使おうと考えております。その是非を、今回のアンケートで決めたいと思います。アンケート協力のほど、よろしくお願いします。