【完結】シンボリルドルフを轢け逃げられますようにと、彼女は願った 作:ムーンフォックス
それは、暁だった。黄昏時の空は破滅的なオレンジに染まり、星空が仄かに瞬く時の話。
オレはその日、とあるウマ娘に出会った。暮れ泥む髪色が煌めく、綺麗なウマ娘だった。
歯痒い、孤独なキングダムエクスプレスの心情を代弁するというのなら、それ以外に言葉はないだろう。歯痒さはカレンダーを見る回数にも繋がっており、本日こうして十回目の日付の確認をしてしまう。
理由は、ちょうど一週間後の予定にある。有馬記念、その四文字がエクスプレスの目を惹き付けてやまなかった。今から八ヶ月前の皐月賞、そこでシンボリルドルフに舐めさせられた辛酸、それを雪ぐ時が間近に迫りきっている。期待は止まない。
不安の種はやはり、脚、だろうか。無論 まだ折れてるからという理由ではない。自分はこの長い間、骨折によりトレーニングを行わずにいた。そんな鈍りきった身体が、あのシンボリルドルフに通用するのだろうか、あの皇帝に罷り通るのだろうか。その不安と不信が、エクスプレスの心中に遍き、渦を巻いている。
「キングダムエクスプレス……よね? あなた」
ふと聞こえたその声が、エクスプレスの思考を停止させた。ウマ娘だった。深いオレンジの髪と頭に被る麦わら帽子が似合い、対照に着せられた患者衣と──腰掛けている車椅子が、似合ってはいなかった。一体誰だろうか、自分のかとを知っているようだが。ルドルフを始めとした、長い病院生活の中で、これまで交わした会話の相手を思い返す、が、やはり、目の前の彼女に心当たりはなかった。
「そうだけど……どちら様?」
「ごめんなさい、私が一方的に知ってるのよ。あなたの走り、いつも画面で見させてもらってるわ。オークス優勝、おめでとう」
「あア……どうも」
合点がいった。微々たる数ではあるものの、エクスプレスのファンは存在する。事実、入院したての頃は何個かの品物が届いていた。目の前の彼女もまた、その一人なのだろうと、適当に推測をつける。
「その足……」
「ああこれ? もう動かないのよ。レース中にドジっちゃってね」
「……すんません、無遠慮でした」
「いいのよ、もうずっと昔のことだもん」
気になるのはやはり、彼女の足だった。抽象的ではあるが車椅子に乗っかっている足は、ウマ娘にしてはどことなく頼りがないような気がしたのだ。しかし不躾な問いかけを投げ掛けられても、彼女は気にするような素振りを見せないどころか、その足をパンパンと叩き、力強さをアピールしている。
「有馬記念、出るの?」
「当然。今度こそ、ルドルフの奴にギャフンと言わせてやります。だから観ていてください」
「ふふ、どこまでも一直線、若いって素敵ね。わかったわ、有馬記念当日には、久しぶりに私もレース場に行くことにするわね」
「えエ、是非とも」
去っていく彼女へ手を振りながら、そういえば彼女の名前を聞いていなかったと後悔する。
しかし、見分けは一瞬でつくだろう、燦然と光る彼女の橙色の髪は、遠目から見たとしても、間違えることはないだろうから。
辺鄙な田舎で出会ったその幼いウマ娘は、ここから出ることを望んでいた。都会に出て、競走ウマ娘として走りたがっていた。
奇遇にも、それは自分も同じだった。ウマ娘のトレーナーになることを望んでいた。こんな閉鎖的な環境ではない。とにかく束縛から逃げ出したかった。
偶然の引き起こした意気投合。思いはやがて実行へと移される。数年後、オレたちは中央へ来た。
「……キングダムエクスプレスさん。二つの選択があります」
荘厳な雰囲気だった。たかが診察室、しかし目の前の医師の面立ちは至って深刻で、相対する私に生唾を呑み込ませるほどには有無を言わせぬ迫力がある。
レントゲン写真が二枚あった。足の写真だとは素人目に見てもわかる。そしてその内の一枚が完全な骨折をしているのも、理解できた。
「これは半年前──あなたがトレーニング中に骨折した際のレントゲン写真です。そしてこれが、つい先日検査した際の物となります」
掲げられた二枚を比較すれば、その差は一目瞭然であった。見るも痛々しい惨状の半年前と、一見すれば完全完治を果たしたと見えたついこの間の写真。
「ここ、見てください。僅かながらではありますが、完治してない箇所があります。骨折をした直後でのこのような傷は、ともすれば前以上の骨折を引き起こすほどには危険なモノです……本当に最悪の場合、今後二度と、歩けなくなる可能性すら……」
「……とっとと話してくださいよ。そうやって引き延ばされるのが一番嫌なんだ」
「キングダムエクスプレスさん。有馬記念を諦めてください」
詰まる所は、ここに帰結する。目の前の医師の眼差しは暗く、面差しは深く、それがやはり、現実であることを理解できる。
「私は医者です。そして、貴女の走りをデビュー戦から見させてもらっているファンでもあります。端から見ればその傷は小さい、出走は認められてしまう」
「良かったじゃねぇですかい、有馬記念には出られるってこった」
「走れなくなるかもしれないんですよッ!!!! アナタッ、怖くないんですかッ!?」
目の前の医者が立ち上がった、滾る思いを座って表現しきれなかったのだろう。糾弾する嘆きは叫びとなり、大気を大きく震わせ、哀しみの刃を突き立ててくる。そんな言葉の刃が首もとに迫っているというのに、それに怯えていない自分も、やはり異常なのだろう。
「アンタ、デビュー戦からのファンだのと抜かすワリにゃあ私のこと殆ど解ってねぇんだな」
瞳はもう、目の前の医者を捉えてない。言葉にはもう、彼への敬意は発散されている。知らず知らずの内に私も立ち上がっていた。この心中に遍いて、逆巻いている想いを、表現するために。
「足にヒビが入った足が折れた挙げ句の果てにゃもう走れない……それで?」
「それでって……」
「そりゃ怖いさ、膝がガタガタ震えてやがる。あの日のことを思い返すだけで、もう自分は走れなくなるかもしれない」
だがそれでも、それ以上に、焦がれている。走れなくなる以上に止まらない震えがある。
「あのシンボリルドルフを轢ける。皇帝を轢ける、そう思うだけで、あの日のことなんて忘れられる、そう考えるだけで、走れなくなる怖さなんてなくなる」
手が痛くなるほどに握っている。燃える闘志は焼けてしまうほどに熱く滾っている。
たとえ、壊れても
「私はやる、シンボリルドルフを轢けるというのなら」
目の前の医者は俯向いたままだった。私に呆れたのだろう。当たり前の光景、だから何も思わなかった。引き返そうとして、医者は私に問いかけた。
「あなたのその精神は、シンボリルドルフの上に成り立っている……もし、シンボリルドルフを轢いたら……あなたはどうなってしまうんです? 儚いあなたは、どこへ消えていくんですか?」
「…………」
神のみぞ知る答えを、私が知るわけはなかった。
当然、一介のトレーナーでもない高校生のオレは、彼女を鍛えることはできない。彼女は競走ウマ娘として、オレはトレーナーになるため、日々努力を重ねていった。
彼女は競走ウマ娘として、どんどん勝ち進んでいった。有名になり、テレビに出ることも多くなった。だがオレたちはそんな中でも辛い時や、悲しい時があれば連絡をし、仲を更に深めていった。
そんな折だった。彼女が深刻そうな表情で連絡をしてきたのは。『足に軽い怪我をしてしまった、レースに出るべきだろうか?』
……菊花賞を間近に控えていた時期だった。彼女は当時三冠の内二冠を既に達成しており、三冠はもはや確実とさえも言われていたのは覚えている。
それでも、もしも過去に戻れるとするならば、オレは自分をぶん殴っていただろう。
あの日の選択を、オレは未だに後悔している。
鼻歌と共に、彼女はその病室の扉へノックをした。返答はない、分かっていたことだ、その主は堅物なウマ娘だからだ。
「
後に彼女は語る、自身の目を疑ったと。
あるべきところにその彼女の姿はなかったのだと。
窓が開いていたのだと。
「大変……!!」
急いで廊下を走る彼女の風で、カレンダーが揺れた。クリスマスイブ前日の有馬記念の日は、今日だった。
わかりきっていたことだった。アイツの性格を考えれば、こんな凶行に及ぶのは容易に想像がついたというのに。
『もしもキングダムエクスプレスさんの姿を見ても、あまり刺激をせず、我々に連絡してください』
「んなウマ娘を猛獣みたいに……」
『彼女は、猛獣なんかよりも凶暴ですよ』
病院からの連絡を切られ、今一度思い返すのはやはり、あの出会いの日だった。新米の自分が、どうせ今年もウマ娘のトレーナーにはなれないと諦めつつも安堵していた矢先に現れた、
「ホント、なにやってんだか……罪滅ぼしのつもりか? オレは……」
ぼんやりと、脳裏に浮かぶ無情なテレビの光景。忌まわしき、
「アイツのトレーナーらしいこと、何一つやってねぇからなぁ……」
医師の診断も一緒に聞いてやれず、骨折したっていうのにアイツが寝ている間にしか見舞いに行けず、彼女の悩みに気づいていても尚、手を差し伸べられず。そんな自分を、果たして彼女はトレーナーとして今も認めてくれているのだろうか。いや、虫の良すぎる話か。マフラーを巻く。寒さ対策は入念だった。
「せめて、これぐらいやれないとな」
足がまだ完治していないというのに未だ走ろうとする彼女を止める。その程度もできずに、一体自分の存在意義はなんなのだろうか。扉を開けると、雪にまみれた銀世界が視界に入ってきた。
トレーナーとはなんだろうか、ウマ娘に、トレーナーなど果たして必要なのだろうか、皐月賞でのハイリボルケッタとの会話が、突然脳裏に甦ってきた。
『我々は過ちを犯す。才能に溺れ 独りよがりになる時、レースで故障して自己嫌悪に陥る時、明日のレースで巧く走れるか不安な時。その時、独りよがりを叱り、自己嫌悪を解消し、不安を支える存在が必要となる』
そうだ、そんな時にこそトレーナーがいるんじゃないか、トレーナーのオレが、アイツの悩みさえ解決できなくて、なんになるっていうんだ。
「オレはもう、逃げないぜ。エクスプレス───
人混みに紛れ、彼女の姿を探す自分の気分はさながら探偵のようだった。
運ばれる命令、故に運命。ならば、運命とは誰によって運ばれるのだろうか、どこへ運命は流れ着くのだろうか。
思うに、確信めいた奇跡を運命と呼ぶのだとするならば──二人の出会いとは奇跡でもあり、運命でもあった。とにかく、キングダムエクスプレスと暁暁の雪降る中での邂逅は、偶然によるものだったのだ。
暁は、改めてキングダムエクスプレスの姿を見た。冬だというのに、患者衣に見を包み、尚も前進を続けている彼女は、見ていて痛々しいの一言に尽きる。指の先は霜焼けで赤く腫れ上がっている。そして、体の至るところに散見される真新しい傷痕は、仮にも今から出走するであろうウマ娘の姿ではなかった。
「よお、エクスプレス」
暁の呼びかけに、ようやく彼女は彼の存在に気づいたらしい、手を振り答える。
「おオ、誰かと思いやトレーナーじゃないですか、もしかしてだけど、私の見送り?」
「バーカ、テメェを止めにきたに決まってんだろ……病室は確か二階の筈だったが、どうやって降りてきたんだ?」
「そりゃもう、飛び落りるしかないでしょ、二階だったから、そこまでの怪我をせずに済みましたけどね」
エクスプレスの乖離している返答に、暁は耳を疑いこそするが、こいつならばやりかねんと頷きかけてしまう。その異常な言葉のせいで、場が彼女に呑まれてきている、悪い兆候であった。
「トレーナーこそ、一体こんなところで何を? 入院中、見舞いらしい見舞いにも来ずのアンタが、どの面下げて私を止めに? 是非とも聞いてみたいもんですよ」
「……ああ、何もしてこなかった。だから、せめてトレーナーとして当然の行いはやっておこうとな」
「うーん。あまりに感動ポルノの出来が悪くて、涙が出ちまいそうです」
「……ひとまず、場所を移そう。ここは、人が多い」
有馬記念が始まるまで、猶予があるのかと言えば、時間はあまり残されてはいない。だというのに目の前の彼女が提案に応じた真意が、暁にはわからなかった。いや、もしかすれば、自分は解ろうとしなかっただけなのかもしれない。
だからこそ、知りたいのだ。
冷えきった寒空、人混みから外れた公園のベンチに、キングダムエクスプレスと暁トレーナーは座っていた。トレーナーは私に羽織っていた上着を被せてくれて、コーヒーを奢ってくれた。隣に座る彼の姿を見ると、皐月賞のあの日のことが自然と思い出してくる。
ルドルフに敗けた屈辱の皐月賞、敵討ちではなく、純粋な勝ちたいという気持ちをトレーナーは私に覚えさせてくれた。だが今の彼の目はそれ以上に真剣で、そして深刻そうであった。
「とあるガキがいた。鄙びた田舎で育ったガキだった。ガキは、中央でウマ娘のトレーナーになることを望んでいた」
彼が静かに紡ぐ言葉には、先ほどまでの軽さはない。吐く息は白く、そして吐く言葉はそれ以上に潔い。
「ガキはある日、とあるウマ娘と出会った。綺麗なオレンジ色の髪の、ウマ娘さ。ソイツもまた、中央で競走ウマ娘になりたがっていた。二人は一緒に中央に出ようって誓って、その約束は叶った。ガキはそのウマ娘が好きでなぁ、トレーナーとしての勉強を必死になってやってた一方で、そのウマ娘のレースをいつも応援していた」
何かを懺悔するかの如く、罪を自白するかのように、隠していたことを打ち明けるかに見えれば、重い荷を下ろしたかのようとも言える仕草が、今にも落ちてきそうな蒼穹を見上げる彼に、寂しさを与えていた。
「ある日、彼女に悲劇が訪れた。骨にヒビが入った。無理が祟ったのかもしれないし、神様の気紛れだったのかもしれない。彼女はガキに電話をしてきた。内容はこうだ。『次のレースに出るべきだろうか?』」
「それって……」
「そうだ、テメェと同じだよ。エクスプレス」
驚愕の新事実に驚くばかりの私をチラリと一瞥するも、トレーナーは特に気に掛ける様子を見せない。それどころか、彼はあろうことか私を見て鼻で笑ったのだ。いや、もしかしたらそれは、自分に向けて、嘲笑ったのかもしれない。しかし、真意は杳として知れなかった。
「ガキは……バカでアホで間抜けなガキはよ……何も深く考えずに、あろうことかその出走の後押しをしちまったんだよ」
トレーナーは顔を手で隠してしまう。漏れ出たか細い言葉と共に、見えない彼の顔から聞こえてきたのは、すすり泣いた後悔の音だった。
「……トレーナー、そのウマ娘は───」
「もう、歩けねぇ。もう、走れねぇ。あの菊花賞で、アイツは、アイツは………足が……!!!!」
突然うずくまり、口を抑えるトレーナーに、自分は何もできなかった。しばらくして、平静を取り戻した彼は、頼りなさげに笑んでくる。対象は、私? それとも彼? わからなかった。
「……オレはよ、そんな過去にずっと囚われてる。憐れな奴隷なんだ……、一緒に診断結果に立ち会わなかったのも、お前が起きている間に見舞いに来なかったのも、全部。怖かったんだ……また、アイツみたいな奴が増えてしまうって思っただけで怖くて何もできなくて、震えが止まらなかった……、本当に……ホントに、申し訳ない……!!」
涙を流しながら、彼は頭を下げてくる。下げてきた彼の姿を受け止められきれなかったというのに、私はその光景を見てあの日みたいだと、ふと思った。
『私を、強くしてくれ……!! シンボリルドルフを轢き逃げられるほどのウマ娘に私をしてくれ!!』
トレーナー、アンタのおかげで、私は初めて私として生きられるようになったかもしれないんだ。どこまで、あの日と似ていると、思わず嬉しく、笑ってしまった。それが、彼にも伝わったらしい。鬼気迫る表情で、私を睨みつけ、激昂を顕にする。
「なんだよ……!! なにが!! おかしいんだよ!!」
「なに、あまりにも過去に囚われすぎたアンタに、笑っちまっただけさ」
「なんだと……!!」
「トレーナー。私が誰か言ってみろよ」
そうだ、思い返せ。理解してみろ。一体、トレーナーの眼前に不敵に佇み笑みを零しているウマ娘の名前はなんなのか。
「? キングダムエクスプレス……」
「そうだ、私はキングダムエクスプレス。シンボリルドルフを轢き逃げられますようにと願った。鉄塊だ。アンタが一緒くたにしている、その足の動かないウマ娘じゃねぇ」
私の足は動かないか? 違う、私の足はどこまでも自由に、どこまでも連れて行ってくれる。私の足は動き、その鉄塊の名前を思うがままにする、ウマ娘だ。
「私は、折れねぇ。この程度で、折れてたまるかっての」
「……んな、そんな理由通じる訳がねぇだろッッ!!!!!」
「通るさッ!!! 私を誰だと思ってる? シンボリルドルフに今やただ一人反抗する、唯一のウマ娘が!! このキングダムエクスプレスがこんなところでリタイアするようなヤツじゃねぇッッ!!!!」
激情に駆られる目の前のその無垢な少年を、私は決して見捨てない、あれは私なのだ。シンボリルドルフに縛られている私のように、彼もまた、そのウマ娘に意図せず黒い糸で拘束されてしまっている。
だから、見捨てない。見捨てられない、あのままでは、彼はいずれ壊れてしまう。そんなのは、私だけで充分なんだ。
あの日、ハイリボルケッタが私にしてくれたように、逃げられないように、見過ごされないように、その肩を力強く握り、目を私へと捉えさせる。
「トレーナー!! なんでアンタが私にオークスまでの二ヶ月間、水泳しかさせてくれなかったのか知ってるだろうが!!」
そうだ、皐月賞で敗けて、オークスに集中するであろう二ヶ月間、私はずっと水泳をやらされた。だが結果としては、そのトレーニングによって得られたスタミナが功を奏し、見事オークス優勝。トレーナーは一度たりとも私に走るという練習を許してはくれなかった。
今にして思えば、あれは速さだけならオークス優勝を易易と狙えると信じてくれたからだろう。
全身を、熱い感情が渦巻いている。痛みによるものではない。むしろ、温かい。
「アンタはキングダムエクスプレスの速さを!! 轢き逃げを!! 最後まで信じてくれたからだろうが!!」
信じてくれた。諦めないでくれた。暁トレーナーのウマ娘に対する情熱は暁の空のように紅く燃えている。胸の奥には、今でもその熱量は増していくばかり。
アンタの信じた俺は、か弱くて、吹けば飛ぶような、そんなウマ娘だったのか?
「一度信じたなら!! 最後まで貫けよ!! 俺のあの日のスカウトを、アンタは無視することだってできたんだ!! それでも引き受けてくれた!! ここまで連れて行ってくれた!!」
そう、思い返せばあのトレーナーとの出会いの日、トレーナーはその気になれば俺の誘いに首を横に振ることだってできた。でもしなかつた、どうしてか? 信じてくれたから。俺となら、どこへでも行けると思ったからだ。
「だからトレーナー……!!」
目の前のその男は、もう言葉を発さなくなっていた。膝から崩れ落ち、二本の腕と脚で か弱くなった己の身体を必死に支えてる。側に歩み寄る、確固とした声で言い放った。
「信じて」
俺の言葉に、目の前の曇った表情のトレーナーは顔色を変えず、静かに問うてきた。
「……どこまでだ?」
「果てるまで」
「……どこを目指すんだ?」
「果てまで」
「……果てってどこだよ?」
「許されるまでなら、どこまででも」
許されるならば、シンボリルドルフを轢けるまで。苦難にもがく面は見るに耐えない。和やかな顔の俺とは対象に、トレーナーは呻く。
「……クソッ!! クソッ!!!」
何かを許せないように、葛藤に震え、できる限りの悪態をつく。やがてと立ち上がると、尚もまた懺悔した。
「オレってヤツはホントに、バカで間抜けで能無しで……」
拳を震えさせ、今にも自分を殴りそうな勢いだった。だがそれっきり彼が何かを発することはなく、静寂がいつまでも続くような気すらした。ふと、目の前の男が立ち上がる。何かを信じたような目をして。
「……行くか。エクスプレス」
「行くってどこに?」
「菊花に決まってんだろ。勝負服なら車の中にある」
言いながら歩いていくトレーナー、この距離ならばきっと聞こえてもいまい。
「……ありがとな、トレーナー」
なぜ、こんなことをしでかしたのだろうと、暁は思う。車を運転する中でも、その気持ちは変わらない。だが、そんなことを思いつつも、不思議と後悔はなかった。どちらかといえば、ある一種の清々しさがある。吹っ切れたのだと、自分なりに解釈した。
これでエクスプレスもあのウマ娘と同じ道を辿れば、元も子もないというのに、不思議と、それに対してあれこれ苦悩しようとは思わなかった。それは思考を放棄したからか、それとも──
「どうした? 何ジロジロ見てんだ?」
「いや……なんでもねぇよ」
このウマ娘を、自分が信じたことができたからだろうか?
キングダムエクスプレス。本当に奇妙なウマ娘に、オレも巻き込まれたものだ。なぜあそこまでシンボリルドルフに拘るのか? それは暁には知る故のないことだ。しかし、それならば最後まで見届けよう。
「なんでもいいけど、急いでおくれよ、とあるウマ娘を待たせてるんだ」
「ウマ娘ェ? お前が? 珍しいな、どんな奴だ?」
「名前は知らない。車椅子に乗ってて、綺麗なオレンジ色の紙をしたウマ娘だった。私のファンだとも言ってたし、足が動かないとも言ってた」
「……なんだと?」
エクスプレスが話すその待たせ人の特徴は、暁を動揺させるには充分すぎた。足が動かない、綺麗なオレンジ色など、それらの特徴はまさに、暁の後悔の元でもあるウマ娘の特徴とも完全に一致しているからだ。動揺は運転にも現れ、車体がブレる。それで、エクスプレスも察したらしい。
「……なあ、トレーナー。そのウマ娘って──」
「まったく……運命ってのは恐ろしいな」
大きくかぶりを振って、暁はボヤいた。そのウマ娘に関して話したいことは沢山あったが、そんな時間はもうないことに気づき、それ以上暁は口を噤んだ。
「……っと、ほら。到着だ」
車を止め、着いた中山レース場を見上げる。既に勝負服に着替え終えたエクスプレスは車を出ようとするが、暁には、一言を言わないと気がすまなかった。
「……こんな判断をして、ホントに悪いと思う。もしこのレースで、万が一のことが起これば───」
「よせよ、ありもしないことをベラベラと。夢物語を語るなら、私がルドルフに勝つことでも考えておいておくれ」
暁から見たエクスプレスの背後は、どこか儚げでもある。しかし、エクスプレスはただある景色を夢見て、周囲に気を配れないだけなのだとも暁にはわかっている。彼女の見る景色はただ一点の曇りなし、シンボリルドルフを倒す、その日の景色のみ。
晴れ晴れとした蒼穹を思わせるその色は人々の心を何処までも晴れ渡らせる。事実、曇りよりも晴れの方が落ち着くという意見は多い。
そんな天色に塗れる空を、彼女は見上げていた。
「懐かしいわね……こんな熱気をあの頃は平然と受け止められたのだから、羨ましくなっちゃうわ」
群衆が巻き起こす情熱の風に当てられ、観客席にいたウマ娘の暁色の髪が靡いた。沸き立つ烈風はかつて、彼女が菊花賞でこの一身に感じたことのあるものであった。
『ブライメラー』。かつてはクラシック三冠制覇に王手をかけた筈の時のウマ娘は、この有馬記念の観客席に一人寂しげに座り、その情景に浸っていた。ただし座っているのはただの椅子でなく、車椅子である。そう、ブライメラーの脚はもう動かない。
どこまでも飛べる、どこまでも行ける、あの辺鄙な地方から
「……久しぶりだな」
「あら……久しぶり暁ちゃん」
ふと隣に人の気配を感じ、ブライメラーはそこを向く。彼女の隣に、オトコがいた、そして、彼女はその正体を知っていた。
「どうしてあなたがこんな所に……」
「ほれ」
「?」
クイと、暁が向けた指の先に、あのウマ娘がいた。銀みがかった髪、パープルピンクの際立つ勝負服。それはブライメラーの応援しているウマ娘、キングダムエクスプレスの姿。
「アイツの……トレーナーやってんだよ」
「まあ……」
驚嘆したような声を上げもう一度、キングダムエクスプレスの身体を観察する。初めこそ暁はただ黙々と、レース開始の時を待っている。だがやがて、重く閉ざされた筈の口を開いた。
「……なあ、ブライメラー。あの日のことなんだけど……」
「ああ? 菊花賞の?」
「菊花賞の、って」
淡白とした返答に、暁は驚きを隠せない。彼女を菊花賞に出させる決断をさせた悪魔は彼なのに、彼女から走ることを奪った元凶は彼だというのに。目の間の彼女はそんな過去などまるでなかったように接している。
「良いのよ、あの日のことは、もう」
「オレの気が済まねぇ。オレがあの日……レースに出るなって言ってれば……クラシック三冠は獲れなかったかもしれない。だが少なくとも、走れなくなることはなかった……」
拳を痛くなるほど握りしめ、後悔は暁を掴んで離すことはない。その寂しげな背後にまとわりつく後悔の念はキングダムエクスプレスに向けた態度のように、彼を蝕み続けている。そんな彼を見るブライメラーの瞳は、深刻さが目立っていた。
「確かに、あの時は色々な物を憎んだわ。世界、マスコミ、貴方。でも何より許せなかったのは、私自身」
静々と言葉を紡いでいく中で、ブライメラーは過去を振り返る。あの菊花賞の日、二度と走れないと知ったあの夜のこと、渾然する想いを整理できぬままに世間で囃し立てられ、人々は勝手に同情していく。そしてそんな中で、鳴り響くたった一人からの電話を無視し続けてしまっていた自分のことすらも。
「貴方は、優しい。世間が妄言を垂れ流し消沈していた当時の私に、貴方はいつも電話してくれた。でも、私はそれに出ようとしなかった。何度も携帯は鳴っていて、留守番電話か流れる貴方の悲痛な声を何度も聞いていたというのに、私は必死に耳元を覆い隠して、貴方から逃げていた」
そしてしばらく経って、暁からの連絡もとうとう無くなった。真の孤独が、ブライメラーを襲った。そこでようやく彼女は気づいたのだ。自身がどれほど愚かな行為をしたのか。
「私は、何もしなかった。貴方は何度も私に救いの手を差し伸べていたというのに、それを拒んだのは、私。だからこれで、お相子ね」
「お相子って……」
「そして、彼女」
ブライメラーの指さす先に、エクスプレスの姿がある。
「彼女もまた、私と同じ道を歩もうとしている。まるで時が戻ったように、時計の針が一周して、元の位置から始まるように」
言葉の意味が暁にも理解できた。菊花賞、足の怪我。偶然にしては出来すぎの定め。だから、結末もある程度の予想はつく。思考を読んだかのように、ブライメラーは言う。
「でも、あの時とは違う。時計の針は、戻っているように見えて未来に進んでいる。私の時みたいに沢山のファンがいるわけではない、でもその分貴方と私の声は届きやすい。だから心の底から信じましょう。私たちにはそれしかできないけれど、それはあの時にはできなかったことなのだから」
「ああ……そうだな、それしか俺たちにはできないんだからな」
澄み切ったブライメラーの視線がエクスプレスを射抜く、同時に、暁もまた、エクスプレスを見据える。思いが届くのか、願いは叶うのか、それはわからない。だが、この試合が大きな転変を齎すと、暁は予感を隠せなかった。あの超特急が、皇帝を抜き去るその予感を。
シンボリルドルフはニヤリと、笑みを溢さずにはいられなかった。無敗の三冠ウマ娘となった彼女に唯一反旗を翻さんとするウマ娘がさながら山のように眼前に聳えていたからだ。膝の高さにすら届かないであろう小さな山ではある、しかしその山は注意を怠れば足を躓いてしまうことすらあると、私は知っている。それでもつい笑いが漏れてしまうのは、そんな小山ですら、これまで私の前に現れたことはなかったからだ。
小山の名を、キングダムエクスプレスと呼ぶ。そしてキングダムエクスプレスは、どうしようもなく汚れていた。
「……皐月賞、以来かな? エクスプレス」
「アンタの見舞いを除けばそうだ。ルドルフ」
雰囲気でわかる。私が
ところが、違和感が一つ。
「みたところ、全身に打撲を負ったらしいな。それに、足まだ完全には完治していないらしい」
「……気づいてたのなら、止めるくらいしろよ」
「止めないさ。私が君の立場でも、同じ選択をしていた。そして君が私の立場ならば、そんな私を叩き潰していただろう。ならば、私もそれに則るまでのこと」
「……その解答を、私は待ち望んでいたんだ」
勝負服の下に見える打撲痕、痛みに耐えてるかのような覚束無い足取り、右足を引き摺るように歩く様は、痛々しい以外の言葉が見つからない。だが、その眼には尚も闘志が宿っている。ならば目の前の奴は、私の喉笛を噛み千切らんとするに決まっている。だから、私も全力で応えなければならない。
「見せてもらおう、私を凌駕すると豪語するその超特急の走りを」
案内に従いゲートに向かう私に、エクスプレスは声もかけない。だがそれでいい。それでこそ、勝負の世界。勝つのは私だ、鉄塊。
「いつつつつ……」
「大丈夫? あなた怪我してるみたいだけれど……」
「ああ、大丈夫さ」
隣のゲートにいるウマ娘にさえ心配されてしまう。適当に誤魔化すがそれよりも理解したのは、足と全身の痛みが予想以上に堪えるものだということ。今回のレース 最大の障害である痛み。これは大きなアドバンテージである。勝てるという絶対の自信が我が身を襲う。だがそれは、そうと思い込まないと勝てないからだ。シンボリルドルフは強い、だから全力で行く。
『各ウマ娘、ゲートへ入って行きます』
スピーカーから告げられる事実に頭を切り替える。ゲートにいるのはもはや私ではない。キングダムエクスプレスだ、シンボリルドルフの最大の障壁となる存在だ。
『今、スタートが切られました!』
目の前のゲートが軽快な音と共に開かれる。足に力は込めてある、風を肌に感じた、これは加速の合図だ。
試合は既に始まっている。死合はとうに開催を告げている。この場には、この日のために死ぬほどの努力をしたウマ娘のみがいる。聖域の中で繰り広げられる聖戦には血は流れない、流れるのは涙で充分だ。此度、涙を流すのは、私ではない。勝つのは私だ、皇帝。
残念ながら、キングダムエクスプレスは歴史に名を残すほど偉大なウマ娘ではない。偉大な功績を成し遂げたわけではないし、よく語られるほどのウマ娘でもない。
そんなウマ娘だから、脅威的な集中力を要される
話は変わるが、有名な話に骨折するとその部分の骨が太くなるという物がある。後々、これはガセであるということが判明した、しかし、その一部は本当のことである。骨は確かに太くなる、ただし、それは骨折中の場合のみである。
何の因果か、仕組まれた偶然か。キングダムエクスプレスは今骨折中で、それが痛くて仕方がない。だがそんなものに注意を惹かれれば敗けるのは必然、だから彼女はレースのこと以外を考えてはいけない。逆に言えば、それはレースに極端に集中しているということ。
そう、彼女は歴史に名を残すほど偉大なウマ娘ではない。だが、激痛による過度の集中、そして骨折中により太くなった骨、これで、全てのピースは揃われた。
キングダムエクスプレス
不完全ながらも
そう、これは不完全にすぎない、一瞬でも集中が緩めば、そこでこの
勝負は、有馬記念2500mの長距離を走りきれるかに掛かっている。
(逃げ切れば勝ち、追いつかれれば負け……まるで)
──そう、これは鬼ごっこ。子供の頃と何ら変わらない、シンボリルドルフよ、あの時の遊戯をもう一度だけ。
行う作戦は変わらない。『轢き逃げ』、彼女のスタイルであり、彼女の激情の体現。殿を務めるのは彼女だけ、引き連れ、やがて第1コーナーを抜ける──瞬間。ズキリと彼女の脚が悲鳴をあげた。
「イッ!?」
『どうしたことでしょうかキングダムエクスプレス、速度が落ちていく。足を休ませる最後の直線はまだまだ先だぞ』
激痛がキングダムエクスプレスの集中を鈍らせた。
「何やってんだエクスプレスッッ!!! このままじゃルドルフに抜かされるぞ!? それでいいのかよ!! この……」
「……良いわけ、ねェだろうがあぁァァッッ!!」
「───!!!」
その声をエクスプレスは知っている、自分をこの二年間支え続けてきたトレーナーの声を!! 忘れるわけがない!!
第2コーナーを周った、足の痛みは感じない。直線に突入する、初めて挑む直線に、疲れが貯まっているのがわかるしかし、エクスプレスの周りで何が起こっているのかはわからない、そんなものに意識を割けば、敗けてしまうのは必然だから。一つだけわかるのは、自らが先頭をぶっちぎっているということだけ。
直線でもペースを落とすことはない。轢き逃げ戦法にペース配分という言葉は存在しない。全力を以上を引き出す、110%を引き出す。それが轢き逃げ戦法なのだから。
第3コーナーに入り込む、視界が陽炎のように揺れていき、そこでようやく息があがり始めてるのに気づいた。そろそろ休息の時間だ。だが、猶予などは存在しないことに気づくのはそれから数秒と経たない頃であった。
『────!!!』
第4コーナーを走り終えようとした瞬間、ナレーターが興奮しながら何かを叫んでいるのがわかった。内容は聴き取れなかったがおおよその予想はつく。そして、見事にそれは的中したらしい。
一人のウマ娘が近づいてきている感覚がする、襲われそうになる錯覚を覚える、他の追随を許さない孤高の走りに、覚えがない筈がない。
「シンボリ、ルドルフゥ……ッ!!!」
吐露する名前は、数えるのが億劫になるほどの回数叫び、想った相手への敬意と敵意が含まれている。皇帝を冠するその絶対のウマ娘は、手加減を加えた様子すらなく、私を喰らんと持ち合わす獰猛な牙で私へ接近してきた。
だがひとまずは、私はルドルフに1位の座を譲らなければならない。突如として走るのをやめ、停止する私の姿を見ても、それを疑問に思う観客の姿はおそらくほとんどいないだろう。皆が、その走りの奇特さと異質さを理解しているからだ。
手を地面に置く、上体を撓らせる、脚を地面に張りつけ、引き伸ばす。ターフの土が盛り上がり足裏をガッチリと支える。これが踏切板の代わりである。クラウチングスタートは、もはやこの走りを象徴するポーズだ。
今までは5着のウマ娘に抜かされたら走り出すようにしていた。しかし今回は違う。意識するのは己の脚、僅かな痛みを無視し、回復の時を待つ。1時間が経過したようにすら錯覚するほどの集中力が体を襲い、身体を休ませる。
静かに揺らぎ、静寂に身を包ませる。何も聞こえない世界で、荒れた息遣いのみが聞こえる世界で、足の疲れが取れていくのを感じた。
──往ける。実感と共に、風が肌を切る。
荒れ狂う竜巻のように、鉄線の上を轟く超特急のように。ターフの上を抉れる土草を彼方に置き去り、走り去っていく。前方に影が見えてくる、皐月賞では踏めなかった影、シンボリルドルフの影を、今、踏んだ。
『やはり追い詰めてきました!! シンボリルドルフの背後に迫ってきたのはやはりキングダムエクスプレス!!! 限界を超えた轢き逃げが!! 今シンボリルドルフの4冠を脅かしている!!!』
心臓が脈動している。緊張で頭がどうにかなりそうだった。でも、ならなかった。だって、あのシンボリルドルフが脅かされてる。その事実だけで頭がこんなにも震えている。抜き去れると予感するだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。実感の元 脚に力を込めて最後のスパートへと突入する。ドンドンと近づいていく、視界に映っていたはずの彼女の姿が、端にフェードアウトしていく。
やがて、見えなくなる。前方に誰もいない景色を私は駆けている。そして自然と独り濁ちた。
「ああ……走るっていいなぁ」
満面の笑顔を浮かべ、大きく地面を蹴った私。
足を止めたのは、一つの違和感だった。
突如として、足に、感じられない筈の、痛みが再発した。突然の出来事に、驚愕する暇もない。
違和感の正体を見ようと、足へ顔を向ける。誰かがそこにいた。黒いマントに身を包み、ケタケタと笑っている。
「……死、神」
その姿は、間違いなく死神だった。
死神が、私の右足を掴んでいる。不気味な笑みを象っている。まるでそれは、脚を差し出せと言っているかのように言っていた。お前は負け犬なのだと言われているような気がして。
(ルドルフ)
脚が動かず、ガクリと体が揺れ、姿勢が崩れる。ハイリボルケッタと練習していたあの日と同じように。
(俺は、お前に)
バランスが崩れていく。落ちていく錯覚に囚われる。伸ばした手の先で、シンボリルドルフが私を追い抜き、ゴール板を踏まんと遠ざかっていく。
(──勝ちたいんだ)
「キングダムエクスプレスぅぅぅウウウウゥゥゥゥゥゥゥウウゥッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
声が、聴こえる。私を呼ぶ声が。
観客席に、ウマ娘がいた。美しいオレンジ色の髪をしている。私を応援する声が、彼女の声帯から振り絞られていた。その隣で、暁トレーナーも叫んでいた。いや、彼らだけじゃない。
「負けるなァァァッッ!!!!」
「お願い! 勝って!!」
「ルドルフにぎゃふんと言わせたくないのかよ!!?」
ルドルフへの声援と比べればか細い、でも、確かに存在する。これは、私のファンなのか。知らない男が、若い女が、ウマ娘が、皆、声を張り上げていた。
「みんな……」
「エクスプレスッッ!!!! 何コケているんだ貴様ァッ!!! そんな失態で、シンボリルドルフに勝てると思っているのかぁァ!?」
「ハイリ……」
私は今まで、ルドルフに勝ちたくて走っていた。医者の言葉が思い浮かぶ。
『もし、シンボリルドルフを轢いたら……あなたはどうなってしまうんです? 儚いあなたは、どこへ消えていくんですか?』
ルドルフを倒すしか目標がなかったから、空っぽだった。でも、今からは違う。私の勝利を願ってくれている人が、こんなにも沢山いる。
走り始めた目的こそ、ただルドルフに勝ちたかったからかもしれない。でも、今は違う。観客席で応援をしてくれる人達を一瞥する。
負けを繰り返してもなお、必死に私に声援を送ってくれるような、そんな人の為に、私は走りたい。本気で、そう願えるようになってきたんだ。
尚も足に絡みつく死神を睨みつける。こんな取るに足らない存在に、私の期待が裏切られる? あってはならない。
だから そこを
「退け」
瞬間、死神が、邪魔者の姿が霧散する。視界に色が宿る、だから、シンボリルドルフがどこにいるかも自然に理解できた。残り200メートル、2馬身差。
『やはり諦めてはいない!! シンボリルドルフに迫りくるのはキングダムエクスプレス!!! 因縁のキングダムエクスプレス!!!! 宿命のキングダムエクスプレスだァァァッッ!!!!!!!』
迫る、ズキズキとする足の痛みを無視し、ただひたすらに、彼女に近づいていく。熱狂と発狂を繰り返すギャラリー、そしてシンボリルドルフの姿、しかし彼女は、もはや私の方を見ていない。
再び、ルドルフに近づく。ルドルフもこちらに気づいたらしい。笑みを溢し、その速力を上昇させていく。私に捕まらないように、必死に駆けていく。
拮抗し、競り合いを続ける両者に、引くなどという選択肢は用意されていない。ルドルフが加速すれば、私はそれ以上の加速をする、しかしそうすればルドルフが更に私以上に加速してくる。
いたちごっこの戦況、矜持と矜持のぶつかり合い。愉しさと楽しさに、二人はまるで子供の頃に戻ったような笑顔を浮かべている。ゴールは目前に迫っていた。楽しんでいるから、終わらせたくない。この激闘が、終了して欲しくない、それでも終わってしまうのならば──
両者は、知らず知らずの内に叫んでいた。
「勝つのは……」
「勝者は……」
「「私だァァぁぁああアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」
終わらせるならば、ハッピーエンドで、勝者こそ味わえる、ハッピーエンドを求めて。敗けたくない、だから走った。
肌を抜け、耳に入り込む空気の音が、不意に消えていく──終の時だと、風が伝えていた。
『なんと!! ほぼ同じタイミングで両者ゴールしました!! これはどっちが勝ったのでしょうか!? 結果が出るまで、少々お待ちください!!!』
ゴールを踏み抜くタイミングは、ほぼ同じ。できる限りの最大限の全力を、私達は出し合った。息も絶え絶えなルドルフに、宣告するかのように近づいた。右足が痛い。身体はおんぼろで、今にも倒れそうだ。それでも、やはり私は子供みたいに誇示するのが好きらしい。
「……どうよ…ルドルフ……これが……キングダムエクスプレスだ……」
「ああ……思い知ったよ……もし君があの第4コーナーでコケさえしなければ……私はあのまま突き放されて負けていた……」
「はは……皇帝に言われるなん……て……嬉しい……よ」
だが、ここまでのようだ。右足が強烈に痛い、当然だ。むしろ、逆によく耐えてくれたと労う。ルドルフの笑顔を見ながら、私の意識は深く落ちていく
──この有馬記念は私の負けだ。でも、後悔はない。私は蘇る、そしていつの日か必ず
お前を轢いてみせるぞ、シンボリルドルフ──
「エクスプレスッ!!」
ガタリと倒れ伏すキングダムエクスプレスを見て、ハイリボルケッタと暁は思わず駆け寄っていた。本来ならば入場するのは許されない場所を憚らず、二人は侵入する。しかし、誰の目から見てもキングダムエクスプレスの状態は異常だった。顔色は悪く、うわ言のように何かを呟き続けている。
ブライメラーが事前に手配していたのもあって、救急隊員が駆けつけたのは5分と経たなかった。担架で運ばれる時も、エクスプレスはか細い声で何かを話している。
救急車の中、そこでようやく、暁はエクスプレスの言葉を聴くことができた。
「トレーナー……見たか……。私は……違っただろう………!?」
右手を掲げ、眼前の二人に宣言するかのように言う。暁は堪えきれず、顔を手で覆い始めた。その隙間からは、止めどない涙が流れていた。
「ああ……立派なヤツだよ……!! お前は本当に……!!!!」
───その後の検査により、キングダムエクスプレスの右足の骨折が発覚した、医者による下される審判。
キングダムエクスプレス、1年間の治療。
しかし動けなかろうと、闘志がある限り、エクスプレスの牙は砥がれていく。
シニア級の時期が近づいてくる。
ルドルフとの最終決戦は、間近に迫ろうとしていた。
3ヶ月ぶりの更新です。待たせてしまい大変申し訳無いございません。今年こそは、本作品完結を目指して頑張ろうと思います。よろしくお願いします。