朝目を覚ますと、ヨアヒム・ルートヴィヒの鼓膜を規則正しい音が刺激していた。
それが何を表すのか子供の頃から知る事実と照らし合わせると、それはきっと下の階でオイゲン"母さん"がキャベツか何かを刻んでいるのだろうということに思い当たる。
その音を追うように香ばしいコーヒーの良い香りがやってきて、ヨアヒムは寝床から身体を起こした。
そのまま身なりを軽く整えると、まだパジャマからは着替えずに下の階へと降りていく。
キッチンでは案の定、髪をポニーテールに纏めた母親が息子のために朝食を拵えていた。
彼女が調理してプレートに盛っているものを見て、ヨアヒムはヒトというのは何と環境に影響を受けやすいモノかと思い知る。
鉄血出身の彼女が作るのは、スクランブルエッグに茹でたソーセージ、それにコールスローサラダ。
ユニオンではありふれたメニューだし、鉄血色が垣間見えるのはソーセージが茹でられていることくらいだろうか?
コーヒーマシンが任務を果たし終えた音声を上げると、ヨアヒムは調理で手が離せない母親の代わりにその音を止める。
「おはよう、母さん。」
「今日は休日なのに早いのね。後で起こしに行くつもりだったのに。」
「ええっと…その…いつも通りに………頬とか首とかベロベロ舐めるやり方で?」
「あら?ハンスは喜んでくれたわよ?」
「父さんはどうかしてるよ。僕にそんな趣味はない。」
「母親の拘束着写真のために」
「分かったよ!アレは悪かったって!」
「あっははははっ!やっぱりあのヒトの息子ね。ほら、コーヒーポットを持ってきてくれない?…朝ご飯にしましょう。」
言われた通りコーヒーポットを手に持ち、テーブルに並んだマグカップに中身を注ぐ。
オイゲンは作った料理をテーブルに並べて、最後にオーブンからクロワッサンを取り出して傍に添えた。
そうして初めて完成した朝食を2人で挟むと、2人はこの日の朝食に手をつける前にお祈りをする。
ヨアヒムの記憶にある限り、この習慣はまだ彼自身が幼かった頃から変わらない。
まだ健在だった父や、今と変わらない母と共に、3人で食卓を囲んだ日々は幸せだった。
クロワッサンに齧り付き、スクランブルエッグとソーセージを半分食べたところで、ヨアヒムは昨日の続きを切り出す。
「…外遊は誰のアイデアだったんだろう?たしかに政権が安定したタイミングで、傀儡政権の首魁に訪米させるのは何らおかしくはないと思うけど…どうにも引っかかる。」
「ほら、ちゃんとサラダも食べなさい。…アンタも藪から棒ね。まぁいいわ。アドリアンを外遊させるアイデアを出したのは、私の思うにライリーよ。だから彼もそこから先の話を私に投げたんじゃないかしら…歳を取っても相変わらず"クソ野郎"ね。」
「ライリーの目的は?」
「…タマンダーレ…セントルイスの諫言があって、アドリアンは私達を生かすことにした。ライリーとしてはそんな不安定要素は許容できなかったはず。もちろん、周到に手懐けておいたアドリアンがそんな選択を自発的にするとは思えない。」
「じゃあ…ライリーはセントルイスを疑った?彼女がライリーの思惑に関係なく物事を進めていることに感づいたわけだ。」
「きっとその時点では確信が持てなかったんでしょうね。セントルイスは周到にも私達を生かすための理由まで用意していたわ。ライリーもそれには納得せざるを得なかった。だから外遊という理由を使って、彼女と直に会う事で確信を得ようとしたんだと思う。」
「アドリアンはユニオンでライリーに会ったの?」
「ええ。"セルバンデス大統領の日程"にはちゃぁ〜んと、ラングレーの訪問も含まれていたわ。」
…………………………………
海軍消滅から7日後
インビエルノ
大統領宮殿
ハンス・ルートヴィヒがやつれて見えるのはきっと気のせいではなかろう。
"連夜連戦"な日々の中、海軍の代わりたる沿岸警備隊の再編成業務までこなさねばならないとなればこうなるのは必然とも言える。
彼が目の下に濃いクマをこさえながらも私の前で直立不動の姿勢を見せている事にすら、私は賛辞を送らねばならるまい。
彼がスーパーマンやフランケンシュタインの類ではなく、ただの1人の人間であることを考えるならば。
「………おはようございます…大統領」
「おはようございます、ルートヴィヒさん。お譲りしたベッドはいかがですか?…よく眠れてます?」
「ええ………はい………ありがとう………ございます………」
オイゲンとルートヴィヒが一体どんな"楽しみ方"をしたのかは分からないが、ユニオン系資本の清掃業者はあの一晩でタップリとマットレスに染み付いてしまった2人の淫臭を排除しきることができなかった。
よって幼少期から私を癒してくれたあのマットレスは、天蓋付きのフレームごとルートヴィヒ夫妻譲らざるを得なかったのだ。
他方私はタマンダーレの私室にて休むことになっている。
彼女の部屋で寝るようになってから、私の人間不信の発作的症状が幾分軽減されたように思えるからだ。
現実性に欠けるし科学的根拠など見る影もないが、しかしそれでも私はタマンダーレを頼らざるを得ない。
特にルートヴィヒ夫妻殺害を諌められたあの日からは、私は彼女から離れると生じる人間不信の方は若干治せたものの、未だに彼女のいない不安の方は変わらず居座っていた。
だからこそ彼女が寝る時側にいてくれれば、それだけで私は安心して休むことができる。
一国の国家元首としてはあるまじき光景であろうが、私に取って彼女は必要不可欠な、代わりの利かない大切な存在であった。
その大切な存在は、いつか13家族の下を訪ねた時とは違う私服を身にまとっている。
それは上下に分かれた蒼い服で、左肩と胸の上半分を露出する大胆な衣装だった。
大きなスリットの入ったスカートは彼女が歩くたびにその美脚を周囲に仄めかし、胸元下部と腰骨付近で分割された布地が、彼女の美しい柔肌を外気に触れさせている。
まさにオトナの女性の優美な姿に、私は唖然とせざる得ない。
そんな優美さの塊のような彼女は、既にサディア製のスーツを着込んだ私の下までやってくる。
いつか彼女がくれた腕時計を不安げに弄っていた私を見ると、彼女はクスリと微笑んだ。
「うっふふ、アドリアンは本当にその時計がお気に入りね。プレゼントした甲斐があったわ。」
「とても…上品な時計だからね。それに、持ってるだけで安心する。」
その時計はユニオンの鉄道事情を改善したと言われるメーカーによって製造されたものだった。
世界大戦では軍に何百万という腕時計を納入したらしい。
彼女が私にくれたのは、そのメーカーがかつて鉄道事業に関係した時のモデルをイメージしてデザインした物で、恐らくきっと彼女は幼い頃鉄道が好きだった私のために選んでくれたのだろう。
そう思うと、余計にこの時計が嬉しく思えた。
「…さて、準備はいいかしらアドリアン?」
「ええ。あとはウゴとベラスコ元帥が到着すれば…」
「申し訳ありません、大統領。遅れました」
「ああ、ウゴ、元帥。よく来てくれました。謝る必要はありません、ちょうど今支度ができたところです。」
これで役者が揃ったことになり、私は若干の満足感を得た。
私がユニオンに行っている間は留守を彼らに頼ることになる。
だから改めて挨拶をして、何かあっても抜かりがないようにしておきたかったのだ。
「ウゴ、例の件は引き続きよろしくお願いします。抽出者の数は一任しますが、どうか数を減らしすぎないように。」
「承知致しました。」
「元帥はこちらから要求する陸軍装備のリストをまとめておいてくださいましたか?」
「ええ、こちらがそのリストです。…正直コレ全てを手にできるとは思っていませんが、ご覧のように優先順位をつけておりますので。」
「ありがとう、ご期待に添えるように努力します。…最後にルートヴィヒ長官。沿岸警備隊の再編成に必要な装備類は要求しますが、あまり期待はしないでください。」
「ええ、分かっています。オイゲンがいればかなり大きな戦力になる…ユニオンもこの地域のバランス・オブ・パワーが偏ることを歓迎はしないでしょうから。」
「その通り。ただし、やれる事はやってみます。………それでは皆さん、後を頼みます。…ルートヴィヒ長官は奥様と楽しみすぎないように。」
閣僚たちは声をあげて笑い、ルートヴィヒは顔を真っ赤にした。
"鉄血の戦犯"がいきなり大抜擢されたという事実にも関わらず、彼らの中で諍いの類が見られないのは誠に安心できる材料だ。
まぁ、ルートヴィヒが沿岸警備隊の長官であろうとウゴには関係ないし、ベラスコは彼よりよほど上位の階級と役職を与えられている。
争う理由からしてそもそもないのだろう。
閣僚たちに後を任せて、私はタマンダーレと共に陸軍の航空基地に向かい、そこで我々を待っていたユニオン側のプライベート機に乗り込んだ。
先の"粛清紛争"ではこの航空基地から飛び立ったA-26攻撃機が大活躍した。
陸軍航空隊はたしかに信用できる組織だが、それでも私はユニオンの航空機を選ぶしかない。
わざわざプライベート機をインビエルノに寄越してくれたライリーさんのご好意に申し訳ないし、それに航空機は"空飛ぶ密室"だ。
一度でもパイロットや乗務員が裏切ったら、我々に逃げ場はない。
高級な内装のプライベート機に乗り込んだ時、隣に座るタマンダーレの顔色が少し暗い様子を見て取った。
「…タマンダーレ?」
「!…ああ、アドリアン。実を言うと…私、飛行機は少し苦手なの。」
「なんてこった、なら今からでも船便を」
「いいえ!…大丈夫、あなたと一緒なら耐えられるわ。」
「………」
ユニオンでの滞在はせいぜい1週間。
ライリーさんに言われた通り、タマンダーレと家族旅行でもしてるつもりで楽しめば良いだろうか。
恐らく、この考えはあまりに楽観的だな。
それにタマンダーレの暗い顔は、きっと飛行機が苦手だとか、そんな理由ではない気がする。
果たして私の感想は、間違いではなかった。