純粋培養
現在
ユニオン
バージニア州
「女スパイモノに良くありそうな話じゃないか?…相手をベッドに誘い込むなんて。」
「ええ、確かにそうね。でもセントルイスがアドリアンに捧げたのは彼女の"初めて"だった。…エミリーちゃんと付き合ってるなら、この意味は分かるでしょ?」
時刻はもう夕暮れ。
ヨアヒム・ルートヴィヒの今日は結局母親と一緒に家で過ごすという、とてつもなく"有意義な"一日となった。
悪戯っぽく笑う母親の作ったアイスバインに舌鼓を打ちながらも、父もきっとこんな母に惹かれていたのだろうと思わされる。
掴みどころのない、されど一度好意を向けた相手にはとことん付き合う猫のような女性。
戦後の事があってすら、彼女はこんな笑みを浮かべるのだ。
ジャック・ライリーはそれこそ"しくじった"に違いない。
「…それで?アドリアンは彼女と寝た。でもそれだけだ。そんな事で彼の重篤なパラノイアが治るとは思えない。色仕掛けだと思い込む方が普通だろう?」
「アンタ、エミリーちゃんにそんなこと言ったら平手打ちされるわよ?」
「え?」
「アドリアンにいくら女性経験がなかったとしても、セントルイスが本当にライリーの駒になりきっていない限り、彼の誤解を解くには十分な効果はあったはず。…そうね、彼のパラノイアは治らなかった。でも、セントルイスは彼の精神の中に確かな地歩を手に入れたわ…アドリアンは今度こそ、セントルイスを疑うような真似をしなくなった。」
「………セントルイスは何故そこまでして…」
「………」
オイゲンが言葉を切って、食器を持つ方とは反対の手で頬杖をつく。
テーブルマナーとしては"なってない"どころか眉唾ものだが、彼は母親がそんな態度を取る理由を良く知っている。
彼女がこんなポーズを取る時は、大抵の場合「クソ胸糞悪い事」を思い出した時くらいだ。
「…ジャック・ライリー、ライリー、ライリー、本物のクソ野郎。…アイツは悪魔よ。」
「母さん…ライリーは一体何をしたんだ?」
「何だと思う?ここまで調べた事で、アンタなりの答えを言ってみなさい。」
「………ずっと気になっている言葉がある。ライリーはアドリアンを『純粋培養』だと言っていた。"友人"でもなく、"下僕"でも"奴隷"でもない。」
「………」
「思うに、それはアルバロの妻が死んだ後、タマンダーレに乳母としての任務を与えたからじゃない。」
「………」
「…………あのクソ野郎が…アルバロの妻を殺したんだ。」
「あら。大正解よ。」
オイゲンが顔の前で小さく拍手をして見せる。
けれどその瞳の中にはこの世のものとは思えない嫌悪感が見て取れた。
きっと彼女は浮浪者やゴキブリや寄生虫の群を見たところで、こんな目をすることはないだろう。
軽蔑と嫌悪の複合体が、彼女の瞳に宿っていた。
「世界大戦の直後、既に南方大陸方面に左遷されていたライリーはアルバロに目をつけた。それはアルバロが有能な海軍軍人で、反共主義者だったからじゃない。そんな奴なら他にもいた。アルバロが選ばれたのはね、彼に幼い息子がいたからよ。」
「…最低だ……」
「ええ、本当にね。それはきっと脅迫の意味も込めた行為だった。アルバロは悟ったのよ。もしも息子を守りたいのであれば、ライリーの操り人形になるしかないってね。だからセントルイスに息子を預ける事に同意せざるを得なかった。息子が…この先冷酷な独裁者として育てられると知っていても。」
「………セントルイスはどこまで知っていたんだろう?」
「私がライリーなら彼女には何も知らせないわ。ただ幼いアドリアンの乳母をやれって言うだけ。…それに、あのクソ野郎がセントルイスを選んだのにも、恐らく理由があるの。」
「…?」
「世界大戦で姉妹を失っていたセントルイスは傷心していた。重桜での復興任務を終えた彼女は自沈処分の嘆願書をスプルース少将に提出したそうよ。…彼女は精神的に深刻なダメージを負っていた。」
「…!あの悪魔!まさかそれを利用してッ!」
「"代替化"…典型的な精神防御機能ね。あの悪魔はセントルイスに"守るべきもの"を与えた。彼女はヘレナとアドリアンを重ね合わせて、その全てを"どこまでも従順な独裁者候補生"につぎ込むようになった。」
「ッ!…なんて人でなしなんだ!」
「でも、悪魔だって間違いは犯すわ。特に、ライリーはとんだヘマをやらかした。」
「…本人が思うより、セントルイスはアドリアンにのめり込んだ。元より共依存を望んでいたとはいえ、それで離反されては元も子もない。」
「そうね。………アドリアンが毒殺未遂に倒れた頃、プラタでは革命の気配があった。ライリーが南方大陸の手綱をしっかりと握っておくには、アドリアンの締め付けを強化する必要があったのよ。セントルイスはもう当てにならなかったしね。」
「ライリーならアドリアンにプラタの王政を攻撃するようにしたがった事だろう。でも、それは出来なかった。プラタ国王の背後にいたのもまたライリーだったからだ。ユニオン配下の国家が同じ配下の国家を攻撃したとなればユニオンのメンツは丸潰れだ、大統領は許可しない。」
「あの悪魔はさぞ歯痒かったでしょうね。でもアイツはどれだけ卑劣でも、最低限の分別は弁えていた。だから大統領も手を出せなかったの。…でもそれが崩れたのは、結局プラタの革命が発端よ。」
アイスバインを食べ終えて、2人は食後のコーヒーを淹れる。
ヨアヒムが物心ついた時から、この家族の習慣は変わっていない。
テーブルの向かい側で微笑みながらコーヒーを啜るオイゲンを見て、ヨアヒムは彼女がここに辿り着く前に味わう事になった苦難の数々に想いを馳せた。
大切な人と大切な時間を失った後でも、母親はちゃんと女手一つでヨアヒムを育てあげたのだ。
オイゲンは孤独な戦いを制し、守るべき最後の大切な存在をここまで守り抜いた。
そのためにはどんな苦労も、後悔も、彼のために代償として支払ってきたに違いない。
なら。
セントルイスが新たに見出した"大切な"存在のために支払ったのは何であろう?
それはきっと彼女の"初めて"だけじゃない。
完全な新天地を手にする事になったルートヴィヒ夫妻と違って、彼女のそれは所詮あの悪魔の庭の中の話だった。
彼女はそのちっぽけな庭の中で、番犬に監視されながら、悪魔を欺き、その上汚れ仕事に手を染める自分自身をも相手取り、アドリアンを守るために戦ったのだ。
どれだけの苦戦であったか、想像に難くない。
「…セントルイスは状況を上手く利用したわ。ライリーがプロポーズの夜を狙ったのは、実はアドリアンに距離を取らせるためでもあった。ライリーにとってセントルイスがプロポーズに応えたのは、少しばかり予想外だったようね。…アイツの筋書きではセントルイスはアドリアンの"保護者"に徹するはずだった。ちょうど、彼女がヘレナに向けた感情と同じように。」
「でも、セントルイスにとってはアドリアンは既にそれ以上の存在だった。」
「ええ。彼女はライリーの仕掛けた罠を逆手に取って利用した。アドリアンの方はますますセントルイスに依存するようになったわ。あの頃の彼女達ったら…うふふふふ!まるで高校生みたいな純愛をしちゃってたんだから!」
「………母さんの方はどちらかというとソドムとゴド」
「明日の晩御飯は抜きにしましょうか?」
「ひぃ!?」
「…ま、冗談はともかく。そうこうしてるうちに、プラタの国王は自分の運命に終止符を打ってしまったわけ。ある諸島を巡って、あろうことかロイヤルネイビー相手に戦争を仕掛けちゃったわけ。」
「それで…セントルイスはどう動いたんだ?」
「…今日はここでおしまいにしましょう。…ここから先はアンタの職場に残っている資料の方が詳しいでしょうから。明日はエミリーちゃんとのデートでしょ?…しっかり楽しんできなさい。…ああ、何なら今からでも私が手解きを」
「結構ですッ!」