大戦の前
ユニオン
その女性士官は、同僚からさえも憧れを向けられるほどの美しさと凛々しさを兼ね備えていた。
指揮は明瞭で判断は早く、語学にも精通…正に頭脳明晰・才色兼備といったところ。
ユニオン海軍においても屈指の有能な指揮官として認められていた彼女は、この日もいつもと同じように上官のオフィスへ向かって歩いている。
中世の騎士を思わせるその凛々しさにはすれ違う誰もが振り向いたが、しかし今日、その女性士官はあまり機嫌が良くなかった。
彼女は上官を嫌っていた。
彼もまた有能な将校であることに変わりはないものの、やり方がどうにも気に食わない。
彼女が中世の騎士であるとするならば、彼はまさしくチェザーレ・ボルジアを彷彿とさせる陰険さがあった。
面と向かって話す度に、何か一段上から見下ろしたような物言いをされる。
多大な努力の上に現在を掴み取った彼女にとっては、上官に呼び出されるのが何よりも苦痛だった。
彼女は慣例に従って上官のドアをノックする。
「開いている、入りたまえ」
同じように慣例的な返答があると、彼女はドアの内側へと入っていった。
彼女の上官、ジャック・ライリーは入室して気をつけをする彼女に対して何らの敬意も…それどころか注意さえ向けずに、机の上の書類と向かい合ったまま軽く頷いて見せる。
彼女がこれを「座りたまえ」の意だと理解するのにどれだけの苦労を要したかは想像に難くない。
しかし彼女は顔に笑顔を貼り付けたまま、この陰気な上官の対面の椅子に座った。
「………ジェーン、最近は上手くいってるかね?」
「はい、おかげさまで。艦隊の訓練は着実に成果を上げています。」
「…成果……成果………成果ねえ…」
ライリーはようやくペンを置いて、代わりにとでも言うようにポケットからタバコを取り出した。
そして何の遠慮もせずにそれを口に咥えると先端に火をつける。
そうして深く息を吸い込むと、ゆっくりとそれを吐き出す。
副流煙にジェーンは一瞬顔を顰めたが、その後はどうにか笑顔を貼り付けたままでやり過ごした。
「…君は海軍に入隊する前に、名門大学に通っていたね?…専攻はなんだったか…」
「語学です。重桜語を専攻していました。」
「そうか、そうだったな。」
「………」
用件はいったい何だというのだろう?
ジェーンは素朴な疑問を頭に浮かべた。
今現在、太平洋におけるユニオンと重桜の緊張は高まりつつある。
連中の陸軍は既に東煌での戦争を始めていた。
しかし、だからといって重桜語を専攻しただけで逮捕されるようなことはないはずだ。
言うまでもなく、この時間はジェーンにとって不快なものだったが…しかしライリーはこの面会を早く切り上げようとはしていないようだった。
「寛容と……奔放は似て非なるものだ。寛容はあくまで規律の上に成り立つが、奔放に規律を重んじる風潮はない。軍隊には規律というものがあり、それが軍隊を規定する。」
「ええ、仰る通りです。」
「…では、私のような立場の人間が規律を乱すようなモノを取り締まらねばならないのも…分かってくれるかね?」
ジェーンは思わず俯いて、目頭を抑える。
この上官のことは嫌いでも、彼女の部下たるサンディエゴのことに関しては上官に対してただただ頭を下げるほかない。
「ああ、申し訳ありません。サンディエゴが繰り返しご迷惑をおかけしていることは承知しています。きつく指導しますので」
「誰がサンディエゴの話をしたかね?」
「………?」
「今、私は君に対して話をしているんだ。少し前に私の上官が面白い写真を寄越してね。」
そう言ってライリーが机の上が取り出した写真を見て、ジェーンの身体は凍りつく。
それは彼女が秘書官のボルチモアと接吻をしている様子を映し出したもので、明らかに誰かの意図を受けて撮影されていた。
「寛容と、奔放は異なる。私はこの写真を"寛容"の精神で見つめよう。だが…海軍という組織は、決して私と同意見ではないはずだ。」
「し、しかし、規律には抵触していないはずです!」
「勿論!指揮官とKANSENの婚姻は認められている。君がボルチモアと接吻したからといって、規則上何ら問題はない。…問題は、私のオフィスにこの写真を持ってきたのが軍の上層部だということだ。」
「…!?」
「……君に、嫉妬している人間も随分と多いらしい。少なくとも快く思っていない連中は1人や2人ではないのだろうね。」
「そ…そんな!……」
「ユニオンは確かに"寛容"な国家だ。だからこそ世界中の人々の羨望を集める。しかしながら、君のこの行為は…この"寛容な"社会にあっても…あるべき規律から逸脱していると見られてしまう。」
ライリーがそこまで言ったところで、ドアが開いて大勢の憲兵が部屋に入ってきた。
今や事態を理解したジェーンはなりふり構っていられない。
このままでは全てを失ってしまうだろう。
「お願いします!見逃してください!」
「おいおい、私まで共犯者にしようというのかね?悪いがそうはいかん。軍曹、連れて行ってくれ。」
「承知しました。」
「………いや!…私は…!いや!やめて!お願いだから離して!ボルチモアッ!いやあああッ!」
…………………………………
泣きじゃくる女性士官が連行された後、ライリーは盛大なため息をつきながらデスクへと戻る。
再びポケットに手を伸ばしてタバコを取ろうとしたが、しかし、なにかを感じ取ったライリーはその手を納めた。
「…………私は"最悪な上官"に見えたかな?」
「……ええ、最低のゲス野郎ね。」
いつのまにか部屋に入っていたホノルルが、ライリーの質問にそう答えた。
見るとセントルイスとヘレナもいて、ライリーはやれやれといった態度を取る。
「本当にアレしか方法がなかったの?」
「ああそうだ、ルル。私が泥を被らなければならなかった…誠に残念だが。」
「ふぅん…あんな事しなくても良かったのに…」
「いいや、しなきゃならなかった。彼女のファイルを読んだが、かなり苦労してる。大学時代に語学を専攻したのは指揮官職に有利だと踏んだからだ。当時は情報機関なんてものなかったし、それに、前線指揮官が仮想敵国の言語を扱えるのは望ましい。」
「…努力の果てに手に入れた地位をあの子が手放すはずもない。きっと、あらゆる手を使って地位を守ろうとするわね…」
「そうだ。だからこうするしかなかった。重桜は東煌での戦争を続けるために資源を狙っている。我々との衝突は目前だ。来るべき日の為に、最優先されるべきは情報機関。…彼女の大学時代の成績は優秀だった。」
「…………かわいそうな子…」
「ああ。…だが、ボルチモアもあちらに異動できたのは不幸中の幸いだ。努力の甲斐があったな。手伝ってくれてありがとう、ルル。」
「べっ、別に!指揮官があの子にあんな仕打ちをしたら、寝首を掻かれてもおかしくないじゃない!」
「ははは!私を心配してくれるのか!」
「なっ!…ち、ちがうわよ!どうしてそうなるの!アンタのことなんか心配してないしっ…でも………」
「………あの写真は上層部から送られたものだった。彼らはそうする事で私に無言の命令を送ったのさ。"こいつを排除しろ"とね。彼らからすると、ジェーンのような人材は疎ましくて仕方なかったんだろう。彼女は少しばかり正直が過ぎる。」
「守ってあげてもよかったんじゃない?」
「ルル、出来る事なら私だってそうしたかったよ。だが彼らに歯向かえば私達も無事ではいられない。ユニオン社会は女性指揮官の存在は許せても、その指揮官とKANSENが恋愛することまでは許さないよ。…少なくとも、今のところはね。」
「………」
ホノルルは少しばかり不機嫌そうな顔をしながらも、ライリーの下へと向かっていく。
何事かという表情を浮かべた彼の下まで来た彼女は、やがてその長身を曲げてライリーの顔を覗き込んだ。
「…やっぱり、ジャックには監視が必要ね。」
「そこは"指揮官"じゃないのかい?」
「う、うるさいわね!もぅ………いい?あなたはやり方が少し歪になる時があるわ。」
「性格も歪だからね。」
「茶化さないで!真剣に話してるんだから!」
「…あ………ああ、ごめん。」
「…やり方に拘りが過ぎるのも良くないけど、あまりに無神経なのが良いって訳じゃないの。そんなことをするたびに、傷ついていっちゃうんだから…」
「ジェーンには悪かったと…」
「ううん、ちがう。
「………」
「…さっき心配なんかしてないって言ったけど、アレは嘘。本当はジャックが心配で仕方ない」
「ルル………」
「だから……その…………この前のプロポーズ、答えはYESよ…」
「…!?」
「あなたには監視がいるわ…だ、だから、私が見張ってるから!せいぜいやり方には気をつけなさい!」
「………ああ…ああ…ありがとう、ルル!本当に!」
ジャック・ライリーは興奮していた。
故に反射神経で立ち上がってしまい、そのせいでバランスが崩れる。
そうして彼は意図する事なく、ホノルルの巨大な胸に両の手をついてしまった。
「…ジャック………?」
「あっ!…ごめん!」
「ごめんじゃすまないわよ、このバカァ!!!」
パッチィィィンッ!!!
女性士官は新設された情報機関に転属後、ボルチモアと共に大戦終結まで対重桜方面で活躍した。
戦争が終結すると、彼女はボルチモアと共に軍を辞して故郷へと戻った。
彼女がジャック・ライリーの意図を知ったのは、それから数年後の話だった。