プラタ北部
パスカルはいい加減に祖国の偉大なる芸術であるクロワッサンが恋しくなってきた。
この地域で頻繁に見かけるトウモロコシ粉のパンは最初こそ食感の面白さを堪能できたものの、今や彼はバター香る朝食を夢見ている。
ガソリンの尽きたピックアップトラックを乗り捨てて、各方々でどうにか秘密警察や陸軍の巡察隊をやり過ごしながら逃げるのには勿論かなりの苦労を要した。
プラタのような言語も人種も異にする文化圏ならそれは尚更のことで、現地の言葉がからきしダメなパスカルは妻の助けを借りてどうにか食糧を調達できるという始末。
アルジェリーが話す現地語は完璧に近かったが、もうそろそろ夫婦の金は底をつきかけていたし、アイリス訛りの取れていない言語を話す白人夫婦はこの地域でもよく目立つことだろう。
住民たちはインビエルノ秘密警察がこの国に入ってくる前から、インビエルノのスタジアムで行われている凄惨な行為を耳にしていたし、そんな連中相手に刃向かえばどうなるかは知っているはずだろう。
つまるところ、現地民をいつまでも頼りにはできないし、食糧の調達さえ用心をして、更には調達した後にはすぐにでも立ち去る必要がある。
そうでなければやがて秘密警察はパスカル達の所在を掴んで、大所帯で追ってくることだろう。
故に彼らは真夜中に、殺風景な貧村の近郊を、茂みに隠れながら這うように歩いていた。
「ああ!もうダメだ、歩けないよ、アルジェリー!」
「しっかりしてパスカル!フィルムを国外に出すって言ったのはあなたじゃない!」
「空路で脱出すれば良いと思ってたんだ!…まさか、こんなに連中の浸透が速いなんて…」
「空港なんてアテにしちゃダメって言ったじゃない。滑走路は見たでしょう?」
「…ああ。連中、早速処刑を始めてやがる。」
本来なら、彼女達がここに入国する時に隠しておいた小型機で脱出する予定だった。
ところがインビエルノ陸軍はどういうわけか、農薬散布用の小型機が離着陸するような小規模な滑走路さえ掌握を進めている。
理由は明白で、アルジェリーには心当たりがあった。
あの日首都を評価・偵察していた戦闘機は間違いなく彼女達を捉えていたのだ。
彼女達の小型機を隠して置いた滑走路では、早速と言わんばかり秘密警察と陸軍が現地住民を抽出して処刑に当たっていた。
何が"人道支援"だ。
彼らは疑いの余地なくインビエルノ流のやり方を持ち込んでいた。
おかげでアルジェリーとパスカルは北の国境まで歩いて行かなければならない。
「………雨の匂いね。」
「なんだって?」
「雨の匂いがするわ。ここで休憩しましょう。」
アルジェリーはパスカルにそう言って、茂みの奥に小さな洞窟を見つけてその中へと入る。
ライトで洞窟の中に危険な生物や誰かがいないことを確認すると、そう若くはない夫に手を貸して彼を中に引き入れた。
彼女の嗅覚は正しかったようで、じきに雨が葉を打ち、雨水が地面を濡らしていく。
「クソ…もう食糧もない。あの村の人間にいくらか差し出せば、何かもらえるかな?」
「やめてパスカル。さっき食べたばかりでしょう?…それとも、あの貧しい村の人々から無理やり食糧を奪いとるつもり?」
「それも良いかもな、なんたってアイリス人の伝統だ。かの大ナポレオンの時代から、アイリス人の兵站は現地調達と相場が決まって」
「はいはい、それじゃあライプツィヒの二の舞よ?ベレジナを味わいたくないなら、もう少し辛抱を身につけてちょうだい。」
「…はぁ、君に言われちゃしょうがない。」
パスカルはそう言いつつも、隣に座る美しい妻の横顔に見惚れてしまう。
かつてヴィシア海軍の士官として彼女と結ばれた後、小高い丘の上に2人で座って夜空を眺めたっけ。
"どうしてダンケルクじゃなかったの?"…意地悪にもそう聞いてきたアルジェリーの言葉を今でも覚えてる。
ああ、そうだ。ダンケルクも魅力的だった。
でも私は君が良かった。
夜空を眺めながら、恍惚とした表情を浮かべる君に、私は惹かれたんだよ。
確かそんな事を答えた気がする。
ロマンチックな回想に耽るパスカルの耳に、突如として小型車のエンジン音が響いてくる。
見ればやってくるのは軍用のジープ2台にパトカーが1台、プラタの行政機関が崩壊した今、この国でそれを動かしているのはインビエルノの陸軍しかいない。
「静かに!」
パスカルはアルジェリーを伏せさせてライトを消し、3台の車両が貧村へと入っていくのを見届けた。
車両は村の家の前で止まり、パトカーからはソリの高い制帽を被った男たちを、ジープからはM1ヘルメットを被った男たちをそれぞれ吐き出していく。
プラタ陸軍の残党ならシュタールヘルムを被っているはずだし、ソリの高い制帽は秘密警察の象徴として悪名高かった。
秘密警察官の内の1人が家のドアを乱雑にノックする。
中から返事がないようで、秘密警察官は怒鳴り声を張り上げていた。
これからどんな事が巻き起こるのか、軽く想像のできること。
故にアルジェリーの正義感がつい彼女の体を起こしかけたが、パスカルがそれを抑えつける。
「何考えてる、アルジェリー!?」
「あいつら村人を処刑するわ!」
「俺たちにはナイフ一本しかないんだぞ!?向こうは自動小銃で武装してるんだ!」
「………」
「黙って見てるしかない!」
秘密警察官は早くも痺れを切らしたようで、陸軍連中の方は頷いた。
陸軍の兵士たちは、民家のドアの向こうがどうなっているかも確認せずにM14自動小銃の銃口をドアに向けて射撃を始める。
直後に民家から悲鳴が上がり、ドアがズタズタになると、男達は民家の中へ押し入っていった。
「………ッ!」
「抑えろ、抑えろ、アルジェリー!…フィルムの残りは?」
「もうないわ。滑走路での写真が最後。」
「なら見守るしかないな。」
男達が民家に突入してから数分後に、民家の反対側から若い男女と小さな女の子が飛び出してきた。
親子は必死に逃げていたが、やがては陸軍兵と秘密警察官が追いついて両親を銃床で殴りつけて地面に叩きつける。
秘密警察官は男の方に蹴りを入れた後、陸軍兵に何か命じたが、陸軍兵の1人が静かに首を振った。
それを見た秘密警察官は怒鳴り声を再び張り上げて陸軍兵をどつく。
インビエルノの言語がまるで分からないパスカルには何が何やらだったが、アルジェリーは違った。
「連中、一体何をやってるんだ?」
「………あの警官、3人とも殺すように命じてる。けど、あの陸軍兵が娘を殺すのを躊躇ったみたい。」
秘密警察官は陸軍兵がいつまでも首を縦に振らないことに苛ついたらしく、最後には陸軍兵の頭を叩いて小さな少女を無理やり引っ立て始めた。
その背後では別の陸軍兵と秘密警察官が少女の両親を壁に立たせて、自動小銃で射殺する。
少女は泣き叫び、秘密警察官の1人は彼女を無理やりアルジェリー達のいる茂みの方へ引っ立てていた。
「あのクソ野郎共ッ…」
「アルジェリー、抑えろ、抑えるんだ!」
「もう我慢ならない!」
アルジェリーはポケットからナイフを取り出すと、茂みの中に身を低くして秘密警察官の方へ駆け出していく。
もはや警官は少女を突き飛ばして、M14を構えようとしている。
やがてはその引き金に指がかかり、泥の中に倒れ込んだ少女の後頭部に鉛玉を叩き込まんとした刹那、秘密警察官の喉元にナイフが突き刺さった。
「死ね!死ね!ロクデナシのクソ野郎!」
秘密警察官を背後から捉え、何度も何度もナイフを突き立てるアルジェリー。
しかし怒りに夢中になっていたせいか、秘密警察官の近くにもう1人陸軍兵がいた事には気がついていなかった。
「おい、貴様!」
グッタリとした秘密警察官を倒したアルジェリーに、陸軍兵がM14を指向する。
ところが今度はいつのまにかやってきていたパスカルが陸軍兵に強烈なタックルをかました。
パスカルのタックルに陸軍兵は倒れ込んだが、その瞬間にM14の弾丸を1発だけ放ってしまう。
銃弾は誰も捕らえる事はなかったが、村にいた残りの秘密警察官や陸軍兵に彼女達の存在を暴露してしまった。
「敵襲!敵襲!」
すぐにアルジェリー達の方にライトが向けられて、敵のM14による銃撃が始まる。
アルジェリーは今さっき倒した秘密警察官のM14を手に取ると、泣きじゃくる少女を覆うように地面に伏せて敵方へ正確な射撃を始めた。
「パスカル!パスカル!早くこっちへ!」
「分かってる!くそ!…これでも食いやがれ!」
陸軍兵と取っ組み合っていたパスカルもM14を拾い上げ、アルジェリーの隣に滑り込んだが、いかんせん敵方の人数は圧倒的。
何人かは仕留めたものの、しかし徐々に追い込まれ始めてしまう。
「クソッタレ!伏せとけって言ったろ、アルジェリー!」
「黙って見てられるわけないじゃない!」
「だからって…ぐわっ!」
「パスカル!?」
呻き声を挙げたパスカルの方を見ると、その肩を真っ赤な血で覆っている。
「大丈夫だ、アルジェリー!こんなかすり傷…もういい、俺を置いて逃げろ!」
「バカ言わないで!」
「フィルムを運ぶのに2人もいらない!その子を連れて逃げるんだ!俺が時間稼ぎを」
「ふざけるのも大概にして!バカなこと考える暇があるなら」
その時、どこからか機関銃の連射音が響き渡り、村からこちらに迫ってくる敵兵を薙ぎ倒し始めた。
陸軍兵や秘密警察官は1人、また1人と倒されていき、最後には1人残らず銃撃の犠牲になる。
アルジェリーもパスカルも、違いに弾薬の尽きたM14を手に顔を見合わせたが、答えは互いのどちらにもなく、やがて彼女達の元へとやってきた。
「…秘密警察にケンカを売るなんて、アンタ達正気なわけ?」
「あなたは?」
突如背後から声をかけられて振り向くと、そこには古い迷彩服を着込んだ1人の女性と、その仲間と思しき連中がいる。
連中の内2人がMG3機関銃を持っていて、それが銃撃の正体だと気付かされた。
「私?アンタにとっての守護天使って言ったら、笑える?」
「…助けてくれたのは感謝すべきかもしれないけど、まずは教えてちょうだい。あなたは一体何者なの?」
「あらま、肝が据わってるわね。アンタの夫は負傷して、こんな重武装の野郎共に囲まれてるってのに。そういうアンタこそ何者?」
「私はアルジェリー。彼は…待って、あなた彼の事を私の"夫"と言ったわね?もしかして…私達を…探してた?」
「…ある協力者から情報があってね。この辺にいるだろうって言われたのさ。…私はアマンダ。『インビエルノ解放前線』の指揮官さ。早速で悪いけど、ご同行願えるかしら?」
「………」
「ま、アンタの夫は手当が必要だし、きっとあの兵隊共は増援を呼んでるけど……私の見る限り、他の選択肢は無さそうだね。」